カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

友田不二男研究(6)

2009年11月22日 | 主要な論文
9.ロジャーズとの決別

 大甕ワークショップの参加者たちが設立した“東京カウンセリング・センター”の会長に就任した友田だったが、3年ほど経つとこの団体の運営にすっかり行き詰った。カウンセリングに身を投じてからここまでの友田の歩みは、いずれかと言えば“トントン拍子”に進んでいったが、“団体の運営”という新たな局面を迎えたとき、それは友田に大きな困難をもたらしたのだった。以下は友田の記述である。

 私は、今ひとつの大きな困難に直面することとなった。それは、“東京カウンセリング・センター”における経験であった。私は、私なりに理解しているロジャーズに忠実である限り、“臨床的な成功”――といういい方で一応いっておく――には確信があった。少なくとも“失敗”という言葉で意識化される経験を見いだすことが、ほとんど不可能といっても過言ではなかった。また、“カウンセリング研究討論会”に関しても、詳細にいえばいろいろと問題はあるが、全体的には“失敗”を意識することは一度もなく、“成果”もしくは“成功”を、はっきりと認識させられるのがつねであった。にもかかわらず、ひとたび“東京カウンセリング・センター”の実態・運営・発展という問題になると、私は、何の希望をも見いだせなかったし、また、打開する方策も何ひとつたたなかった。私は、時間的にも労力的にも、また経済的にも、いたずらに困難の度を加え、苦闘に耐えるだけが精一杯となっていったのであった。(※22)

 こうした状況に陥っていった友田は、これをどうにかして打開しようと“米国に留学すること”を画策し始めた。すると、ほどなくして運よくツテが見つかった。科学技術庁に勤務していた人物と偶然出会ったことがきっかけで、科学技術庁からの要請と援助を受けて、当時ロジャーズの本拠地だった“シカゴ大学カウンセリング・センター”に派遣されることになったのである。
 ところが、渡米する直前になってロジャーズから「渡米待て!」という便りがきた。「私はウィスコンシン大学へ行くことになった。あなたが来る頃、私はシカゴにいない。ウィスコンシンに移ったばかりで計画も立たないし、来てもらっても何にも役に立たないだろう。延期してくれ」ということだった。
 友田は弱ったが、すでに計画を変更できるような状況ではなかったし、そもそもの渡米する動機が「グループというものに対して、どのようにアプローチすれば運営・発展してゆけるのか?」という問題意識から生じていたので、「ロジャーズがいなくなったあと、それがどうなっているかを見てくることにも意義があるだろう」と思い、渡米することを決めた。期間は約半年間。貨物船で渡航したという。(※23)
 ロジャーズが移動した後に残されていたシカゴ大学カウンセリング・センターは、一言で表現するなら「滅茶苦茶だった」らしい。友田の記述によると、

 ロジャーズが去った後のシカゴ大学カウンセリング・センター――これはロジャーズが設立したものである――は、私にいわせれば“火が消えた”姿であった。跡をとったバトラーにいわせれば“経済的にまったく無力”になってしまった。ロジャーズは、資金を“すっかり”持ち去ってしまったのである。アメリカでは、有能な教授はいろいろの財団と結びついて研究資金を獲得しているが、したがって、ロジャーズが獲得した資金をロジャーズが持ち去ることは、アメリカ人の通念としては異とするに足らないのであろうが、もしも私がロジャーズであったならばこのようなことはしないな、というのが私の偽りのない感情であった。マジソン郊外の、湖を一望のもとに見晴るかす湖畔の彼の“豪邸”に私は一泊させてもらったが、私の気持ちは晴れなかった。
 ロジャーズが去った後のシカゴ大学カウンセリング・センターのスタッフ会議は、抗争と対立の場であった。なんでもかんでもカール、カールで、カールなしには夜も日も明けない人々と、カールと聞いただけで頭にくる人々とのやりとりの詳細は、会話力の乏しい私には詳細にはわからなかったが、異様な光景はハッキリとわかった。私の世話をしてくれていたディックに問い質しても、詳しく語ってくれなかったが、しかし、“なんとも嘆かわしい”、“どうしようもない”事態であることを、彼は口にしていた。私は、東京カウンセリング・センターの望みのない状況と思い比べながら、この“現実の姿”を凝視せずにはいられなかった。しかも、この“後に残された人々のなんとお粗末なことか”と、私は思わずにはいられなかった。もっとも、何人かの俊秀は、ロジャーズが、資金とともに連れていってしまったのであるが。私は、“自由”ということと“エゴイズム”ということについて、首をかしげずにはいられなかった。
(※24)

