カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

友田不二男研究(4)

2009年11月22日 | 主要な論文
6.カウンセリングとの出会い

 上述したような成り行きで、「辞職することを決意した」ちょうどその頃、友田の人生における一大転機をもたらした“カウンセリングとの出会い”があった。じつにタイミングよく、“幸運の女神”が訪れて来たのだった。
 少し脱線するが、筆者はここのところで『十牛図』の第一図“尋牛”を連想する。「求め求めて人事の限りを尽くしたところで最後には行き倒れると、その倒れた眼前に牛の足跡を発見する(第二図“見跡”に至る)」というのが禅の有名な書物にあるのだが、ここに至るまでのプロセスをそのように見ることもできそうだ。
 さて、では“どんなふうにして”カウンセリングと出会ったのか、友田自身の記述を紹介しよう。

 私ども東京文理科大学心理学教室の関係者は、シカゴ大学で心理学を専攻して茨城キリスト教大学にきたローガン・フォックス氏を呼び、私どもにはぜんぜんわからない戦時中から戦後にかけてのアメリカの心理学会の状況を聞くことになった。心理学に絶望していた私は、もちろん熱心な聞き手ではなかったが、ローガンさんの話が“カウンセリング”に及び、しかもそれが日本で“児童相談”とか“教育相談”とか、あるいは“職業相談”とかいう言葉で呼ばれている仕事であることがわかるにつれて、私は、一言半句聞きもらさないぞという“構え”になっていた。その“構え”は、真実へとアプローチするというよりははるかに、話の盲点もしくは弱点をえぐり、ちょっとのスキがあれば切り込んでやろう、という性質の“構え”であった。
 ローガンさんの話が終わってからの、彼と私とのディスカッションは、公式の席を閉じた後の懇親会の席上までつづいた。それに終止符を打った、というよりはむしろ、一時的な休戦を宣したのは、ローガンさんの次のような意味の言葉であった。“あなた(つまり私)が言われることはまったくもっともであり、アメリカでもさんざん議論されていることである。そして今、アメリカには、それを発展させた新しい立場が生まれている。今日はその本を持ってこなかったが、家に帰ればある。あなただったらきっと、その本に書いてあることがわかるだろうから、貸してあげよう。この先のディスカッションは、その本を読んでからにしよう”と。
 さっそく私は、その本を借りに大甕を訪れた。というと、いかにも熱心であったように聞こえるであろうが、当時の私には、“本を借りにゆく”という大義名分のもとに堂々と勤務を休めるという意識しかなかったのである。しかし、その後“カウンセリング”の経験を通してわかってきたところから解釈すると、そのときの私は、多くのクライエントたちと同じように、自分ではぜんぜん意識せずに、また、意識されている理由づけとはぜんぜん別に、ローガンさんに会うことそのことが真の目的であったのかもしれないのである。
 今とは異なり、戦後のよごれきった、疲れきった、薄暗い列車の一隅に身をゆだねた私は、帰路のつれづれを、借りてきたばかりのロジャーズの著書(『Counseling and Psychotherapy』1942年)でまぎらわしはじめた。しかし、つれづれをまぎらわすどころではなく、夢中になって読みふけるまでに、そう長い時間を必要とはしなかった。私の脳裏には、次のような意識が間断なく去来していたことを、私は今でもはっきりと記憶している。
 (1)この本は、今までの心理学書とはぜんぜん違うぞ。
 (2)この本には、ほんとうのことが書いてあるぞ。
 (3)この本には、生きている人間が生きているままに写しだされているぞ。
 もっともらしい説明や解釈ばかり――と、当時の私は思っていた――の心理学書。“科学”を誇称しながら、その実、科学的な根拠のまったく浅い――と、当時の私は思っていた――心理学。そのような心理学書とはまったく趣を異にし、真っ正面からそのような心理学に挑戦しているこの本を、私は、その後1週間、文字通り夢中になって読みふけり、読み終わったときには、“心理学から足を洗うのはもう、自分にはいつでもできるのだ”、“足を洗う前に、とにかく一応これを確かめてみよう”、“確かにこれは、確かめてみるだけの価値がある”という思いに、私はつつまれていたのであった。
(※7)

