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カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“人”に発して“人”に帰す

2010年07月26日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記の続きだが、mixiに寄せられたたくさんのコメントのおかげもあって「何を問題にしたいのか?」が、少しづつハッキリと見えてきた。それがこの表題だ。“カウンセリングというもの”を探求していくにあたって、いや、カウンセリングに限らず他のあらゆる分野においても“求道者”として己の人生を歩んでいきたいならば、「“自分というもの”を問題にし、かつ探求できなければどうしようもない」と思うのである。
この“どうしようもない”は、まさに、真の意味で“どうしようもない”のであるが、そのことを言葉でもって表現できないだろうか? ……というのが本稿の主旨である。

と言ってみたものの、この難題にどう取り組めばいいのか、少々困惑気味でもある。そこでまず、“人”と対比できるものとして、“理論というもの”を取り上げてみよう。
カウンセリングの分野における主要な理論として、「ロジャーズの3条件」と呼ばれているものがあることは、多くの方々がご存知だろう。簡単に説明すると、①受容(無条件の肯定的関心) ②共感的理解(感情移入的理解) ③自己一致(純粋性) の3つの条件を一定の期間セラピストが同時に満たしているならば、ロジャーズ曰く「クライエントの成長への動きが必ず生起する」というのである。
「この理論がどの程度正しいか?」という点は、ここでは論じない。問題にしたいのは「この理論がどのようにして生まれたのか?」という点だ。ロジャーズは、上記3条件が示されている『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』と題する論文で、次のように記している。

           * * * * * * * * * * *

数年の間私は、苦しみ悩んでいるひとびととのサイコセラピィをやってきた。最近では私は、そのなかに含まれていると思われる一般的原則を、その経験のなかから取り出すという仕事に、ますます大きな関心をいだくようになった。(ロジャーズ全集第4巻 P.117)

私は、私自身及び私の同僚の臨床的経験と、利用しうる適切な実験的研究とを考え併わせながら、建設的なパースナリティ変化を始動するのに必要であると思われる諸条件、そしてまた、全部一緒にしたとき、その過程を進行させるのに十分だと思われる、いくつかの条件を取り出してみた。この問題と取り組んでいるとき、私は、そこにあらわれてきたものが、あまりにも単純なものであることに驚いたのである。(ロジャーズ全集第4巻 P.118)

           * * * * * * * * * * *

以上から、ロジャーズはたくさんの臨床的経験に基づいて、自分自身の理論を導き出したことがわかる。すなわちこれは「理論が先に存在し、その理論通りにカウンセリングをやったら効果が生じた」というわけではないことを意味している。このことは、あまりにも重大な“事実と真相”を指し示しているように現在の私には思えている。つまり、「理論通りにやれば上手くいくはずだ」という発想の仕方は、「道が人を弘む」という思想とまったく同じではないか? と言いたいわけだ。
これらを要約すると、私たちカウンセラーにとってもっとも重要な課題は、一刻も早く“発想を転換”し、と同時に“学習者”、もしくは“探求者”(被教育者ではない)へと転じることであろう……となる。そしてこれこそが、故・友田不二男先生から与えられた(と勝手に思っているだけだが)、我々への提言である「己の足で立ち、かつ歩く」への現実化に結びついていくことを、現在の私は確信しているのである。

ここで話は一転し、“例え話”になるのだが、野球の世界にも“バッティング理論”というものがある。私は専門家ではないので内容は知らないが、少年野球チームの監督やコーチは、これを子どもたちに教えているのだろう(もちろん“子ども向き”の理論を、だろうが)。選手のほうは、教えられたその理論に自分の動きを近づけようと練習し、結果として近づけることができればできるほど、バッティングが上達するのだろう。
ところが……である。現に生きている人間の世界においては、理想的な理論(それがどういうものか知らないが)と完全に一致するバッティングを実際にやっている人間など、ひとりも存在しないのである。なぜなら、人によって体格・骨格・筋力・体力・反射神経などなど、あらゆる条件が異なるからだ。簡単に言えば、「ひとりとして同じ人間は存在しないから」となるわけだ。
このあたりは高校野球とプロ野球を見比べてみると、よりいっそう鮮明になる。高校野球の選手たちは、比較的どの選手も似たようなバッティング・フォームに見えるが(ということは、これがきっと理想的な理論に近いフォームなのだろう)、プロ野球の選手となると、どの選手もじつに個性的なバッティング・フォームであることがわかるだろう。
これはどういうことなのか? プロ野球の選手たちは、少年時代にコーチから叩き込まれたバッティング理論を忘れてしまったのだろうか? いや、そうではあるまい。これは勝手な想像だが、“プロの世界で通用するレベルの選手”というのは、他の誰とも異なる“自分という人間”にもっとも適したバッティング理論と方法を自分自身で探求し、発見し、創造し、試行錯誤を重ねながら、修得していったのであろう。(もちろん、悩んだときにはコーチの助言が必要だったかもしれないが)。それがあの、個性的なバッティング・フォームに結実しているに違いない。
これに心理学を持ってくると、彼らは「個性化のプロセスを歩んでいる」と言えそうだ。また、カウンセリングを持ってくると、「己の足で立ち、かつ歩く」の具体例のひとつを、彼らの姿に見い出すことができるのである。

このようなことが問題意識となり、同時に問題提起までしている“この私”もまた、プロ野球選手同様に自分のバッティング・フォームを生み出さなければならないのだろうか? 仮にそうだとすると、目の前に存在する大きな課題に圧倒されそうになる。「なんという困難な、骨の折れる道だろう。この道は……」というのが本音だ。
もっとも、ここのところで「自分は高校野球レベルの選手で構わないや」と言ってしまえば、このような苦労を背負う必要はないのだろうが……。現実に即したところで言えば、現在の私は“高校野球レベルの選手”かもしれない。というのは、友田先生をはじめとする老練なカウンセラーをたくさん知っているので、どうしても自分が小さく見えてしまうのである。だが、どんなふうに問いかけても「高校野球のレベルで構わないや」という気持ちは、どこからも生じてこない。私にはきっと「さらに飛躍したい。もっと成長したい」と欲する気持ちがあるのだろう。それがあるなら希望が持てる。

