第九に込めた狙い

2017年07月16日 10時39分01秒 | 社会・文化・政治・経済
毎日新聞「金言」
独ハンブルクでの主要20か国・地域(G20)首脳会議。
2017年7月7日の討議を終えた後、夜の社交に議長国メルケン独首相は首脳夫妻らにベートーベンの「交響曲第9場番(第九)」を聞いてもらう演出を用意していた。
メルケン首相があえてこの曲が内包するメッセージと無縁ではないだろう。
おそらく聞かせたい首脳らがいたのだろう。
「第九」の第4楽章の前奏部分は1972年に「欧州の歌」とすることが決まり、今ではEUの事実上の<国歌>として、EUの式典でよく演奏される。
聞かせたかった相手は、英国のメイ首相。
聞かせたいもう一人はEUを軽んじるトランプ米大統領。
第4楽章「歓喜の歌」の歌詞は、ベートーベンが尊敬するシラーの詩に一部手を加え、これに曲をつけた。
ベートーベンとシラーはフランス大革命(1789年)の人権と自由の理念に共鳴し、数多く作曲、作詩した。
「人は皆兄弟」という第4楽章に流れる人権と自由の理念を思えが、聞いてもらいたい権威主義的国の首脳G20に少なくない。
西川恵客員編集委員

理想と現実の狭間。
ある意味で国際社会は、まだまだ未成熟なのだ。
最終的には、人間の生命次元の問題に帰着する。
生命尊厳、人権、自由は100年後、200年後に実現するかどうか?
実に道程は遠く想われるのだ。
人間の生命の変革を期待するほかない。
沼田利根

人類は劣化している

2017年07月16日 10時35分10秒 | 社会・文化・政治・経済
それは生命次元の問題である。
<共感力能力>
人類賀社会を生み出す背景には「共同保育」の必要性あり、「家族」の成立と同時、家族同士がつながる「共同体」をつくって両立させるという二重構造を生み出していった。

こういった社会は類人猿ならではのものであり、両立を可能にしたのは、共同保育から育まれた<共感力能力>を非情に高めていったことである。
忘れてはいけないのは、人間の赤ちゃんといのは、いまだに共同保育をさせるようのに生まれてくるということ。
人間の目には他の類人猿にはない「自目:があります。
それによって、相手と対面して目のわずかな動きを見るだけで、どんな感情を示しているかをモニターできる能力を持ったわけです。
わたしたちは相手の目を見ることで気持ちを伝え合い、その人の人格や人となりというこのを判断し、そこに信頼関係が生まれる。
信頼をつくるには、顔を合せるという身体的なつながりが必要になってきます。
そこで重要なのが、食事といものが古来、人と人をつなぐ接着剤になってきたことです。
人間ほど時間をかけて対面しながら食事をする動物nはいない。
しかし、食事のもつ重要な役割にあまりに無自覚であって、いま家族が崩壊している直接的な原因の一つには、一緒に食事をしなくなったことがあると思います。
家族と共同体の中のつながりを再生するのは、食事を共にする「共食」がとても重要だと思います。
「身体的なつながり」をもう一度、復活させていかなくては豊かなになっていけないと思います。
それには身体の同調を呼び起こすような行為、行動をする。
例えば、音楽を一緒に聞く聴くとか、スポーツをする、食事を共にするとしながら、互いに生きているんだということを確認し合い、
喜び合えるようなことを生活の中に頻繁にとりいれていくことです。
人間が言葉を使う以前に、共感能力を生み出した宗教というものも、古来、人と人を身体的につなげぐ役割を果たしてきたといえます。
若い人はもっと身体をつかわなくてはいけない。
身体を使いながら頭を使う。
考える力を身に付ける。
そのためには、もっと周りの人の生の言葉で話をしていくことが重要だと思います。
京都大学京極寿一総長



中国の民衆活動家でノーベル平和受賞者の劉暁波さん(61)が、死亡した。
「中国は法治国家であり、劉暁波は中国の法律に違反した。いかなる者も法の下には平等で処罰を受けなければいけない」
天安門事件での最初の投獄後も国内にとどまり、9年前に言論の自由を求める「08憲章」を起草して懲役刑を言い渡された。
世界の心ある人々が想起するのはナチス政権の獄中でノーベル平和賞が決まり、ほどなく病死sいた平和運動家の故事だろう。
中国政府には自らしょいこんだナチスまがいの汚名である。
米独仏などからの批判にたいして「中国の司法主権都内政に干渉」したとして「強い不満と断固とした反対を表明した」と述べた。
服役中のノーベル平和賞受賞者の死は、ナチス・ドイツ時代の平和活動家、オシエツキー(1935年)以来だった。
「国家政権転覆扇動罪」に問われ、懲役11年の判決を受けた劉暁波さん。
中国の人権状況、厳しくなっているそうだ。
社会主義国である中国政府が、体制批判を許さないのは必然。
国はそのようなものなのだ。
人間が変わらなければ、国は変わらないのである。
今後は?
あくまで中国国民の問題に帰着することだ。