中原中也記念館では、初期詩篇から100年で企画展

2024年05月10日 11時04分48秒 | 社会・文化・政治・経済

2024年の今年、山口市湯田温泉(生誕地)の中原中也記念館では、初期詩篇から100年で企画展

第1話 生い立ち

中原中也という詩人がその文学的な出発点において持っていた自己内部に対する倫理的な認識の本質は「原罪」的な意識と呼んでも差し支えないものであった。ただ、中原の場合は、彼自身にとって生まれながらにして「善」であり、純粋な存在であった自己が、社会・外界側に起因する多くの作用(家族や学校などを含む)によって、否応無く「悪」を内部に植え付けられ、不純な存在へと転化せざるを得なかった、と解釈することによって自己の正当性を根拠付け、更には外部に向かって発揮される独特な被害者意識も、彼の内部では正当なものとして位置付けられるようになったという点に留意しなければならない。

彼の短い30年ばかりの生涯を通して真の信仰が成立していたのかどうかは、詩文の解釈の仕方によって意見の分かれるところだが、悪の自覚によって生じた「魂の解放」への間断なき欲求が、中原の中で常に燃え続け、彼を背後から押し続けていたことは事実だ。

中原が一方で愛についてくどいほどまで語りながら、他方では凡人の半ば無意識的な生き方をあざ笑う、という一見矛盾した行為も、彼自身の内部に「悪」を否応無く持ち込んだ外界に対する抵抗の現れであり、また、悪に無関心な一般人(自分以外の存在)に対する警鐘の意味が込められていた。彼は、市井に暮らす人々の中に、自己と同質の悪の部分が存在することを見て苛立っていたのであり、中原は創作活動を通じて正確に自分自身を批難し続けていたのである。

彼の二つの眼に映るあらゆる人物の像は、常に自己像の一部と重なり合い、また微妙に食い違って見えていた。「悪」に対する飽くなき告発と分析の作業は、中原にとって、既に血肉の一部分が悪によって汚染されてしまった自己の純粋性の回復と、魂の完全な復活を自らの手で獲得するために、どうしても行わなければならない日課であった。

如何に、よりよく歌うか

外界からの、あらゆる束縛から逃れて、魂を自由に飛翔させる手段として中原は祈りよりも歌を優先させようとした。京都にのぼる頃、彼の目的はほぼ決定していた。それは「何を歌うか」ではなく「如何に歌うか」ということであり、彼はよりよく歌うための方法について考え続けた。中原は30歳で生涯を閉じるまでの間に何冊かの詩記帖を残したが、表紙に「1924」と書かれている京都時代のノートは、その内の最も古い時期に使われたノートの一つであり、その中で彼は表現の方法について、ダダの手法を基に様々な試行錯誤を繰り返し行っている。当時、中原にとってダダ的な表現の方法は、一般的な方法よりも「より自由な」手段として尊重されていたが、彼が何故そのように判断していたのかを知るためには、中原の山口時代を振り返ってみる必要がある。また京都に上った当初の、彼の考え方も合わせて分析してみなければ成らない。ダダの破格は中原自身の「格」と対峙しない限り重要性を帯びることは無かったはずだからである。彼の歌の「格」となり「核」となったものとしては倫理観と短歌の二つを上げることが出来る。中原の文学的な修行には、短歌が大きな役割を果した。

 

中原中也は、明治40年(1907年)4月29日、現在の山口市湯田温泉に生まれ、軍医であった父の転任に伴い広島、金沢と移り住んだ後、大正3年3月、山口の自宅に戻り、同年4月下宇野令小学校に入学、以後4年生まで在校し、県立旧制山口中学校を目指した彼は、大正7年5月、山口師範付属小学校に転校した。そして大正9年の4月、県立山口中学校に入学する。

中原自身の証言(『我が詩観』に付けられた『詩的履歴書』)によれば、彼の短歌の投稿は「大正7年」にまで遡ることになるが、これまでに確認されている最も古い日付のものは『婦人画報』大正9年2月号掲載の『筆とりて』一首である。同じ月、地方紙の防長新聞17日号にも3首が載せられており、同年4月29日号には五首が載せられている。その内の一首には「小芸術家」という題が付けられていた。

芸術を遊びごとだと思つてゐる その心こそあはれなりけれ

作品の出来栄えは置くとして、ここには中学生になった中原と彼の周囲、家族との違和感が如実に示されている。彼の短歌作り、そして投稿は母親のそれと同質視され、教養のある大人の余技を真似たものとして解釈されていたのだが、この大正9年の時点で既に中原は「歌う」という行為そのものに意義を認めさせようとしている。この時点で「歌」が彼自身の魂を自由に解放する唯一の手段として強く意識されていたと断定するのは危険かもしれないが、少なくとも中原にとって短歌は、ゆとりのある大人たちの単なる暇つぶしの遊び道具とは考えられていなかった。しかし、親は彼の投稿、歌作を勉学の大きな障害、遊びごとであると考え、これを極力止めさせようとした。