そうそう。本稿のテーマは“人”だった。上述の例え話で表現したいところは概ね記述できたと思うが、もうひとつの観点として“東洋思想”がある。東洋思想から“人”にアプローチするとどうなるのか? という問題だ。
東洋思想で言ったら「天地即自己」となる。これは夏目漱石の言葉(元ネタは老子だろうと言われている)だが、「天人地」という言い方もあり、これが易経の根本概念であることはすでに多くの人々に知られていると思う。他には「一即多、多即一」という言葉もあり(出典は華厳経だが、鈴木大拙や西田幾多郎も使用したらしい。私は友田先生から聞いた)、また般若心経の「色即是空、空即是色」という言葉も広く知られていると思う。
これらの言葉はどれもみな、人間を含めた宇宙の真相を意味・象徴しているように筆者には思えている。さらに言えば、現在物理学における最大の謎のひとつである“観測問題”も、この問題、すなわち“人間を含めた宇宙の真相”を解明していく際の手がかりのひとつになり得るだろう。
これを自己論(と呼べるかどうか微妙だが)に持ってくると、「私=私たち、私たち=私」という言い方ができそうだ。詳しくは知らないが、トランスパーソナル心理学の世界では、これに近い自己論があるらしいと聞いている。

以上から、私たちカウンセラーにとっての最大の課題は「“人”に発して“人”に帰す」という方向へ探求の歩みを続けていくことになるであろう。友田氏の言葉を借りれば「我々のこれから進むべき方向が、我々自身によって探求されていかなきゃならない時代に来ているんじゃないか」(カウンセリング研究VOL.17・18合併号 P.18)となるわけだ。いや、カウンセラーだけではない。教育や医療や福祉など、ありとあらゆる“対人援助を行なう分野”において、このことは絶大な課題を含んでいると言えそうだ。
もちろん実際には、私を含めてほとんどすべての対人援助に従事する人々が「道半ばである」ということ、すなわち「今の自分が未熟者である」という事実は、きっと否めないに違いない。しかし“この事実”は、決して絶望には値しない。なぜなら、私や私の仲間たちは「人間が正体不明である」ことを、別言すれば「人間には成長の可能性が内在している」ことを、信じているからである。
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土曜講座での一場面 ~人能ク道ヲ弘ム~

2010年07月20日 | 日記 ・ 雑文
日本カウンセリング・センターでは、今年度から“土曜講座”と称する新規講座を設けている。私は第3土曜日の「東洋思想とカウンセリング PARTⅠ」の世話人を担当しているが、“ある問題”を提起したいので、前回(6月19日)の講座での一場面を振り返ることにしよう。
とその前に、この講座の概要を説明しておこう。学習テーマは講座名からわかると思うが、「東洋思想とカウンセリングとの結びつきについて、よりいっそうの理解を深めていく」という設定だ。学習の素材となるテキストは『ロジャーズ全集第18巻』内に収録されている第6部・座談会「カウンセリングをめぐって」(出席者:友田不二男・伊東博・佐治守夫・堀淑昭)を使用している。
数あるテキストの中からこれを選んだ理由は、「友田氏が“東洋思想とカウンセリングとの結びつき”について公言し出したのは、この本(ロジャーズ全集)が出版された時期であることが判明した」からだ。つまり、“東洋思想とカウンセリングとの結びつき”という観点の最初の一歩、もしくは原点から学び直していこう! というのがこの講座の主旨である。

どういった成り行きでそういうテーマになったのか、まったく記憶してないが、ある場面で『論語』に収録されている「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ざるなり」という一文が話題に上がった。
この一文は、友田先生に師事したたくさんの受講生(もちろん私も含む)にとっては“耳にタコができる”くらい何度も何度も聞かされた言葉である。友田氏は、この言葉が“カウンセリングの真髄を示している”として、繰り返し私たちに伝えようとしたのだった。もっとも、結果として「それが伝わったか否か?」は、私たちの側の問題となるだろう。
余談になるが、『論語』という書物は、一般的には「儒教のテキストである」と認識されるのが普通だろう。このような認識が“誤りである”とは思わないが、友田氏によれば「『論語』には、道教の原点になっている言葉もたくさん見られる」らしい。なるほど、そう言われてみると上述の一文など、まさに「道教(タオイズム)である」と読めてくるから不思議だ。なお、余談ついでに友田氏は、晩年のある講演会で「老子という人物が実在したのかどうか、極めて怪しい」と述べた上で、「老子の正体は、じつは孔子だったのではなかろうか?」という爆弾発言(?)までしていた。

さて、話を講座の一場面に戻すが、上記した孔子が述べたとされる道教思想(タオイズム)と正反対の思想を示すものとして、次の一文が私の目に止まった。

友田:ロジャーズがさぐりながらね、“問題児の治療”から“Counseling and Psychotherapy”へいって、“Client-centered Therapy”へいって、そういう、彼が歩んでいる人間の姿というものを実感し共感しないでね、カウンセリングやそのテクニックを公式としてもってきて、それをあてはめればもう、ちゃんとゆくみたいな、そういうタイプの誤解もありますね。(ロジャーズ全集第18巻 P.415)

こういう発想の仕方というのは、私に言わせれば「道が人を弘む」という思想になる。平たく言えば、「ロジャーズ(もしくは誰々)が示したやり方を覚えてその通りにやれば、ちゃんとカウンセリングができるのだ」という考え方だ。もしもカウンセラーがこういう考えでカウンセリングに取り組んでいったとしたら、“いずれどこかで行き詰る”のは間違いないだろう。なぜなら、カウンセリングにおける真の問題点は、“やり方”(技法・療法・アプローチ法など)でもなければ、“クライエント”(のパーソナリティー・性格・気質・症状や障害の種類や程度など)でもなく、“カウンセラー”(である自分がどのような“人”であるか?)に尽きるからである。
もっとも、現代人の多くが“自分というもの”を問題にせず(ゆえに探求もせず)、「道が人を弘む」という思想を信じてしまう背景には“学校教育の問題”や、もっと大袈裟に言えば“社会全体の問題”があるような気がしているので、こういう人を単純に非難したり批判する気持ちにはなれないが……。
という意味で、私たちカウンセラーにとっての最大の難関は、学校教育によって身に染み付いてしまった“被教育者”から脱却し、一刻も早く“学習者”に転じることであり、かつ、学校教育によって不知不識のうちに“正しい”と信じ込んでいる思考形式のひとつ“決定論”(determinism、因果論とも呼ばれる)から解放され、一刻も早く“アタマを切り換える”ことに他ならない。そのためには“体験学習”こそが一番の近道だと、今の私は確信している。

