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(株)ワーク・ライフバランス

2025年03月18日 21時56分02秒 | 社会・文化・政治・経済

経営戦略としての
ワーク・ライフバランス

福利厚生の一環ではなく、企業業績向上のために。
現代の社会構造に適応し、人材が結果を出し続ける環境を構築する「サスティナブルな働き方改革」のプロフェッショナル集団です

2018年6月、働き方改革関連法が賛成多数で可決
その10年以上前から弊社が取り組んできたこと

株式会社ワーク・ライフバランスは2006年に創業しました。

以来、“福利厚生のひとつ”ではなく、業績を上げるための「経営戦略としてのワーク・ライフバランス」を実現するべく、働き方を根本から変えるコンサルティングを1000社以上に提供してまいりました。

2006年は、リーマンショックが起こる2年前です。当時は、「ワーク・ライフバランス=女性の育児支援」という認識が強く、多くの日本企業が男性の働き方を変革する必要性は感じていませんでした。その頃から、私たちはこの国の「働き方」の変革に取り組んできました。

先進国の中で労働生産性が最下位である日本が、経済を再浮上させていくためには、短時間で高い付加価値を出せる組織、イノベーションを生み出せる組織へと転換する必要があり、そのカギが「働き方改革」にあります。

働き方の変革を提言し始めた当初、ことごとく経済界や政界から強い反発を受けました。単に労働者の権利を守るための、労働時間の短縮を訴えていると誤解されたのです。

しかし、繰り返し提言を続け、働き方を変えることが日本の経済を再浮上させ、少子化を解決することを説得していきました。

何よりも、コンサルティングをご依頼いただき、一緒に働き方改革をした企業で、業績が上がり、社員の結婚数・出産数が増え、離職率が低下したことによって、その実際のデータが政府を揺り動かしました。

2016年5月、弊社代表の小室が官邸に呼ばれ、安倍晋三内閣総理大臣に「労働基準法に、労働時間の上限を設定すること」を提言しました。その二か月後に「働き方改革 担当大臣」が誕生したのです。第180回通常国会、196回通常国会に呼ばれ、答弁しました。そして2018年、ついに働き方改革関連法案が国会を通過し、70年の日本の労働基準法の歴史上初めて、労働時間の上限が法律で定められたのです。

多くの研究結果やデータをみれば、90年代までの日本の構造においては、経済を大幅に発展させるためにがむしゃらな労働を行うことは間違いではありませんでした。

しかし、現在の日本の社会構造においては長時間労働ではなく、就労環境を整え、多様な人材を集め、労働の付加価値を高めなければ国家も企業も発展しないことがわかっています。

この「働き方改革は社員のためになるだけでなく、経営戦略として必要不可欠である」「改革が進めば企業競争力をも向上する」という事実は、弊社がご提供する研修や講演の中でも数多く取り上げているテーマです。

時短労働、育児休暇、勤務間インターバル制度といった働き方改革関連法にかかる構成要素は、「女性社員の権利を守るため」でも「社会や国に求められたから利益を犠牲にして仕方なく取り組むもの」でもありません。現代における発展のための適切な手段です。

弊社は創業から現在に至るまで、全員残業ゼロ・有給取得100%を実現し、増収増益を続けています。自社の労働環境を試行錯誤しながら改革した経験だけでなく、長年培ってきたワーク・ライフバランスに対する柔軟かつ確実なノウハウ、心理的安全性を高める独自の手法、代表・小室淑恵をはじめとする各コンサルタントの高いスキルによって、これまでに1,000社以上の働き方改革を成功に導いています。

弊社の活動履歴とワーク・ライフバランスや
働き方改革に関する社会の出来事

 

30名程度から1,000名以上の大規模なものまで、数々の講演実績があります。

新入社員向け、人事向け、管理職向け、経営層向けなど、聴講生の特徴に合わせて細やかに対応できるのも弊社ならではの特長です。

また、講師を担当する弊社コンサルタントは建設・生保・メーカー・銀行・アパレル・マスコミ・中央省庁・学校・病院・警察等々、あらゆる業界に伴走しており、常に最新情報をアップデートしているため、通り一遍の話ではなく、個々の現状に合わせたフレキシブルな対応が可能です。

様々な業種のお客様にご依頼いただいております

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働き方改革の現役コンサルタントだけが持つ「すぐに実践できる方法や他社事例」を紹介する講演で、貴社の改革を推し進めます。

長年かかって説得できなかった、経営幹部の考え方を2時間でくつがえし、真の腹落ち感を醸成できる講演に定評があります。

講演会が終わっても、みなさんの改革を後押しするためのサポート体制を継続することが可能です。

講演をきっかけに、本質的な解決へとつなげることができます。

業績を向上させるために欠かせない要素の1つが従業員の主体性です。 「言われているからやる」のではなく「やりたいからやる」という、仕事に夢中になる状態を経営者と管理職が職場に作り出すことが必須であると私たちは考えており、そのための方法論を提示します。また、3人集まって3人分の成果ではなく、3人以上のより大きな成果を手に入れるためのチームビルディングも欠かせません。 この双方に重要な要素が「心理的安全性」です。組織内の人間関係の質を向上させ、持続的なプラスの循環を生むモデルを成立させるために必要な具体的行動を全経営層・管理職に伝えます。また、弊社コンサルタントが貴社従業員と共に日々の時間の使い方、仕事の進め方についてよりよい方法を模索し、個々人の主体性を引き出し業績を向上させます。

業績を向上させたい目的で行われる研修・講演例

  • 人材を惹きつけ業績が上がる!経営戦略としてのダイバーシティ・働き方改革
  • 業績のあがる働き方改革は何が違うのか?
  • 変革の時代を生き抜く業務プロセスの改革とマネジメント ~他組織の事例から~
 

創価学会池田大作名誉会長

2025年03月18日 09時58分13秒 | 社会・文化・政治・経済

各国の指導者や識者と重ねた対話は1600回以上、発刊された対話集は80冊以上。

受賞 モスクワ大学名誉博士
ソフィア大学名誉博士
北京大学名誉博士
フィリピン大学名誉法学博士
アンカラ大学名誉社会科学博士
ナイロビ大学名誉文学博士
国立ローマス・デ・サモーラ大学名誉博士、法学部名誉教授
グラスゴー大学名誉博士
トリブバン大学名誉文学博士
デンバー大学名誉教育学博士
ハバナ大学名誉人文学博士
慶熙大学名誉哲学博士

 

池田 大作(いけだ だいさく、1928年〈昭和3年〉1月2日 - 2023年〈令和5年〉11月15日[1])は、日本の宗教家、作家。創価学会名誉会長。

創価学会会長(第3代)、創価学会インタナショナル(SGI)会長などを歴任[2]。創価大学、創価学園設立者でもある。山本 伸一や法悟空のペンネームで作家活動も行っていた。

概要
東京府荏原郡大森町(現、東京都大田区大森)に、海苔製造業を営む池田子之吉の五男として生まれる。羽田第二尋常小学校から羽田高等小学校を卒業し、鉄工所に勤務。青春時代は、肺病との闘病を経験。トルストイ、ユゴー、ゲーテ、ホイットマンらの文学に親しみ、詩作を行い、人生についての思索をめぐらせる日々であったという。

第二次世界大戦終戦後、勤労の傍ら旧制東洋工業学校、大世学院(後、東京富士大学、東京富士大学短期大学部)に通学。1947年(昭和22年)8月、小学校時代の友人に誘われ創価学会を知る。そこで戸田城聖と出会ったことをきっかけに、19歳で創価学会に入会。

1949年、戸田の経営する日本正学館に出版編集者として入社すると同時に創価学会での活動を始める。1951年に戸田が創価学会第2代会長に就任するが、池田は同時に青年部で活発な活動を始め、1954年には青年部参謀室長に就任。その後、創価学会の中心的存在となる。その後は、強力な折伏、公明党の票数獲得などに奔走[3][4]。

戸田の死後、1960年(昭和35年)に創価学会第3代会長に就任。827万世帯を超えるまでに発展させた。会長就任以降、海外での布教も強化。

1975年、創価学会インタナショナルを設立し会長に就任。

第三文明論など仏教を基礎として文明論、学問論、政治論を展開。政界にも進出し、教育・文化・平和活動などに尽力。

1964年には、公明党を結成。同党は1970年、「国民政党」として宗教色を廃し、衆議院で最大51議席を獲得するまでとなり、1993年(平成5年)以降は一時期を除き連立政権の一翼を担うに至った。小説『人間革命』、『新・人間革命』など膨大な著書を執筆し、平和、環境、教育問題などに関する言及を行ったほか、創価学会の歴史や理念、将来の構想などを語った。こうした点を含め、池田は「生身で語る宗教家」として評価された。1983年には国連平和賞を受賞[3][4][5]。

創価学会会長を退いて以降も、学会の幹部でさえ後任の第4代会長以降は単に組織の代表者に過ぎないと認めるほどにカリスマ的に影響力をふるい、常に学会活動の最前線に出て一般会員とも肩抱き合うような精力的な活動を行ってきたが、2010年5月以降は公の場からは姿を消す[5]。2023年11月15日、老衰のため、東京都新宿区の居宅で死去。

来歴
1949年まで

19歳の大作
1928年1月2日、東京府荏原郡入新井町(現在の東京都大田区大森北)[6][7][8]に誕生[9][10][11]。 1940年3月、尋常小学校卒業の後、兄が勤めていた「新潟鐵工所」に就職[8]。1945年8月、肋膜炎を患い茨城県の結核療養所へ入院するための順番待ちをしていた中で終戦を迎える[9]。同年9月、新橋にある昭文堂印刷で文選工をする傍ら、私立の東洋商業学校(現、東洋高等学校)に編入[6]。1946年、東京都大田区森ヶ崎にある協友会に加入[注釈 1][12]。

昭文堂印刷退社後、京急蒲田駅裏にある中小企業の組合蒲田工業会(現:「蒲田工業協同組合」)に勤務[注釈 2]。1947年3月、東洋商業学校を卒業。同年8月14日 小学校時代の同級生の女性から「仏教や哲学のいい話がある」と誘われ座談会に出席。戸田城聖の御書講義、小平芳平の折伏を受け、入信を決意し、同年8月24日、創価学会に入信手続きを行った[12][13]。1948年、大世学院(後の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に入学。1949年1月3日、日本正学館に入社[9]。少年雑誌『冒険少年』(同年8月に『少年日本』と改題)の編集に携わる。同年5月、日本正学館編集長に就任[6]。同年10月、東京建設信用組合に入社。

1950年代
1950年10月、大蔵商事(現:日章)に異動[注釈 3]。1951年5月3日、戸田が創価学会の第2代会長に就任。同年5月、蒲田支部大森地区の地区委員に任命される。同年7月、青年部(男子部)が結成され、第1部隊長に就任。1952年3月、参謀室長に就任。5月3日、白木香峯子と結婚[6]。1953年11月25日、長男博正の誕生を期に、正式に「太作(たいさく)」から「大作(だいさく)」に改名[6]。1954年3月30日、青年部参謀室長に任命[6]。同日 設置された「情報部」最高顧問に就任[6]。この頃に大蔵商事を離職[6]。同年12月3日、新設された渉外部長を兼任。

1957年7月4日、参議院大阪府選挙区の補欠選挙において、一部の創価学会員が候補の名前が記されたタバコを配布[14]。この違反行為を池田が指示もしくは黙認したという事実はないにもかかわらず[15]、公職選挙法違反(買収)の疑いで逮捕、大阪東警察署と大阪拘置所に勾留された。

→詳細は「大阪事件_(創価学会) § 概要」を参照
同年7月29日、創価学会幹部45人と共に起訴される。後に検察官より禁固10か月の求刑を受ける[16]が、後に池田の無罪が確定する[17]。

