小峰徹は映画評論家を目指した時期がある。
高校生の頃に見たテレビの映画の影響であり、古本屋で多くの映画雑誌を買い込み、各評論家の文章を読んでみた。
そして大学1年の時、有楽町でアルバイトをしていた時には、西銀座デパートにあった特設のサテライトスタジオに張り着くようにして映画評論家の淀川長治のトークに魅入っていた。
そして唐突にも、サテライトスタジオから出て来た淀川さんに「弟子にしてください」と懇願したのである。
色々な脚本も古本屋で集めていたので、その脚本の1冊の余白にまず、サインを求めた。
「ボクは、今いくつ? 20歳なの、まず、社会勉強をすること。いいですね。映画評論は幅広い知識の上でするものです。わかった?」淀川さんは温和な笑顔で諭すよに言う。
徹は「子ども扱いにされたのだ」と苦い想いがした。
そして、作家の三浦朱門先生の最終講義に刺激を受け、一つの方向性を定めた。
チェーホフを論じた三浦先生によって、チェーホフの著書や評伝を読む。
そして「チェーホフと女性」と題する原稿を書き大学の雑誌に掲載された。
卒論は「夏目漱石女性論」をテーマとした。
「沼田は作家になったら、田山花袋くらいの私小説が書けるだろう」と友人の緒方清作君に言われた。
徹がもっとも嫌っていた作家の田山花袋を引き合いに出すのである。
徹はチェーホフのような劇作家を目指し、脚本を書き始めていたのだ。
彼は松原知恵子などの憧れの女優を思い描きながら原稿に向かっていた。
ついでに作詞にも取り組んでみたが、これが意外を難しいことを知らされた。
「才能がないんだ」
現実は甘くなかった。
原稿から段々身を引いて行く。
夜の歌舞伎町や新宿2丁目が徹を引き付けて行く。
個室のヌードスタジオにも会社の同僚に誘われて通うようになる。
日々の営業の仕事の重圧もあった。
仕事すら完全な挫折の兆候である。
日本工業新聞社を10日ほどで辞めて、学習百科事典の営業の仕事を1年余続けていたのだが・・・
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淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。約32年にわたって「日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨドチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、その独特の語り口からサヨナラおじさんとして親しまれた。
日大に入学のため1927年(昭和2年)に上京した際、かねてから投稿を行っていた雑誌『映画世界』(南部圭之助編集長)の社員募集を見て、編集部へ出向きそのまま採用され、編集者として活動。しかし1929年(昭和4年)に神戸の実家へ戻され、姉の経営する輸入美術品店「ラール・エヴァンタイユ」で勤務する。
その後、知人を介して1933年(昭和8年)にUA(ユナイテッド・アーティスツ)の大阪支社に入社する。なお、大阪支社勤務時代の1936年(昭和11年)2月に、来日したチャールズ・チャップリンとの会談に成功している。その後、淀川は日本におけるチャップリン評論の第一人者と言われる。その後1938年(昭和13年)に「モダン・タイムス」封切に伴う宣伝体制強化を受けて東京支社に移り、ジョン・フォード監督の『駅馬車』の宣伝などを担当する。
1941年(昭和16年)12月の日米開戦後の1942年(昭和17年)に東宝映画の宣伝部に就職。
この時期、後に世界的な映画監督となる黒澤明と出逢い、淀川の生涯の親友となった。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結後には、アメリカ映画の配給会社セントラル映画社(CMPE)のレクチャー部に勤務する。
その後、1947年(昭和22年)に雑誌『映画の友』に入社し[1]、編集長を経て、映画解説者・映画評論家として活動を開始。
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三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年(大正15年)1月12日 - )は、日本の作家。
日本大学芸術学部教授、文化庁長官(第7代)、社団法人日本文藝家協会理事長(第7代)、日本芸術院院長(第4代)などを歴任した。
高校生の頃に見たテレビの映画の影響であり、古本屋で多くの映画雑誌を買い込み、各評論家の文章を読んでみた。
そして大学1年の時、有楽町でアルバイトをしていた時には、西銀座デパートにあった特設のサテライトスタジオに張り着くようにして映画評論家の淀川長治のトークに魅入っていた。
そして唐突にも、サテライトスタジオから出て来た淀川さんに「弟子にしてください」と懇願したのである。
色々な脚本も古本屋で集めていたので、その脚本の1冊の余白にまず、サインを求めた。
「ボクは、今いくつ? 20歳なの、まず、社会勉強をすること。いいですね。映画評論は幅広い知識の上でするものです。わかった?」淀川さんは温和な笑顔で諭すよに言う。
徹は「子ども扱いにされたのだ」と苦い想いがした。
そして、作家の三浦朱門先生の最終講義に刺激を受け、一つの方向性を定めた。
チェーホフを論じた三浦先生によって、チェーホフの著書や評伝を読む。
そして「チェーホフと女性」と題する原稿を書き大学の雑誌に掲載された。
卒論は「夏目漱石女性論」をテーマとした。
「沼田は作家になったら、田山花袋くらいの私小説が書けるだろう」と友人の緒方清作君に言われた。
徹がもっとも嫌っていた作家の田山花袋を引き合いに出すのである。
徹はチェーホフのような劇作家を目指し、脚本を書き始めていたのだ。
彼は松原知恵子などの憧れの女優を思い描きながら原稿に向かっていた。
ついでに作詞にも取り組んでみたが、これが意外を難しいことを知らされた。
「才能がないんだ」
現実は甘くなかった。
原稿から段々身を引いて行く。
夜の歌舞伎町や新宿2丁目が徹を引き付けて行く。
個室のヌードスタジオにも会社の同僚に誘われて通うようになる。
日々の営業の仕事の重圧もあった。
仕事すら完全な挫折の兆候である。
日本工業新聞社を10日ほどで辞めて、学習百科事典の営業の仕事を1年余続けていたのだが・・・
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淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。約32年にわたって「日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨドチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、その独特の語り口からサヨナラおじさんとして親しまれた。
日大に入学のため1927年(昭和2年)に上京した際、かねてから投稿を行っていた雑誌『映画世界』(南部圭之助編集長)の社員募集を見て、編集部へ出向きそのまま採用され、編集者として活動。しかし1929年(昭和4年)に神戸の実家へ戻され、姉の経営する輸入美術品店「ラール・エヴァンタイユ」で勤務する。
その後、知人を介して1933年(昭和8年)にUA(ユナイテッド・アーティスツ)の大阪支社に入社する。なお、大阪支社勤務時代の1936年(昭和11年)2月に、来日したチャールズ・チャップリンとの会談に成功している。その後、淀川は日本におけるチャップリン評論の第一人者と言われる。その後1938年(昭和13年)に「モダン・タイムス」封切に伴う宣伝体制強化を受けて東京支社に移り、ジョン・フォード監督の『駅馬車』の宣伝などを担当する。
1941年(昭和16年)12月の日米開戦後の1942年(昭和17年)に東宝映画の宣伝部に就職。
この時期、後に世界的な映画監督となる黒澤明と出逢い、淀川の生涯の親友となった。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結後には、アメリカ映画の配給会社セントラル映画社(CMPE)のレクチャー部に勤務する。
その後、1947年(昭和22年)に雑誌『映画の友』に入社し[1]、編集長を経て、映画解説者・映画評論家として活動を開始。
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三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年(大正15年)1月12日 - )は、日本の作家。
日本大学芸術学部教授、文化庁長官(第7代)、社団法人日本文藝家協会理事長(第7代)、日本芸術院院長(第4代)などを歴任した。
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