最後に、“このあたりの問題”を問題として提起した友田氏の発言を引用しておこう。

           * * * * * * * * * * *

友田:(前略)何か西欧思想でいくと物心二元論、――唯物論と唯心論とは違うみたいな基本があってしまうけれども、じつは「これ、大間違いじゃないか?」と。「今、そんな時代がようやく芽吹き始めているな」ということを、私、しみじみと感じて、結局、一言で言えば「人能ク道ヲ弘ム。道、人ヲ弘ムルニ非ルナリ」と。茨城の方でしたらご存知でしょう。水戸の弘道館に藤田東胡が書いておりますが、原点になるのは論語の言葉。「人能ク道ヲ弘ム。道、人ヲ弘ムルニ非ルナリ」――。
医者が、医学を勉強した医者が「患者を治す」など、思ったら大間違い。医者という、たまたまそういうレッテルを張られた人が治すんです、元々は。もしも治すとすればですね。医者という肩書きなど無くても、治す人は治すんです。この辺のところが資格制度が流行ることによって、かなり怪しくなっている。資格を持った人は食べることはできる。食べていくには不自由しなくなるが、「治すほうはさっぱりだ」と言ったら言い過ぎかもしらんが、そういう現実がもう、あちらこちらの人の目に写っているんじゃないでしょうかと。――まあ、この辺のところで、我々のこれから進むべき方向が、我々自身によって探求されていかなきゃならない時代に来ているんじゃないかなと。――痛切に「来てるな」と、まあ一応、提案して、その辺の細かいことは、この要旨ならぬ付録みたいなもので、ひとつ探求していただけるとありがたいと思います。(カウンセリング研究VOL.17・18合併号 P.18)

友田:どうも今みたいな疑問がいろいろ出るのは、そもそもやっぱり私の未熟な表現が元でロジャーズが誤って伝わっちゃったところに、そもそもが起因しているかと思うんですが、この点は私がとやかく説明するよりもじつは、本の宣伝みたいにもなりますけれども、この階下に『人能ク道ヲ弘ム』と題した本がかなりだいぶ来ているはずです。この人のは、本人の表現では「友田から指導された非指示的療法のやり方でやった」というふうに伝わるような言い方があるんですけれども、彼が実際にクライエントと接している動きは、かなり指示的と言われるような動きがもうあるんです。それ気にした人は、すぐ「オカシイじゃないか」というような言い方をするんですが、オカシイと言えば、指示の非指示のなんていう区別を付けるほうがオカシイんであって、その人、その人の、そのときの“ありのまま”ということで言えば、みんな同じなんですよね。その辺の理解がどうもまだ、かなり不十分、不徹底じゃないかなという気がしております。(カウンセリング研究VOL.17・18合併号 P.46)
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私の自己超越的“天の声”体験について

2010年07月18日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記の続きだ。昨日までは別のテーマでコラムを執筆する予定だったのだが、気が変わったのでそれは後回しにすることにした。というわけで、今回は私が経験した“天の声体験”について書いていこう。
もっとも、これを書くのにはかなりの勇気を必要とするのも確かだ。なぜなら、これは“とても個人的な”体験なので、「同種同質の経験がない多くの人々から共感的・肯定的な理解を得るのは難しいのではないか?」という懸念があるからだ。また、別の懸念として「宗教やカルト、あるいは精神障害と混同されやしないか?」というのもある(笑)。

まずは前提条件として、当時の私がうつ病(しかも重症だったと思う)を患っていたことを示しておこう。うつ病になっていったプロセスについては割愛するが(詳細はホームページの「私とカウンセリング」と題した手記に書かれてあるので、興味・関心があったら併読していただきたい)、もっともひどい状態のときには、1日中(=目が覚めている間中)考えごとが止められなくなり、しかも何を考えても最終的には「……だから私は最低の人間だ」という結論に至る、という状態だった。それはかつて経験したことのない、とても表現しようのない、ひどい苦痛と強烈な自己嫌悪に間断なく苛まれる状態だった。
そんなある日、目が覚めると同時にこう思った。「あ~あ、また目が覚めてしまった。憂うつだなあ。このまま一生眠り続けられたらどんなにいいだろう。……ん!? 待てよ。そうか、死ねばいいのか! そうすればずっと眠り続けられるじゃないか!」と。次いで「どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなかったんだろう? 俺ってバカだなあ」と思い、自分のバカさ加減にいささか呆れながら、一縷の望みを発見したのだった。そう、私は自ら命を絶つことによって、この生き地獄のような日々から解放され永遠に眠ることができる平安を得る、という解決策を見い出したのだ。

数日後、どうやって自殺するか、その方法を具体的にアレコレ考えながら、ふと自分が死んだ後の世界を想像してみた。自分の葬式の様子などを思い浮かべたわけだが、ある種の違和感を感じたのは、普通なら「バカげている」と感じるはずのこういう想像に対し、「まったく奇妙に感じていない。むしろリアルさを覚えている」という事実だった。これにより「ああ、自分は少なくとも数日後には、間違いなくこの世にはいないのだろうなあ」と、死へ向かって確実に歩み出していることを私は確信したのだった。このときの心境はなんとも不思議な感覚で表現し難いが、“静寂”という言葉が一番近いような気がする。自分の死を目前にしながら、まるで他人事のような感覚だった。
次の瞬間、頭の後ろのほうで声がした。「あなたには、まだやるべきことがある」という声だった。「えっ?」と思って振り向いたが、そこには誰もいなかった。「気のせいか……」と思って前を向くと、再び「あなたには、まだやるべきことがある」という声がした。しかし、そのときの私は「もうこれ以上生きる意味なんてないし、やるべきことが何もないから死のうとしているのだ」という気持ちだったので、憤りとともにその声に向かって問い返した。「だったらそのやるべきことって何ですか? 教えてくださいよ!」と。しかしそれっきり、その声は何も答えてくれなかった。
返答がないのでガッカリしながら、ふと気がついた。「いや待てよ。ひょっとすると声の言う通りかもしれないぞ。俺はやるべきことなんて“ない”と思っていたけど、じつはまだ“知らない”だけなんじゃないのか?」と。そう思ったとたん、後頭部をハンマーで殴られたような、ドカーンという衝撃がきた。それは“静かな大爆発”と表現したい衝撃だった。俗に言う“コペルニクス的転回”が起きたのである。
「そもそも“自分は最低の人間だ”とか“自分を殺したい”とかいう様々な意識を働かすことができるのは、『命』が働いているおかげではないのか? 『命』という土台がまずあって、それが“自殺したいと欲すること”を可能にしてくれているのだから、意識のほうが『命』の働きを抹殺するのは本末転倒ではないか? 俺はなんというエゴイスティックな人間だったのだ!」と悟り、自分がとっても恥ずかしくなったと同時に、
「俺は自分のことを“世界中で最低の人間だ”と思っていたけど、ほんとうは人間に優劣などなかったのだ! 『命』のレベルでは、自分も含めてすべての人が同じだったのだ。優劣があるように思ってしまうのは、表面的なところしか見えてないからだ。いや人間だけじゃない。地球上のあらゆる生命に優劣はなく、ほんとうはみな同じひとつの『命』だったのだ!」と悟った。そして自分が溶けていくような感覚とともに、地球との、あらゆる生命との一体感を味わった。それは後にも先にも経験したことのない、ものすごいエクスタシー体験だった。
この体験のあと、「エゴイストはもうやめよう。自分の生死を自分で決めるのはもうよそう。どうせいつかは必ず死ねるんだから、それがいつかは神様に決めさせればいいじゃないか」という心境になり、この瞬間から死から生への方向転換が起きたのだった。