となる。シカゴ大学カウンセリング・センターの“惨状”を目の当たりにした友田は、それらをもたらした“ロジャーズという人物”に対して、深い疑問と否定的な感情を抱いたのだった。こうしたなか、“滞米期間内の最大の楽しみ”にしていたロジャーズとの面会の日がやってきた。以下は友田の記述であるが、このときの友田のロジャーズに対する“感情状態”に着目しながら読み進めていくと、非常に興味深いと思う。

 よりよい“方法”もしくは“思考”を発見し創造すべく努力していることを、機会あるごとにロジャーズに書き送っていた私は、“何か発見し創造したものをもってきてくれたか?”というロジャーズの第一声に、“何もない”とさびしく頭をたれる以外になかった。彼は、かねて私が手紙で勧めておいた鈴木大拙博士の本を持ち出したが、私にはそのとき英語でディスカッションできるだけの力がなかった。ついで彼は、私の訳書(注:『ロージャズ 臨床心理学』創元社 1951年 のこと。『Counseling and Psychotherapy』1942年 の第1部~第3部の翻訳本)を持ち出し、私の“訳者序”を示し、“これは君が書いたものだろう”と確認してから、“どういうことを書いてあるのか?”と問うてきた。
 その瞬間であった。私の脳裏に描かれていたロジャーズの映像は、いっぺんで暗雲におおわれた。ひとつは、それを英訳して送らなかった非礼と悔恨を省みる自分の思いであり、いまひとつは、それにもかかわらず、もしも彼がそれをほんとうに知りたいならば、いくらでも知り得たはずであるし、とうの昔に私に、率直に申し越してきてもよかったはずである、という思いであった。(私は、ロジャーズのクラスに出席したことのある日本人から、“これをお読みなさい”といってロジャーズからこの訳書を貸与された、ということをすでに告げられていた)。私は、滞米期間中を通して、この“暗雲”を入念に確かめなければならない、と思った。
 錯雑した“思考”と“感情”の推移を限られた紙面のなかで略述することには、どうしてもためらいを感ぜずにはいられないが、おもな点をいくつか書きだしてみよう。
 集中講義で出向いていたウィスコンシン大学からシカゴ大学カウンセリング・センターに書面を送り、離任の了解を求めたロジャーズの理由は、私の記憶する限り、次の3ヵ条であった。すなわち、“大樹の下には木が育たない”、“自分はそうは思わないが、家内がシカゴで生活するのをいやがっている”、“最後の仕事として心理学と医学との間の溝に橋渡しをしたいが、ウィスコンシン大学から与えられたポストはこの仕事をするのにふさわしい”と。第一の理由からすれば、彼は、“自分は大樹である”という自覚をハッキリともっていたのであろう。第二の理由は、私をして推測させるならば、シカゴ大学が黒人によって完全に包囲されてしまった事実と関連しているのであろう。周囲がすっかり黒人街になってしまったシカゴ大学から、いわゆる優秀な教授が去ってゆく傾向は、当時すでに表面化していたことであった。第三の理由は、その後の彼の活動によって裏づけられている。
(※25)

 友田にとっての“ロジャーズとの面会時における経験”は、友田の脳裏に“暗雲”をもたらした。ここに引用した論文の中で友田は“この暗雲”について、それをもたらしたものがいったい何だったのか、より明確にしようと筆を進めている。そのひとつは「ウィスコンシン大学に移動した理由」にあった。話が前後するが、もうひとつはすでに上述した通り、「シカゴ大学カウンセリング・センターの惨状を目の当たりにした」という経験からきていた。そして記述はさらに進む。

 いまひとつは、ロジャーズの“フロイド批判”である。ウォーカーの論文に対するロジャーズの論文(注:『ロージャズ全集12巻 人間論』第2章に訳出されている)を発見したとき、私は、ほんとうに首をかしげずにはいられなかった。当時私は、ロジャーズあてにシカゴから、毎日のように手紙を書き送り、彼もまた、実によく返信を送ってくれていたが、それらの返信などとも合わせて、この論文に感じられるロジャーズは、当時の私にとっては明らかに“自信満々の大樹”であった。レッキィの諸論文(注:プレスコット・レッキィの諸論文は、彼の死後マーフィーによって編集され、“Self-Consistency”と題して出版された。なお、友田はこのレッキィの著作を『自己統一の心理学』岩崎書店 1955年 と題して訳出している)を読んだとき以来、私なりに感じていたところであるが、私にいわせればロジャーズは、その理論的な概念構成を少なからずレッキィから取り入れているし、そのことは、多かれ少なかれフロイドとの関連においてもいえることであるが、なぜかロジャーズは、他者との相違は明確に叙述しても、明らかに他者から取り入れていることに関しては、明示することをしないのである。彼が明示するよりどころは、つねに、彼の仲間のもののみに限られているのである。私は、彼の表現(言葉)とはまったく異質の“オヤブン”を感じないわけにはゆかなかった。
 詳細にいえばまだまだいろいろの問題があり、それについては逐一ロジャーズに書面を送りながら、直接会える日を心から期待していたが、いよいよ彼を訪れる日程が確定したときに突如、私は、“避寒のためにフロリダに行く。これは前々からの妻との約束で変更できない”という通知を彼から受け取ったのであった。それは、当時の私にとってはまさしく“晴天の霹靂”であると同時に、私が、文字通り私自身の道を歩むことを自覚的に決断する機縁であった。私が、行動のレベルにおいて自分の足で歩きはじめたのはそれからであった、といってよかろう。
(※24)