親の干渉もあり中原の投稿は翌大正10年10月まで中断されるが、この大正9年から10年にかけて彼が「常に頭痛を訴えた」という家族の話は、中原の志向がどこに向かっていたかを良く示している。中学校の教師に対して「御陵威」(みいつ、天皇陵の威光)への疑問を投げかけ困らせたという彼だが、中原はその時「御陵威」と言わずに「親」と言っても良かったのであり、彼は自らを社会通念、常識人と対立する側の存在として浮かび上がらせようとしていた。大正10年10月、1年半の沈黙を破って中原の投稿が再び始められる。そして今度は京都に上るまで止むことは無かった。

新聞や雑誌への投稿について、歌をよむことについて批判する大人たちに向かって、中原は言う。

 ただヂツと聞いてありしがたまらざり 姿勢正して我いひはじむ

  防長新聞、大正10年10月19日号

この時中原は、彼の生涯に於いて最も真剣に正面から親と向き合っていたのであり、それだけ彼は家族と最も近い位置にあった。少年の未来に対する考え方は「何にならうか」というくらいで、まだ一定の方向には固定されていなかったが、親を象徴とする外界との対立は、既にこの時点で十分意識されていたに違いない。自己の優秀性と世間一般の低俗ぶりを無条件に対比させて考えるという短絡的な思考形式は、次のような言葉となって現れてくる。

本で読めば1ト月で分かるものを学校は1年もかかつて教へる

この様なことを口走る長男に対して、自身が軍隊という大きな組織の中にあって学歴で苦い経験を十二分に味わった父謙介は、何としても息子を一流の大学に入れてやりたいという親心から、普段の外出なども極力させまいとした。しかし、自己の可能性を信じて疑わない中原にとって、そのような父の行為は単なる干渉としか映らず、反発と抵抗が正当化された。だが、一中学生の抵抗には自ずから限度があり、中原の抵抗は直截なはけ口を失って歪み、内部世界への回想による逃避が創作の対象として大きく浮上してくることになる。現実世界は中原の思い通りなどには動きはしない。彼は屈折し、揺れ動く自己の内面をそのままに表出しようとした。回想の世界には、安らぎがあるように感じられた。

「門司港にて」と題され、防長新聞の大正11年3月5日号に載せられた一首は次のようなものである。

遠ざかる港の灯は悲し 夕の海を我が船はゆく

大正11年の3月頃に、中原が門司を訪れたという事実は、これまでのところ確認されていない。門司行きの日時で判明しているものは、大正9年の夏休みと冬休みの2度で、いずれも父方の親戚を訪れた時のもののみである。中原は、この作品が気に入っていたらしく『文章倶楽部』という雑誌にも投稿しており、同年4月号に採用されている。

ここで中原の視線は明らかに過去に集中されている。物言わぬ過ぎ去った日々の出来事を記憶の中からと取り出して、独り感傷に浸ろうとする姿勢が見られ、現実社会からは身を引き、自分だけの世界を内部に作り上げて、そこに安住しようとする傾向は、この頃すでにあった。しかし彼は内部の甘い人工の空間にのみ常時とどまっていた訳ではない。中原には自己主張もまた、大変必要なものであった。弁論部に所属していた彼は大正11年の6月と11月の二度「将来の芸術」「第一義に於ける生方」の演題で弁論大会に出場し、持論を述べている。自己の正当性の主張(何にでも成り得る可能性を秘めた存在である自己を、不当に規制し干渉する外部からの行為の不当性の糾弾という意味を含めて)と、それが容れられない現実と自己の衝突から生ずる不満の直截な表出、この二つの繰り返しが当時の中原の日課となっていった。

 西光寺行きと見神歌

大正11年の夏、8月中原は新しい経験をする。西光寺行きである。この年の5月に中原は、二人の友人と共同で歌集『末黒野』を刊行しており、短歌の才について山口では評判も高くなっていたが、創作にかまけ文学書などを読みふけっていた彼の成績は下がる一方であった。家庭教師、村重正夫は彼を真宗の寺、西光寺(豊後高田市、当時の住職は東陽円成)へ連れて行くことを両親に提案し、中原の父母は「思想匡正」のためにも良いと賛成した。

中原は西光寺で「神」を見る。(このような言い方は余り正確ではない。それはいわゆる見神歌が8月ではなく10月に書かれているからである)最初の西光寺行きは次のような回想となって表れる。

