★波瀾に満ちた人生は少なくないが、その起伏を密度に変えて生きた人は多くない。
ウズベキスタンの発掘現場で94歳の生涯を閉じた老成の考古学者・加藤九祚(きゅうぞう)はその稀有な人生を完結させた。
山口県宇部で吉田松陰の「留魂録」に惹かれた青春時代を送ったあと兵役に従事、戦後シベリアで俘虜として4年8か月を過ごし帰国、模索の時期がはじまるが、そのひとこまひとこまをつぎへの展開への糧に変える強靭さが加藤九祚の天性であった。
逆境のシベリアで学んだロシア語が加藤九祚の生涯処世の武器となる。
上智大学のキリスト教学者小林珍雄(よしお)に紹介され編集者として入社した平凡社が大きな転機となった。
そこは勉学の場であると同時にさなざまな人との出会いにの場でもあったからだ。
そして最初の著作「シベリアの歴史」(1963年)が世に出た。
シベリアは加藤九祚にとって消し去ることのできない母斑(ぼはん)のようなものであった。
終生の著作20冊のうち私がもっとも好きなのは「天の蛇---ニコライ・ネフスキーの生涯 」である。
和光大学名誉教授・前田耕作さん
★ ニコライ・ネフスキー
ニコライ・ネフスキー(Nikolai Aleksandrovich Nevsky, ロシア語 : Николай Александрович Невский, 1892年3月1日(ロシア暦:2月18日) - 1937年11月24日) は、ロシア・ソ連の東洋言語学者・東洋学者・民俗学者。夫人は日本人。
ニコライ・A・ネフスキーは宮古島の方言と、宮古島の民俗学的研究を行い宮古島の大切な言葉と島民の文化資産を後世に伝えてくれました。
加藤 九祚の完本 天の蛇---ニコライ・ネフスキーの生涯
ニコライ・A・ネフスキー(1892-1937)は、ロシア・ソ連の東洋言語学者・東洋学者・民俗学者。ペテルブルク大学東洋学部中国・日本学科卒業後の1915年に官費留学生として来日してから、2015年がちょうど100年目に当たる。
ウズベキスタンの発掘現場で94歳の生涯を閉じた老成の考古学者・加藤九祚(きゅうぞう)はその稀有な人生を完結させた。
山口県宇部で吉田松陰の「留魂録」に惹かれた青春時代を送ったあと兵役に従事、戦後シベリアで俘虜として4年8か月を過ごし帰国、模索の時期がはじまるが、そのひとこまひとこまをつぎへの展開への糧に変える強靭さが加藤九祚の天性であった。
逆境のシベリアで学んだロシア語が加藤九祚の生涯処世の武器となる。
上智大学のキリスト教学者小林珍雄(よしお)に紹介され編集者として入社した平凡社が大きな転機となった。
そこは勉学の場であると同時にさなざまな人との出会いにの場でもあったからだ。
そして最初の著作「シベリアの歴史」(1963年)が世に出た。
シベリアは加藤九祚にとって消し去ることのできない母斑(ぼはん)のようなものであった。
終生の著作20冊のうち私がもっとも好きなのは「天の蛇---ニコライ・ネフスキーの生涯 」である。
和光大学名誉教授・前田耕作さん
★ ニコライ・ネフスキー
ニコライ・ネフスキー(Nikolai Aleksandrovich Nevsky, ロシア語 : Николай Александрович Невский, 1892年3月1日(ロシア暦:2月18日) - 1937年11月24日) は、ロシア・ソ連の東洋言語学者・東洋学者・民俗学者。夫人は日本人。
ニコライ・A・ネフスキーは宮古島の方言と、宮古島の民俗学的研究を行い宮古島の大切な言葉と島民の文化資産を後世に伝えてくれました。
加藤 九祚の完本 天の蛇---ニコライ・ネフスキーの生涯
ニコライ・A・ネフスキー(1892-1937)は、ロシア・ソ連の東洋言語学者・東洋学者・民俗学者。ペテルブルク大学東洋学部中国・日本学科卒業後の1915年に官費留学生として来日してから、2015年がちょうど100年目に当たる。
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