1958年4月2日、戸田が死去(58歳没)。同年6月、新設された総務を青年部参謀室長と兼任[18]。1959年6月30日、青年部参謀室長を辞任し参謀室の北条浩、龍年光と共に創価学会理事に就任[18]。

1960年代
→「折伏大行進 § 歴史」も参照

1962年頃

1962年5月27日撮影

岐阜県岐阜市にて(1960年代)
1960年5月3日、創価学会第3代会長に就任[19]。戸田の七回忌までに300万世帯の弘教を掲げる[20]。

同年10月、初の北南米訪問。以後、40年で海外54カ国・地域を訪問。現地会員の激励と各国の指導者、知識人との対話を重ねる[21]。1961年1月28日、初のアジア訪問6カ国・地域訪問[21]。同年3月27日、会員世帯数185万世帯を達成[21]。

同年10月4日、ヨーロッパ9カ国訪問[21]。同年11月27日、公明政治連盟(公政連)を結成[21]。1962年1月25日、大阪事件で無罪判決が言い渡される。同年1月27日、東洋学術研究所 (現・東洋哲学研究所)を創立[21]。

1963年7月27日、会員世帯数360万世帯を達成[21]。同年10月18日、芸術・文化の交流が真実の世界平和の基盤となると提唱し、芸術交流を推進する音楽文化団体として民主音楽協会(民音)を設立を創立[22]。1964年5月3日、第27回本部総会において、政党の創設と衆議院進出、ならびに正本堂の建立・寄進の計画を発表。宗門から法華講総講頭に任命される。同年11月17日、公明党を結成。結党宣言で、日蓮の『立正安国論』を引用し、王仏冥合・仏法民主主義、すなわち人間性の尊重を基調とした民主主義の基盤つくりや大衆に深く根をおろした大衆福祉を実現する旨を発表した[23]。1965年1月1日、聖教新聞紙上で小説「人間革命」の連載を開始。1968年9月8日、第十一回創価学会学生部総会における講演で、中華人民共和国の正式承認と日中国交正常化、中国の国連加盟などを提言。

1970年代
この頃、イギリスの歴史学者であるトインビー博士との対談を1972年に行った[24]のをはじめ、国内外の有識者との対談を行うようになっていった。

その他の対談者として、松下電器の創業者・松下幸之助氏(76年4月)[25]、アメリカの経済学者・ガルブレイス博士(78年10月)[26]などが挙げられる。

1970年、創価学会と公明党に対する批判本に対して、公明党委員長の竹入義勝(当時、後に公明党から造反)の要請で自民党幹事長の田中角栄(当時)が著者の藤原弘達に出版の中止を求めた[27]。この交渉が「言論妨害」であると共産党の機関紙『赤旗』が批判し、野党議員が池田の証人喚問を要請した[注釈 4][28]。同年5月3日、創価学会第33回本部総会において、「言論妨害という意図はまったくなかったが、結果として、妨害と受けとられ、関係者に圧力を感じさせ、世間にもご迷惑をかけてしまったことは、まことに申し訳ないと残念に思っております」[29]と述べた。1974年9月、ソ連を訪問し、アレクセイ・コスイギン首相と会見。同年10月29日、創価学会の代表役員を辞任し、北条浩が代表役員並びに理事長に就任。

同年11月、『中国の人間革命』(毎日新聞社刊)を出版。

創価学会本部総会で、「七つの鐘」構想を発表。1990年までに広宣流布の総仕上げを目標に掲げた。1975年1月1日、創価学会本部において創価学会常住御本尊の入仏式を行った[30][31]。同月、創価学会の世界的組織、SGI(創価学会インタナショナル)の会長に就任。

1976年、月刊誌『月刊ペン』の3月、4月号の記事に対し、名誉毀損に当たるとして創価学会及び相手とされた創価学会員らと共に月刊ペン社の発行人と編集長隈部大蔵を刑事告訴した。後の判決では「到底その真実性が立証されたとはいいがたい」とされ、隈部は罰金刑を言い渡された[32]。隈部は最高裁に上告したが、1987年に本人が死亡し審理が終了した[33]。

この審理の裏で、かつて創価学会の顧問弁護士でありながら、創価学会への恐喝事件を起こし逮捕された山崎正友[34]は、自著『「月刊ペン」事件 埋もれていた真実』で、月刊ペン社の社長だった原田倉治に要求され示談金2000万円を払っていたと主張している[35]。

→詳細は「月刊ペン事件」を参照
1977年1月15日、第9回教学部大会で「仏教史観を語る」と題する講演を行う。創価学会独自の経本を作る。(「昭和52年路線」)これに反発した日蓮正宗内の若手僧侶が創価学会の教義逸脱を正す旨の活動を開始。

→詳細は「創価学会 § 昭和52年路線」を参照
→「正信会 § 歴史」も参照
1978年6月30日、「教学上の基本問題について」と題し、教義逸脱を是正することを『聖教新聞』紙上で表明。同年9月3日、『聖教新聞』が「今まで本部として謹刻させていただいた数体の板御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構ですとのお話があった[36]」と本尊模刻を認める記事を掲載[6]。同年11月7日、本尊模刻等について責任を取る形で、大石寺にお詫び登山を行った[6]とされているが、『暁闇』によると当時の法主・日達からは事前に本尊謹刻の許可を得ていたものの、僧俗和合の大義、宗内を広く覆っていた「法主に反論することは謗法」といった宗教的禁忌観、法主の権威失墜を防ぐといった理由があり、「無断で模刻した」という言説に反論せずに事態の収拾に動いた結果であるとしている[37]。

1979年4月24日、日蓮正宗との問題で創価学会会長を引責辞任。新しく創設したポストである名誉会長に就任。終身制だった会長職を5年の任期と変更、後任の会長には北条浩が就任。

→詳細は「創価学会 § 名誉会長・歴代会長」を参照
同年4月26日、法華講総講頭を引責辞任。他の法華講と同様に日蓮正宗の監督を受けることを約束。日蓮正宗の管長日達より、法華講名誉総講頭の辞令をもらう。同年5月3日 日蓮正宗の法主、日達が池田名誉会長ら創価学会幹部の反省を受け入れ、問題の収束を宣言。

1980年代
1979年に名誉会長に就任して以降、海外訪問により力を入れていった。その背景には、仏法の社会展開、海外発展のため、宗門の教学から離れ、仏法哲学の革新・普遍化するとの目的があった[38]。80〜81年の2年間で6回海外訪問を行い、滞在日数は144日間におよんだ。

デクエヤル国連事務総長(82年8月)、中国の胡耀邦総書記(84年6月)、タイのプーミポン国王(88年2月)、イギリスのサッチャー首相(89年5月)などの有識者や国家元首等との会見を行った[39]。

1981年、世界芸術文化アカデミーから「桂冠詩人」の称号が贈られた[40]。1982年10月15日、東京地裁における『月刊ペン』に関する差し戻し裁判(第27回公判)に検察側の証人として出廷。

→「月刊ペン事件 § 差し戻し審(地裁)」も参照
1983年1月25日、「SGIの日」記念提言を発表(これ以後、毎年発表)。同年6月、ルーマニアを訪問し、当時の大統領だったニコラエ・チャウシェスクと会談。「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることがよく、理解できました」との賛辞を贈った[41]。同年8月、国連平和賞を受賞[42]。1984年1月2日、日達の後を継ぎ、67世の法主となった 日顕により再び「法華講総講頭」に再任。

1990年代

1990年の池田
1990年12月13日、日蓮正宗が創価学会に対して、池田が宗門を批判した発言の真意を問いただしたが「出処不明のテープを本とした文書は受け取ることができない」と創価学会は拒否。同年12月27日、日蓮正宗は法華講総講頭に任期制を導入。これにより任期終了と共に池田が法華講総講頭の資格を自動的に失う。1991年11月28日、日蓮正宗が創価学会を破門。創価学会とSGIが日蓮正宗と決別[43]。1992年8月11日、日蓮正宗から信徒除名処分を受けた。1993年10月、創価学会が日寛の本尊を印刷し会員に配布。

→詳細は「創価学会 § 本尊・本仏」を参照
同年8月8日、第69回創価学会本部幹部会において、細川連立政権の内閣発足前日に公明党が大臣ポストを獲得したと語ったことが、国会で問題となる[44]当時創価学会会長であった秋谷栄之助は国会で、「当日の新聞の閣僚予想記事の内容を話したのであって、党から何か事前に連絡や相談があったのではない」という旨を説明。

同年9月24日 アメリカのハーバード大学で「21世紀文明と大乗仏教」と題して講演。

同年10月24日 八王子市に創価学会東京牧口記念会館が開館。

同年12月18日 オウム真理教が池田殺害を計画し、創価大学キャンパス内でサリンを噴霧。池田は被災を免れるが、牙城会員数人が被災。また実行犯のオウム真理教信者新実智光もサリンを吸い込み一時重体に陥る。

→詳細は「池田大作サリン襲撃未遂事件」を参照
1995年4月、『中央公論』1995年4月号において、田原総一朗と対談。

14年ぶりに日本のジャーナリストのインタビューを受ける[45]。1996年2月11日 「戸田記念国際平和研究所」を設立[45]。同年6月、元婦人会員が池田から強姦されたと訴訟を起こすが、後に「訴権の濫用」として訴えは退けられた。

→詳細は「池田大作に対する訴権の濫用」を参照
1997年12月1日、日蓮正宗の一部改正に伴い、創価学会員の日蓮正宗の檀信徒資格が喪失。

→詳細は「除名 § 宗教の除名」を参照
1998年11月27日、東京都港区元赤坂の迎賓館で中華人民共和国主席江沢民と会談。

1999年6月4日、フィリピンのジョセフ・エストラーダ大統領と会談。

2000年代
2002年、中華人民共和国主席胡錦涛と会談。創価学会は会則を変更し、初代会長牧口常三郎、第2代戸田、第3代池田の「三代会長」を「永遠の指導者」とする規定を入れた。2003年、中華人民共和国首相温家宝と会談。

同年3月22日、元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフと会談。

2004年12月、アメリカの世界的経済誌『フォーブス』(Forbes、2004年12月27日号)は、2004年9月6日号に「先生の世界」(「Sensei's World」)と題して、池田及び創価学会に関する記事を特集し掲載。2006年11月30日、国際原子力機関(IAEA)のM.エルバラダイ事務局長と会談。2007年4月12日、来日中の中華人民共和国首相温家宝と会談。日中友好を訴えた[注釈 5]首相の国会演説を「不滅の名演説だった」と讃える[46]。2008年5月8日、中華人民共和国主席胡錦涛と会談[47]。

2010年代以降
2010年5月13日の本部幹部会以降、創価学会内の公式行事を全て欠席する。

そのため重病説や死亡説が一部の週刊誌で取り上げられ[48]、聖教新聞紙面では不定期に現在の姿とされる写真が掲載された[49]。

2018年10月3日の聖教新聞3面では、2018年8月6日に創価学会長野研修道場を訪問した池田夫妻の写真が掲載された[50]。2019年8月23日の聖教新聞3面では、2019年8月9日に創価学会長野研修道場を訪問した池田夫妻の写真が掲載された[51]。同年10月3日の聖教新聞3面では、2019年9月28日に聖教新聞本社の新社屋、創価学会世界聖教会館を訪問した池田夫妻の写真が掲載された[52]。2020年6月10日の聖教新聞1面では、2016年6月25日に創価学会総本部内の創価世界女性会館で夫人同伴でピアノを弾いている写真が掲載された[53]。

2023年11月15日、老衰のため、東京都新宿区の居宅で死去。95歳没。

訃報は同月18日、創価学会のホームページにて第一報として伝えた[54][1][55]。同年11月23日、「創価学会葬」が東京都豊島区の東京戸田記念講堂と全国約1000の学会施設を中継で結んで執り行われた[56]。 2024年1月30日には、「お別れの会」が都内のホテルで開かれた。😊