去りてゆく別府の駅の夜はさびし 雨降り出でて汽笛なりけり

防長新聞、9月30日号

ここには「神」の姿は全く見当たらないし、之より以前、8月下旬に投稿された二首にも「神」は出てこない。中原は帰宅後しばらくの間、よく念仏を唱えていたという。歎異抄の一句が彼の内部に沈着し、回想というエネルギーが注がれることによって、それは自転を始める。この一首から遅れること2週間、中原は「神」を歌う。

人みなを殺してみたき我が心 その心我に神を示せり

世の中の多くの馬鹿のそしりごと 忘れ得ぬ我祈るを知れり

我が心我のみ知る!といひしまま 秋の野路に一人我泣く

そんなことが己の問題であるものかと いひしことの苦くなる此頃

中原がこのように歌ったとき、彼は極めて求心的になり、自己の内面を細部まで点検しようと試みていた。それはまた「神」との対峙であり、神と対峙しうる者としての自己の客観的な把握作業でもある。己の内部に、今まで気づかなかった陽の全く当たらない黒々とした場所が確かにあることを知った中原は「祈る」という行為を同時に知り得もしたが、それは懺悔では決して無い。祈りは彼自身の内部に向けて捧げられたものであり、自らに対する鎮魂でもあった。上のように中原が歌ったとき彼は他者として屹立する神を見た。神は遠くにあった。

いま「回想」と「彼岸」を中原の中心的な主題として取り上げてみたい気持ちが私の中にある。そして、この二つのものを関連付けていけば中原の心的世界が、ある程度説明できるような気がしている。

「回想」という行為は現実から逃避しようとする者にとって、最も簡単で手に入りやすい手段である。永遠に止まったままの時間が思い出という空間に詰め込まれている。可逆性はなく、一方通行の場所である。現実は詩人にとって強固な抵抗体であるが、思い出は潤色をも許す半ば無抵抗の閉ざされた私的空間だといえる。

学校に代表される権威、形式、常識に対して強い嫌悪感を抱き、それらへの抵抗の姿勢を次第に鮮明にしていたにせよ、眼の前に迫る「落第」の予感は中原の常識をも刺激せずにはおかず、勉学に振り向けられるべき時間は歌作という行為に注ぎ込まれ、彼の内部では危機意識が回想のエネルギーを一段と増幅させていった。12月、翌大正12年1月と途切れていた投稿が、2月には堰を切ったように多くなり、この2月中に防長新聞に掲載された中原の短歌は27首を数えた。それらの歌の中で「回想」は次のような形で現れてくる。

出してみる幼稚園の手工など 雪溶の日は寂しきものを

犀川の冬の流れを清二郎も 泣いてききしか僕の如くに

来てみれば昔の我を今にする 子供もありけり夕陽の運動場

                    (母校に来て)

この三首を含めた18首(うち一首は再出)の作品群は『去年今頃の歌』と題され、防長新聞の2月27日号に載せられたものである。歌われている時間は明らかに広島、金沢時代のものであり、この「小学校」は下宇野令小学校であると思われる。

中原という人物が、他の人と比べて特に感傷的な人間であったとは思わないが、過去に対する執着には人一倍、並外れて根強いものが感じられる。誰しも過去を永い影のように引きずりながら現実の世界に生きている訳だが、いたずらに後ろばかり振り返っていては、先に進むことは出来ない。

中也が「母校」の小学生に見たものは自由であり、悪を未だ知らない存在であった。それは失われてしまったものに対する狂おうしい憧憬であった。二度と帰ってはこない私的な時間の内部に潜り込んだ彼は、追憶・回想によって過去を追体験しようとする。中原は時計の時間を放棄して、自分自身だけの時間を創り出そうとする。それを、止まったままに見える過去空間に当てはめて。

だが、この時期の中原が、今見てきたような回想にのみひたっていた訳ではない。そのことは、次のような歌に明らかである。

一段と高きところより凡人の 愛みてわらふ我が悪魔心

暗の中に銀色の目せる幻の少女 あるごとし冬の夜目開けば

前者が先の見神歌に直接つながっていることは明らかである。彼の「何になろうか」「何にでもなれる」という自負は、日常的な面では余り良い方向に作用せず、凡人を小ばかにする態度を養っていた。だが、そのような心情が自己の「悪魔心」から発生しているものだという倫理的な認識が中也の内面には既に存在している。上のように自己の心情と内面の分析を平易に歌ったとき、その「悪魔心」から例え一時的にはせよ中原は解放されたと感じていたのだろう。

後の方の作品は少々不気味である。中原の詩作品について評する文章の中に「幻視」という言葉を散見するが、字義通りに解釈すれば、正に、この一首などは十分に幻視的である。