 米国留学中の体験は、友田に“決定的な変容”をもたらした。すなわち、「行動のレベルにおいて、自分の足で歩きはじめる人間へと生まれ変わった」のである。ここに、ロジャーズ(という大樹)から解放されたひとりの臨床家、友田不二男が誕生したのだった。余談になるが、その後友田は機会がある度に“海外への旅行”を敢行している。正確にはわからないが、その回数は10数回を数えるほどだ。とにかく“旅行好き(特に海外旅行)”で有名な人だったのだが、そうなっていった原点は“このときの体験”にあったのではないか? と筆者は想像している。
 その後の友田の歩みについては、巻末に掲載した「人物史年表」(p.326)を見ていただければ一目瞭然だろうが、“ロジャーズに追従していった”と言うよりもむしろ、“東洋思想に傾倒していった”のである。いや、“傾倒していった”という言い方は正確さを欠いている。正しく表現するなら、「自分という人間の原点・本来性に戻っていった」と言うべきであろうが。

 ところで、ここで友田が達成した“行動レベルの自立”という問題だが、これが人間にとって“いかに容易なことではないか”ということにも、言及しておいたほうがいいかもしれない。友田は次のように述べている。

 “自由”とか“自立”とかいう言葉は、言葉としてはまことに単純であるが、現に生きている人間が、文字通りの意味においてこれを体得し行動化することは、至難事中の至難事といっても決して過言ではあるまい。概念的・観念的なレベルでいえば、私は、ロジャーズに“傾倒”したとか“心酔”したとかいうことは一度もなく、ましてや“ロジャーズ一辺倒”と評される状態に陥ったことはかつてなかった。私が目ざしていたところは終始一貫、私なりに“この方向から人間へとアプローチする”ことであり、当初考えたことは、そのために、まず非指示的アプローチを十分に身につけたうえで、私なりのアプローチを発見し開拓する、ということであった。しかし、実際にそれを遂行し達成することは、決して容易なことどころではなかった。思いつきや試行錯誤によるいくたびかのロジャーズへの反逆は、そのたびに、臨床的な失敗によって報いられ、これまたそのたびに、またもやロジャーズへと逆もどりする以外になかった。(※22)

 この記述を読んで“ある種の驚き”を感じるのは、筆者だけだろうか? 世間的な、もしくは臨床心理学の世界やカウンセリング業界における友田不二男の評価というのは、「ロジャーズを日本に紹介した最初の人物であり、ロジャーズ流カウンセリングを日本に広めた人物であり、ロジャーズ派(ロージェリアンとも呼ばれる)の第一人者である」となるだろう。平たく言えば、「日本におけるロジャーズの最初の弟子である」となるわけだ。
 しかし友田本人からすれば、世間からのそのような見なされ方は、じつは最初――すなわち、ロジャーズの著作と出合った時点――から“誤解”だったのである(少なくとも概念的・観念的なレベルでは)。なるほど、筆者は本稿の「学生時代」の箇所で、友田を“誤解される名人だった”と評したが、これほどまでの大きな“誤解”を世間の人々に与えていたとは思いもよらなかった。もはや“名人”という称号では足りないような気もしてくる。
 この“誤解される”という特質についてだが、これはいったいどこから来るのだろうか? あるいはどうしてそうなってしまうのか? という問題はきわめてやっかいな難問だ。正直なところ、「よくわからない」としか筆者には言えない。が、“友田という人”をふと感じたところでそれを言葉にすれば、「エゴイストではなかった」というパーソナリティーは少なくとも感じられるし、ひょっとすると「そのこととなんらかの関係があるかもしれない」という感触なら持つことができる。

