前回の日記の続きだが、mixiに寄せられたたくさんのコメントのおかげもあって「何を問題にしたいのか?」が、少しづつハッキリと見えてきた。それがこの表題だ。“カウンセリングというもの”を探求していくにあたって、いや、カウンセリングに限らず他のあらゆる分野においても“求道者”として己の人生を歩んでいきたいならば、「“自分というもの”を問題にし、かつ探求できなければどうしようもない」と思うのである。
この“どうしようもない”は、まさに、真の意味で“どうしようもない”のであるが、そのことを言葉でもって表現できないだろうか? ……というのが本稿の主旨である。
と言ってみたものの、この難題にどう取り組めばいいのか、少々困惑気味でもある。そこでまず、“人”と対比できるものとして、“理論というもの”を取り上げてみよう。
カウンセリングの分野における主要な理論として、「ロジャーズの3条件」と呼ばれているものがあることは、多くの方々がご存知だろう。簡単に説明すると、①受容(無条件の肯定的関心) ②共感的理解(感情移入的理解) ③自己一致(純粋性) の3つの条件を一定の期間セラピストが同時に満たしているならば、ロジャーズ曰く「クライエントの成長への動きが必ず生起する」というのである。
「この理論がどの程度正しいか?」という点は、ここでは論じない。問題にしたいのは「この理論がどのようにして生まれたのか?」という点だ。ロジャーズは、上記3条件が示されている『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』と題する論文で、次のように記している。
* * * * * * * * * * *
数年の間私は、苦しみ悩んでいるひとびととのサイコセラピィをやってきた。最近では私は、そのなかに含まれていると思われる一般的原則を、その経験のなかから取り出すという仕事に、ますます大きな関心をいだくようになった。(ロジャーズ全集第4巻 P.117)
私は、私自身及び私の同僚の臨床的経験と、利用しうる適切な実験的研究とを考え併わせながら、建設的なパースナリティ変化を始動するのに必要であると思われる諸条件、そしてまた、全部一緒にしたとき、その過程を進行させるのに十分だと思われる、いくつかの条件を取り出してみた。この問題と取り組んでいるとき、私は、そこにあらわれてきたものが、あまりにも単純なものであることに驚いたのである。(ロジャーズ全集第4巻 P.118)
* * * * * * * * * * *
以上から、ロジャーズはたくさんの臨床的経験に基づいて、自分自身の理論を導き出したことがわかる。すなわちこれは「理論が先に存在し、その理論通りにカウンセリングをやったら効果が生じた」というわけではないことを意味している。このことは、あまりにも重大な“事実と真相”を指し示しているように現在の私には思えている。つまり、「理論通りにやれば上手くいくはずだ」という発想の仕方は、「道が人を弘む」という思想とまったく同じではないか? と言いたいわけだ。
これらを要約すると、私たちカウンセラーにとってもっとも重要な課題は、一刻も早く“発想を転換”し、と同時に“学習者”、もしくは“探求者”(被教育者ではない)へと転じることであろう……となる。そしてこれこそが、故・友田不二男先生から与えられた(と勝手に思っているだけだが)、我々への提言である「己の足で立ち、かつ歩く」への現実化に結びついていくことを、現在の私は確信しているのである。
ここで話は一転し、“例え話”になるのだが、野球の世界にも“バッティング理論”というものがある。私は専門家ではないので内容は知らないが、少年野球チームの監督やコーチは、これを子どもたちに教えているのだろう(もちろん“子ども向き”の理論を、だろうが)。選手のほうは、教えられたその理論に自分の動きを近づけようと練習し、結果として近づけることができればできるほど、バッティングが上達するのだろう。
ところが……である。現に生きている人間の世界においては、理想的な理論(それがどういうものか知らないが)と完全に一致するバッティングを実際にやっている人間など、ひとりも存在しないのである。なぜなら、人によって体格・骨格・筋力・体力・反射神経などなど、あらゆる条件が異なるからだ。簡単に言えば、「ひとりとして同じ人間は存在しないから」となるわけだ。