 

アメリカ、中国など約40カ国の大使館関係者のほか、経済界、学術界などから合わせておよそ2600人が参列した[57][58]。 同年1月20日、イタリア・フィレンツェ市とイタリア創価学会の共催による追悼式が、同市庁舎であるヴェッキオ宮殿の五百人広間で行われた[59]。

同年2月20日には、ベルギーのブリュッセルにある欧州議会にて、追悼行事が開催された。同議会のピナ・ピチェルノ副議長や、欧州仏教連盟のステファノ・ベッテラ会長、ローマクラブのサンドリン・ディクソン=デクレーブ共同会長、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のメリッサ・パーク事務局長らが出席した[60]。

人物

創価学会学生部と池田。群馬県高崎市にて。
執筆
随筆、小説、対談集などの他、仏法哲学の解説書、子ども向けの童話なども執筆、また、写真家・詩人としても活動していた。

対談・講演
国家指導者を初め、教育者、文学者、科学者、芸術家、社会活動家などと会見を多数行ない、発刊した対談集は80にも上る。

特に印象に残った人物として周恩来を挙げている。「名優のごとく、言葉がわかりやすく、しかも深い。鋭さと温かさがある。」と評している。また、海外の大学・学術機関で講演を多数行なっていた。

文化活動
池田は音楽や美術など文化運動も推進した。

1963年に民主音楽協会を設立した。

同協会はオペラ、アルゼンチン・タンゴ、中国の京劇などの公演を実施しており、海外交流国・地域は112を数える。延べ1億2000万人が鑑賞している[61]。

音楽博物館や民音研究所の運営、コンクール事業、青少年への音楽文化振興なども展開している[62]。 1983年には、東京・八王子市に東京富士美術館を創設した。

世界各国、各時代の絵画・版画・陶磁・武具・刀剣・メダル・写真など約30000点の作品が収蔵されている[63]。 これまで世界各国の政府・文化機関等の要請を受け、19ヶ国1地域、31都市において44回に及ぶ展覧会を開催している[64]。(2024年現在)

海外の大学・学術機関での講演
1974年4月 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(アメリカ)
1975年5月 モスクワ大学(ロシア)
1980年4月 北京大学(中国)
1981年5月 ソフィア大学(ブルガリア)
1983年6月 ブカレスト大学(ルーマニア)
1984年6月 北京大学(中国)
1984年6月 復旦大学(中国)
1989年6月 フランス学士院(フランス)
1990年3月 ブエノスアイレス大学(アルゼンチン)
1990年5月 北京大学(中国)
1991年1月 マカオ大学(マカオ)
1991年4月 フィリピン大学(フィリピン)
1991年9月 ハーバード大学(アメリカ)
1992年1月 香港中文大学(香港)
1992年2月 ガンジー記念館(インド)
1992年6月 アンカラ大学(トルコ)
1992年10月 中国社会科学院(中国)
1993年1月 クレアモント・マッケナ大学(アメリカ)
1993年2月 ブラジル文学アカデミー(ブラジル)
1993年9月 ハーバード大学(アメリカ)
1994年1月 深圳大学(中国)
1994年5月 モスクワ大学(ロシア)
1994年6月 ボローニャ大学(イタリア)
1995年1月 ハワイ・東西センター(アメリカ)
1995年6月 アテネオ文化・学術協会(スペイン)
1995年11月 トリブバン大学(ネパール)
1996年6月 サイモン・ヴィーゼンタール・センター(アメリカ)
1996年6月 コロンビア大学(アメリカ)
1996年6月 ハバナ大学(キューバ)
1996年10月 ラジブガンジー現代問題研究所(インド)
2007年3月 パレルモ大学(イタリア)[65]
顕彰
国家勲章、大学からの名誉学位、国連や学術機関からの表彰など、多くの顕彰を受けており、授賞のたびに、創価学会の機関紙『聖教新聞』の一面を飾る事が多い[66][67]。

海外では、モスクワ大学、グラスゴー大学、ボローニャ大学、フランス学士院、ナイロビ大学等より「名誉博士号」「名誉教授称号」を授与されている。

これまで世界の大学・学術機関から池田に贈られた名誉学術称号は、400を超えている[68]。

池田は今まで、自身が創設した創価大学からは1974年に名誉教授を、1983年11月に名誉博士を授与されている[69]。

地方自治体からは、静岡県の富士宮市の名誉市民となっているほか、1977年には第2代会長・戸田城聖の故郷の北海道の厚田村(現石狩市)から「栄誉村民」(1977年)を授与されている[70]。2009年には大阪府高槻市から「国際文化交流貢献賞」が送られた[71]。

池田は、オーストリアの政治学者のリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーとの対談において、「ノーベル平和賞」について「そのような栄誉はほしくもありません。また下さるといっても、受けることもありません。そのような人間が世界に一人くらい、いてもいいでしょう」と語っている[72][信頼性要検証]。

1988年、「国際理解のためのG・ラマチャンドラン賞」を受賞[73]。

このほか、1983年に国連平和賞、1988年に国連栄誉表彰、1989年にラウレアナ・ロサレス 教育・人道賞(フィリピンにあるキャピトル大学から受賞)[要出典]、同年に平和貢献・国連事務総長表彰などを授与されている。

→詳細は「国連平和賞」を参照
また、1976年にはノーベル平和賞候補に挙がっているとして週刊現代が報じている[74]。2015年にはノーベル平和賞候補に挙がっているとしてCNNが報じている[75]。

中国との関係
これまで10度訪中し、北京、西安、鄭州、上海、杭州、広州などを訪れている。また、毛沢東、周恩来、鄧小平、江沢民、胡錦濤、温家宝といった政府指導者と会見するなど、親密な関係にある。

中国首脳陣との会談
1968年9月8日 「日中国交正常化提言」を発表。

1974年5月30日 中国の招聘により初訪中。 李先念副総理と会見[76]。

1974年12月5日 2度目の訪中。鄧小平副総理と会見。その直後、病気療養中の周恩来総理の強い意志により、周恩来と池田との会見が行われる。

2007年4月12日 温家宝首相と会談[77]。

2008年5月8日 胡錦濤国家主席と会談[47]。

中国人学生との交流
1984年、「中華全国青年連合会(全青連)」と創価学会青年部との交流が始まる。池田自身が全青連の訪日団と会見。また、創価大学は、1975年に日本で初めて、中国から日本への正式な留学生を受け入れた。

中国の大学との文化交流
北京大学や中国社会科学院などで記念講演を行っている。また、創価大学との教員・学生の交換などが行われている。さらに北京大学では「池田大作研究会」等の研究機関が設立されている。

中国との文化交流
1967年に北京芸術団が、民主音楽協会で公演。東京富士美術館で中国敦煌展、北京・故宮博物院名宝展を開催。

アメリカとの関係
1960年10月、池田が初めての海外指導に訪れたのがアメリカである。

以来、27回訪米している。また、キッシンジャー合衆国国務長官をはじめとするアメリカの識者との対談集は18点を数える。ハーバード大学では池田の著作がテキストとして扱われている。2001年5月3日、カリフォルニア州にアメリカ創価大学を創設した[78][79][80]。

アメリカの著名人との交流
1975年1月13日に当時のキッシンジャー合衆国国務長官とアメリカ国務省・長官執務室で会見を行った。1978年1月12日、アメリカのジョン・F・ケネディーの弟であるE・ケネディーとの会談が、聖教新聞社で行われた。1993年1月30日には、アメリカの公民権活動家であるローザ・パークスと会談した[81][82][83][84]。

アメリカの大学との文化交流
1970年以降、カリフォルニア大学ロサンゼルス校やハーバード大学、コロンビア大学などで記念講演を行なった。キング国際チャペル所長のローレンス・E・カーター牧師の提唱でモアハウス大学は「融和のためのガンジー研究所」などと協力して「ガンジー・キング・イケダ――平和建設の遺産」展を、2001年から各地で巡回している。2014年4月には、デポール大学に「池田大作教育研究所」が設立された[85][86]。

ヨーロッパとの関係
池田は1961年10月にデンマーク、ドイツ、オランダ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリアを初訪問した。以来、ヨーロッパ各国の識者らと交流を結んだ[87]。

イギリスでの足跡
1972年と73年にイギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーと対談した。後に対談集「21世紀への対話」となり31言語で発刊されている[88]。

1978年12月、オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン名誉教授と会見した。その後も交流を続け、対談集「社会と宗教」が発刊された[89]。

1989年、サッチャー首相(当時)と会見した[21]。1994年6月には、チャールズ皇太子(現在の英国王)と会見した[90]。

同月、グラスゴー大学から名誉学術称号が授与された[91]。

イタリアでの足跡
1975年5月、「ローマクラブ」の創設者アウレリオ・ペッチェイ博士と初会見した。

その後、5度にわたって交流を結んだ。二人の語らいは対談集「二十一世紀への警鐘」として発刊されている[92]。1981年には、ミラノ・スカラ座のバディーニ総裁と会見[93]。同年9月に、池田が創設した民主音楽協会の招聘によって日本で初めて「ミラノ・スカラ座」公演が行われた[94]。

1994年6月、世界最古の大学であるボローニャ大学の招聘を受け、「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未来についての考察」と題する講演を行った[95]。2006年1月、イタリア大使館で「功労勲章 グランデ・ウッフィチャーレ章」を授与された[96]。2024年1月20日には、イタリアのフィレンツェ市とイタリア創価学会の共催で、池田の追悼式が挙行された[97]。

アフリカとの関係
アパルトヘイトの撤廃に尽力したネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領と、1990年10月31日と95年7月3日の2回にわたって会談した[98][99]。

91年11月29日、在東京アフリカ外交団(26カ国)の総意として、「教育・文化・人道貢献賞」が贈られた。デクラーク元南アフリカ大統領(1992年6月)、ケニア作家協会のヘンリー・インダンガシ会長(2000年7月)、アフリカ人女性として初のノーベル平和賞を受けたケニアの環境保護運動家であるワンガリ・マータイ氏(2005年2月)と会見した[100][101][102][103]。

政見
その他の政見
安全保障
「憲法改正論議はいいが、憲法第9条だけは絶対に変えてはいけない」との見解を持っている[104]。

日本は国連の常任理事国入りを望んでいるが、安全保障理事会の機軸である集団的自衛権という考えと、それを禁じる日本の憲法との間には矛盾があるので、「国際連合平和維持活動」(PKO)に参加するために、自衛隊とは別個の組織を作るというのが正しい道であろうと思う」との見解を示した(1991年・第16回「SGIの日」記念提言)。1991年の湾岸戦争の直前には、5人の識者と共に、「戦争回避のための『緊急アピール』」をイラクのフセイン大統領宛に送った。しかし、2003年「イラク戦争」の開戦が迫っていた1月26日『聖教新聞』紙上で「軍事力を全否定するということは(中略)政治の場でのオプションとしては、必ずしも現実的とはいえない」、「武力を伴った緊急対応も必要とされるかもしれない。そうした毅然たる姿勢がテロへの抑止効果をもたらすという側面を全く否定するつもりはない」との見解を示した。
選挙
1999年 SGI(創価学会インタナショナル)の日(1月25日)付の『聖教新聞』で首相公選制を提言。
教育
『朝日新聞』(2001年5月23日付)の「私の視点」というコラムで、「教育基本法」の見直しについて、「拙速は慎むべきである」、「『教育勅語』に盛られたような具体的な徳目は、基本法の性格になじまないと思う。法文化されれば、必然的に権威主義的な色彩を帯びてしまう」と述べている。
日本と韓国・朝鮮に関する見解
韓国SGIの機関紙和光新聞が池田の日本と韓国・朝鮮に関する見解を数度にわたり掲載している。

