カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

友田不二男研究(1)

2009年11月22日 | 主要な論文
1.はじめに

 本書の冒頭に当たるこの部分は“人物紹介編”である。ここに紹介する「友田不二男」という人物は、そのキャリアの絶頂期においては、“日本のカウンセリング界でその名を知らない人は誰もなかった”くらいの人であり、また一部の人々からは“カウンセリングの神様”とも称されていた、いわば“日本のカウンセリング界のカリスマ的存在”だった人である。
 ところが時は流れ、時代は移り変わり、現在では同氏の存在とその業績は(ごく一部の熱烈な支持者たちを除けば)、すっかり忘れられてしまっているのが日本の現状である――と評しても過言ではない。とくに臨床心理学の世界においては、「ロジャーズを日本人に最初に紹介した人物」という程度の評価しか与えられていないのが現実である。あるいはカウンセラーを志して臨床心理学を学んでいる現在の若者たちの間では、ひょっとするとその名前すら知られてないかもしれない。
 “時の流れというもの”――これはある意味、“しかたがない”と観ずるより他ないのかもしれないが――によって、この人物をこのまま“風化させてしまう”のはあまりにももったいないし、残念だし、寂しい気がするのである。というような思いを抱いている同志たちの手によって、本書は計画され、出版されるに至った。
 さて、本章の概要であるが、「誕生からカウンセリング(ロジャーズ)との出会いを経て、やがて日本中にカウンセリングが広まってゆくきっかけを作り、その後はロジャーズと道を違えていった」ところまで、すなわち初期の頃を中心に取り上げている。内訳は、「父親の影響」、「学生時代」、「教員時代」、「教育相談時代」、「カウンセリングとの出会い」、「国学院大学へ」、「大甕ワークショップ」、「ロジャーズとの決別」と、全体を8つに区切って時代ごとに見出しを付けた。各時代の前半部分は事実関係と人物紹介を、後半部分はそこから浮かび上がってくる人物像や問題点などを取り上げ、それらをより明確にしようと試みている。
 なお、本稿で述べられている諸々のことは、あくまでも“筆者の視点から見た歴史的事実”であり、そこから“筆者に浮かび上がってきた問題”の提起とそれらに対する“筆者の現時点での仮説”である。したがって、これから先の記述は“客観的な事実ではない”だけでなく、不幸にして取り上げられなかった“事実”や“問題”なども少なからず残されているのは間違いない。
 もしも読者が“なんらかの疑問”や“物足りなさ”を感じたなら、読者自身がそれぞれの歩みによって探求し、さらに理解を深めていただけたらと思う。その際の“ガイドブック”として本稿がなんらかの役に立ってもらえたなら、「執筆の苦労も報われる」というのが現在の筆者の偽りない気持ちである。

2.父親の影響

 友田がカウンセリングを生業にしてゆく過程において、“父親の影響”を見過ごすことはできない。友田の父親は一言で言えば“問題のある人物”だったのだが、どのような人物だったのか、まずは大まかに紹介しよう。
 友田の父親は貧しい農家の生まれだったが、高等小学校卒業後すぐに准訓導(注:訓導とは、現行の教育法令でいう教諭と同等の職にあたる)となり、アルバイトをしながら師範学校を卒業した。卒業後は中等学校の教員を務めていたが、28歳のとき出身地(千葉県)から呼び戻されて小学校長に抜擢されたという経歴を持つ。これは当時としても異例中の異例で、決して“平凡な人物ではなかった”ことがわかる。
 通俗的には野心家でもあった。教員では飽き足らず、自分で童話の本を書いて出版したところ作品が大ヒットしたので教員を辞め、印刷所を買収して本格的に出版事業に乗り出したが、関東大震災による火災で印刷所が灰になってしまう。借金をして再び出版事業を始めたが、今度は震災後の世界的な不景気で本がまったく売れなくなり、その後は教員に逆戻りして、細々と詩や小説などを書き続けていた。晩年になって教壇から身をひいてからは、国史と郷土史の研究に専念した――という一面もあった。
 もうひとつの面、すなわち父親としては相当な“暴君”で、親戚中から狂人扱いされていた。これが友田に決定的な影響を与えた。
 夕食の時間、家族全員が食卓を前に父親を待っていると、30分後にようやく現われた父親が無言でいきなりちゃぶ台を蹴ってひっくり返すことなど日常茶飯だった。また、長男(友田の兄)をバットで何度も殴り付け、あと一撃が加わったら絶命していたかもしれない寸でのところで止めが入った――というエピソードもある。(※1)
 “この父親”が存在する家庭に、1917(大正6)年1月1日、4人兄弟の末っ子として友田は生まれた。上に長女、長男、二男がいたので三男にあたる。余談になるが、「不二男」という名前は「二男ではない」という意味だったらしい。
 “この父親”の姿を見ながら育った少年時代の友田が、人間の“異常行動”や“不適応”の問題に強い関心を抱いたとしても、それはむしろ当然の成り行きだったと言えよう。が、それ以上に興味深いのは、家族中・親戚中から狂人扱いされていた“この父親”に対し、友田一人だけは異なった態度を示した点にある。本人の記述によると、