このあたりは高校野球とプロ野球を見比べてみると、よりいっそう鮮明になる。高校野球の選手たちは、比較的どの選手も似たようなバッティング・フォームに見えるが(ということは、これがきっと理想的な理論に近いフォームなのだろう)、プロ野球の選手となると、どの選手もじつに個性的なバッティング・フォームであることがわかるだろう。
これはどういうことなのか? プロ野球の選手たちは、少年時代にコーチから叩き込まれたバッティング理論を忘れてしまったのだろうか? いや、そうではあるまい。これは勝手な想像だが、“プロの世界で通用するレベルの選手”というのは、他の誰とも異なる“自分という人間”にもっとも適したバッティング理論と方法を自分自身で探求し、発見し、創造し、試行錯誤を重ねながら、修得していったのであろう。(もちろん、悩んだときにはコーチの助言が必要だったかもしれないが)。それがあの、個性的なバッティング・フォームに結実しているに違いない。
これに心理学を持ってくると、彼らは「個性化のプロセスを歩んでいる」と言えそうだ。また、カウンセリングを持ってくると、「己の足で立ち、かつ歩く」の具体例のひとつを、彼らの姿に見い出すことができるのである。
このようなことが問題意識となり、同時に問題提起までしている“この私”もまた、プロ野球選手同様に自分のバッティング・フォームを生み出さなければならないのだろうか? 仮にそうだとすると、目の前に存在する大きな課題に圧倒されそうになる。「なんという困難な、骨の折れる道だろう。この道は……」というのが本音だ。
もっとも、ここのところで「自分は高校野球レベルの選手で構わないや」と言ってしまえば、このような苦労を背負う必要はないのだろうが……。現実に即したところで言えば、現在の私は“高校野球レベルの選手”かもしれない。というのは、友田先生をはじめとする老練なカウンセラーをたくさん知っているので、どうしても自分が小さく見えてしまうのである。だが、どんなふうに問いかけても「高校野球のレベルで構わないや」という気持ちは、どこからも生じてこない。私にはきっと「さらに飛躍したい。もっと成長したい」と欲する気持ちがあるのだろう。それがあるなら希望が持てる。
そうそう。本稿のテーマは“人”だった。上述の例え話で表現したいところは概ね記述できたと思うが、もうひとつの観点として“東洋思想”がある。東洋思想から“人”にアプローチするとどうなるのか? という問題だ。
東洋思想で言ったら「天地即自己」となる。これは夏目漱石の言葉(元ネタは老子だろうと言われている)だが、「天人地」という言い方もあり、これが易経の根本概念であることはすでに多くの人々に知られていると思う。他には「一即多、多即一」という言葉もあり(出典は華厳経だが、鈴木大拙や西田幾多郎も使用したらしい。私は友田先生から聞いた)、また般若心経の「色即是空、空即是色」という言葉も広く知られていると思う。
これらの言葉はどれもみな、人間を含めた宇宙の真相を意味・象徴しているように筆者には思えている。さらに言えば、現在物理学における最大の謎のひとつである“観測問題”も、この問題、すなわち“人間を含めた宇宙の真相”を解明していく際の手がかりのひとつになり得るだろう。
これを自己論(と呼べるかどうか微妙だが)に持ってくると、「私=私たち、私たち=私」という言い方ができそうだ。詳しくは知らないが、トランスパーソナル心理学の世界では、これに近い自己論があるらしいと聞いている。
以上から、私たちカウンセラーにとっての最大の課題は「“人”に発して“人”に帰す」という方向へ探求の歩みを続けていくことになるであろう。友田氏の言葉を借りれば「我々のこれから進むべき方向が、我々自身によって探求されていかなきゃならない時代に来ているんじゃないか」(カウンセリング研究VOL.17・18合併号 P.18)となるわけだ。いや、カウンセラーだけではない。教育や医療や福祉など、ありとあらゆる“対人援助を行なう分野”において、このことは絶大な課題を含んでいると言えそうだ。
もちろん実際には、私を含めてほとんどすべての対人援助に従事する人々が「道半ばである」ということ、すなわち「今の自分が未熟者である」という事実は、きっと否めないに違いない。しかし“この事実”は、決して絶望には値しない。なぜなら、私や私の仲間たちは「人間が正体不明である」ことを、別言すれば「人間には成長の可能性が内在している」ことを、信じているからである。