和光新聞のコラムに掲載された歴史観
「貴国(韓国)は、まことに日本に“文化の師匠”の国で、教育でも兄さんの国です。私は心深い所から尊敬しています。それにもかかわらず、……貴国を侵略した日本はいくら愚かだったか。」[105]。
豊臣秀吉の朝鮮出兵を、朝鮮から仏教を初め、様々な文化的恩恵を受けたことを踏みにじる侵略だとして強く非難[106]。
日本は韓国と友情を結んで、韓国を尊敬して、韓国の心を学べばこそ平和と、繁栄の方向に進むことができる。しかし、韓国に対して傲慢になったら日本は必ず衰退して滅亡する。これが万代にかけて生命に刻まなければならない歴史観でまた人間の道だ」[107]。
「韓国が日本文化の“大恩である”ことは言うまでもない。仏教を含めてすべてのものに恩恵をこうむったと言っても過言ではない。(日本は)どうして“大恩である”国を裏切っただろうか」[108]。
事件・疑惑
大阪事件
1957年4月に行われた参院大阪地方区の補欠選挙で、池田が会員に戸別訪問を指示したとして逮捕される。同容疑で逮捕された京都の会員の供述による逮捕だったが、裁判では供述が信用できないとして退けられ、無罪判決が下りた[109]。

→詳細は「大阪事件 (創価学会)」を参照
選挙関与疑惑
自民党は1996年の衆議院予算委員会で、「創価学会の選挙運動への関与を究明する」という名目で池田の証人喚問を要求した[110]。

信者暴行デマ
1996年、北海道創価学会の幹部だった女性が、「過去数回にわたり創価学会名誉会長池田大作から暴行された」との告発手記を『週刊新潮』に発表した後、女性とその夫が池田を相手取り損害賠償請求の訴えを起こした。内容は全くのデマであり、訴訟も金銭目当てであるとされた。判決も「訴権の濫用による却下」との判決が下る。

→詳細は「池田大作に対する訴権の濫用」を参照
池田大作本仏論および神格化
→詳細は「池田大作本仏論」を参照
→「創価学会 § 創価学会は「池田教」であるという批判」も参照
池田は『聖教新聞』において、「代々の会長を神格化などしてはなりません」「私などを絶対視してはならない」「私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております」と創価学会会長はあくまで信仰上の指導者であって、自身を含む歴代会長たちは神格化されるべきではない、と明言している[111]。一方で、創価学会と対立する団体や批判者からは、創価学会員による池田大作・牧口常三郎・戸田城聖ら会長3名への「個人崇拝」があり、創価学会は日蓮仏法を信仰する仏教徒団体である以上に、実質的には「池田教」ではないかという批判もある。1983年(昭和58年)10月31日、元創価学会幹部の山崎正友の裁判に証人として出廷した際に、「一部の同志が調子に乗って自分を美化したのでは」という旨を述べている。仏教学者の松野純孝は、池田大作本仏論は「日蓮本仏論の当然の帰結」であると述べている。

池田大作暗殺計画
池田は過去に暗殺計画をかけられたことがある。

藤原行正による暗殺計画
1988年、弟弟子であった藤原行正が池田を暗殺し、自分の息子を創価学会の会長に据える計画を立てる。実際に藤原は暴力団関係者と密会し、暗殺は実行寸前にまで至ったが、金銭トラブルから契約は頓挫し暗殺計画が発覚した[112][113]。その後、藤原は『池田大作の素顔』という暴露本を出版し、池田に対抗した。

オウム真理教による暗殺計画
1993年12月18日に池田が創価大学での演奏会に出席するという情報を手に入れたオウム真理教は、かねてより仏敵と称していた池田大作をサリンでポア(殺害)しようと暗殺計画を実行した[114]。しかし会館の警備を担当していた創価学会員に怪しまれ計画は頓挫、池田に被害はなく創価学会員数名が負傷した。

→詳細は「池田大作サリン襲撃未遂事件」を参照
評価
関係する人物や団体による称賛
田原総一郎(ジャーナリスト、評論家):「池田大作氏は宗教における“排除の壁”を見事に乗り越えた。どのような宗教も決して否定せず、他宗の信者たちともコミュニケーションを図り、信頼し合うことに成功した。この一点だけでも、私は池田大作氏を高く評価している」[115]。
佐藤優(作家):「池田大作の信仰、思想、行動を知ることが日本と世界の現在と未来を読み解く鍵になると筆者は確信している」[116]。
ローレンス・E・カーター(モアハウス大学キング国際チャペル所長、牧師):「差異を尊重する、本物の深い世界観とグローバルな宗教間対話を体現する人物は多くありませんが、池田会長は間違いなくその一人です」[117]。
安倍晋太郎:1958年、大石寺の大講堂完成記念の祝典に岸信介の代理で安倍晋太郎が出席して以来、何度も面会したという。「きれいな心で、学会のこと、世界のこと、人間と社会の話などを、私と語り合うことを、楽しみにしてくださっていたようである」と池田は述べている[118]。
冬柴鐵三(公明党元幹事長、国土交通大臣):「人生で最も影響を受けた人物」「あらゆる面で影響を受けた」[119]。
遠藤乙彦(元外交官、公明党所属の国会議員):「人生に関するどんなことでも相談して、教えを受けられる先生」、「池田先生の思想・仏教に基づいた教えに耳を傾ければ、もっと(世界の)問題が解決していくでしょう」[120]。
批判
田中角栄(元首相、自民党幹事長経験者):秘書の早坂茂三によれば「池田大作はしなやかな鋼だ。煮ても焼いても食えない。公明党は法華さんの太鼓を叩くヒトラーユーゲントだ」[7][121]。
石原慎太郎:1999年東京都知事選挙を直前に控えた時期に、池田大作に対する人物評価を尋ねたアンケートに「一言で表現すれば、『悪しき天才、巨大な俗物』。」『週刊文春』 平成11年(1999年)3月25日号。
ニコラエ・チャウシェスク:Jurnalul National(ルーマニア国営新聞)で池田を絶対的な権力を持っているよう他人へ見せかけるだけで強きものには諂い、弱きものには傲慢な態度で臨む小悪党だと批判[122]。
批判する立場になったまたは袂を分けた元幹部
龍年光(元創価学会幹部・元公明政治連盟書記長・元公明党東京都議会議員)[123]
原島嵩(元創価学会教学部長)[31]
山崎正友(元創価学会副理事長・元顧問弁護士)[124]
竹入義勝(公明党元委員長)[125]
矢野絢也(公明党元委員長)[126]
福島源次郎(元創価学会副会長)[127]
石田次男(元公明党参議院議員)[128]
大橋敏雄(元公明党衆議院議員)[129]
桑原春蔵(元公明党大田区区議、元幹部)「池田が政治権力を握って天下を取るといった姿勢は、もはや信仰者ではない。信仰を利用した魔物」[130]
後呂雅巳(支部壮年長)[130]
山口隆司(元地方幹部)「池田大作の名誉欲達成のために、大変な資産と人生の半分を費やしたのが腹だたしい」[130]
鈴木広子(元地方幹部)[130]
細谷健範(元地方幹部)[130]
エピソード
イギリスの歴史学者であるトインビーは、池田との対談を終えた後に、「私は、母校であるオックスフォード大学の名誉文学博士をはじめ、五つの大学から名誉博士号を贈られております。あなたは、〝トインビー大学〟の最優等生です。必ず私以上に世界中から、名誉博士号を贈られるようになるでしょう」と語った[131]。
公明党設立後の翌年、評論家・高瀬広居は著書の中で、池田が数百万の信徒を抱える創価学会会長としての責任と立場について「日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」との気概を語ったことを紹介している。また、社会では、拡大を続ける組織の指導者として「神秘化された偶像」のようなイメージが生まれつつあったが、池田への複数回のインタビューを通して、情味豊かで思慮深く、しかも卓抜な決断力に富んでおり、理性的寛容さにあふれていたと述べている[132]。


新しい一日、新しい挑戦、あたらしい出会いの舞台

2025年03月18日 09時12分33秒 | その気になる言葉

▼人間の中に勇んで飛び込み、誠実の力で勝利していくのだ。

新しい一日、新しい挑戦、あたらしい出会いの舞台へ踊り出よう。

▼歴史は人間の心から出発する―歴史家ミシュレ

ジュール・ミシュレJules Michelet1798年8月21日 - 1874年2月9日)は、19世紀フランス歴史家。「ルネサンス」の造語者。

1848年に二月革命が起きると熱狂的に支持した。1852年、ナポレオン3世への宣誓を拒否し、コレージュ・ド・フランスの教授の地位を追われた。晩年は隠棲し、博物誌シリーズなどを著述。

その歴史記述の手法は、過去を生き生きと再現し、つまびらかに描写することにあった。また、国家・政府や人物を、倫理の象徴のように思わせるところにも特徴があった(その点に、ロラン・バルトは着目する)。歴史の中での民衆の動きを捉え、アナール学派にも影響を与えているとされる。なお、『フランス史』第7巻(1855年)においてフランスのルネサンスフランソワ1世以降)について記述しており、これが「ルネサンス」という用語を学問的に使用した最初の例とされる。イエール (ヴァール県)で死去し、パリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた。 

▼誓願の力とは、菩薩の<誓願>を胸に取り組めば、必ず最後までやり遂げることができる。

誓願こそ仏法の極意。

「誓いがあるから、祈りが深まり、生命に限りない勇気が湧き立つ。

苦難を越えて成長し、人をも幸福にしていける。

▼<もう駄目だ>と思う時こそ「信」を奮い起こすのである。

信とは、確認の一念。

わが胸中から変革が始まる。

歓喜と確信が込み上げ、挑戦する勇気が湧いてくる。

▼青年は活気に満ち、勇敢に行動すべきだー魯迅

言葉は違っても、思いの力は国境を超える。

これこそ魯迅の精神の継承である。

文学は<紙の上の風景>だけでなく、<肩に担う責任>がある。

青年は時代の希望だ。

平和を呼びかけ、弱い立場の人を思いやり未来への希望をつづることで、世界のい善の種を蒔いていくことだ。

文字を舟に見立てて、文明が融合する星の大海原へ共に出航しよう。

魯迅は生涯において小説集3冊、雑文集17冊、散文詩集1冊、回想記1冊を刊行したほか、『中国小説史略』をはじめとする研究書や論文、さらに膨大な翻訳を残した

このなかで圧倒的な量にのぼるのは雑文集である。とくに、1927年から始まり1936年に病没するまでの上海時代は、彼は教職に就かず、フリーの文学者・思想家・論争家として生きた

毒舌的なレトリックを駆使した雑文を矢継ぎ早に発表し、多岐にわたる論敵に厳しい攻撃を加え続けた。古典文学者あるいは小説家として大成する途を棄て、論争の現場に身をさらしながら、転換期を闘い抜いた


日本脱カルト協会 カルト問題「教育の場で」

2025年03月18日 08時50分29秒 | 社会・文化・政治・経済

オウム元死刑囚支援の僧侶

配信 共同通信

 
 
井上嘉浩元死刑囚を支援していた「日本脱カルト協会」理事の僧侶平野喜之さん

心理学者、聖職者、臨床心理士、弁護士、精神科医、宗教社会学者、カウンセラー、ジャーナリスト、そして「議論ある団体」の元メンバーや家族等により構成されています。

カルト問題Q&A

もしも何かよくわからないけどちょっと興味ある団体活動に誘われたならば、その団体の実態をよく調べないといけません。それはカルトかも知れないからです。ここにカルト問題についての基礎知識と、とりあえずの対策について、よくある質問に回答します。

Q1 カルトとはどういう団体なのですか?