孤独が見させた「少女」

冬の夜更けに、ふと目を覚まし、暗い部屋の中に唯一人居る作者。周りの静寂、冬独特の身体を芯から冷え込ませる暗闇の質感が、うまく比喩されている。このような表現方法の手本となる詩句が、当時の中原の身近にあったのかどうかは不明だが、彼には、この「少女」が、恐らく見えていたのである。現実、生活の喧騒から逃れ、独りきりに成った時、彼の眼は見えないはずのものまでも見た。中原の孤独が「少女」の姿を見させたのだ。

 中原は昭和2年の日記の中で、

私は全生活をしたので(1歳より16歳に至る)                                      4月の項

と書いているが、およそ彼の「生活」とは外界との間断ない衝突の連続であり、その原因究明の積み重ねであった。自己の存在を明確に主張しようとすればするほど現実との軋轢は増幅され、中原が回想の空間に潜り込む機会も増えた。

 1923年3月、落第の現実化は彼の盛んな創作意欲をも殺いだのか、この月投稿は一首もない。「学を廃し、東京に上る希望切なるもの」があったが家庭教師であった井尻のすすめもあって、中原は京都に住むことになる。『詩的履歴書』は、当時の模様を次のように述べている。

大正12年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。

生まれて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり。

この年の4月から暮れまでにかけての彼の行動は、ほとんど分かっていない。中原自身の証言で、この年の「秋の暮れ」(11月頃か)に『タダイスト新吉の詩』(高橋新吉の第一詩集、中央美術社より大正12年2月に刊行、編集は辻潤)を読んだことが手掛かりとしてあるだけにとどまる。そして、中原の家族は、この年の夏に彼が最初の帰省をしたことを記憶している。

愛読書はダンテの「神曲」

立命館中学での友達は中村吉郎という人一人だけであったらしく、中村氏の証言から当時、中原の愛読書がダンテの『神曲』であったことが判明している。中原の作品には実に多くの「空」が登場してくるが次に『神曲』特に天堂篇との対比で、双方の関係、作用などを見ていきたい。

中原の詩と付き合っていて、必ずその意味を、また背景を調べてみたくなる言葉がいくつかある。それは「あれ」であり「空」であり、そして「死児」である。まだ、この他にも幾つかあるかもしれないが、それらも恐らく、この三つの言葉の延長線上に位置するものであり、彼の作品の中で最も頻出する言葉は「空」なのである。(人称代名詞の「私」は除く)

中也詩には実に多くの、多種多様な空が表現されている、と思われがちだが、この頻出する空は、みなどこかしらで部分的につながり合っていて、それぞれ詩が作り上げている世界、空間の内部に収斂しようとする傾向を孕んでいる。      中也が短歌で感情の表出作業を行いながら、自然な季節感を無意識のうちに身に付けていった過程は、容易に想像できるし、その実例は彼の初期短歌の中から、いくつでも取り出すことが出来る。

 

友ところぶれんげ田に風そよ吹きて 汽車の汽笛の遠く鳴るなる

夏の日は偉人のごとくはでやかに 今年もきしか空に大地に

みのりたる稲穂の波に雲のかげ 黒くうつりて我が心うなだる

吹雪する夕暮頃の路ゆけば 農家の燈見えずさびしも

これら4首は、それぞれ5月2日、8月23日、10月20日、2月7日(大正11年から翌12年)付けの防長新聞に掲載されたもので、彼が、その折々の季節に即した歌作を行っていたことが分かる。この様な自然そのものを対象にした歌に「空」が風景として頻出しているのは当然のことだとも言えるが、後の中原の詩歌に出てくるそれは、もはや単なる自然の一部ではなく、彼独自の意味が込められている。この点は「死児」の問題とも密接に関係してくるが、とりあえず中原自身の「空」を次に上げてみる。これは、彼の第一詩集『山羊の歌』の最終詩篇『いのちの声』から抜粋したものである。

 

 時に自分を揶揄ふやうに、僕は自分に訊いてみるのだ。

 それは女か?それは栄誉か?

 すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない

 あれでもないこれでもない。

 それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?

 

 ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はない のだ。

 

後の部分は詩の最終行であり、この一行は独立して一聯だての形になっている。これが中原の、昭和6年頃の、いつわらざる心境であった。また、第二詩集『在りし日の歌』の巻頭に置かれた『含羞』-在りし日の歌-では、

枝枝の拱みかはすあたりかなしげの

空は死児等の亡霊にみち

まばたきぬ

をりしもかなた野のうへは

あすとらかんのあはひ縫う

古代の象の夢なりき

と歌われ『この小児』では、

 コボルト空に往交へば

 野に

 蒼白の

 この小児。となり、巻末詩篇『蛙声』第二聯は、

その声は、空より来り、

空へと去るのであらう?