以上が“私の天声体験”である。じつはこのあとも様々な紆余曲折があって、結局は“カウンセリングと出会う”ことになったわけだが、詳細はホームページに掲載してあるので割愛させてもらう。現在の私に確かに言えるのは「もしもこの体験がなかったら、私は今この世に存在していなかっただろう」ということだけだ。したがって、上述のような体験における問題点(未解明な部分)は、まだまだたくさん残されている、というのが私の基本認識である。
もっとも大きな問題のひとつは「いったいどのような条件が揃えば、こういう類の人生が転換するような体験を得ることができるのか?」という点だろう。年間何万人もの自殺者が存在することからわかるように、「自殺を意図する人全員がこのような体験をするわけではない」と言えるからだ。

友田不二男氏はこういう類の体験全般を“おとずれ”と称していたが、私の体験から言っても“おとずれ”という表現はピッタリな気がする。また、道元の「自己をはこびて万法を修証するは迷いなり。万法きたりて自己を修証するは悟りなり」という言葉は、ここで言う“おとずれ”を意味しているのではないかと思っている。
そうすると問題は「人間がどのような状態、もしくは在り方をしているときに“おとずれ”がやって来るのか?」ということになってきそうである。このあたりが“真空”と絡んできそうな気がしているのだが、はたして真相は……? なお、上掲した私の体験談から言うと“静寂”と表現したところが、ひょっとすると“真空”だったのかもしれない。

最後に、今後このような方面への人間探求(=カウンセリング探求)を続けていくにあたって、手がかりとなりそうな友田氏の記述を紹介しよう。以下は『友田不二男研究』からの引用だ。

           * * * * * * * * * * *

このような場合、人間は、今日なお、「幸運」という以外の言葉を使いようがない。しかし、「幸運」とはいったい何なのか? 人間が、現に、その「幸運」にめぐり合うことそのことを現実化するところに、なんらの必然性もないのであろうか?――というような問題は、貧困な頭脳で、いくら思いめぐらしても、しょせんどうなることでもあるまいが、しかしとにかく、発見・発明・飛躍といったようなことには、何かしら人間そのものをも包含した巨大な大自然の法則が潜んでいることを、私はどうしても、感じないわけにはゆかないのである。さらに言えば、何かしら「幸運」は、随所随所にゴロゴロしているのだが、その「幸運」をして「幸運」たらしめることそのことのできる、「人間の態度・姿勢・構え・積み重ね・関心など」が、ありそうな気がして仕方がない。(友田不二男研究 P.31)

「人間」というものは、各人それぞれに、「持って生まれた本質」と言いますか、「生まれながらの本質」と言いますか、こうした言い方で表現できるような、「ある種の宿命」があるようです。この「宿命的な本質もしくは本領」とも言うべき「何か」は、世のいわゆる「性格」とか「性質」とかとは、およそレベルを異にする「何か」で、心理学などという科学では、それこそ「手も足も出ない何か」である、と私は言いたいのですが、そのような議論はともかくとして、忘れもしません、31歳の時(注:上述した“天の声を聞く”という体験時のことと思われる)、私は、「人間は、自分自身の持って生まれた本質もしくは本領に即して生きることができればできるだけ、それだけ幸福に生きることができるし、逆に、そのような本質もしくは本領から遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ不幸になる」と思い定めました。(友田不二男研究 P.33)

           * * * * * * * * * * *

このような記述を読むと、筆者の脳裏にはC.G.ユングが“synchronicity”(シンクロニシティ、“共時性”と邦訳される)と称した概念や、東洋思想で言うと“易経”が浮かぶ。これらが“真空”を含めたこのあたりの問題を探求していく際の重要な手がかりになりそうな気がしてならないのである。
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“真空”をめぐって (その2)

2010年07月15日 | 日記 ・ 雑文
前回の続きだが、その場における話題が一段落したところで私は口を開いた。
「少し前にAさんから、『友田先生は自分自身の経験に基づいてこれを書いているのだろう』という発言がありましたが、それを聞いた瞬間、ある考えがひらめきました。まあ当然のこととして、これと結びつくような人生経験がいろいろとあったに違いないでしょうが、とくに大きかったのはじつはこれではないか? と僕はにらんでいるんですが……」。
と述べて、『友田不二男研究』P.328、巻末に収録された人物史年表の「天の声を聞く」という項目を指差した。念のため書き添えておくが、これは友田氏がロジャーズ(の著書)と出会う前の出来事である。

           * * * * * * * * * * *

1948(昭和23)年 「天の声」を聞く。人生における一大転機。

自分の持った疑問になんの解答も与えてはくれない“心理学というもの”にすっかり失望し、「自分がこの先生きたとて、世の役に立つような何事がやれるのか?」、「ただ単に起きて喰って寝るだけの生涯になんの意味があるのか?」と、無力・無価値な己を自棄的に軽視して、ただもう鬱々とした日々を過ごしていた。そうしたある日、それこそもう考えるのも嫌になって、動くのも嫌になってしまって、縁側に干してあった布団の上にひっくり返って、いわば“夢現の境”をさ迷っていた時に“天の声”を聞いてしまう。「馬鹿だなァ、お前は。それはお前がやることなんだよ!」と。「馬鹿だなァ、お前は」という声を聞いた時点で意識は戻って、「それはお前がやることなんだよ!」をハッキリと聞いて上半身を起こし、“誰だ?”と、振り向いて左右を見ても誰もいないので、“あれっ?”と思ったとたんに“天の声”という言葉が意識を横切った。