 この父には、周囲の者から“気違い”といわれるような行動がいくたびとなく繰り返されていた。そのような状態に陥っているときの父はまったく手に負えなかったが、不思議にも私が出動すると何とかおさまるのがつねであった。私には、周囲の他の人びとのように、父を異常者視したり、始末に負えないと見たりする気持ちがぜんぜん起こらず、苦悩し狂乱する父に、ほとんど言葉を発することもできずに寄り添うのが精一杯であった。今にして思えば、セラピストとしての私の修行は、この父との接触を通して、知らず知らずのうちになされていたともいえよう。(※2)

と。また別のところでは、このあたりの事情について次のように記述している。

 このような父を持って、幾十許となく「戦々恟々」とした家庭生活を体験してきた私ですので、自分の家庭内には、このような状況は作り出すまいと心がけてはきております。しかし、私の中に「父の血」が流れていることは否定できないようで、機にふれ折につけて思うのは、「もしも私の父が、私のような生き方を心がけていたとしたら、私は、おそらく私の父のような姿でペンを執っていただろう」ということです。父は、幾度となく、錯乱状態に陥ったり、狂乱状態と言っても過言ではないような姿になっておりましたが、もしもそのような父の姿を知らずに育っていたら、おそらく私は、父のようになっていたことでしょう。(中略)
 私が「カウンセリング」――とくに、世のいわゆる「非指示的」もしくは「クライエント中心」の見地――に走ったゆえんは、世俗的に言えば「私の父」に、もっと正確に言えば「私の中に流れている父の血」に通ずることは、申すまでもありません。幾度となく狂乱状態・錯乱状態に陥っていた父に、家族はどれだけ悩まされていたことだったでしょうか!! 母は、幾度となく家を飛び出し、長兄は徹底的に抵抗しました。まったく、家族から一人の死者もなしに過ごすことができたのが、今でも不思議なくらいです。もっとも、殺されそうになれば、母や長兄は姿をくらましていたからでしょうし、「病死した次兄」の死を、心理的・精神的なレベルで言えば「殺された」と評することができないわけでもないでしょう。現に、一時は父の仕事を手伝ったりもしていた叔父・叔母など、「次兄の病死」について、父が殺したのも同然と評しておりました。しかし、もしもそのような言い方をすれば、この世の中にいったい「殺されない人間」がどれだけいることでしょうか? 「苦しまされ」「悩まされ」「ひどい仕打ちを受け」といったタイプの考え方や言い方を、私たちは、どれほど使っているかしれません。しかし、父に関して私は、かつて徹底的に非難したり攻撃したりすることが一度もできませんでした。ドシャ降りの夜中に、ドテラ姿で水田に横たわっている父の傍らに、ただ黙ってうずくまっていた子供の頃の自分の姿が、今また、私の脳裏にクッキリと浮かび上がってきます。誰がなんと言っても帰ろうとしなかった(らしい)母のところに、祖父に連れられて行って、何時間も黙ってジーッと座っていた子供の頃の自分の姿が、今でもハッキリと思い出されます。今にして思えば、「私のノンディレクティブ」は、子供の頃に体験的に身についていたのかもしれません。
 若かった頃の私は、母や長兄のように家出することができず、また、長兄のように反逆することのできない自分を、「意気地がないからである」と思い定めておりました。「気が小さい証拠」と決めつけておりました。「勇気がないからできないのだ」と考えておりました。「自分だけはこの父を見捨てまい」というのは、「もっともらしい口実ではないのか?」と、自問自答したりしたこともありました。それやこれらの「解決」を心理学に求めて、トコトンまで絶望したこともありました。
(※3)

 これらの記述には、じつに興味深い問題点がたくさん含まれているように思う。以下、多少の考察を加えてみよう。

<考察1>
 まず最初に、『私が「カウンセリング」に走ったゆえんは、世俗的に言えば「私の父」に、もっと正確に言えば「私の中に流れている父の血」に通ずることは、申すまでもありません』とは、どういう意味になるのか? という点である。
 ひとつの見方、極めて単純な“意識的レベルでの影響”のみを見る見方をするなら、『もしもこのような父の姿を知らずに育っていたら、おそらく私は、父のようになっていたことでしょう』とあるように、「父親を反面教師にした」、すなわち「自分は父親のようになるまいと思った」がゆえに心理学に走った――と言えよう。
 もうひとつの見方として、“宿命論”的な見方もできる。「私の中に流れている父の血」というのを、「私が生まれつき背負っている宿命」という意味に解する見方だ。というのも、父親が生涯を通じて歩んだ道のりや全体的傾向と友田のそれとを比較すると、奇妙なぐらいに符合しているという事実があるのだ。友田の記述によると、

