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私が見つけた「青い鳥」―ナターリヤ・サーツ自伝

2024年01月19日 10時58分47秒 | 社会・文化・政治・経済

▼勇気の人には知恵がある。

確信の人には余裕がある。

心が定まれば自由になる。

▼自身に勝ち、勝ち続けながら一日一日を価値的に生きることだ。

▼自身はつらい苦境にあっても「もっと大変な人がいる」と勇んで寒風に飛び出してゆく。

▼どんなに疲れていても、人生に疲れた人を見ると、力の限り励まさじにはいられない。

▼閉ざした「心のドア」を開いてくれない時もある。

でも、必ず、わかってくれる。

あの友の笑顔こそが、私の喜びなのだ。

▼庶民こそ賢い。

庶民こそ尊貴である。

▼人類の悲劇を希望の劇へと転じながら、友よ、あなたは、愉快ににぎやか駆けてゆく。

▼世界はすべて一つの舞台、すべての人間は男も女も役者―シェイクスピア

あなたと私は、人生の醍醐味を演じゆく、一流の名優。

▼私の場合、何でも簡単にできることは一度もなかった。常に困難があって、むしろそれをのり越えるの好きだ―ロシアのナターチヤ・サーツ

  • 私が見つけた「青い鳥」―ナターリヤ・サーツ自伝
 
 
 

ナターリヤ サーツ (著)

ロシア革命、第二次世界大戦、スターリン時代―どういう時代にあっても理想を高く掲げ、ひたすらひと筋の道を歩み、世界で最初の、世界でただひとつの、子供のための音楽劇場〈モスクワ児童音楽劇場〉を創設したサーツ女史の『わが生涯の物語』

彼女の名はナターリヤ・サーツ Nataliya Sats (Наталия Сац 1903‐1993)といった。
ナターリヤの父はイリヤ・サーツ Ilya Sats(1875‐1912)という作曲家で、スタニスラフスキーに請われて創成期のモスクワ芸術座で座付作曲家を務め、メーテルリンクの『青い鳥』などいくつもの舞台音楽を書いたが、三十七の若さで急逝した。幼くして父を失ったサーツ家はただちに困窮するが、幼いナターリヤは周囲のモスクワ演劇人、とりわけ演出家ワフタンゴフの励ましを受けて、彼女のふたつの情熱、すなわち音楽と演劇の道を模索し始める。

1917年のロシア革命とそれに引き続く激動の時代がナターリヤの情熱に拍車をかけた。1918年、ピアノ伴奏による人形劇を上演したのを手始めに、子供たちを観客とする公演活動にヴォランティアで情熱的に打ち込んだ。彼女の結成した小劇団は常打ち小屋をもたず、団員も無給だったが、やがて彼女の試みが次世代の育成に心を砕く革命政府の認めるところとなり、1921年に公立の「モスクワ児童劇場」として正式に発足をみた。このときナターリヤ・サーツは十八歳の若さだった。

サーツは「アラビアン・ナイト」から「ハイアワサ」まで、古今の多くの物語に想を得るとともに、同時代にも題材を得ながら、座付作曲家レオニド・ポロヴィンキンと組んで多くの新作を送り出した。演劇、オペラ、バレエ、人形劇、サーカス、パントマイムなど既存のジャンルから子供たちにアピールする要素を抽出し、それを独自のやり方で組み合わせ、心弾むスペクタクルを創り上げた。児童演劇のパイオニアとしての彼女の果敢な営みは、やがてソ連国内のみならず広く世界に喧伝され、モスクワを訪れた文化人たちはこぞって彼女の劇場に足を運ぶようになる。

1927年末、革命十周年の賓客として訪ソした小山内薫は、モスクワ滞在の最終日にナターリヤ・サーツの児童劇場を訪問する。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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