この“どうしようもない”は、まさに、真の意味で“どうしようもない”のであるが、そのことを言葉でもって表現できないだろうか? ……というのが本稿の主旨である。
と言ってみたものの、この難題にどう取り組めばいいのか、少々困惑気味でもある。そこでまず、“人”と対比できるものとして、“理論というもの”を取り上げてみよう。
カウンセリングの分野における主要な理論として、「ロジャーズの3条件」と呼ばれているものがあることは、多くの方々がご存知だろう。簡単に説明すると、①受容(無条件の肯定的関心) ②共感的理解(感情移入的理解) ③自己一致(純粋性) の3つの条件を一定の期間セラピストが同時に満たしているならば、ロジャーズ曰く「クライエントの成長への動きが必ず生起する」というのである。
「この理論がどの程度正しいか?」という点は、ここでは論じない。問題にしたいのは「この理論がどのようにして生まれたのか?」という点だ。ロジャーズは、上記3条件が示されている『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』と題する論文で、次のように記している。
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数年の間私は、苦しみ悩んでいるひとびととのサイコセラピィをやってきた。最近では私は、そのなかに含まれていると思われる一般的原則を、その経験のなかから取り出すという仕事に、ますます大きな関心をいだくようになった。(ロジャーズ全集第4巻 P.117)
私は、私自身及び私の同僚の臨床的経験と、利用しうる適切な実験的研究とを考え併わせながら、建設的なパースナリティ変化を始動するのに必要であると思われる諸条件、そしてまた、全部一緒にしたとき、その過程を進行させるのに十分だと思われる、いくつかの条件を取り出してみた。この問題と取り組んでいるとき、私は、そこにあらわれてきたものが、あまりにも単純なものであることに驚いたのである。(ロジャーズ全集第4巻 P.118)
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以上から、ロジャーズはたくさんの臨床的経験に基づいて、自分自身の理論を導き出したことがわかる。すなわちこれは「理論が先に存在し、その理論通りにカウンセリングをやったら効果が生じた」というわけではないことを意味している。このことは、あまりにも重大な“事実と真相”を指し示しているように現在の私には思えている。つまり、「理論通りにやれば上手くいくはずだ」という発想の仕方は、「道が人を弘む」という思想とまったく同じではないか? と言いたいわけだ。
これらを要約すると、私たちカウンセラーにとってもっとも重要な課題は、一刻も早く“発想を転換”し、と同時に“学習者”、もしくは“探求者”(被教育者ではない)へと転じることであろう……となる。そしてこれこそが、故・友田不二男先生から与えられた(と勝手に思っているだけだが)、我々への提言である「己の足で立ち、かつ歩く」への現実化に結びついていくことを、現在の私は確信しているのである。
ここで話は一転し、“例え話”になるのだが、野球の世界にも“バッティング理論”というものがある。私は専門家ではないので内容は知らないが、少年野球チームの監督やコーチは、これを子どもたちに教えているのだろう(もちろん“子ども向き”の理論を、だろうが)。選手のほうは、教えられたその理論に自分の動きを近づけようと練習し、結果として近づけることができればできるほど、バッティングが上達するのだろう。
ところが……である。現に生きている人間の世界においては、理想的な理論(それがどういうものか知らないが)と完全に一致するバッティングを実際にやっている人間など、ひとりも存在しないのである。なぜなら、人によって体格・骨格・筋力・体力・反射神経などなど、あらゆる条件が異なるからだ。簡単に言えば、「ひとりとして同じ人間は存在しないから」となるわけだ。