 といった成り行きでカウンセリング(ロジャーズ)と出会った友田は、大学に残って試験的にカウンセリングを実践しはじめた。

 当時、原書を購入することはほとんど不可能であったが、幸いにもツテがあってこの原書を入手し、この本1冊を頼りに、クライエントたちとの接触をはじめた。その経験は、それまでの相談場面の実際とは、まったく異質といっても過言ではない経験であった。私は、2年間の試行期間を経て、この方向からの人間へのアプローチに、“とにかく10年間、自分を賭けよう”と決心したのであった。もちろん、その決心について私は、何人かの恩師・先輩を訪れた。しかし、私の言語化された経験を信用してくれた人はひとりもなかったし、いうまでもなく善意と好意によってではあるが、まっこうから私に反対し、私の決心をひるがえさせようとした人もあった。しかし、そのような周囲の動きや考え方や批判は、私の決心にとってなんの力も意味ももち得なかったのであった。(※13)

 周囲の反対を押し切って、友田は“カウンセリングに己を賭ける”決心をした。ここに日本人初のロジャーズ派の臨床家(カウンセラー)が誕生したのである。

<考察1>
 ローガン・フォックス氏と出会い、同氏を介してロジャーズと出会ったという事実は、「きわめて幸運だった」と言うより他ない。がしかし、「友田というのは幸運に恵まれた男だったのだ」という一言で、片付けてしまってよいのであろうか? その「幸運とは何か?」という問題にはいっさい触れずに。
 幸運とは何か?――これは言うまでもなく、現代科学のレベルでは未だ解明されるに至ってない問題のひとつである。友田自身は「友田不二男と名乗るこの男は、私に自己評価させれば実に実に運のよい男であります。よほど“よい星の下”に生まれついているのでしょう」(※14)と語ったうえで、“幸運というもの”について次のように論じている。

 このような場合、人間は、今日なお、「幸運」という以外の言葉を使いようがない。しかし、「幸運」とはいったい何なのか? 人間が、現に、その「幸運」にめぐり合うことそのことを現実化するところに、なんらの必然性もないのであろうか?――というような問題は、貧困な頭脳で、いくら思いめぐらしても、しょせんどうなることでもあるまいが、しかしとにかく、発見・発明・飛躍といったようなことには、何かしら人間そのものをも包含した巨大な大自然の法則が潜んでいることを、私はどうしても、感じないわけにはゆかないのである。さらに言えば、何かしら「幸運」は、随所随所にゴロゴロしているのだが、その「幸運」をして「幸運」たらしめることそのことのできる、「人間の態度・姿勢・構え・積み重ね・関心など」が、ありそうな気がして仕方がない。(※15)

と。上述の“幸運論”とも結びつく具体例として、“ロジャーズとの出会いに至るプロセス”のなかで、欠くことのできなかったもうひとつの出来事を紹介しよう。
 フォックス氏と出会う数ヵ月前、“教育相談にすっかり行き詰ってしまった頃”のエピソードだが、“天の声を聞く”という神秘的な体験を得ているのである。当時の友田は、自分が抱いている疑問に何の解答も与えてくれない“心理学”にすっかり失望し、“教育相談”という仕事にしてもまったく成果が上がらず、鬱々とした日々を過ごしていた。本人の証言によると、

 とにかく、“俺の一生はもう、これで先が見えちゃったなァ!”、“この先生きていてももう、どうせろくなこともできっこないし……”とか、“こういう大事な問題があるのに誰一人取り組もうとする人もいないし……”というような考えに包まれて、無力・無価値な己を自棄的に軽視して、ただもう鬱々としていた時のことでした。そうしたある日、それこそもう考えるのも嫌になって、動くのも嫌になってしまって、縁側に干してある布団の上にひっくり返って夢現の境をさ迷っていたと申しますか、文字通りに“夢現の状態”にあった時に、“天の声を聞いてしまった”んです。――仮に“天の声”と言っておきますけど、“馬鹿だなァ、お前は。それはお前がやることなんだよ!”と。
 記憶されているところで言えば、“馬鹿だなァ、お前は。”という声を聞いた時点で、ハッキリ意識は戻って、次の瞬間に“それはお前がやることなんだよ!”を、それこそハッキリと聞いて上半身を起こし、“誰だ?”と、振り向いたのですが左右を見ても誰もいないので、“あれっ?”と思ったトタンに“天の声”という言葉が意識を横切ったわけです。
(※16)