 さて、ここに引用した論文(注:『ロージャズ全集18巻 わが国のクライエント中心療法の研究』岩崎学術出版社 1968年 内、第5部第17章 ロジャーズと私)の最後で、友田は“ロジャーズと私との異同”を論じている。この記述は、ロジャーズとは異なる“友田という人”を知るうえで、まことに興味深い素材になり得ると思う。

 通俗的・世間的なレベルでいえば、ロジャーズは、“世渡り”のじょうずな男であるといってよかろう。その点、私は、ロジャーズ的というよりははるかにフロイド的である。臨床家としての私は、現実の生活場面における私ときわめて質を異にする、といってよかろう。しかし、物欲とか社会的な名誉欲とか、あるいはいわゆる“尚賢思想”という観点からいえば、臨床家としての私と現実の生活場面における私との間に、私は、差異を見いだすことができない。今の私にいわせれば、このような観点からの見方に関する限り、ロジャーズのなかに大きな不一致を感じないわけにはゆかないのである。臨床家としての彼は、逐語記録や録音に関する限り、貧富の別なく、社会的な地位・職業の別なく、クライエントと応接している。しかし、現実的・社会的な生活場面においては、人間の“別”をきわめてハッキリさせているようである。この違いは、おそらく、社会的・文化的な風土の差と無関係ではあるまいと思うが、しかし、このような差が“現にある”ことそのことには、ロジャーズも私も、なんら個人的な差異がない、と私はいいたい。それは、人間に“克服”できる不一致ではなく、ただ、“超える”ことができるかどうかである、と今の私は思っている。(※26)

 このようなロジャーズに対する人物評について、客観的立場からすれば“異論がある”という読者も少なくないかもしれない。がしかし、ここに描かれているのは“友田の目に映ったところ”のロジャーズであり、“友田にとっての経験的事実”である。それを否定し反駁することなど、いったい誰にできようか?
 そしてこの論文の最後は、次のような言葉で締めくくられている。

 臨床家として、ロジャーズも私も“関係”に焦点を置く。しかし、ロジャーズが認知し思考している“関係”と私のそれとは、明らかに異なっている。その具体的な相違については、本全集の第9巻“カウンセリングの技術”(注:『ロージャズ全集9巻 カウンセリングの技術』岩崎学術出版社 1967年 を指す)にかなり詳細かつ明確にしたためておいたが、端的にいえば、ロジャーズの場合は“関係のある関係”であるのに対して、私の場合は“関係のない関係”である、といってよかろう。ロジャーズにおける関係は、まさしく“カウンセラーとクライエントとの関係”であり、私の関係は、カウンセラーとクライエントとの間になんらの関係もない、もしくはなくなっている状況、を意味するのである。人間は、どのような意味にもせよ、他者との関係において、“自分というもの”になりきれるものではない、というのが今の私の確信なのである。他者との関係は、しょせん、“自分というもの”を発見し確かめてゆくのに役立つ以外の何ものでもなく、その“発見”され“確かめ”られた“自分というもの”になるのは、決して“他者との関係”においてではない、と今の私はいいたいのである。
 ロジャーズのもとにロジャーズを超える人材がでないという一般的評判は、ロジャーズを超えて究明されるべき“人間の課題”であろう。
(※27)

 『ロジャーズと私』と題されたこの論文は、「ロジャーズへの“決別宣言”である」と読むことができよう。友田の考えによれば、「他者(すなわちロジャーズ)との関係を断ち切ったとき、あるいは他者(すなわちロジャーズ)との関係が一切なくなったとき、はじめて“自分というもの(すなわち友田不二男自身)”になれる」というわけだ。
 “友田とロジャーズとの違い”について、友田は登山に例えて次のようにも話していた。「私とロジャーズとは、ベースキャンプまではまったく同じルートを歩むが、最終的に頂上を目指すところでの道のり、すなわちアタックのルートが異なる」と。
 ここで言う「アタックのルートが異なる」とは、先に挙げた“関係論の違い”――ロジャーズの場合は“関係のある関係”であるのに対し、友田の場合は“関係のない関係”である――を指すのは言うまでもない。なお、ここで取り上げた“関係論の違い”をさらに詳細に知りたい読者は、文中に記されている『ロージャズ全集9巻 カウンセリングの技術』(岩崎学術出版社 1967年)を熟読吟味したうえで、機関誌『カウンセリング研究VOL.13』(日本カウンセリング・センター 1994年)内に掲載されている論文、『“真空”における人格変化 ―友田不二男氏が捉えたクライエント・センタードの本質―』(諸富祥彦著)を併読されることをお薦めする。

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