カルトは人権侵害の組織です。組織に依存させて活動させるために、個人の自由を極端に制限します。つまり、全体主義的集団です。そして、①各メンバーの私生活を剥奪して、②集団活動に埋没させる。そして、③メンバーからの批判はもちろんのこと外部からの批判も封鎖し、④組織やリーダへの絶対服従を強いるといった特徴がみられますが、これらの特徴は表面的には隠されていますので、集団の外部から見ても区別がつかないことがふつうです。カルトは、こうした人権侵害の正体を隠すためにマインド・コントロールを用いることが多いです。

Q2 マインド・コントロールとは何でしょうか。

つまり心理操作ですが、基本的に情報を操作して、個人の抱く①自己観、②理想とする自分、家庭、社会、世界の見方、③人生の目標、④非科学的な自然や宇宙の因果法則や歴史観、⑤善悪や正誤の基準となる情報源などが歪められて、今の社会を否定して見きってしまうように仕向けられます。

もしも自分が関わっている団体がカルトだと気づいたら

弁護士からのアドバイス

弁護士として述べれば、対応する人は証拠を確保することに留意してほしい。破壊的カルトは、違法行為をし人の利益を繰り返し侵害するから問題なのであり、それが証明されて初めて法的な問題になり、かつ「信教の自由」を逃げ口上にさせない力になる。

誘拐や文書偽造などの一般刑事事件とか、学校教育法などの行政法規違反はもちろん、未成年者に対する居所指定権の違反、親族関係への異常な侵害行為などは、民事法・家族法のうえで違反行為になる。説法や誘拐ビラなどの文書は日付をつけて保存し、不当な勧誘や脅迫は録音し、紛争の現場は日付入りのカメラやビデオで撮影するなど、さまざまな工夫が必要である。献金の領収書がなくとも、その金が動いた日時と、どうやって用意した金銭か、どう言われて献金したかを証明できれば道がひらける。

同時に、理解ある弁護士を育て、行政・警察などに注意を向けさせることが重要である。破壊的カルトは、メンバーの家族の会、元メンバーの会、対応する弁護団、対応するカウンセラーグループを作っていって初めて十分に対応できると考える。家族や元メンバーが熱心にならなければ、弁護士やカウンセラーは決して助力しない。

カウンセラーからのアドバイス

  1. 看板に偽りアリ。楽しそうなサークルと思っていたら、何か宗教的な話やビデオ教育などが始まった。それは破壊的カルトの可能性大です。正当な宗教サークルは名前を詐称しません。
  2. もしおかしいと思ったらはっきり断る。たとえ勧誘した人が魅力的でありやさしく思いやりのある人に思えても、きっぱりと断らなければついつい深入りしてしまいます。
  3. 誰かに相談する。「ここでの話は深い意味があり、ほかの人には理解できない。だから友人や家族には話さないように」などと言われるなら、もっと危険です。マインドコントロールは自分の頭で考えはじめるなら解けてしまいます。そのためには友人や家族など誰かに話すのが最も良いのです。
  4. 情報規制を感じたら速く逃げなさい。社会情報がみな誤りであり、この団体の言うことだけが正しいなどと言われたら、速く逃げるべし!あなたはもう破壊的カルト集団の一員と思われているのです。オウム真理教信徒が、今でも社会情報はみな間違っているなどと妄想しているのをみればよく理解できるはずです。
  5. はっきりしないときは専門家に相談する。

以上のポイントに注意して、なおかつ確認したいときには破壊的カルト問題の相談窓口に連絡して下さい。オウム問題をきっかけとして、そのような窓口が以前より増えました。

もしも家族や友人がカルトに入っていると気づいたら

1)適切な対応のために初期段階、教育段階、正式メンバーの段階があることを知っておこう。その緊急措置と長期的対応について各段階で対応に仕方に違いがあるから。

  1. 初期段階とは、巻き込まれた団体が破壊的カルトであるとは本人も気づいていない段階。勧誘されてサークル活動や宗教色のある活動を始めたけれどもそれが宗教団体であるとはまだ聞かされていない。
  2. 教育段階とは、すでに破壊的カルトの導入教育(ビデオ・修行・講座受講・合宿)にはまってしまった段階。ここでの特徴は宗教的教義を繰り返し反復教え込み、段々と家族や友人との関係が疎遠になって行くこと。この教育段階の半ばか後半で、本人にこの団体に対する忠誠心が芽生えたところで、ここは「…」という破壊的カルトであることを知らされる。
  3. 破壊的カルトの正式メンバーとなってしまった段階とは、教育段階が終わったところで正式メンバーとしての儀式(あるいは認定)がなされた段階。多くの場合、出家・献身・長期の研修や、あるいは学業放棄・退社などがあり、本人と家族との衝突が起こって、この段階でやっと家族の一員が破壊的カルトに入信したことを知るケースが最も多い。

2)家族の一員が破壊的カルトに巻き込まれてしまったことに気づいたら、すなわち応急処置(初期・教育期・メンバーともに共通)

  1. まず焦らないこと。家族の一員が破壊的カルトに引き込まれそうになっている場合、当然、本人をそこへと行かせないようにしたらよいと家族は考える。そこで「やめろ」「やめない」の押し問答になる。あるいは「自分はそんなところに行ってない」と言われ、話し合いにもならないことも多くある。
  2. 確認すること。そこで家族が最初にすることは、本人が入っているところが問題ある団体かどうか、という確認である。その団体は今までに悪徳商法や強引な勧誘で問題になったことがある団体だろうか。そしてその団体についての資料を集め検討することから始まる。本人の入っている団体が何であるのか分からずに大騒ぎをして全く見当はずれであった、とならないために。
  3. 冷静に話し合うこと。もし、破壊的カルトらしい団体であると思われるなら、それが初期段階ならば「やめろ」「やめない」の押し問答にならないような話し合いの場を設ける。初期段階で、それもはっきりと問題のあるカルトであれば、それまでの問題性(社会情報)を家族で「冷静」に話し合うことで分かってもらえることは多い。しかし、教育段階それ以上の段階では、こういう家族の努力も無駄となってしまうどころか、逆に破壊的カルトの思うつぼとなる場合が多くある。教育段階では「反対されたときのマニュアル」もその過程の中に入っており、家族の努力がかえって家族関係を悪化しかねない。もしこのような段階ならば相談窓口に連絡してアドバイスをもらうとよい。

3)次は家族が本人と会話するときのポイントである。まず、ミイラ取りがミイラにならないように、あなたも誰かに相談して命綱を結んだ上で!

  1. カルト・マインドの二重構造を知っておく。マインドコントロール下にあることを認識しておく。家族が一生懸命に説明し分かってもらおうと話し込んでも、家族の話を本人はカルト的思考法でしか聞くことができない。カルト的思考では「これだけ社会に対して被害を出しているんだぞ」と話すと、「社会は悪であるから、よいことをしている」などと、頭ではカルト的思考によって理解してしまうのである。こういう行き違いから、話し合いは困難となる。しかしカルト的思考になっていても、本人の感情は失われてはいない。「社会的被害」を聞けば当然、内心では心に痛みも感じる。
  2. 無批判に聞く。本人はカルト的思考で考えているのであるから、その考え方に耳を澄ませて本人の言うことを聞いてみる。家族が一方的に強圧的な言い方をすると、本人としては強い反発をするか、黙秘を最後まで通すしかない。まず本人の言い分を聞く、無批判に聞く、その後、「どうしてそう思うのか」、あるいは(本人の話を聞いて)家族として疑問に思うことを投げ掛けてみるとよい。
  3. 本人の良い意志・向上心を認める。勧誘において、この学びを続ければ「あなたは必ず変わる」という言葉がカルトのキャッチフレーズである。向上心をあおられながら、そこへと入っていったことだろう。だから本人の良い意志・向上心を認めながら話し合わないと、家族は「私」を理解しようとしないという不満が本人に募る。
  4. カルト体験で疑問に思ったことはないか聞く。現役のカルト信者はその団体に属して体験したこと、例えば「神秘体験」や「教えに疑問を持った時のこと」などは家族にもなかなか話そうとしない。ことに「神秘体験」は秘義とされているから。また「教えへの疑問」もほとんどの信徒は体験している。ただし「疑問を持つ自分はなんて不信仰者だ」「もっと続ければ本当のことがわかる・究極の真理がわかる」と自分に言い聞かせてこれまでやってきたのである。このような疑問に思った体験を家族が聞けるなら、解決は近い(しかし、無理矢理聞いては逆効果となる)。
  5. 最低限のカルト用語の知識。本人の言うことをまず批判しないで聞くなかで、本人の考え方を知ってほしい。同時に、マインドコントロール関連の書籍で学んで於くことも必要。
  6. 社会復帰を急がない。教育段階以上の、特にカルトメンバーになってしまった段階の人には社会復帰をいそがないことが必要。頭では破壊的カルトの問題性を理解していても、心情面ではすぐには吹っ切れないのである。家族が本人の社会復帰を急ぐあまり、かえって本人はふさぎ込み、問題を難しくしてしまうケースもある。

カウンセリングへの心構え (平岡正幸)

1) まず最初に、その団体の脱会者の手記を読み、教えの内容や活動、それに中で励んでいる人がどのような動機で入信し、そしてどのような思いを持って励んでいるのかを知ることから始めましょう。

  1. むやみに本人の属している団体を非難することは得策ではありません。本人は団体のことを何も知らないゆえに家族・友人は反対している、としか思いません。自分のことを何一つ分かってはくれない、という不満が残るだけです。それに、家族や友人の無理解な反対によって、団体はブラックリストに入れて、救出をさらに難しくしてしまいます。
  2. その団体が本人に教え込んでいる理想像、その実現のために挺身努力している本人の思いを脱会者の手記から理解し、団体の問題性とは別に、本人の良い意志を尊重する気持ちも持たなければ、会話は成立しません。
  3. 本人はカルト的二元論、団体は善・社会は悪という思考に支配されており、この二元思考で物事を考えているので、家族・友人はそのことを踏まえて接しなければなりません。

2) 家族・友人の受け入れ態勢

  1. 家族・友人がどのような体制を築くのかが、最も大切なことです。この問題の発生は、家族への本人の叫びとして受け止めたいものです。家族がこの問題の解決のために、一致し、もう一度家族としての「再出発」をする、ということが基本です。文末の図解を参照。
  2. 家族の「再出発」とは、今は本人はカルトへ心が奪われているけども、カルトへ疑問を持ったときや疲れ果ててカルトに居場所をなくしたときに、着地できる家族や関係を構築しておくことです。

3) 話し合いのタイミング

  1. 家族の方からこれが最も難しい、とよく言われます。特効薬的なものはありません。
  2. 初期段階(勧誘され、カルトの教育段階初期、だいたい1~3ヶ月以内)の場合は、1)や2)の備えをしたあと、速やかに話し合いに入ってよい結果に終わったことも多くありました。話し合いの結果、より問題性を明確に知ってもらうために、専門家や脱会者に会うことを本人に勧めて下さい(専門家への相談先はカルト予防関係の書籍の巻末に記されています)。しかし、本人がそれを拒絶する場合には、無理強いはしない。話し合いでカルトと距離をもっても、続けてもなるべく冷静に見守って下さい。
  3. 初期段階以後、あるいは初期段階でも話し合いが拒絶に終わったときには、長期で取り組むことになります。家族の「再出発」を大切に、本人との関係を壊さずに、家族同士が一致し、着地できる家族環境づくりを第一として下さい。
  4. 長期にわたって見守る家族は次のことに心を配って下さい。活動に邁進している信者たちも疑問のカケラがないわけではありません。本人を襲ってくる疑問は非常に強くしばしば訪れてきたことが脱会者たちの体験で分かっています。しかしカルト的二元論思考で、疑問は自分の悪からやって来ると思いこみ、あるいは指導されて、その疑問を封じ込め、先に先にその解決を延ばすように指導を受けて来たのです。
  5. それで、このところが家族としても難しいのですが、本人との会話・仕草・生活態度などから、疑問を持ち一時カルトから距離を持ちたいという思いが伺えるようなら、その時が救出のベストタイミングということになります。救出はその疑問に答える形でなされます。しかし、本人は家族の制止や反対を振り切って飛び込んだのであり、そういう思いの時であっても、家族には言わないものです。ここが難しさです。
  6. 疑問は、指導者に対して・教えに対して・活動に対して、外部の情報など、その人によって違います。本人から出てくる疑問が大切であって、無理矢理疑問を持たせようとしても、カルト的二元論が働いて水泡に帰すことが多くあります。家族は疑問を持たせて止めさせようなどと、早とちりしないことです。しかし、しばしば家族との何でもない話が救出の糸口になったこともあるので、タイミングの見極めをしたときには時と場を逃さないように。救出の主役は家族ですから。