 この体験によって己の依存的だった態度・姿勢を悟り、『もしも疑問を持ったら、その疑問に取り組むのは(専門家ではなく)自分自身がやることだったのだ!』(※17)と、180度態度・姿勢を転換し、直ちに『先達がどのような考え方で相談業務を行なっていたのかを克明にするため、図書室で文献を調べる』という行為をとった。その結果、『このような見解・方向からの相談業務に対する完全な失望』という結論にたどり着き、その結論を携えてフォックス氏と激論を交わした。そうして同氏からロジャーズの著作を借りることができた――というプロセスをたどっているのである。

 “カウンセリングとの出会い”に至るまでの長いプロセス全体を通して見ると、友田という人の場合、それはただ単に“幸運だった”と言うよりも、はるかに“宿命だった”と表現したほうが近いのではないか? という気がしてくる。しかしこの“宿命というもの”もまた、“幸運というもの”同様に、きわめて厄介な不明確な問題であることには相違ない。友田はこのあたりの問題について、次のように書き記している。

 「人間」というものは、各人それぞれに、「持って生まれた本質」と言いますか、「生まれながらの本質」と言いますか、こうした言い方で表現できるような、「ある種の宿命」があるようです。この「宿命的な本質もしくは本領」とも言うべき「何か」は、世のいわゆる「性格」とか「性質」とかとは、およそレベルを異にする「何か」で、心理学などという科学では、それこそ「手も足も出ない何か」である、と私は言いたいのですが、そのような議論はともかくとして、忘れもしません、31歳の時(注:上述した“天の声を聞く”という体験時のことと思われる)、私は、「人間は、自分自身の持って生まれた本質もしくは本領に即して生きることができればできるだけ、それだけ幸福に生きることができるし、逆に、そのような本質もしくは本領から遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ不幸になる」と思い定めました。(※3)

 というこの友田の持論は、この現代という時代において、さらに探求され、明確にされ、その意味と価値とを検討し、検証していく必要があるのではないかと、筆者は切実に思っている。そして、もしも本腰を入れて“この問題”に取り組もうとするならば、“古典的な科学や心理学”の枠組み――すなわち、“決定論(デターミニズム)”を基盤とした考え方やアプローチ法――を超えて、“東洋思想”や“宗教”の領域に足を踏み入れるしか道は無いだろう、とも思う。

<考察2>
 もうひとつの論点として、“人間の飛躍・成長・発展”と“失敗や挫折の経験”との間には、何らかの相関関係がないだろうか? という問題もある。無論、これには上述した“幸運”とか“宿命”とかいう問題も絡んでくるので、単純に結論付けることは不可能だろうが。
 ここに至るまでのプロセスにおける友田を一言で表現するなら、「カウンセリングと出会うまでは、失敗と挫折の繰り返しだった」と言えよう。しかし、だからと言って、「失敗と挫折を繰り返せば、やがて成功に至るのだ」とはなるまい。なぜなら、このような言い方では、肝心である“人”が抜けているからである。
 この“人”という問題――ここでいう“人”とは、「天地自然の働きによって存在し、“何らかの宿命”もしくは“何らかの幸運・不運”を生まれながらに持ってしまっている存在」という意味での“人”だが――を包含したうえで、“人間の飛躍・成長・発展”に関する“普遍的な何か”を発見し、より明確にしていくことはできないだろうか? いや、というよりも“この問題”こそ、人間にとっての永遠の課題のひとつであり、テーマでもあるのだろう。
 現時点で確かに言えるのは、友田という人が歩んだ“飛躍・成長・発展のプロセス”は、少なくともこの問題に取り組んでいる私たちに「重大な示唆を与えている」ということである。そして、“この示唆”もしくは“人間観・宇宙観”を念頭に置きながら、友田のその後の人生プロセス(“ブライアンの真空”の問題を提起すると同時に、カウンセリングの真髄を求めて『論語』・『老荘』思想へと傾倒し、その後“蕉風俳諧”への取り組みを続けながら、最終的には『易経』へと探求の歩みを進めていった)を見てゆくと、非常に興味深いだけでなく、ひょっとすると“共感的理解”の経験まで得られるかもしれない。