天は地を蓋ひ

そして蛙声は水面に走る。

と表現されるが、この他にも「空」はまだまだ幾つでも中也詩に登場してくる。それは、よく知られている『朝の歌』『悲しき朝』『妹よ』『憔悴』『骨』など、数え上げればきりが無い。これらの歌われた空間、場そして質の異なる多くの「空」は、中原自身がイメージしていた宇宙というキャンバスの上に、一つ一つ丹念に塗り込められたもので、教会芸術のモザイク画のように色や形の異なる一部分としての「空」が集合して、一つの宇宙を作り上げている。では、その基布となっていたキャンバスとは何か?何で出来ていたのか。中原が内部に描いていた宇宙観とは一体どのようなものであったのか。その手掛りの一つがダンテ作の『神曲』である。

地上組織と宇宙組織

中原が我々に残したものは詩歌だけではない。彼は小説も書き、評論も書いている。現在、彼が書いた最も古い時期の評論と考えられている『地上組織』(原稿用紙、筆跡などの分析から1925年後半の作品であると推定されている)は、中原と神との関係を窺い知る上に大切な一文であり、この評論には初め「宇宙組織」の題が付されていた。以下は、その中に出てくる文章の一部である。

人間にとつての偶然も神にとつては必然。運命は即ち、その必然の中に握られ  てあり、吾等の意思の能力は即ちその必然より人間にとつての偶然を取除いた   余の、所謂必然、その範囲に於て可能である。

私が今仮りに神の全てを見知したとする。然し私はそれを表現することは出来    ないのだ。何故と云つて神は絶対であり、私の表現は相対的に行はれるのみだ   からである。茲に於て、人は神の全てを知るとも宿命の軌道を壊つことは不可   能である。(中略)

併し、辛じて詩人は神を感覚の範囲に於て歌ふ術を得るのだ。

この後には宗教めいた用語を用いた文章が続き「あゝ吾は歌はん」と締めくくってある。いささか観念論めいた詩人としての宿命の定義づけ、一面的には自己弁護といった憾もあるが、これが先に見た見神歌以後で、現在知られている限り最も早く書かれた「神」と彼自身についてのまとまった文章であり、中原の「神」は、ここに書かれた像と、この後も大きく変化することはなかった。

中原は自己の直観に絶対的な信頼を寄せていた。それが神と対峙する自己、神を模倣し得る存在という観念を、より一層深化させていったと考えられるが、この文章は、彼の自己正当化の現れであり、神と彼自身との位置付けの再確認ともいえるものである。彼は後に「ヒユマニテイ」を持ち出して「神」の存在を証明しようとさえしたが(『我が詩観』昭和11年8月)そこでも要するに彼が訴えたかったものは直観であり、認識能力であった。この時点で中原は神を感覚の内に捉えている-と信じていたから、あとはもう彼が「歌」えばよかったのだ。では、次の文章を見てもらおう。

 

 万物を動かす者の栄光遍く宇宙を貫くといへどもその輝きの

及ぶこと一部に多く一部に少なし

我は聖光を最多く受くる天にありて諸々の物を見たりき、

されど彼処を離れて降る者そを語るすべを知らず

また然するをえざるなり

これわれらの智、己が願ひに近きによりていと深く進み、

追思もこれに伴ふあたはざるによる

しかはあれ、かの聖なる王国について我が記憶に秘蔵めし

かぎりのことども、今わが歌の材たらむ

 

『神曲』とエムピレオ-至高天

これは『神曲』天堂篇第一曲の最初の部分で、テキストは岩波文庫版、山川丙三郎氏訳のもの。(この訳文は大正3~11年の間に警醒社書店から出版された時のものと、ほとんど変わっていないと言われる)中原が愛読していた訳文が山川氏のものであったという保証は何も無いが、翻訳者が異なっていても詩句の大意に変わりは無いだろう。

『神曲』は地獄、浄火、天堂の三篇からなる示現書であり愛の書物である。その内容は「神の恩寵」の賛歌であり、信仰、愛の凱歌だといえる。その構成は各篇の名称からも分かるとおり「地下-地上-天上」と垂直的な構造を持ち、地獄のすさまじさ、亡霊たちの哀れな様と、表現に余りある天堂との対比という形式がとられている。(この本がダンテによって書かれたのは14世紀の初頭)

中原が書き残した文章の一部分のみを故意に取り上げて、殊更に他の文章と比較対照してみたところで、実のある結果が多くもたらされる訳ではないが、上でみた二つの文章の中に極めて近似した調子が感じられるのは明らかだ。また、ダンテにはベアトリーチェという女性が永遠の恋人として存在した事実も、後の中原の恋愛を知る者にとっては興味深い。そしてダンテが政治的な権力争いの渦中に巻き込まれ国外追放にあったのち、ついには故郷フィレンツェの土を再び踏むことなく、病を得て客死したことも印象深い事実である。故郷、追放、客死――そして最愛の人の死と天、之は正に中也自身のテーマではないかと思えるのだ。