           * * * * * * * * * * *

この、私が投じた問題提起に対して参加者からは様々な反応があった。ただし、その雰囲気はなんとなく「“真空”と“天の声”とが、どこでどう結びつくのだろう?」というような感触だったと記憶している。
その後、話題は多方面へと展開していったが、再び冒頭で記したテーマ「友田真空と諸富真空とのニュアンスの違い」へと移っていった。この場面で参加者の一人から、「山本さんは友田真空と諸富真空との違いについて、どう思っていますか?」という質問が飛んできた。
私はこのテーマに関する持論のようなものをまったく準備していなかったので、一瞬“虚を付かれた”ような格好になり、しばらくの間(1分間くらいだと思う)腕組みしたまま「う~ん……」と沈思し続けた。が、最終的には「自分の考えを思い切って話してみよう!」という気になったので口を開いた。

「そうですねえ。では、僕が個人的に“問題だと思っている問題”について、好き勝手にしゃべらせてもらいます。諸富さんの真空論のベースになっている体験というのは、あれですよね。学生時代に悩みや思いのアレコレを先輩の末武さんに向かってポツリポツリと話していたところ、次第に意識が宙をさ迷うような感じになり……、正確な表現はちょっと忘れましたが、そこで末武さんから『お前はそんなに偉いのか!』という一言があって、これが胸にずしんと響いたと。こういう体験があったわけです。
ところが、40周年(※日本カウンセリング・センター設立40周年記念・シンポジウムのこと)のときに末武先生が『私はそのセリフを言った記憶がない』と聴衆の前で述べました。これが後日、亀山山荘での土日合宿で世話人は友田先生でしたが、その場で問題になりましてねえ。『諸富氏が聞いたというあのセリフは、じつは幻聴だったのではないか?』と(笑)。
ですから、ひょっとしてひょっとすると、アレは“天の声”だったのではないかと。まあ、少なくともその可能性は十分あるだろうなと、僕は勝手にそう思っているんですが……」。

この、私からの問題提起は、その場の参加者にはかなり響いたような感触を得た。まあ、少なくともこの程度まで問題(=未解明な部分。探求の余地が残されているところ)を表現できれば、私が投じた「“真空”と“天の声”がどう結びつくのか?」という点が、より多くのカウンセリング関係者によって“問題として意識される”ことになるのではないか? と考えている。

本稿を終えるにあたって書き添えておくが、私が個人的な考えから“天の声”(と仮に名付けることにする。こういう類の何らかの神秘的体験)をカウンセリングと結びつけて問題にするのは、私もまた“天の声”と呼べるような体験を得ているからでもある。したがって、“この私の体験”についても、機会があったら書いてみようと思っているところだ。
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“真空”をめぐって (その1)

2010年07月12日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記の続きだが、頭の中を整理するために、まずはカウンセリングとの関連で現在の私が気になっているキーワードを無作為に並べてみよう(括弧内は言葉の出所を示す)。
Vacuum(“真空”と邦訳される。ロジャーズ全集第9巻)、無・空(禅思想)、虚ハ心斎ナリ(荘子)、無為自然(老子)、無位の真人(臨済)、天地イコール自己(夏目漱石)、絶対矛盾の自己同一(西田幾多郎)、天人地(易経)……。
挙げていったらキリがないだろうが、これらの言葉(概念)はどれもみな、“ある何か”もしくは“ある方向”を指し示しているように私には思える。と同時にその“ある何か”もしくは“ある方向”には、“人間というものの真相”に関する絶大な洞察が含まれているようにも思えている。
仮にそうだとすると、私たちカウンセラーにとっての永遠の課題は、「これらの言葉が指し示している“ある何か”もしくは“ある方向”を手がかりにして、己の歩みによって“人間というもの”へのあくなき探求を続けていくことである。それがすなわち“カウンセリング探求”となる」と言えるだろう。
念のため断っておくが、私は上述したキーワードを単なる思考や想像のレベルで取り扱いたいとは思わない。基本的に言って“人間を排除したところ”で、これらの概念をアレコレ哲学したとしても、ほとんど何も得るものはないだろうと考えている。

というわけで話は一変するが、昨年12月に開催された冬季ワークショップ・仙台会場での一幕を記述しようと思う。このワークショップは「単行本『友田不二男研究』を読む」というテーマがあらかじめ設定されていた。
今となっては記憶が定かではないが、2日目のある場面で世話人の末武康弘先生(法政大学教授)から、「友田氏が投じた“真空論”は、それを取り上げた諸富氏の“真空論”によって手垢がついてしまったというか、やや矮小化されてしまったような気がする」というような問題提起があった。私のこの表現は若干正確さを欠いていると思うが、少なくとも「友田真空と諸富真空とのニュアンスの違い」というようなことが問題になったのは確かである。
これとの関連で『友田不二男研究』内のある部分が問題として取り上げられたので、少し長くなるが引用しておこう。というのは、筆者は友田氏が書いたこの文章に“友田真空のニュアンス”がにじみ出ているような気がしているからだ。

           * * * * * * * * * * *

第三のことは、この翻訳を遂行する過程において、だれよりも私自身が“はじめて気づかせられた”問題であります。もっと正確にいえば、“そこに重大な問題がある”ことは前々から感じていながら、しかもどうにも明確にならずにいたことが、ブライアン氏の表明をとおしてきわめて明確な問題意識となった、その“問題”であります。それについては、かなり入念に“訳注”をしたためておきましたので、ひとりでも多くの読者のご検討とご批判とを仰ぎたいのでありますが、それは、ブライアン氏によってまず提出され(ク452―215ページ)、やがてカウンセラーによっても取りあげられるようになった(カ515―250ページ)“真空(vacuum)”の問題であります。
今ここに、訳注以上に書きそえる必要を感じませんので、たんに問題の所在を示唆するだけにとどめますが、もしも今の私の仮説的な問題設定が支持されるとすれば、たんに私が経験している“カウンセリング”がいっそう明確になるばかりでなく、今日一般に“教育”とか“指導”とか“訓練”とかいう言葉のもとに遂行されている人間のいとなみは、基本的に独断であり、錯誤であり、迷妄である、ということになるでしょう。果たしてそうであるかどうか? 現在のいわゆる科学的方法では、おそらくとうていたしかめ得ない問題でしょうが、少なくとも“人間の基本的なあり方”に密着する“哲学”として、思考し究明すべき絶大な課題である、と私は思っております。
さらにいえば、これは、一般的・社会的に把握され、もしくは理解され、さらにしばしば信じられているとさえ思われる、東洋文化と西洋文化との有力な“かけ橋”ともなりうる手がかりを提出しているように思われます。現に、本書に登場しているカウンセラーに関する限り、この“真空(vacuum)”という言葉で呼ばれている何かに関しては明らかに否定的なのであります。そしてそのような認識は、たしかに、アメリカ社会における一般的・通念的な理解のしかたなのでしょう。もしもそうであるとすれば、今、アメリカ社会における文化形式がとうとうとして流れ込み、かつ、まんえんしている半面において、これと真っ向うから対立するかの様相を呈している東洋文化的な思考形式が入り乱れている日本の状況は、東西両洋の基本的な文化形式を総合しうる可能性をきわめて豊富に保有しているという意味において、まことに重大な意味を含んでいる、といえるでありましょう。(『友田不二男研究』P.53-54より引用)

