カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

友田不二男研究(3)

2009年11月22日 | 主要な論文
5.教育相談時代

 終戦後は、元の職場(埼玉師範学校)に戻ってしばらくの間教員生活を送った。終戦直後で「心理学など教える気にはとてもなれなかった」友田が、辞表を提出しに埼玉県師範学校(戦時中に専門学校に昇格し、男子師範学校と女子師範学校が統合され、それぞれ“男子部”、“女子部”と呼ばれるようになっていた)を訪れたところ、「いいところに帰ってきた。男子部に心理学の担任がいなくて困っていたんだ。君、さっそく男子部に行ってくれ!」と懇願され、当初は拒んだが、結局最終的には父親に説得されて復帰する成り行きとなった。
 軍隊帰りで勇ましかったからなのか、友田はここで教員組合の委員長に選出され、校長や庶務部長などをつるし上げるなどして相当暴れたという。が、いつの間にか自分が軍隊時代の将校のような姿になっているのにふと気づき、ファッシズムに走ってしまう自分自身がやりきれなくなったのと、そうなってしまう構造を生み出していた教員たちの世界にほとほと嫌気が差して辞表を提出した。しかし、辞表はなかなか受理されず、「辞めさせたくない」学校側と揉めていたところ、この動向を伝え聞いて知ったらしい母校(東京文理科大学)から、「人手が足りなくて困っているからウチに来てくれ!」と誘いがきた。
 ここでも友田は「心理学も教職もまっぴらごめんだ!」と突っぱねたが、大学生時代の恩師の助手をやっていた人物が自宅までやってきて懇願し、それを聞いた父親の「とにかく恩師がそこまで言うのだから、お前いったん行ってこい!」という言葉に説得されて、母校に戻るという成り行きとなった。(※9)
 東京文理科大学に戻った友田は、教育相談を担当した(東京文理科大学教育相談部の主任となった)が、最終的には大学での仕事に完全に失望した。“教育相談”以外にも“知能検査”や、文部省の委嘱による“進学適性検査”の問題作成、労働省の委嘱による“職務分析”などを行なっていたが、2年ほどやっているうちに担当していた仕事がどれも行き詰ってしまい、身動きがつかない状態に陥っていった。なかでも“教育相談”は、友田に“決定的な挫折と失望”を経験させた。少し長くなるが本人の記述によると、

 教育相談というのは、母親なり教師なりが子どもを連れてやって来る。当時のことですから週に2、3人しか来なかったのですが、私はまず相談にみえる子どもの知能検査をやる。性格検査もやり、次の週までにそれをすっかり整理しておいて、母親なり先生なりと話し合うわけです。たとえば母親が来た時に検査結果に基づいて、“お宅のお子さんはこれこれこうでこういうふうですから、こういうお子さんはこんなふうに扱って、こういうふうに指導して”と、順次に話していました。母親はその時はたいてい感心して帰るのですが、一度、“心理学者って占い師なんですか”と言われたこともあります。まず感心して帰ってゆく。
 ところが次の週に来ると、“じつはこの前先生がこんなふうに言われたから、子どもをこんなふうに扱ってみたら、子どもがこんなことやりだすんですよ”などということから始まります。そこで私が“お母さん、そういう時には、子どもというのはこういうふうなんだ。そういうことをしたらこういうふうな観方をしなくちゃいけないんだ”と言うと、“ああ、そう言われればそうですね。私はまだダメですね。考え方が足りなかった”と言って帰ってゆく。
 次の週が来るともういけない。“先生、最初はこう言って、その次の週はこう言ったから、今度はこうやったら、余計どうしようもないんです”、“そういう時は、こうやるんだ”と押し問答をやって、とどのつまりは“先生は机に向かったままで言っているからいいけど、家に来て明け暮れこの子どもと一緒に生活してごらんなさい”とくる。まあ結局、表面上体裁いいこと言っていても、実際はケンカ別れみたいになって帰ってしまう。私の下にもう2人助手がいたのですが、“あのおふくろじゃあ無理ないね。子どもがあんなになるのも”などと、3人で憂さを晴らして終わってしまうのが関の山でした。
(※10)

 こんな具合で、“教育相談というもの”に完全に行き詰まり、と同時に疑問を感じた友田は、「先達がどのような考え方で教育相談に取り組んでいたのか?」を克明にするために徹底的な調査を開始した。