当時、中学生であった中原が『神曲』の内容を、どのように理解していたか、また、ダンテの私生活についてどの程度の知識を持っていたのかは、今知るすべも無い。若しかすれば中也はダンテとベアトリーチェのことなど、何も知らなかったかもしれない。しかし、中原が『言葉なき歌』の中で、

 

あれはとほいい処にあるのだけれど

あれは此処で待つてゐなくてはならない

と歌ったとき彼は「空」を見ていたのである。そして、私が中也詩と対応させて考えたいものは『神曲』全体を貫く秩序、神による宇宙の秩序と、そこに表現されている重層的で階段的な構造をもつ「天」である。中原中也の歌った「あれ」が、ダンテの語る至高天「エムピレオ」だと決め付けてしまう気は無いが、ともかく二人の詩人は共に若き日に神を、神の国を「見た」のであり、中原が故郷から「追放」されたという被害者意識を持っていたことも、彼の初期散文に明らかである。落第生中原中也が故郷に対して持っていた複雑な心情は、1924年から翌年にかけて書かれた、私小説ふうの散文で十分に知ることが出来る。彼が京都に上ったのは東京行きの前提であり、東京に行くことは「出世」するための必要条件として意識されていた。

『分からないもの』『その頃の生活』『耕二のこと』などの初期散文群には、事実を回想して書いたと思われる部分が多く、その意味で伝記的であるが、勿論、彼自身の中で潤色も行われたであろうし、意図的に事実を曲げた描写も含まれているだろう。又これまでに少し触れた「死児」も、これらの散文の中に出現しており、中原の考え方を知る手掛かりの一つになっている。

「死んだ児」についての表現は多少、強迫観念めいたところも感じられなくはないのだが、弟(次男)の早世という出来事が中原の家族たちの間で、彼への繰り言という形で取り上げられ、中原の心情に複雑な影を落としていた、という風に想像することは出来る。この点から中原自身が『詩的履歴書』の冒頭に次男の死を記している事実は、ゆはり象徴的だといえる。彼の出発点には悲しみと鎮魂があった。少なくとも中原の側には、そう意識する部分があったのであり、中原は自分の現在と弟の死を、いつも関連付けて考えようとしていたとも推測される。

『つみびとの歌』と故郷

立命館中学に転入した当時の中原が内蔵していた一種独特の被害者意識も、元を正せば彼自身の行為に起因するものであることを、彼は十分承知していたはずである。落第は文学を志す彼にとってみれば当然の結果であり、自明のはずだった。それが現実となってから一転したのは中原の思考形式の成せる業といえよう。文学に耽り「原級」の査定を受けたのは、すべて彼自身の志向の結果なのだが、中原には市井の人々の視線が、やはり気になっていた。

故郷の眼差しは決して暖かくはなかった。社会、一般の人たちは常識に反する行為や思想に対して好意的でないと同時に、規格外の人物、皆と歩調を合わせない人物を排除しようとさえする。中原は彼らの無言の視線の中に批難の色彩を認め、嘲笑と軽蔑の態度を過敏に見て取った。そして中原は『つみびとの歌』で次のようにうめく。

 

 わが生は、下手な植木師らに

 あまりに夙く、手を入れられた悲しさよ!

 由来わが血の大方は

 頭にのぼり、煮き返り、滾り泡だつ。

 

自意識に目覚め、自我を確立していく過程に於いて人は、それぞれの価値基準を定めていく。外界との関わりについてそれぞれの方法で評価を割り出していくが、若い思考は過去および現在の自己に対しては評価が甘く、性急な一面を有しているし、外的な抑圧は極度に忌み嫌うものである。さらに、自己の失敗の原因を外部に転嫁しようとする傾向も強い。

 

「神曲」を貫く愛の思想

中也の京都時代を取り上げる人々は、何よりも先ずダダイズムに関して述べようとし、富永太郎との交友について多くの言葉を費やす。なるほど中原にとってダダイズムとの出会いは感激的な事件であったし、破格の語法も彼の詩歌と深い関わりを持っている。だが私には彼が友人に語ったという「ダダの手法など以前から知っていた。高橋の詩はひとつのキッカケになったにすぎぬ」の驕慢な言葉が気がかりになって仕方がない。事実、そうではなかったのか、と。また、破格の語法を好んで用いながら、彼の詩には定型を採ったものが多いことも、何か大きな矛盾に思えてならないのだが、定型即ちフォームに対する中原の思考の源をたぐっていけば、この問題の答えも見つかるのではないか。