           * * * * * * * * * * *

この文章が何を意味するのかが問題になった場面で、参加者の一人から「友田先生はきっと、自分自身の経験に基づいてこれを書いているんでしょうねえ」という発言があった。これを聞いた瞬間、ある考えが「ピカーン!」と脳裏にひらめいたのだったが、その後は別のテーマに話題が移行してしまったので、この「ピカーン!」を発言するチャンスはなかなか巡って来なかった。(つづく)
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善意と悪意

2010年07月08日 | 日記 ・ 雑文
「地獄への道は、善意が敷き詰められている」。
これは、日本カウンセリング・センター第二代理事長・故関口和夫先生(医学博士)が述べたと伝え聞いている言葉だ。この言葉には、ものす~ごく深いレベルの人間に対する洞察が含まれているような気がして私はずっと心に掛けていたのだが、最近面談したあるクライエントの話を聞き、「なるほどなあ。ほんとうに関口先生のおっしゃる通りだなあ」と、深くうなづくことができた。

親鸞(しんらん)が説いたとされる「悪人正機説」というのがあるが(正直に言えば、意味がよくわかっているわけではないが)、これもまた、絶大な洞察を含んでいる言葉なのだろうと思う。まあ、少なくとも悪人のほうが「自分は悪人である」と自覚しているという意味において、善人よりマシだろう。

「だったら善意ではなく、悪意を持って人と関わるほうがいいのか?」という疑問が出てきそうだが、そういう単純な話ではない。私もまた、長い間「善意の反対は悪意である」と思い込んでいたが、事実はそうではなく「善意(悪意も含む)の反対は無私の心である」ということを、上述したクライエントからつい最近教わったのだ。

さて、では“無私の心”とは何なのか? これは大問題だ。『荘子』の人間世篇に「虚ハ心斎ナリ」という言葉があるが、これがたぶん“それ”を指し示しているのだろう(という程度のことなら言えるが……)。
要するに私は、「これは大問題である」と認識していると同時に「“それ”こそがカウンセリングの真髄である」という感触を得ているのであるが、今日はここまでにして、この問題については別の機会にあらためて論考してみようと思っている。
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サポーター

2010年06月25日 | 日記 ・ 雑文
表題の“サポーター”とは、サッカーチームを熱烈に応援する人たちのことを指す。日本代表がワールドカップで一次リーグを突破したので、「我が家にもすばらしいサポーターが1名存在する」ということを紹介したいと思う。そのサポーターとは息子(6歳)だ。今日も起こしたわけでもないのに朝5時に目を覚まし(たぶん、隣の部屋のテレビの音がうるさかったのだろう)、試合終了までの残り30分を一緒に観戦した。

息子は週1回、近所のサッカースクールに通っている。通わせているのは母親だが、かなり熱心に取り組んでいるようだ。練習後、毎回集まった子どもたちで2チームに分かれてミニゲームを行なうのだが、帰宅した際に今日は勝ったか負けたかが一目でわかる。勝った日は上機嫌だが、負けた日は不機嫌になり、手が付けられない状態になるからだ(苦笑)。
ある日のミニゲームで負けた息子は、試合終了後、悔しさのあまりワンワン泣きじゃくったという。それを見たコーチが「今は同年代の他の子より下手でも、こういう子のほうが将来はずっと伸びますよ」と母親に伝えたらしい。そんなわけで、ここのコーチ(元ジェフ千葉の関係者らしい)に息子はずいぶん気に入られているようだ。こういった理解ある指導者に巡り合えたことが、息子にとっては何よりも幸運だったと思う。

いつ頃のことだったか、日本代表が韓国代表にボロ負けしたことがあった(ワールドカップ直前に0-2で負けたが、その数ヵ月前に行なわれた韓国戦のこと。スコアは忘れた)。この試合を息子とともに家族三人で観戦したのだが、試合終了と同時に何を思ったのか、息子がテレビの電源ボタンをパチリと切った。「何をするんだ!」。私はとっさに怒って電源を入れ直した。息子の顔を見ると目から大粒の涙があふれていた。この試合結果を見るのは耐え難かったらしく、その後は隣の部屋の布団に伏せたまましばらく泣き続けていた。その姿を見て、私はなんとも言えない複雑な切ない気持ちになった。私はこのとき、初めて「日本代表が負けると悔しさのあまり涙する人間の存在」を知ったのだった。
その後は、なるべく息子の前で日本代表の試合を見ないように心がけた。観戦したいときは別の部屋の小さなテレビで我慢した。理由は言うまでもなく「日本が勝つ可能性は低いだろう」と予想していたからだ。そしてこの工夫は功を奏した。したがって息子はワールドカップ直前の4連敗を知らない。

日本は一次リーグを突破して“歴史的な偉業”を達成した(フランスもイタリアも敗退したのだから)が、それを陰で支えているのはサポーターの存在であることを忘れてはなるまい。選手や監督やスタッフたちに「日本が負けると本気で涙を流す人たちがたくさんいるんですよ。息子もその一人なんですよ」と伝えたいと思うのが、せめてもの親心である。

ところで冒頭の場面の続きだが、我が家で日本の勝利に歓喜したのは大人二人だけで、息子のほうは結果に対する特別な反応を示すことなく、まるで「当然のことですよ」とでも言いたげな淡々とした表情だった。内心で「次の試合があるんだから、喜んでばかりじゃダメだよ」とでも思っていたのだろうか?
たぶん、息子は日本代表の実力を知らないので「勝つのが当たり前だ」と思っているのだろう。仮にそうだったとしても“大喜びしない”という態度を示すのは、ひょっとしてひょっとするとある意味で筋金入りのサポーターかもしれない……という気がする。
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“必要十分条件”についての考察