4) 自然に脱会した人たちのキッカケ(参考のために)

1.外部情報 2.指導者不信 3.仲間たちの裏切り行為や傷つけあい 4. 教えの矛盾 5.病気 6.恋愛 7.家族への心配 8.金銭トラブル9.カルトの与えた恐怖(その逆に、脱会を思い止まる方に強く作用する) 10.将来の不安(このままでよいのか。しかし、将来をカルトに託しているので心配することは不信仰とされる)

などなど。

 

 

 


兵庫で行われた聖教文化講演会

2025年03月18日 08時37分54秒 | 社会・文化・政治・経済

子どもを信じ抜く生き方の芯は宗教的信念から

〈Switch――共育のまなざし〉 「排」から「拝」へ転換する信仰の力2025年3月15日

  • 栃木・作新学院大学の渡邊弘学長が
  • 兵庫・教育本部の友との交流に思う

 兵庫の創価学会・教育本部(教育・保育などに携わるメンバーの集い)は、大人と子どもが共に成長した軌跡をつづる「教育実践記録運動」において、全国模範の取り組みを続けています。

今月8、9の両日、兵庫の地を栃木から遠路、一人の教育学者が訪ねました。

作新学院大学(宇都宮市)の渡邊弘学長です。目的は、教育本部との「教育と信仰」を巡る交流座談会、そして自らが講師を務める聖教文化講演会に参加すること。

渡邊学長は、現代の子どもたちを取り巻くさまざまな課題を解決するには、「人間観」「教育観」の転換が不可欠だと訴え、創価学会の運動と創価教育の実践に期待しています。学長に同行取材しました。(記事=大宮将之)

作新学院大学の渡邊弘学長(手前右から3人目)が、兵庫10総県の教育本部の代表と語らう(9日、兵庫池田文化会館で)
作新学院大学の渡邊弘学長(手前右から3人目)が、兵庫10総県の教育本部の代表と語らう(9日、兵庫池田文化会館で)
■学ばせてほしい

 JR新神戸駅から兵庫池田文化会館へ向かう車中、渡邊学長は窓越しに街並みを望んでいました。「見事に復興されましたね……」
  
 1995年の阪神・淡路大震災から間もない頃、学長は被災地を訪れたことがあるそうです。
  
 当時は宇都宮大学の助教授。震災の前年に、恩師の村井実・慶應義塾大学名誉教授(1922~2024)を通じて初代会長・牧口常三郎先生のことを知り、創価教育の思想と歴史を本格的に研究し始めていた頃でもありました。
  
 以来30年。学長は創価学会の平和・文化・教育運動を見つめ続け、「人間教育実践報告大会」(教育本部主催)で講評を幾たびも務めてきました。2021年には『創価教育と人間主義』(第三文明社)と題する書籍も発刊しています。

『創価教育と人間主義』
『創価教育と人間主義』

 会館に到着しました。8日の交流座談会の参加者は教育本部の代表19人。学長は第一声、笑顔で語りました。「今日は皆さんから、たくさん学ばせていただきたいと思います」
  
 テーマは「教育実践の上で実感する信仰の力」。最初に発言したのは、青年教育者です。
 「以前、どんな教員も、親御さんも、手が付けられないほど非行に走った中学生を、受け持ったことがありまして……」
  
 周囲の誰もが「この子はダメだ」と諦めてしまったそうです。青年教育者の彼の脳裏にも、その言葉が何度もよぎったと言います。

 しかし諦めきれません。日頃、学会活動する中で先輩から「相手の仏性を信じ続ける大切さ」を繰り返し教わっていたからです。朝晩の祈りに力を込め、生徒のもとへ家庭訪問を重ねました。反発されても、生徒の言葉の奥にある“精神の心音”を聞き取る思いで、関わり続けました。
  
 生徒は次第に心を開き、本音を語ってくれるようになります。勉強にも少しずつ取り組み、通信制高校に合格。中学校の卒業式では手紙を書いてくれました。
  
 青年教育者は語ります。「今もその生徒は折に触れ、僕の職場を訪ねてくれるんです。『先生、あの時はありがとう』って。『ありがとう』を伝えたいのは、むしろ僕のほうです」

兵庫の友が語った「教育実践」「信仰の力」に対して渡邊学長(右端)が所感を寄せる(8日、兵庫池田文化会館で)
兵庫の友が語った「教育実践」「信仰の力」に対して渡邊学長(右端)が所感を寄せる(8日、兵庫池田文化会館で)

 別の教育者も振り返ります。かつて受け持った児童は「暴れるわ、暴言を吐くわ、授業になりませんでした」。
 
 その時、教育本部の先輩の言葉に救われます。「その子が“おらんかったら……”と思ってるやろ。違う。その子がいるから、成長できるんやで!」
  
 子どもとの向き合い方、そして祈り方が変わりました。伝わるものがあったのでしょう。「今年の目標」を書く授業の際、その児童は「今年はあばれない」と書いたそうです。「彼も暴れたくないんや。その心を分かってあげられなかった。僕、泣いて謝りました。そして約束したんです。授業中、我慢できなくなったら先生に言ってくれって」
  
 以来、児童はグングンと成長していきました。その変化がクラスにもプラスの影響を広げたそうです。

■ダメな子なんか

 渡邊学長はうなずき、応えます。「『ねむの木学園』設立者・宮城まり子さんとのやりとりを、思い出しました」。同学園は日本初の肢体不自由児養護施設で、渡邊学長は2020年から理事を務めています。

 宮城さんは生涯、どんな子にも「隠れた才能」があると信じ、関わり続けた人でした。モットーは「ダメな子なんか一人もいない」――かつて学長は、こう尋ねたことがあるそうです。「宮城さんには、“嫌いな子”“苦手な子”なんていないでしょう?」
  
 すると宮城さんは、笑いながら「いますよ」。人間だから、好き嫌いや相性の合う・合わないは、もちろんある。けれども「嫌だなと思う子、自分に懐かない子にほど一生懸命、声をかけるようにしているの」と答えたと言います。

宮城まり子さん(本紙のインタビュー取材に応じてくださった2007年5月撮影)
宮城まり子さん(本紙のインタビュー取材に応じてくださった2007年5月撮影)

 子どもの可能性を引き出すには、小さな感情に引きずられず、「信じよう」とする「意志」を持つこと。その意志を支え、強めるものこそ「皆さんにとっては仏法の人間観であり、お題目を唱えることなのでしょう」と学長は語ります。
  
 大人が自分を信じてくれているか――子どもはその“本気度”を鋭敏に感じ取ります。教師が授業の仕方や接し方をどれだけ工夫したとしても、心が伴っていなければ、子どもは簡単に見破ります。
  
 「牧口先生も、『創価教育学体系梗概』で“教師が子どもから信じられていないこと”が問題ではなく、むしろ“教師が子どもを信じていないこと”が問題だと指摘されていましたね」(渡邊学長)

■大人が変われば

 翌9日に行われた座談会には、兵庫10総県の教育本部の代表が集いました。職種別のグループに分かれて語らいます。

渡邊弘学長(中央)も、各グループの座談の輪の中へ(9日)
渡邊弘学長(中央)も、各グループの座談の輪の中へ(9日)

 保育士のメンバーは約20年前、「もう限界」と思うほど、対応に困る園児を受け持ちました。学会の先輩はその悩みを受け止めた上で、励ましてくれたそうです。「子どもが赤いチューリップを見て『黄色だ!』と言った時に、あなたが笑顔で『そうだね。黄色だね』と言える境涯になれたら、その子も必ず変わるよ」
  
 その通りでした。大人のものさしで子どもを評価せずに、まず「ありのまま受け容れる」ことから出発する。そうして初めて、適切な手立ても生まれることを実感したのです。大学生になったその子は今、教育学部で学んでいます。

■「この子のおかげ」と祈れる自分に

 悩んだ末に子どもと心がつながり、共に成長する教育本部のドラマには共通点があります。それは「子どもへのまなざし」が転換すること。特に“問題がある”とされる子であったり、自分が苦手とする子であったり。また、子どもだけでなく、保護者や同僚へのまなざしの変化もあります。
  
 それを教育本部の友は、「『排』から『拝』へ」と呼んでいます。「この子・この人さえいなければ」と相手を「排除」するのではなく、「この子・この人のおかげで」と「礼拝」するように尊敬し、感謝できる自分になるのです。
  
 大人が変われば子どもも変わる。職場の同僚の紹介で信心を始めたという、あるメンバーは「そんな考え方があるなんて、学会に入会するまでは思いもよりませんでした」。

9日に行われた兵庫10総県の代表との座談会では、「保育・幼児教育」「小学校」「中学校」「高校」「特別支援」「社会教育」の職種別に懇談。各グループから一人ずつ、語らいの概要を報告した。教育現場の“あるある話”に笑いあり、苦闘を乗り越えて子どもと心がつながったドラマに涙あり
9日に行われた兵庫10総県の代表との座談会では、「保育・幼児教育」「小学校」「中学校」「高校」「特別支援」「社会教育」の職種別に懇談。各グループから一人ずつ、語らいの概要を報告した。教育現場の“あるある話”に笑いあり、苦闘を乗り越えて子どもと心がつながったドラマに涙あり
■不軽菩薩のように

 そうした転換を促す哲学を、教育本部の友は、法華経に登場する「不軽菩薩」に見いだしています。どんな人にも成仏の可能性があることを説き、一人一人の内にある「仏性」に向かって礼拝を続けた菩薩です。
  
 それに対して人々は悪口を言い、杖でたたくなどの仕打ちで報います。それでも不軽菩薩は屈しません。万人を敬い続けた結果、自らも成仏するのです。

礼拝する「不軽菩薩」。人々は杖や木で打ち、石や瓦を投げつけた(小説『新・人間革命』第26巻「法旗」の章の挿絵から。内田健一郎画)
礼拝する「不軽菩薩」。人々は杖や木で打ち、石や瓦を投げつけた(小説『新・人間革命』第26巻「法旗」の章の挿絵から。内田健一郎画)

 「もちろん、自分も凡夫やから、子どもからひどいことをされたり、保護者から不条理なことを言われ続けたりしたら、『ほんまに仏性、あるんかな?』と信じられなくなることもあります」。そう赤裸々に話してくれた友もいました。
  
 ある学校の職員室では、「あの子がいるから、クラスもうまくいかないんだ」「あの親御さんとの関わりさえなければ」といった会話が聞こえてくることもあり、「自分も暗い方向に流されそうになる」と悩むメンバーもいます。
  
 けれども池田先生の書籍を読むたび、学会の同志に話を聞いてもらって励まし合うたび、「信じ抜こう」という意志が湧いてくるそうです。ある人は「日頃の学会活動が、勤行・唱題が、人間を信じ抜く“信心の足腰”を鍛えてくれます」と語っていました。