 そこで最初に私の下にいた2人の助手に話をして、“とにかく今まで教育相談をやった人は、どんな考えを持って、どんな意見を持ってやってきたか、全部調べようじゃないか”と、図書室にある文献の教育相談に関するものを全部拾い出しました。片っ端から読み漁って結論を整理しました。その結論というのを一言でまとめると、――教育相談というのは、あくまでも相談である。担当者は科学的な根拠に基づいて、誤りのない指示と助言を与えればよい。その指示と助言に誤りがあるかないか、ということは担当者の責任であるが、その指示を忠実に履行するかしないかは向こうの責任であって担当者の責任ではない――というところに、それまで漁った文献の結論が全部結びついていってしまう。これを見たとたんに、私は“やめた!”と思いました。もうこんりんざい心理学はやるまい、と思ったのです。
 これがもし医者の世界だったらどうだろう。科学的に診断して、盲腸炎だということになると、“さあ、メスを持ってきなさい。お腹はこう切るんですよ。血管はこう止めるんですよ”と母親なり父親なり学校の先生なりに教える。けれど母親は手が震えて子どもの腹を切れないでいる。そして子どもが死んでしまったら、“あのとき教えた通りにやらなかったのだから、そっちの責任だ。死んだのはこっちの責任じゃない”と、そのようなことを医者が言えるだろうか?(中略)そして“俺はもう辞める。これとこれはちゃんと整理して君たちに渡すから”と、2人の助手に宣言して残務整理を始めたのです。
(※11)

 という顛末で、友田は東京文理科大学を辞職することを決意したのだった。

<考察1>
 この時代の友田を一言で表現するなら、「“教育相談という仕事”への挫折を経験し、と同時に“教育相談という仕事”への疑問を抱いた」となるであろう。教員時代は“講義すること”への疑問を抱き、ここでは“教育相談”(=指示的アプローチ)に失敗しているというわけだ。これは何を意味するのだろうか?
 一面的・表面的な見方をするならば、これらの事実は、「ロジャーズらの立場からすれば、いたって当然のことである」と単純に結論付けられるかもしれない。しかし、もしもそうだとしたら――つまり「誰が行なっても“伝統的な古い技法”によるアプローチは失敗するのが当然の結果である」としたら――、そんなものはロジャーズが登場するもっとずっと以前に改められ、現存しているはずがなかったであろう。したがって、“伝統的な古い技法”はこの当時(あるいは現在も?)、世の大半の人々によって支持・承認されていただけでなく、なんらかの成果も上げていたに違いないと思われるのである。
 だとするとこれは、ロジャーズという“人”、そして友田という“人”に、“伝統的な古い技法”では行き詰まってしまう“何か”があるのではないか? というふうに考えざるを得ない。換言すれば、“技法と人間”――技法とその技法を使う人間とがいかに密着しているか――という問題が提起されてこよう。
 “この問題”は、カウンセリングに従事する者だけでなく、人間すべてに通ずる大問題だとも思うが、友田は“この問題”を著作の中でも提起している。

 まず第一に申し上げておきたいことは、「非指示的」ということとは関係なしに一般的に、「技術」とか「方法」とかいう言葉を使用する場合、多くの人々がきわめて簡単に、もしくは安易に、「人間を抜きにしてしまう」ということです。しかし、それにもかかわらず、「人間を抜きにしたところ」には、今日なお、いかなる分野のいかなる「技術」も「方法」も存在し得ない、ということです。なるほど、わたくしども人間は、科学を発達させることによって、いわゆる「科学的技術」もしくは「科学的方法」から、できるかぎり「人間を排除する」ことを念願し企てつつあります。しかし、「念願し企てつつある」ということは、それがすでに「達成されている」ということでは決してありません。今日なお、どのような「科学的技術」も、いかなる「科学的方法」も、依然として「人間を抜きにして」は存在していないのであります。のみならず、「科学的技術や方法」が科学化されればされるほど、それに関与する人間の知性化と高度化が要求され要請されているのが、現実の事実でありましょう。(※12)

 この記述は『非指示的療法』(日本カウンセリング・センター 1963年初版)の中で“この問題”を取り上げている部分のイントロダクションであるが、筆者の個人的感想を述べるなら、「量子力学の世界における“観測問題”にもつながる大問題を、カウンセリングの立場から提起している」のである。なお、“この問題”に関する論文をここに全文掲載することはできないので、関心がある読者は上記の著作などを読んでいただけたらと思う。

<考察2>
 もうひとつの論点として、友田という人は「体験的事実をわいきょくしたり合理化したりせず、そのまま意識化し言語化する」という特質を持った人物ではなかったか? という一面が浮かび上がってくる。
 一般的に言って失敗や挫折を味わったとき、人がいかに容易にもしくは安易にそれらの経験に対して「自分を納得させる理由付けを行なってしまうか」は、いまさらここで論じるまでもない。もしも友田が、仮にそのような処理の仕方をしていたならば、“心理学というもの”や“講義するということ”、そしてまた“教育相談というもの(指示的アプローチ)”に対する“疑問”など、生まれる余地がなかったことは容易に想像できる。“疑問”が生じなければ、“新しい方向へと開拓してゆく”こともまた不可能である。筆者は「この特質こそ学習者の基本的な特質である」と思っているのだが、そのような意味において、友田という人が本質的に“学習者であった”のは間違いないだろう。
 禅に“背覚”・“正覚”という言葉があるが、“己の覚に背くか否か”は、人間が学習者――ここで言う学習者とは、「疑問を持ったらその疑問に対する自分なりの仮説を立て、その仮説を検証しようと努力する行為がとれる人間」という意味だが――に育ってゆけるか否か、という問題と密接に関連しているように思えてくる。

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