2010年06月17日 | 日記 ・ 雑文
先日の日記で示唆したように“カウンセリングにおける最も重要な問題点のひとつ”とも言えるカウンセリングの核心部分は、「カウンセリング関係(もしくは場面)において、いかなる条件が満たされればクライエントに建設的なパーソナリティーの変化が生じ、態度・行動の変化が起きるのか?」という問題だと筆者は考えている。
よく知られているように(かどうか、本当は知らないが)、カール・ロジャーズはこの問題に対し、『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』(伊東博訳・ロジャーズ全集第4巻『サイコセラピィの過程』第6章)と題する論文において持論を展開している。ここに示されている“ロジャーズの考え”が、どの程度妥当なものであるのか、私自身の2つのカウンセリング経験(ひとつは初めての個人面談、もうひとつは初めてのグループカウンセリングであった「カウンセリング入門講座」での経験のこと。どちらもすでに日記に記した)に基づいて考察してみようと思う。
ロジャーズは『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』(以下、“必要十分条件”と表記する)の中で次のように書いている。

建設的なパースナリティ変化が起こるためには、次のような条件が存在し、それがかなりの期間継続することが必要である。
① 二人の人間が、心理的な接触(psychological contact)をもっていること。
② 第1の人――この人をクライエントと名づける――は、不一致(incongruence)の状態にあり、傷つきやすい、あるいは不安の状態にあること。
③ 第2の人――この人をセラピストと呼ぶ――は、この関係のなかで、一致しており(congruent)、統合され(integrated)ていること。
④ セラピストは、クライエントに対して、無条件の肯定的な配慮(unconditional positive regard)を経験していること。
⑤ セラピストは、クライエントの内部的照合枠(internal frame of reference)に感情移入的な理解(empathic understanding)を経験しており、そしてこの経験をクライエントに伝達するように努めていること。
⑥ セラピストの感情移入的理解と無条件の肯定的な配慮をクライエントに伝達するということが、最低限に達成されること。
他のいかなる条件も必要ではない。もしこれらの六つの条件が存在し、それがある期間継続するならば、それで十分である。建設的なパースナリティ変化の過程が、そこにあらわれるであろう。

以上は要約部分であり、これにそれぞれの条件についての詳細な解説が加えられているが、ここでは割愛する。興味・関心を持った人がいたなら、ぜひとも上記論文を入手して、読者自身によって検討してもらいたいと願っている。

さて、まずは条件①だが、これは条件②~⑥が成立するための前提条件のようなものなので、詳細な検討は必要ないだろう。「条件①は満たされていた」としておく。
続いて条件②だが、これも「満たされていた」のは明らかだ。個人面談のときの私は「カウンセラーから厳しい言葉が浴びせられるのではないか?」と傷つくのを恐れて怯えていたし、入門講座の場面では――“不安の状態”という表現はあまり適切ではないような気もするが――、予想外の展開に目が点になり、ひどく動揺したという意味で「きわめて不安定な状態だった」と言えるからだ。
次は条件③だが、これはカウンセラー側の状態なので、私(クライエント)には判別不可能である。が、私の側の経験を述べるならば、「口ではそう言っているけど、腹ではぜんぜん違うことを思っているのではないか?」というような疑念は、カウンセラー(もしくは世話人)に対してまったく浮かばなかった。
個人面談のカウンセラーは(自分の興味・関心からだと思うが)、私が返答に困るようなことをしつこく尋ねてきたし、入門講座の世話人は、受講生の質問に苦笑いを浮かべながら困惑気味に本当のことを返答しているように見えた。どちらの人も「率直で正直な人物である」と、私に認識されていたのである。
次は条件④と⑤だ。「それぞれの条件が何を意味しているか?」という点は本稿の主旨ではないので、ここでは一緒に扱うことにする。もしもこの点に関心を持った人がいたなら、上記論文を熟読・吟味していただけたらと思う。
さて、④と⑤だが、これもカウンセラー側の経験について述べられているものなので、正確には判別不可能だ。私の側の“経験のされかた”を述べると、個人面談では「④も⑤もなされていた」となる。したがって「条件④と⑤は満たされていた」と判定してよかろう。
問題は入門講座での私の側の“経験のされかた”である。すでに記述した通り、2時間30分の時間内に私が発言したのは一度だけ、自己紹介の場面で名前を述べただけだった。これに対し、世話人から何らかの応答があったという記憶はない。とすると「条件④と⑤は無かった」ということになるのだろうか?
ここから先は憶測や想像の類がかなり含まれてくるが、入門講座で私の心に決定的な変化をもたらしたのは、「本当に自由でいいんですよ。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなくていいんですよ」という世話人の発言だった。これは言うまでもなく、“特定の個人に対して”ではなく、“参加者全員に向けて”の働きかけである。この発言による働きかけがなされる直前がどんな場面だったか、まったく記憶がないが、たぶん世話人はこの場における参加者たちの“存在の仕方”とでも呼べるような何か、あるいは“醸し出されている雰囲気のようなもの”を感じ取って、このような働きかけをしたのではないか? と想像できる。仮にそうだとしたら、このときの世話人の心中には「条件④や⑤に相当するような経験が生じていたのではないか?」という推測は十分可能だろう。
付け加えておくと、このセリフを聞いた瞬間の私は、何か“勇気をもらった”ような感じになった。講座が始まってからこの時点に至るまで、私の心中には講座や世話人に対する否定的・批判的な感情しかなく(次週からは欠席しようと考えていた)、ゆえにそのような気持ちを正直に述べるのは困難であり(基本的には他者との間に波風を立てることや、口論や喧嘩を好むタイプではない)、したがって口を固く閉ざしているしかなかったわけだが、「話したくなければ話さなくていいんですよ」は、「そのままでいいんですよ」という意味に聞こえたのだった。
というふうに“経験された”ということは、(他の参加者については不明だが)少なくとも私には条件④の「無条件の肯定的な配慮がなされていた」と判定してよかろう。ついでに述べておくが、条件⑤の感情移入的理解(共感的理解とも呼ばれる)については、それが私に対して「なされた」とはまったく経験していない(そもそも私は名前しか述べていないのだから)。ただし、他の参加者に対してはこのようなタイプの応答があったかもしれない、とは言える。
最後に条件⑥だが、これは明白だ。個人面談ではどちらも最低限は達成されていた、というふうに経験された。入門講座では片方(無条件の肯定的な配慮)のみ、最低限は達成されていた、というふうに経験された。

以上、ロジャーズが提示した“必要十分条件”がどの程度妥当なものであるかを検討してきたわけだが、結論としては「かなりの程度妥当である」と言ってしまってよいだろう。しかし、上述した“私の経験”に基づいて言うならば、この結論からさらに一歩進めて「建設的なパーソナリティーの変化が起こるためには、“カウンセラーがどのような条件を用意するか?”ということよりもむしろ、“クライエントがカウンセリング関係(もしくは場面)をどのように経験するか?”ということのほうにより大きく依存している」と述べたい。