交流座談会の感想と感謝を述べる渡邊学長
交流座談会の感想と感謝を述べる渡邊学長
9日午前の座談会終了後、渡邊学長は関西国際文化センターで開催中の特別展示「池田大作先生 生涯と事績――不撓不屈の95年」へ
9日午前の座談会終了後、渡邊学長は関西国際文化センターで開催中の特別展示「池田大作先生 生涯と事績――不撓不屈の95年」へ
同じく鑑賞していた兵庫音楽隊の未来部員と交歓する場面も
同じく鑑賞していた兵庫音楽隊の未来部員と交歓する場面も

 9日午後。聖教文化講演会に登壇した渡邊学長は、講演のタイトルを「いま、創価学会と創価教育に期待すること」と掲げました。今月下旬に発刊予定の新著『教育の危機と現代の日本』では、牧口先生に言及した章もあると言います。
  
 「創価教育の思想と実践は、間違いなく、今日の危機的状況にあるわが国の教育をはじめ、多くの分野の『羅針盤』となり得るものと確信しています」(講演要旨をあす16日付に掲載)

聖教文化講演会で語る渡邊学長(9日、兵庫池田文化会館で)
聖教文化講演会で語る渡邊学長(9日、兵庫池田文化会館で)
今月下旬に発刊予定の渡邊学長の新著『教育の危機と現代の日本』(東洋館出版社)。第4章「思想家たちの警鐘」の中で、牧口常三郎先生の人間観・教育観・教師観に言及している
今月下旬に発刊予定の渡邊学長の新著『教育の危機と現代の日本』(東洋館出版社)。第4章「思想家たちの警鐘」の中で、牧口常三郎先生の人間観・教育観・教師観に言及している

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北秋田市で新聞配達の女性が死亡したひき逃げ事件

2025年03月18日 03時59分19秒 | 事件・事故

より刑が重い「危険運転致死罪」に切り替え男を起訴 

配信

 
秋田朝日放送

 


利根輪太郎の競輪人間学 それで満足もいいけれど

2025年03月18日 03時14分45秒 | 未来予測研究会の掲示板

FⅠ 宇都宮競輪 サンケイスポーツ杯

初日 3月17日

6レース

5-1
1,480円(8)
5-1-7
6,480円(26)

ひさしぶりに、3連単車券をゲットし、帰宅する。

実は、先日は負けて、負けた分を取り戻す。

そこで、帰ればよかったのに、続けて賭けて結局ゼロとなる。

その反省から、6レースで止めて友人の家へ行く。

取手の駅ビル1階で、焼き鳥を6本買い友人の自宅へ向かう。

そして、日本酒を飲む。

だが、帰宅してから競輪の結果を確認して、9レースはゲットできたと、悔やまれた。

2-4
21,710円(33)
2-4-3
79,260円(127)

8レースは1-4

1-4
390円(2)
1-4-3
1,130円(3)

当然、出目作戦で、1-4の上がり目の2-4は買っていた。

後の祭りであった。


Aleph(アレフ)は、日本の宗教団体 破産したオウム真理教の身代わり

2025年03月18日 02時35分16秒 | 事件・事故

Aleph(アレフ)は、日本の宗教団体。破産したオウム真理教に代わり2000年(平成12年)2月4日にアレフとして発足。その後2003年2月にアーレフに、2008年(平成20年)5月に現団体名に改称した。

前身のオウム真理教が1995年までに起こしたオウム真理教事件を理由として、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(団体規制法)に基づく観察処分を受けている。

また、日本国内では宗教法人として認証をされていない(権利能力なき社団)。

2025年現在は、「人格のない社団Aleph」へと名称を変更している。

名称について

公安調査庁による名古屋施設に対する立入検査(2022年7月)
オウム真理教事件の後、法人としてのオウム真理教は破産し、破産管財人からその名称の使用を禁止されたために、「アレフ」、後に「アーレフ」に改称し、さらに「Aleph」(日本語での発音はアレフ)に改称した[3][4][5]。

アーレフないしアレフとはヘブライ文字の第一文字 א の名称で、「一から出直して再出発するためこの名称とした」と説明されたが、後に警視庁の押収資料から麻原彰晃自身が逮捕される前に決定していたことが判明した[6]。

団体名称は「Aleph」であり、「オウム真理教」の名称は使用していない。

しかし公安調査庁は、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(団体規制法)の観察処分の対象団体を正式には「麻原彰晃こと松本智津夫を教祖・創始者とするオウム真理教の教義を広め、これを実現することを目的とし、同人が主宰し、同人及び同教義に従う者によって構成される団体」としており、これを略して「オウム真理教」と通常は記載している。

これには、アーレフないしAlephは完全に含まれ、その他の分派も含まれる可能性が高い。

2007年3月にアーレフを脱退した上祐史浩が同年5月に設立した「ひかりの輪」についても、公安調査庁は団体規制法に基づく観察処分対象としている(一方、東京地方裁判所は、麻原を批判する「ひかりの輪」については、「ひかりの輪とアレフの性格は相当に異なるものとなっている」「ひかりの輪とアレフは対立関係にあると評価することができる」と事実認定しており〈観察処分取消訴訟における2017年9月25日の判決[7]〉、元公安調査官を含む有識者が構成する外部監査委員会も「ひかりの輪」には観察処分対象とする理由がないとの見解を示している[8])。

上祐のアーレフ脱退以降は、アーレフないしAlephの活動を特に区別する場合、公安調査庁は「オウム真理教主流派」、「教団主流派(反上祐派)」といった表現をもちいている。

2010年10月には新拠点と目される東京都足立区で足立区反社会的団体の規制に関する条例(アレフ規制条例)が制定され、規制対象となっている。

また、マスコミでは現在でも「オウム真理教(アーレフ)」「オウム真理教(アレフ)」のように、「現在はアレフに改称」などと注釈をいれつつオウム真理教を前面に出して報道している[9]。前述のように団体規制法とそれによる公安調査庁の観察処分を前提として、アーレフないしAlephの活動を「オウム真理教の活動」と報道することが主流となっている。

一般論としてはマスコミが特定の団体などの固有名詞について旧名称のまま報道することはほとんどないため、極めて例外的ではある。『A』など教団に関するドキュメンタリー作品を発表しているドキュメンタリー監督の森達也は、マスコミは言葉の使い方に作為や意図があることに対して無自覚になっていることが一番危険だと指摘している[9]。

来歴
アレフ発足前後
1999年頃より、一連の事件に対して全く反省していないオウム真理教に批判が集中した。これにより、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(オウム新法)が制定されることになった。

1999年9月29日、教団は、批判に対応した措置として、対外的な宗教活動の休止と教団名の一時使用停止からなる「オウム真理教休眠宣言」を発表し、さらに同年12月1日、教団は新法逃れのために「正式見解」を発表、事件の関与を認め謝罪し、賠償を行うことになった。しかし、その直後にオウム新法は成立し、公布・施行された。

時同じくして1999年12月29日、上祐史浩は広島刑務所を出所し、教団に復帰した。上祐は「正大師」の称号を返上したとされ、2000年1月18日に教団は会見を開き、上祐の謝罪・反省の弁と村岡代表代行による教団改革の発表を行ったが、時は既に遅く、教団はオウム新法の観察処分に処されることになった。

ともあれ、発表された教団改革の内容にあわせ、2000年2月に新団体「宗教団体・アレフ」が発足され、教団の活動はアレフへと移行した。アレフの初代代表には、麻原逮捕後からオウム真理教代表代行を勤めてきた村岡達子がそのまま就任した。

2000年9月14日の公安調査庁によるアーレフ施設の立入検査にあたっては、教団と関係の深いフリージャーナリストに検査の動向を撮影させるなど、当初は立入検査における妨害行為や敵対行為もあった。

上祐史浩の代表就任
上祐は教団復帰直後の新団体「アレフ」発足においてこそ教団役員にならなかったが、「正大師」という立場を背景に実権を握った。2001年8月に「旧宗教法人問題担当」として役員に就任したのち、2002年1月30日に正式にアレフ代表に就任した。

上祐史浩は、組織防衛のために「麻原外し」路線を推進、麻原を「開祖」「尊師」ではなく、「旧団体代表」と定義し、麻原の肖像を本尊とすることを禁じた。この方針に、麻原を崇拝する多くの信者が反発することになった。

2003年2月に団体名を、「アーレフ」に改称した。

上祐「失脚」と復帰、その後の内部対立
2003年夏頃になると、上祐史浩の路線に対する不満が顕在化し、同年10月に上祐は修行に専念するとして、教団の運営は旧長老部の手に移ることになった。

2004年11月になって教団運営に復帰したが、反上祐派との対立は深まるばかりで、教団の分裂状態が加速されていった。

2006年5月には、上祐が「人を神としない、新教団を2007年2月までに作る」ことをセミナーで宣言した。2006年7月には財政面、実務面ともに教団本体からの分離分裂が行われた。

その間、麻原夫人の松本知子一家に対して「松本知子作の絵画の使用料」名目で教団が資金援助を行っていたこと、松本一家が間接的ながらも教団に影響力を与えており、そのことが上祐派の排除に繋がっていることが明らかになった。

上祐脱会までの教団内派閥
代表派(M派・上祐派・J派)
教団代表である上祐を中心とした派閥。麻原彰晃外し(教団内の信者には「隠し」であると説明する。後に「隠し」ではなく本当に外した)、旧オウム色からの脱却を図って活路を見出そうとする。事件が再発しないことを強く主張する。
主流派(反代表派・反上祐派・A派)
教団の大多数を占める。麻原への「帰依」を打ち出し、あくまでも旧オウムの教義を守ろうとするため、代表派からは「原理主義」と批判されるものの、事件の再発を防ぐ意図については、代表派と同じである。
「A派」の「A」はアーチャリー(松本麗華)のA[10][11]。
代表派(上祐派)に対する各正悟師の立場は以下の通りである。

村岡達子
もともと強硬な反上祐派であったが、四女派に転じた(教義上の違いがあっても上祐派を受け入れ、教団の分裂を避ける派)。
二ノ宮耕一
一度は上祐の復帰のために動いたが、直後に強硬な反上祐に転ずる。しかし、元々「アッサージ王国」とも呼ばれる独自派で、関西を拠点とし、関西圏を中心とした信徒教化に重きを置くため、反上祐運動を推進する立場にはならなかった。
杉浦茂
法律部門も担当するため、教団運営の個々の方針に関しては上祐の社会融和路線を是としているが、翻訳担当として教義を管轄する立場からは、上祐の唱える新教義に対して否定している。個々それぞれに思うように行動すればいい、という主張であり、特に一派をなしていない。
杉浦実
教義的に上祐の新路線は受け入れられないが、教団分裂という事態そのものに対して憂慮。一時期、自主的に修行に入り、教団の混乱に関わらないようにした。復帰後は中間派として、教団内の対立状態を緩和しようとする。教団の経理担当として、上祐派としての分離的な活動には資金を提供せず、あくまでも教団本体は正統派であるという立場を貫いており、この点から中間派は立場的には明らかに非上祐であるといえる。
野田成人
桃源クリーム事件のため拘留、執行猶予付き判決となり、この間の対立には直接関与していない。主流派であるものの、当初は上祐的な活動方針を容認していたこともあった。反上祐的な立場をそれほど明確にはしていないとされていた。また、野心の強い人物であると教団内で認識されることが多い。主流派の代表に就任した。
上祐派「脱会」とさらなる内部対立
2007年5月7日、上祐史浩は新団体「ひかりの輪」を設立し、アーレフから完全に脱会した。これに伴って公安調査庁に提出された報告書によれば「ひかりの輪」は上祐史浩を代表役員に据え、主流派(反上祐派)は上田竜也・杉内伸浩を共同幹事とした [12]。