このあたりは高校野球とプロ野球を見比べてみると、よりいっそう鮮明になる。高校野球の選手たちは、比較的どの選手も似たようなバッティング・フォームに見えるが(ということは、これがきっと理想的な理論に近いフォームなのだろう)、プロ野球の選手となると、どの選手もじつに個性的なバッティング・フォームであることがわかるだろう。
これはどういうことなのか? プロ野球の選手たちは、少年時代にコーチから叩き込まれたバッティング理論を忘れてしまったのだろうか? いや、そうではあるまい。これは勝手な想像だが、“プロの世界で通用するレベルの選手”というのは、他の誰とも異なる“自分という人間”にもっとも適したバッティング理論と方法を自分自身で探求し、発見し、創造し、試行錯誤を重ねながら、修得していったのであろう。(もちろん、悩んだときにはコーチの助言が必要だったかもしれないが)。それがあの、個性的なバッティング・フォームに結実しているに違いない。
これに心理学を持ってくると、彼らは「個性化のプロセスを歩んでいる」と言えそうだ。また、カウンセリングを持ってくると、「己の足で立ち、かつ歩く」の具体例のひとつを、彼らの姿に見い出すことができるのである。
このようなことが問題意識となり、同時に問題提起までしている“この私”もまた、プロ野球選手同様に自分のバッティング・フォームを生み出さなければならないのだろうか? 仮にそうだとすると、目の前に存在する大きな課題に圧倒されそうになる。「なんという困難な、骨の折れる道だろう。この道は……」というのが本音だ。
もっとも、ここのところで「自分は高校野球レベルの選手で構わないや」と言ってしまえば、このような苦労を背負う必要はないのだろうが……。現実に即したところで言えば、現在の私は“高校野球レベルの選手”かもしれない。というのは、友田先生をはじめとする老練なカウンセラーをたくさん知っているので、どうしても自分が小さく見えてしまうのである。だが、どんなふうに問いかけても「高校野球のレベルで構わないや」という気持ちは、どこからも生じてこない。私にはきっと「さらに飛躍したい。もっと成長したい」と欲する気持ちがあるのだろう。それがあるなら希望が持てる。
そうそう。本稿のテーマは“人”だった。上述の例え話で表現したいところは概ね記述できたと思うが、もうひとつの観点として“東洋思想”がある。東洋思想から“人”にアプローチするとどうなるのか? という問題だ。
東洋思想で言ったら「天地即自己」となる。これは夏目漱石の言葉(元ネタは老子だろうと言われている)だが、「天人地」という言い方もあり、これが易経の根本概念であることはすでに多くの人々に知られていると思う。他には「一即多、多即一」という言葉もあり(出典は華厳経だが、鈴木大拙や西田幾多郎も使用したらしい。私は友田先生から聞いた)、また般若心経の「色即是空、空即是色」という言葉も広く知られていると思う。
これらの言葉はどれもみな、人間を含めた宇宙の真相を意味・象徴しているように筆者には思えている。さらに言えば、現在物理学における最大の謎のひとつである“観測問題”も、この問題、すなわち“人間を含めた宇宙の真相”を解明していく際の手がかりのひとつになり得るだろう。
これを自己論(と呼べるかどうか微妙だが)に持ってくると、「私=私たち、私たち=私」という言い方ができそうだ。詳しくは知らないが、トランスパーソナル心理学の世界では、これに近い自己論があるらしいと聞いている。
以上から、私たちカウンセラーにとっての最大の課題は「“人”に発して“人”に帰す」という方向へ探求の歩みを続けていくことになるであろう。友田氏の言葉を借りれば「我々のこれから進むべき方向が、我々自身によって探求されていかなきゃならない時代に来ているんじゃないか」(カウンセリング研究VOL.17・18合併号 P.18)となるわけだ。いや、カウンセラーだけではない。教育や医療や福祉など、ありとあらゆる“対人援助を行なう分野”において、このことは絶大な課題を含んでいると言えそうだ。
もちろん実際には、私を含めてほとんどすべての対人援助に従事する人々が「道半ばである」ということ、すなわち「今の自分が未熟者である」という事実は、きっと否めないに違いない。しかし“この事実”は、決して絶望には値しない。なぜなら、私や私の仲間たちは「人間が正体不明である」ことを、別言すれば「人間には成長の可能性が内在している」ことを、信じているからである。