約70㎝四方のの小さな出入り口は、武士に帯刀を許さず、
茶室内では身分の差なく誰もが平等であるという状況を設定する。
戸は、二枚半の堅板と決まりがあるのは、「間に合わせの材料で作りました」という侘びの精神から。
茶室を独自の様式として完成させたのが千利休である。
利休は侘び茶の精神を突き詰め、それまでは名物を一つも持たぬ侘び茶人の間でしか行われなかった二畳、三畳の小間を採り入れ(『山上宗二記』)、採光のための唯一の開口部であった縁の引き違い障子を排して壁とし、そこに下地窓、連子窓や躙口をあけた二畳の茶室を造った。
壁も張付などを施さない土壁、それも仕上げ塗りをしない荒壁で時には藁苆を見せることさえ厭わなかった。
室面積の狭小化に合わせて天井高も頭がつかえるほど低くしそのデザインも高低に変化を持たせ、材も杉板、網代、化粧屋根裏にするなど工夫をこらした[11]。
茶室待庵(国宝)は千利休の作とも言われるが、侘び茶の境地をよく示している。
躙口は、千利休が河内枚方の淀川河畔で漁夫が船小屋に入る様子を見てヒントを得たという伝説がある。
しかし、躙口の原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られ、
また商家の大戸に明けられた潜りや能舞台における切戸(囃方の入口)など同類の試みは多種見られることから、利休の発明とは言えない。
むしろ利休の功としては、躙口、土壁、下地窓、建材としての竹など、それまで僧俗の建築物の間に行われていたさまざまの要素を躊躇なく採りいれた点にある。
利休は一方で、秀吉の依頼で黄金の茶室を造っている。
これは解体して持ち運びできるように造られていた。
黄金の茶室は秀吉の俗悪趣味として批判されることが多いが、草庵の法に従って三畳の小間であり、それなり洗練されたものも持っている。
黄金の茶室も利休の茶の一面を示しているという見方もある。