 以上のことなどから、今後の私たち(とくに日本人)に残された課題は、「もしも“人間というもの”に真摯に取り組んでいこうとするならば、東洋思想的な立場や観点を踏まえたうえで、この“人間という未知なる存在”へのアプローチを展開し、よりいっそうの理解を求めて探求していくこと」にあると思う。友田が残した数々の業績は、そのような人々にとってのいわば“置き土産”であり、それらは個々人の内で熟成されていくにつれて、やがては貴重な資産になってくれるに違いないと筆者は思うのである。

7.国学院大学へ

 周囲の反対を押し切って“カウンセリングに身を投ずる”ことを決意した友田だったが、環境的条件は友田にそれを許さなかった。ちょうどその頃、いわゆる“教育改革”(六・三制の義務教育化)が始まり、友田はそれに伴う講演や下請けの仕事に追いまくられる状況下に置かれていたのだった。
 ところが幸運にも、この“教育改革”の制度変更による影響で国学院大学から招請がきた。この招請は、カウンセリングに専念したかった友田にとってはまさに“渡りに船”だった。そこで、“テープレコーダー”、“公務員並の給料”、“専用の個室”を用意することを条件に国学院大学へと移動した。当時、日本の教育界の総本山だった東京文理科大学の重要ポストをあっさりと捨てて……。余談になるが、友田の条件提示によって支給されていた“給料の額”は、当時の学長のそれより多かったという。友田はその事実を移動したあとに知ったらしいが。(※18)

 こうして、テープレコーダー(注:オープンリールの録音機。当時、テープ1本の値段が2千円だったというから、現在のお金に換算すると2万円程度だろうか? とても一般庶民が手にすることのできるシロモノではなかった)を備えた研究室において、本格的なカウンセリングによる面接が開始され、その記録が蓄積していった。と同時にロジャーズの著作の翻訳にも取りかかり、『ロージャズ 臨床心理学』(創元社 1951年)を刊行した。この本は、友田がローガン・フォックス氏から借りて読んだ『Counseling and Psychotherapy』(1942年)の第1部~第3部を訳出したものであるが、日本で最初にロジャーズの著作を出版物として世に出したのである。
 翌年には『ガイダンスのための面接法の技術』(金子書房 1952年)を刊行。これはテープレコーダーによる録音で得られた“友田が行なった実際の面接場面の記録”を掲載するという、当時としては画期的な内容だった。日本人の手による史上初の“カウンセリング本”が、このとき世に生み出されたのだった。

 その一方で、学生たちに対する授業においては、きわめてユニークな取り組みを展開した。伝統的な大学教育の基本形態である“講義形式”を放棄し、ロジャーズの言う“学生中心の教授”、もしくは“教えない教育”とも呼べるような実践を行なったのである。

 大学で一応講座も担当しておりますが、教室に行っても私はしゃべらない。“しゃべらない教師”ということで有名なのですが、教壇の上に立って黙っております。まあ、1年間を通じて実際に口を開く時間が正味30分ぐらいありましょうか。4月の新年度になると新入生が来るわけですが、教壇に黙って立っておりますと非常に学生が困るようです。“月謝払ってるんだゾー!”などと怒鳴り声が出てきたりします。私はそういう声を非常に歓迎します。嘘偽りのない本当の声だろう、という感じをひしひしと受ける。そうした叫び声に接したり、いわば罵声に接したりしながら、次第に学生たちが、“勉強は自分らがやらなくてはいけないんだ”ということを理屈でなく、なにか五感で感じはじめるようです。(※19)

 余談になるかもしれないが、この“講義を行なわない教育場面”を体験した学生たちの中から、友田の後を追うようにして“カウンセリングに取り組んでいった”人物がたくさん輩出されている。そのような意味において、友田が行なったこの取り組みは、「カウンセリング界における人材を育成した」という一面もあったことを付言しておこう。