 私の父には、およそ、利害損得の打算や地位・名声への欲望がなかった、と言ってよいでしょう。いかに昔のこととは言え、20才代の若さで小学校長に抜擢されたのは、まったく異例のことだったようです。それは丁度、私が、20才代の若さで、当時で言えば専門学校、今で言えば新制大学の「教授に任」ぜられたのと符合する、と言ってもよいでしょう。父は、県がてこずっていた町の小学校長を、ともかくも立派に勤め上げて、県下随一の、千葉市内の小学校に栄転したわけですが、それは、私が、母校に帰って「東京高等師範学校助教授」になった事実と符合しますし、それにもかかわらず、父がハタ目のうらやましがるポスト――世のいわゆる「出世街道」――をポンと投げ飛ばして、私立の、当時の成田中学校に転じたように、私もまた、国学院に出てしまっております。そして、父が「童話の執筆」に力を傾けていたように、私は「カウンセリング」に微力を傾けているわけです。現在はともかくとして、当時で言えば、ともかくも「日本の教育界の大本山」と言われていた学校のポストを投げ飛ばして。表面的な違いはともかくとして、基本的には、なんとよく類似している人生過程でしょうか!!(※3)

となる。このような見方からすると、友田に流れていた“父親から受け継いだ血”、もしくは“宿命とも呼ぶことができる何か”が、友田をして、心理学やカウンセリングへと走らせたのではあるまいか? と思えてくるのである。

<考察2>
 もうひとつの論点は、父親が関連するこれらの体験と(ロジャーズが開拓した方向の)カウンセリングとが、どのように結びついているのか? という問題である。
 『父に関して私は、かつて徹底的に非難したり攻撃したりすることが一度もできませんでした。ドシャ降りの夜中に、ドテラ姿で水田に横たわっている父の傍らに、ただ黙ってうずくまっていた』、『誰がなんと言っても帰ろうとしなかった母のところに、祖父に連れられて行って、何時間も黙ってジーッと座っていた』というエピソードにおける少年時代の友田の姿からは、“ロジャーズの3条件を、まさに体現しているセラピストの姿が連想される”と言ったら、それは少し言い過ぎだろうか? 少なくとも筆者には、『今にして思えば、「私のノンディレクティブ」は、子供の頃に体験的に身についていたのかもしれません』という言い方には十分うなずける。
 ただし、この当時すでに「ノンディレクティブを可能にする“基本的な人間観”をも身に付けていたのか?」となると疑問の余地はあるだろう。“身に付ける”という言葉の意味があいまいではあるが、少なくとも「概念化してなかった」のは間違いない。根拠のひとつは、『若かった頃の私は、母や長兄のように家出することができず、また、長兄のように反逆することのできない自分を、「意気地がないからである」と思い定めておりました。「気が小さい証拠」と決めつけておりました。「勇気がないからできないのだ」と考えておりました。「自分だけはこの父を見捨てまい」というのは、「もっともらしい口実ではないのか?」と、自問自答したりしたこともありました』という記述である。
 “ノンディレクティブを可能にする基本的な人間観”から言えば、“父親に対して非難することも反抗することもできなかった”だけでなく、むしろ“従順だった”のは、ロジャーズの言う“受容”とか“無条件の肯定的配慮の経験”だったと言ってよいだろうが、友田少年はそのような肯定的な思い方はしていない。“人間観”はそこまで育っていなかったわけだ。
 にもかかわらず、行為としては“ノンディレクティブをやれている”し、のみならず功を奏しているのは、どういうわけだろうか? 事実として「友田一人だけが、周囲の人々とはまったく異なる態度を父親に示した」というところに、友田という人間の“本質的な何か”があるように思えるのだが、その“何か”とは何か? という問題だ。
 結論から先に言えば、「友田がそういう人だった」ということであり、「それ以上はよくわからない」となるだろう。が、あるいはひょっとすると、人間存在の根源的な悲しさ――“性”とか“血”とか“宿命”とか呼ばれるもの――を、意識的にではないにせよ、少年時代に父親から観じていたのかもしれない。ゆえに『父を異常者視したり、始末に負えないと見たりする気持ちがぜんぜん起こらなかった』のではないか? あるいは、少なくとも父親との関係において“お互いに通じ合うような何か”があったのだろうということは、想像に難くない。そしてその“通じ合う”は、決して意識レベルではなく、“父の血”と“私の血”という二つの血が共鳴し交流するというレベルでの“通じ合う”ではなかっただろうか? と想像できるのである。
 上述したのはあくまでも想像であり、単なる“理屈付け”に過ぎないかもしれない。仮にそうだったとしても、「人と人とが、“意識レベル”ではなく、“血のレベル”において通じ合う」という考え方は、さらに一般化すれば、「人と人とが、カウンセリング過程を生み出すことを可能にする“何か”は何か?」という本質的な大問題にも関連してくるだろう。
 そのような意味において、“この問題”は、カウンセリングというものに取り組んでいる人々にとっては、極めて重大な問題提起になり得るだろうと思う。

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