「小説は何をどういうふうに書いてもよい」森鴎外
私は鴎外の気韻の高い文章が、とにかく好きであった。
どの小説を読んでも、言葉の難しさに拘わらず、すらすら読めるのは、鴎外が書くものを完全に頭の中で噛みくだいているからだろう。作家・瀬戸内寂聴さん
自分の文学的才能の有無など考えもせず、ひたすら小説家になりたいという無謀な夢だけに頼って放浪していた頃であった。
故郷の女学校の友人が嫁いでいるというだけの理由で、東京の三鷹にたどりつき、友人がさがしてくれた下宿に落ち着いた。
街道に面してその下宿から数軒先に禅林寺があった。
その寺に太宰治の墓があり、その前で新進作家の田中栄光が自殺したことで騒ぎがあった。
小さな太宰の墓の前には、ファンたちがささげた酒や煙草がいつも一杯だった。
その墓の斜め左前に、森鴎外の大きな墓があるのに、太宰ファンの若者たちはほとんど気づかなかった。
私はその墓に気づいた時、喜びのあまり、墓場で踊りあがった。
以来、毎朝、そこへ詣りつづけ、太宰の墓詣りもした。
そのことを、文通していた三島由紀夫に報せるとすぐ返事がきて、
「太宰の墓にお尻を向け、鴎外先生のお墓に、毎朝お花と水を、ぼくの分もふくめてささげてください」とあった。
私は太宰も愛読していたので、三島由紀夫に内緒で、毎朝二人等分に祈っていた。
瀬戸内さんが、鴎外を尊敬することは格別だった。
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東京女子大学在学中の1943年に21歳で見合い結婚し翌年に女の子を出産、その後夫の任地北京に同行。
1946年に帰国し、夫の教え子と不倫し、夫と3歳の長女を残し家を出て京都で生活。大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。
1950年に正式な離婚をし(長女とは後年出家後に和解したという)、東京へ行き本格的に小説家を目指し、三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿し『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。
少女世界社、ひまわり社、小学館、講談社で少女小説や童話を書く。
また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加、解散後は『Z』に参加。
本格的に作家デビュー
1955年、処女作「痛い靴」を『文学者』に発表、1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」とレッテルを貼られる。
その後数年間は文芸雑誌からの執筆依頼がなくなり、『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。
1959年から同人誌『無名誌』に『田村俊子』の連載を開始。
並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載。
この時期の不倫(三角関係)の恋愛体験を描いた『夏の終り』で1963年の女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立する。
以後数多くの恋愛小説、伝記小説を書き人気作家となるが、30年間、純文学の賞、大衆文学の賞ともに受賞はなかった。
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