上祐派脱会後も内部対立は続き、新代表の野田成人は主流派から完全に無視されており後に脱会、杉浦兄弟も脱会、村岡達子も実質的運営から排除され、現在では「師」レベルの主流派幹部が実権を握っている。

事件以前の教義への回帰
2007年9月30日、『JNN報道特集』においてアーレフへの長期潜入取材による特集が報道された[13]。フリージャーナリストが2006年から2007年8月にかけて潜入して撮影した映像を主体としたものであった。


そこでは、上祐派脱会後に教団内で麻原信仰が強化され、麻原彰晃を教祖・グルとして信仰し教育していく旨の教団幹部の発言や、アーレフ発足時に封印したはずのタントラ・ヴァジラヤーナやポアについて麻原が説法するビデオが教材として用いられている様が報じられた。また、ヘッドギアを使用する信者の映像も報じられた。これらの映像をもとに滝本太郎弁護士や公安調査庁の担当課長による危機感を表明するインタビューが併せて放映され、また、野田成人は教義におけるタントラ・ヴァジラヤーナの復活について、制止するだけの実権がないとして、報道を歓迎するむねコメントした。一方、野田から実権を握ると名指しされた荒木浩広報部長は取材を拒否した。

「Aleph」への改称と新体制発足
2008年5月20日、教団は名称の「Aleph」への改称、および旧役員に代えて合同会議による教団運営を主要な内容とする新体制発足を発表した[3]。合同会議は運営委員会[14]が主宰し、その共同幹事である上田竜也と松下孝寿が教団を対外的に代表するとしている。さらに、これまで新代表を名乗ってきた野田成人に対し、教団役員の地位の失効と代表地位の無効を通告した[3][5][15]。

新体制発足により、活動方針には麻原回帰の傾向がみられるとして公安当局は警戒しているという[4]。

勢力拡大と原点回帰
2011年11月17日、Alephが公安調査庁に報告した信徒数が1000人を超えたことが明らかとなった。公安は「事件を知らない若い入会者の伸びが目立つ」と指摘、警戒している。さらに、Alephは麻原彰晃の「生誕祭」を祝い、肖像を掲げるようになっている他、以前の修行法や教本も復活させるなど原点回帰も鮮明になっているという[16]。公安調査庁の違法な立入検査には非協力的で、2013年には公安調査官や滝本太郎弁護士、オウム真理教に関する書籍の著者など、敵対する者の写真を複数枚重ねて日本刀を模したナイフで串刺しにしたものを祭壇に置くなどしていた[17][18]。

スピリチュアルブームや社会不安を追い風に年200人規模で勢力を拡大し[19]、2013年7月1日公安調査庁の発表によると、ひかりの輪と合算した信徒数は2011年10月の1500人から1650人と約10%増加し、2000年の信徒数まで戻した。ただし出家信徒は、組織統制の強化に伴う組織運営に不満を持つ者などが多数脱会したことなどから、減少傾向にある。またAleph側によると、信徒数はこの間減少しているが、公安調査庁は退会者(Aleph、ひかりの輪どちらにも属していない)であっても、偽装退会と見なした人員を信徒数に計上しているとのことである[20]。

公安調査庁によれば、Alephの最近の勧誘方法は以下のようなものがある[21]。

大学構内の掲示板上にて大学非公認のサークルの案内として掲示し、さらに学生に対して声かけを行う。
インターネットのSNSなどを利用し、宗教、ヨーガ等に興味を持つ者と接触を試み、教団名を隠して接近し教団が運営するヨーガ教室に誘い出す。
信徒の親族に対し、入会するよう執拗に説得を試みる[21]。
その他、東日本大震災による福島第一原発事故に関連し、Alephの修行で放射線被害は乗り越えられると主張している。教団のヴァジラハーサ師によれば、Alephが実践するアーサナ(体位法)やウインド・トレーニング(独自の気功法)、ムドラー(霊的覚醒の技法)など修行によって、身体のヴィヤーナ気(オーラ)を強めることで肉体が放射線から守られる可能性は高まる、あるいは、被爆後2-3週間以内に出る症状である免疫力の低下や貧血、出血に対しては、骨髄機能を活性化させるための修行であるクンダリニー・ヨーガが一定の効果があると主張している[22]。

金沢支部の分派化
ひかりの輪によると、Aleph内では、麻原彰晃の次男を復帰させる動きを見せる麻原の妻松本明香里(松本知子)・二ノ宮耕一ら主流派と反対派が対立。この内紛の中、2014年頃から山田美沙子率いる金沢支部は独立行動をとるようになり、事実上分派化した。この分派は「山田らの集団」と呼ばれる(公安調査庁の定めた便宜上の呼称であり、正式な団体名は不明)[23][24][25]。

アレフによる違法行為の可能性
また、ひかりの輪は、アレフには①著作権侵害の問題と②「賠償逃れ」のための強制執行妨害罪の疑いがあり、これら二つの刑事訴追がなされる可能性があると指摘している[26]。

すなわち、もともとオウム真理教が所有していた著作物(麻原の説法等の「法人著作」)の著作権は、オウム真理教が破産した後、オウム真理教破産管財人(阿部三郎弁護士)を経て、オウム事件の被害者団体であるオウム真理教犯罪被害者支援機構に譲渡されていたが、アレフは、同機構に無断でそれらの著作物を複製・頒布・販売したため、2012年に同機構から裁判所に調停の申立てがなされている(ひかりの輪は、アレフの著作権侵害行為をやめさせることによって、オウム・アレフの教義の流布を防ぐために、同機構に協力しており、そのことは東京地方裁判所によっても認定されている)。今後著作権侵害が立証されれば、同侵害は刑事犯罪でもあるため、アレフに対する刑事訴追の可能性が生じるとひかりの輪は主張している[26]。

さらに、アレフが同機構に対して10億円以上の賠償金を支払う義務があることは、すでに2020年11月の最高裁判所の決定によって確定しているにもかかわらず、アレフは賠償金を一向に支払わず、「賠償金支払いを免れるための悪質な資産隠し」(公安調査庁幹部談)をし続けており、それが強制執行妨害罪という刑事犯罪にあたる可能性もあると、ひかりの輪は指摘している[26]。

麻原の次男が教団を裏から支配しているとの疑惑
以上のような強硬路線をとるアレフ教団を裏から支配しているのが麻原の次男であるという告発が、自称・元アレフ幹部によって、2024年10月頃からネット上で次々と公表されるようになった[27]。

前記の通り、麻原の次男をアレフ教団に復帰させようとする動きは2014年頃から始まっていたが、上記告発によれば、麻原の次男は2024年の時点で教団を裏から主導し(法律で義務付けられている公安調査庁への教団構成員としての報告をせずに主導し)、「私は二代目教祖」と述べ、自らのことを麻原を継ぐ「グル」(霊的指導者)と位置づけているといい、それを裏付ける次男の声とされる音声データもネット上で公表されている[28][29]。

そして、麻原の次男は、アレフ教団に義務付けられている教団資産の公安調査庁への報告をしないよう教団に圧を加えることによって、アレフ教団に対する再発防止処分(寄付の受領や一部施設の使用を禁止する処分)を招く原因を作ったと告発されている[30]。

この告発について、ひかりの輪は、「これまでの麻原家族の教団の裏支配の経緯を踏まえるならば現実味があり、この告発通りであれば、アレフがオウム事件被害者への賠償金の支払いを拒否している原因として、次男の関与が強く推測されることになります。公安調査庁への報告をしなくなったのは、教団資産の報告を回避することによって、賠償金が強制的に回収される事態を防ぐ意図があるからだと考えられているからです(公安調査庁は「賠償逃れのための資産隠し」だと指摘しています)。なお、アレフの違法行為は、被害者賠償の拒否、資産隠し、強制回収の妨害だけでなく、正体を隠して陰謀論を説く詐欺的な布教活動などもありますが、これらにも、信者に対する絶対的権力を有する次男の関与があることが強く推認されることになります」と、同団体のホームページで詳細な見解を述べている[31]。

このような動きは一部メディアでも報道される等して注目が集まっているが[32]、なぜ公安調査庁がこの状況を長年にわたって放置し、麻原の次男への立入検査等の調査を行わないのかとても疑問であると、上記の告発者は述べている[30]。

 


地下鉄サリン事件30年を前に遺族ら会見

2025年03月18日 02時27分53秒 | 事件・事故

3/18(火) 0:59配信

地下鉄サリン事件から30年になるのを前に、被害対策弁護団が会見を行い、「オウム真理教の後継団体は被害者救済に向き合っていない」として被害者への早期の賠償を訴えました。

テレビ朝日


倉本聰「見事な女優さんでした」 いしだあゆみさんを追悼

2025年03月18日 02時08分36秒 | その気になる言葉

『北の国から』撮影現場で見た役者魂

配信

倉本聰さん

■「他の役者たちにショックを与えて・・・」役者魂を明かす


遠野なぎこ、「飲み過ぎて...」転倒→骨折報告 「今年だけで、既に4本目」「本気で生活を改めます」

2025年03月18日 02時00分11秒 | 社会・文化・政治・経済

エンタメ班

俳優でタレントの遠野なぎこさんが2024年9月26日、「肋骨」骨折の診断を受けたとインスタグラムで報告した。「7月にも3本 今年だけで、既に4本目」だという。
  • 遠野なぎこさんのインスタグラム(@you_ren_nagiko)より
  • 遠野なぎこさんのインスタグラム(@you_ren_nagiko)より
  • 遠野なぎこさんのインスタグラム(@you_ren_nagiko)より
  • 遠野なぎこさんのインスタグラム(@you_ren_nagiko)より
遠野なぎこさんのインスタグラム(@you_ren_nagiko)よ
    「そりゃあ、痛い訳だ 何かゴリゴリいってたもん」

   遠野さんは、自身の体について19日の投稿で「再びのコルセット生活」と切り出し、

「昨夜、バラダン生放送を終えて。仲良しの友人宅に。またしても楽し過ぎて、飲み過ぎて...帰り際に転倒。今回は、右側の肋骨がめちゃくちゃ痛い」

と異変を告白していた。続けて「明日、整形外科に行かなきゃだ 折れてなきゃいいなぁー。とりあえずは、コルセット着けて痛み止め飲んでる」とも。

   26日の投稿では、整形外科を受診した結果を「再びの骨折...」「...やはり折れていました。...今回は右側の肋骨ね」と報告。また、下記のように説明している。

「ヒビだけど、それは骨がズレていないというだけで厳密に言うと"骨折"という診断になるそうです。そりゃあ、痛い訳だ 何かゴリゴリいってたもん。7月にも3本 今年だけで、既に4本目。何やってんだよ、本当に」

   終わりには「もう、本気で生活を改めます」と、泣き笑いと汗の絵文字を添えて伝えた。

 

生配信中の襲撃被害者の「婚約者」名乗るXユーザーアカウント開設

2025年03月18日 01時44分28秒 | 事件・事故

容疑者との経緯公開もネット困惑

配信

配信者と視聴者の距離感が問題になった(写真はイメージ)

「彼女が誠実な人間でしたと主張したい訳ではありません」


「オウム村井刺殺に動いたヤクザ」「地下鉄サリンを防げなかった悔恨」

2025年03月18日 01時38分08秒 | 事件・事故

事件発生から30年目の2つの証言

配信

元日に読売がスクープ
 

オウムとサリンがつながった


立花孝志襲撃事件で“棒立ち”警備の警察官は「もう早く帰りたい」

2025年03月18日 01時29分13秒 | その気になる言葉

元警官が指摘した“本音と背景”

配信

NHK党・立花孝志氏

何もせず棒立ちしている警察官

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ナゼ今、広がる? “財務省解体デモ”

2025年03月18日 01時12分06秒 | 社会・文化・政治・経済

分析で見えたコトとは…

配信 日テレNEWS NNN