そう考えた時に短歌時代と『神曲』の宇宙観は、決定的な要素を含んでいたと思われるのだ。『神曲』を貫く思想は単純明快である。それは一言で言えば「愛」だと言えるし「神」についてと言い換えてもよい。また、さらに「恩寵」と言っても良い。宇宙の造り主である「神」の意思によって秩序だてられた世界が整然としてそこにある。そして「神」の意思にかなった者だけが至高天エムピレオに昇ることを許されるのである。

山口時代に中原が西光寺で見た神は、謂わば自己内部の悪の自意識が、自らの分身として産み出したものであったことを思えば、彼が『神曲』に見たものは、恐らく永遠に遥かの彼方に存在し続ける倫理的、絶対的他者の光背であった。およそ辿り着くことの不可能なほど遠い遠いところに、それは、かすかに見えていた。中世の宗教的な価値基準のもとに蜿蜒と綴られた「地獄篇」の文章は、多感な中原に罪の意識を、さらに深く植え付けるのに十分すぎるものだった。この中で、いかに多くの罪が語られていることか。

創造主によって産み出され、統一された愛の世界、それがダンテの主張する思想だった。中原が『地上組織』の中で、

最初に、神の脳裡に構へられしものは静止せる理想郷のサイ象

と言った時、この文句は彼自身の在り方、宇宙観を正確に描写していたのだ。そしてまた、彼がこの評論の題名を、最初に「宇宙組織」としたのも彼と神との位置、関係と構造を述べたかったからに他ならない。「放浪者」中原にとって、この『神曲』が示した構図は、正に理想的なものであると判断されていたのだ。

 中原が後に、ダダイズムの渦の中から自力で這い出し、ソネットという古臭い定型詩の枠組みの中で創作を行おうとしたのも、フォルム・フォルムと『撫でられた象』の中で言い、直観を持ち出して自己の正当化を行っているのも、私には、この時代に中原が築き上げた「秩序」の意識に帰着するもののように思われる。つまり京都に着いた頃、中原には歌うべきものは既にあったのだから、彼に残された問題は、それを「どのように」歌うかという方法論についてであった。

では、あらゆる規制から逃れて「飛び立つ思い」で家を出てきたはずの彼が、数ヶ月も経たない内に帰省したのは何故なのか?親許を遠く離れて「自由」を取り戻したはずの彼の心は、湯田の郷に残ったままだったのかもしれない。それが中原の感傷であるとか土着性であるとか言ってしまうことは容易いが、その様な言葉で切り捨ててしまうには、余りにも中原の心情は複雑であった。

被害者意識と加害者の立場を併有する中也の眼には、湯田の空に浮かぶ死児の姿が見えていただろうし、家族や周囲の人たちの視線は哀れみと好奇の色を含んでいた。何にでもなれる「何になろうか」という自負心は、次第に「何になれるか」に後退変化しただろう。揺れ動き錯綜する心情を内部深くに抱え込んだ中原は、自己の精神的な解放と秩序を回復するために歌わねばならなかった。そして、当時の彼の胸中には「出世」という極めて現実的な野心も芽生えていた。故郷に大手を振って帰り、蒼穹に迎え入れられるためには、是非ともそうしなければならないと彼には思われた。

中也詩に見られる疎外感中也詩を云々する場合に倦怠、アンニュイとかいう言葉が使われ、生からの離脱感というような言葉もよく使われる。それは、つきつめていけば「疎外」感につながるのかも知れないが、確かに中原は1927年の日記の中で、私は非常に牆壁を隔てではあるが死を見るやうになつた。

かくてわたしは舌も   つれしながらに抒情するのだ――働きます。

と書いている。「神」を見た彼ならば「死」も当然見えただろう、というのは少々乱暴な意見かも知れないが、中原は、そう言いつつも自分の創作行為を最後には確認している。やはり彼は詩という行為を十分大切にしていたのだ。

観念的な意味での「死」は、前述の『神曲』の中に輩出する人物たちの像からも十分に見て取ることが可能であったし、時間と空間を全く超越した理想郷、至高天エムピレオは、現実に生きている側からすれば死後の世界そのものだと言えなくはない。失意の内にあった二十歳の中原が「死」を垣間見たとしても、それは不自然ではないし、自己の生を呪ったこともあったかも知れない。だが、それでも尚、彼の本音は「働きます」の一言に集約されている。

我々は詩作品を前にして、その詩句の端々から種々様々な意味を汲み取り、想像することが出来るし、人は各人各様の詩世界を自ら作り上げるものである。『骨』などの作品から中也詩が持つ暗い部分を抽出し、それだけで中原の全作品を切り捨てようとする批評家もあるようだが、部分はあくまでも一部分であって全体ではない。中原が絶えず求め続けたものも又、全体的な調和であって、部分の拡大解釈ではなかった。

