▼宗教離れが進んでいる。
特に若年層の宗教離れば顕著である。
これは宗教が若者の精神的要求・ニースを満たしていないことを物語っているのではないだろうか。
世界が混沌とする時代に会って、青年は<何のために生きるか>という問いを求めている。
▼不幸にあえぐ民衆に、生きる希望と活力を与えることが、宗教の本来の役割である。
生命の尊厳の哲学こそが、仏法である。
多くの人々の苦しみに寄り添い、行動し、共に幸福で安穏な人生を確立し、平和な世界を築くことこそが、釈尊が仏法を弘める最大の目的であった。
▼「生命尊厳」「人間尊敬」を説くの法華経。
その法華経を否定することが、世の中の乱れの根本原因あり、正しい法を社会の支柱として人々の心に打ちたてる以外に、究極の解決策はないと釈尊は確信したのである。
自身の安穏を願うのであれば、まず、自分を取り巻く社会の平穏を祈るべきである。
法華経は、一人の人間の存在の中に尊極な仏の生命を見出す経典である。
「生命の尊厳」を否定する思想は断じて容認しない。
それが、真の寛容と慈悲の精神である。
何を信仰するのかー。それは、「何を根本として大切に尊重するか」
「どのような価値観をもつか」ということだ。
「何のため」という根本目的を確立することだ。
つまり、根底にあるのが、自他共の幸福を願う慈悲である。
そして、その焦点は、一人ひとりの「心の変革」「価値観の転換」である。
まさしく、目指すのは、一個の人間における「人間革命」である。
「人を救い、世を救うことを除いて、宗教の社会的存立の意義はない」ともいえるであろう。
いかなる「価値」を「創造」するのか。
端的にいえば、民衆の安穏と世界平和の実現である。
現実の社会で悩み、苦しんでいる人に<生き抜く力>を与えることだ。
「一人」を大切にし、一対一の対話に徹する。
「対話」は、人間の力の復興の原動力となる。
対話が社会を変え、世界を結び、未来を創るのである。
どこまでも、生命の可能性を開く蘇生の力を確信するのである。
「人間を信じる力」によって民衆の時代を築くのである。
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