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対応が遅れる日本 エイズ薬害問題

2019年04月18日 09時57分03秒 | 医科・歯科・介護

なぜHIV感染が起こったのか

 米国では、1980年ごろから、同性愛者の間によくわからない疾患が流行していることがわかってきました。

これが、今でいうHIV感染症だったのです。
 当時使われていた血液凝固因子濃縮製剤は、その原料となる血漿を米国などで調達していました。

この原料血漿は売血によるものでした。

多くの人の血漿を1か所に集めて作られるために、万一HIVに感染しているものが入りこむと、その血漿がすべてHIVに感染することになります。

結果として、日本にもこの血液凝固因子濃縮製剤は到着し、多くの血友病患者らが使い、日本国内で1,400人ほどがHIVに感染することになりました。

これが薬害HIV感染です。
 では、なぜHIV感染が拡大したのでしょうか。
 血液凝固因子濃縮製剤は、1983年に、米国では、加熱処理がなされるようになりました。

もともとは肝炎対策として行われたのですが、米国ではHIV対策としても位置付けられ、加熱処理をしない血液凝固因子濃縮製剤は回収されたのです。
 ところが日本では、加熱処理がされた製剤が承認されたのは2年後の1985年でした。

さらに、HIV感染のリスクのある血液凝固因子濃縮製剤が回収されることはなく、1988年までHIVが混入している製剤が使われる続けることとなり、次々とHIV感染が広がることになってしまったのです。
 さらに、当時の血友病医師らの多くは、HIV感染していることが判明したとしても、治療方法がないこと、カウンセリング体制が整っておらず心理的負担が大きくなること、などを理由に、基本的にHIV感染告知をしない方針を貫いており、それが理由でさらにHIV感染が広がることになったとされています。
 ちなみに、肝炎対策もされることがなかったために、多くの血友病患者らがC型肝炎にも感染し、その後の健康管理に大きな影響を及ぼすことにもなりました。

エイズパニックと差別

 1985年には、厚生省(現在の厚生労働省)が、日本人として初めてHIV感染した者がいると発表しました。ただし、第1号HIV陽性者は性感染者であったことから、血友病での薬害隠しをしようとする動きがあったのではないかとの指摘もあります。そして世間では、薬害を隠すかのごとくに、次々とメディアで「エイズ」がセンセーショナルに扱われ、「エイズパニック」という現象が日本の各地で起こるようになります。
 「エイズパニック」をご存知ない方も今では多いのではないかと思います。当時は「エイズ」と聞いただけで、ちょっとしたことで感染すると勘違いされていた代表的な病いでしたが、その原因を形づくったのが「エイズパニック」といえるでしょう。たとえば、1986年にはフィリピン人女性がHIVに感染していることがメディアで報じられ、彼女の住まいのあった松本のナンバーをつけた車が市民から避けられたり、公衆浴場での外国人の入浴が全国的に拒否されたりしました。翌年には神戸市の日本人女性でのHIV感染が報道され、実名を流されたり、近い関係にあった人探しがされたりして、「日本人でも性感染する恐ろしい病い」というイメージを定着されてしまいました。こうして日本国内でのHIV陽性者やエイズに対する差別感や偏見は強く浸透してしまいました。
 血友病患者に対しても同様であり、HIV感染の有無にかかわらず、病院が血友病患者の受診拒否をしたり、感染が広がるので学校には来ないでほしいといわれたりするなど、このころから明らかな差別を受けるようになったのです。
 その後、厚生省は「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」(通称、エイズ予防法)を制定しようとしましたが、HIV陽性者を社会的に隔離・排除しようとしている法律であると血友病患者らが強く反発しました。その結果、血友病患者をHIV陽性者の報告対象から外すという玉虫色の修正案が出されて国会で可決成立し、1989年に施行されるに至りました。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、実は今でも「HIV感染者数」「エイズ患者数」の統計的な数字のなかに血友病患者でHIVに感染している人は含まれず、エイズ動向委員会で報告されるようになっています。当時の戦いの痕跡が今も残っているといえるでしょう。

裁判と市民運動

 こうした厳しい状況のなか、血液凝固因子濃縮製剤によりHIV感染した血友病患者らは、国と製薬企業5社を被告として、HIV感染し被害を被ったことに対する損害賠償請求訴訟を起こすことになりました。
1989年のことです。血液凝固因子濃縮製剤によるHIV感染の危険性が広く知られて米国では加熱処理した製剤が承認されていたのにもかかわらず、日本の厚生省や製薬企業らは、そうした危険性を知りつつも、輸入禁止もしなければ加熱処理を急がず、非加熱製剤の回収もせず、患者にも知らせることもなく、1,400人もHIV感染させた、という点が争われたのです。
 これだけの差別感や偏見が強かった時代です。今よりももっとひどい状況だったといえるでしょう。

だからこそ、裁判を始めるということは勇気がいることだったのではないかと思います。

実際、裁判では、実名では呼ばれず、原告番号で呼ばれるという形がとられました。

実名が公表されれば、どんな目に合うかわからないという配慮から実施された、初めての試みでした。一方で、国や製薬企業は、「患者にとって命綱であった製剤をストップすることはできず、リスクも予見はできなかった」と、決して自らの責任を認めようとはしませんでした。
 その後、この裁判は大きな市民活動へと発展していくことになります。

薬害HIV感染というものに対する市民の怒りは次々と全国へと広がっていきました。

そのシンボル的な出来事は、1995年の「人間の鎖」と呼ばれるものでした。

3,500人もの人々が、厚生省を取り囲んで抗議をしたのです。

翌年1996年には3日間にわたる厚生省前での座り込み運動が行われました。この最終日に、当時の菅直人厚生大臣と、大阪・東京の原告団200人ほどが厚生省内で会談することになりました。ここで、いきなり菅直人厚生大臣が法的な責任を認める発言をし、原告に謝罪することになったのです。

1996年3月29日に、7年にわたる裁判がようやく和解という決着に至ることとなったのです。


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