無窮の空に深く参入して行くことによって、現実生活を支配する時計の時間の拘束から逃れ、無時間の状況に自らを埋没させていくことの繰り返しが、中原の倦怠感を育てて行ったのかも知れない。強迫観念のように肥大した回想の心情と、宗教的な静止空間が合体し、あらゆるものが創られた宇宙空間に鋳込まれ「あの頃」のままに存在する「空」――これが中也のイメージした理想郷ではなかったのか。中原が多用したルフランは、像の定着と完全性を求め続けた結果として現れたものではなかったのだろうか。

「倦怠」をもって中也詩の主たる特色とすることには直ちに賛同しかねるが、放浪者中原が現実生活との軋轢の中で現存を倦んでいたのは事実であろう。「対人圏」において彼は傷つき、そして彼の友人たちも傷ついた。呻きとも叫びともつかぬ衝動が彼の内部に充満したとき、堰を切ったように歌が流れ出した。解放を、魂の自由を求めて-。

現代に生活する者にとって、現実との疎隔は避けられず、程度の差こそあれ疎外感は各々が内包している感覚であるが、それが中原の場合は回想を増幅する原動力となった。遠き良き日は、つい今しがたの出来事のように「空」に現出したのだ。回想され、想像された空は、十分に実在感を帯びた厚みのある空間にまで成長していくことになる。

言葉の相対性とダダイズム

悪魔心と愛の世界を両極に持つ中原は、新天地京都で、家族や故郷の視線から一時的に解放され、相対的な表現の真理について模索中であった。完全無欠な絶対者を向こうに回して創作を行うということ、言葉を道具として用いる詩人が、その出発点において言語の相対性、限界を真っ先に認めてしまっていたことは、中原の未来を暗示する事柄と言えそうだ。

彼の言う「認識以前」「名辞以前」は、中原が詩作を続けていく過程で体得した、実践的推理の帰結であり、己の直観を最大限に発揮するための理想であった。彼には、より良く感じ、より多く見る者としての自負があったし、それが彼の存在理由ともなっていたが、『神曲』の世界を通過してきた中原にとって最大の課題は、直観した「もの」(見たもの)を、いかに正確に言葉に置き換えればよいか、という一点にあった。

言葉の相対性と直観の絶対性という深刻な自己矛盾に苦しみ、表現方法を捜しあぐねていた中原の前に、次のような詩を満載した一冊の本が現れた。

 DADAは一切を断言し否定する。

 無限とか無とか、それはタバコとかコシマキとか単語とかと

 同音に響く。

 想像に湧く一切のものは実在するのである。

 一切の過去は納豆の未来に包含されてゐる。

 人間の及ばない想像を、石や鰯の頭に依つて想像し得ると、

 杓子も猫も想像する。

 DADAは一切のものに自我を見る。

これは『ダダイスト新吉の詩』の冒頭にある『断言はダダイスト』の初めの部分である。この詩集との邂逅を『詩的履歴書』は,

秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇に感激。

と述べているが「彼は、全篇に感激した」という高橋の言葉のほうが恐らく正しいのだろう。(「中の数篇に」という箇所は、後から書き加えられたものである)釈迦もキリストも、ダダの前では形無しに見えた。中原は、このダダ的表現方法に新しい絶対的価値を見出したのである。

神の絶対を論理的、加えて倫理的な出発点に置き、その完全性の再実現を希求する余り、中原は表現方法と思惟の自己矛盾の泥沼にのめりこみ、自由な創作活動が損なわれていた。この時期の中原は「表現上の真理」(日記、昭和2年4月4日)を深く探求しており、いわば観念で詩を書いていこうとしていたが、神の完全な秩序、愛と倫理の世界は底深く強固で、彼は自分で創り上げた神の世界、秩序の世界の内側にあって呻吟していた。高橋の詩集は、その作品群は、神を日常生活の場に引き摺り下ろし、人間と対等な場所に置いて、単なる表現の一対象物として扱う方法を中原に暗示した。神は全宇宙を統べる創造主から客体の一部分に変化した。このとき、中原にとって「神」は、さらに遠くの存在となった。

中原は、このダダ詩集から表現の自由と、表現の絶対化を見て取った。「破格」は一つの絶対と映った。「想像に湧く一切のもの」は実在した。

 

宇宙は石鹸だ。石鹸はズボンだ。

一切は可能だ。

扇子に貼り付けてあるキリストに、心太がラブレターを書いた。

 一切合財ホントーである。

 凡そ断言し得られない事柄を、想像する事が、喫煙しない

 Mr.Godに可能であらうか。

 



                          

 
 
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