CSテレビで吉田松陰の特集を観る。
松下村塾はわずか1年。
そこから、明治草創期の要人を輩出したことに、衝撃とも言える驚きがある。
彼らは江戸時代にあって、村の地位・立場もない庶民の若者たち。
しかも、彼らに松下村塾で吉田松陰が教えたのはわずか1年。
1年の教育で与えた影響の深さ、影響の大きな力は何であったのか?
テレビはその答えを導き出した。
教育とは何か?
その命題である。
人の心は、師匠のレベルと、その志の高さに大きく影響される。
つまり、吉田松陰と同じレベルの師匠が日本の全国各地にいたら、明治政府を動かした逸材がそれぞれの各地に誕生したことになるはず。
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吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。
叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。
11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。
13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。1
5歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。
アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。
ついで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事する。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった[注 4]。 なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
没年: 安政6年10月27日(1859年11月21日)
満29歳没
思想: 尊王攘夷
活動: 倒幕
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