<考察>
 国学院大学へと転職した後については、とくに取り上げたい問題や疑問はないのだが、その直前の段階、具体的に言うと、『私は、2年間の試行期間を経て、この方向からの人間へのアプローチに、“とにかく10年間、自分を賭けよう”と決心したのであった』というところはどうも気になる。というのは、ここにも“友田という人の特徴”が現われている気がするのである。
 友田という人は、一面からすると「きわめて臆病で慎重で疑り深い人だった」とも言えよう。“カウンセリングに己を賭けた”とは言っても、それは“2年間の試験的な臨床を行なった後”で決意したのである。しかもその賭け方は、“とにかく10年間、(この仕事に)自分を賭けよう”であるから、この言葉の裏には、「カウンセリングが自分のものになるまでには、最低でも10年間はかかるだろう。しかし10年経って、もしも自分や自分の仕事が世の中に必要とされなかったなら、そのときは別の道を探そう」という思い方が含まれていたのだろうと想像する。さらには自分で決意したにもかかわらず、3名の恩師に相談までしているのである。これらの行為を見たとき、“用意周到な人物像”をイメージするのは筆者だけではあるまい。
 “ロジャーズの著作と出会ったときの体験”は、とても衝撃的だったに違いない。『その後1週間、文字通り夢中になって読みふけった』と記されているのだから。のみならず、『心理学から足を洗うのは、とにかく一応これを確かめてからにしよう』と、それ以前の決心を覆したほどであるのだから。
 にもかかわらず、即座にもしくは安易に飛びつくような行為は決してしなかった。“確かめること”――すなわち“自分の経験と照合すること”――を2年間も行なったのだから、このような人物は「石橋を叩いて渡る人だ」と評したほうがいいかもしれない。友田という人は、本質的には、“自信家”というより“小心者”であり、“傲慢”というより“謙虚”であり、“大胆”というより“慎重”であると、そう言ってしまってよいだろうと思う。

 前置きが長くなったが、筆者がここで取り上げたいのは、「そのようなパーソナリティーの持ち主が、周囲の反対を押し切ってまで、当時としては海のものとも山のものともつかない“カウンセリングという未知の領域”に己を賭けて突っ込んでいった」というのは、いったいどういうことなのか? という疑問である。
 無論、このような問いに対する真相となると、結局のところは本人しか知らないだろうし、ひょっとすると本人にも“本当のところ”はわからないのかもしれない。が、少なくとも何らかの手掛かりにはなりそうな言葉だったら、残されてないわけでもない。

 だいたい2年間やってみたところ、この本に書いてあることと、実際に自分が接触した感じとが非常によく一致する、という結論になってきた。そこで私は、自分の恩師になる人を3人選んで、ひとりずつ訪問して歩きました。(中略)ところが3人が3人とも“よせ、ダメだ。そんなことをやってもダメだ。日本人にはそんなものが上手くいくわけがない”という。そこで考え込んでしまったのですが、いくら自分で考えてもダメだと思えない。実際クライエントに接触したところだと、どうしても“ダメ”という感じが湧いてこない。(※20)

 というわけで“周囲の反対を押し切った”のであるが、要するに、「自分自身の経験からすれば、どうしてもダメとは思えなかった」というのが、決意させた唯一の根拠だったのである。

 ここに見られるのは、もはや“経験至上主義”と言っても過言ではないくらいの“経験を尊重する態度・姿勢”である。これほどまでに“経験によって概念化された自己”――単なる“自己”ではない――を裏切らない人間、誠実かつ忠実な人間は、特筆に価するのではあるまいか?(注:ここでは便宜上、心理学用語の“自己”という言葉を使用したが、この言葉の意味するところは『自己の構造』(友田不二男著)等を参照してほしい)。
 一般的に「日本人はお上(権威者)に弱い」とよく言われるが、それを思うとこの“友田の決意”に対する謎は深まってゆくばかりである。友田という人に見ることのできる(これはロジャーズにも当てはまるのであるが)、この“経験至上主義”はどこから来るのか? あるいはそのような“態度・姿勢・在り方”は、どうやって身に付けたのか? いや“身に付ける”のではなく、本当は“生まれ付き”のものなのだろうか? といったような、じつに興味深い問題が浮かび上がってくる。お釈迦さんは誕生した瞬間、右手で天を指し、左手で地を指しながら「天上天下唯我独尊」と唱えた――という逸話があるが、筆者はそんなことまで連想してしまうのである。
 逆の言い方をすれば、私たち一般大衆は「権威に弱い」がゆえに、友田が言うところの“幸運”が随所にゴロゴロ転がっているにもかかわらず、それに気づかずに“素通りして”しまっている、もしくは“引き受けない”でいる――のかもしれないのである。

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