と書いたところで、「あれ? こういう文章どこかで読んだことあるぞ」という思いが生じた。そこでちょっと調べたところ、『カウンセリングの技術―クライエント中心療法による―』(友田不二男著・誠信書房・初版1956、第2版1996)の中に次のような文章があった。

           * * * * * * * * * * *

われわれが経験を積んで前進してゆくにつれて、ある特定のケースにおけるセラピィの動き(therapeutic movement)の確率は、基本的には、カウンセラーのパーソナリティに依存するのでもなければ、また、カウンセラーの技術に依存するのでもなく、また、カウンセラーの態度に依存するのでもなく、これらのすべてが、その関係においてクライエントにより経験されるされ方に依存しているということが、きわめて明白となってきている。(拙訳『サイコセラピィ』87頁参照)

このロジャーズの言葉は、端的に、この間の事情を提示しているであろう。しかも、このロジャーズの見解は、私自身の臨床経験(clinical experience)ともまた、最高度に符合するように私には思われているのである。
このことは、ロジャーズの思考と方法につながる立場におけるカウンセリングを理解するにあたり、どんなに強く肝銘されてもされ過ぎることはないであろう。また、これを逆に言うならば、もしもこの点に対する認識なしにロジャーズを解するならば、とうてい、真の理解を達成することができないであろう。(以下略)

           * * * * * * * * * * *

う~む……。私は本稿の執筆を通して「新事実を発見した!」かのように思っていたが、私が発見したと思っていたその“事実”は、ロジャーズがかなり初期の頃に(年代は不明)、また友田不二男が1956(昭和31)年に示した見解とまったく同じだったのである(苦笑)。
もっとも、だからと言ってガッカリしているわけではない。なぜなら、ロジャーズや友田が示したその“見解”は、今や私自身の“血肉になっている”と思えるからだ。
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初めてのカウンセリング体験(入門講座編)

2010年06月09日 | 日記 ・ 雑文
先週の火曜日に日本カウンセリング・センターが主催する今年度第1回目の「カウンセリング入門講座(全5回)」が終了した。その詳細な内容をここに記すのは控えるが、世話人として参加した私の率直な感想を一言で述べると「じつに楽しい会合だった」となる。
センターが主催している入門講座は(入門講座だけでなく、他の講座も全部そうなのだが)、「世話人が講義をしない」というのが特徴だ。「講義をしないなら、じゃあ何をやるのか?」と問われれば、「文字通り“世話をする”のだ」という返答になる。“講師”の場合は“講義する”のが仕事になるが、“世話人”の場合は“世話をする”のが仕事になるわけだ。
このような説明で講座内容を理解できる人はまずいないだろうが、これ以上の説明をするのは難しい気がする。あえて蛇足を加えるならば、世話人は受講者ひとりひとりがそれぞれ“自分が学びたいこと”を学べるように“最大限に自由な学習場面”を設定する。したがって世話人が主導権を握って「○○というテーマについて、みんなで考えましょう!」というように、参加者をリードするような動き方は決してしない。どのような学習場面を展開していくかについては、参加者の側にゆだねられているわけだ。
するとどうなるか? 「じつにじつに興味深い“人間の動き”が現われてくるのだ」という表現が、私に“経験されているところ”をかなり正確に言語化していると思う。受講者が言語や態度で示す“戸惑い”・“困惑”・“疑念”・“憤り”・“失望”などなどを私は大歓迎する。私にはこれらの言葉や態度が、その人の“今ここでの嘘偽りない真実の姿”を表現しているように思えてならない。その人の“今ここでの嘘偽りない真実の姿”が垣間見えたとき、私はその人に対し“肯定的関心”を抱いてしまう。関心を持つように“している”のではなく、いわば自動的にそう“なってしまう”のだ。ここまで書けば、冒頭の「じつに楽しい会合だった」の意味が少しは伝わっただろうか?

とは言え、カウンセリング(正確にはグループカウンセリングだが)を経験したことのない人が、このような説明文でカウンセリングを理解するのは容易ではないだろう(と言うよりも不可能だと思う)。したがって、もしも“カウンセリングというもの”に興味・関心を持った人がいたなら、「ぜひ、身をもって体験してもらいたい!」というのが筆者の気持ちだ。その際にはきっと「人生において、かつて一度も経験したことのない経験をすることになる」だろうと思う。いや、そのような経験が得られることを保障してもいいくらいだ(笑)。
宣伝になるが、6月16日(水)から全5回の日程で「カウンセリング入門・昼間部」がスタートする。「カウンセリングを体験してみたい!」という人がいたら、ぜひ参加してもらいたいと思う。(詳細な案内は下記ホームページをご覧ください)

日本カウンセリング・センター
http://counseling.web.infoseek.co.jp/

さて、前置きが長くなったが、ここからが本題だ。私自身も上述した「カウンセリング入門」をかつて受講した人間のひとりである。そのときの衝撃的な(?)体験談を記しておこう。

平成8年9月某日、私の足は目白にある日本カウンセリング・センターに向かっていた。目的は1ヵ月ほど前に参加申し込みをした「カウンセリング入門」を受講するためだ。以前の日記に書いた通り、センターには個人面談を受けるために一度訪れたことがあったので道に迷うことはなかった。
開始時刻の10分ほど前に到着し、2階の教室に入ると、受講生がすでに5~6人いた。開始時刻になると参加者は総勢12~3人になったが、その間口を開いた人はなく、シーンと静まり返っていた。ものすごい緊張感が漂う雰囲気だ。

しばらくして、60~70代に見えるおじさんが階段を上がって教室に入ってきた。「この人が世話人だな」とすぐにわかった。と言うのは、この人だけ他の参加者より年齢が高く、落ち着き払った態度で“ベテランの雰囲気”を漂わせていたからだ。が、私は先生になるその人物の風貌を見て唖然とした。ペラペラの開襟シャツに普段着のようなズボン、足元は裸足でサンダルをペタペタ鳴らしながら歩いていたからだ。私は世話人というのを「パリッとしたスーツを着こなした大学教授のような人」だと想像していたが、目の前の人物はどう見ても、どこにでもいる“普通のおじさん”にしか見えなかった。私の胸中はこの時点ですでに「ガッカリした」のを告白しておこう。

世話人が着席すると講座が始まった。「はじめまして。○○と申します。どうぞよろしく」というような挨拶のあと、「どうぞ、ご自由に」と、その世話人が参加者に向かって言った。私は目が点になった。他の参加者も私と同様、固まっているように見えた。
沈黙がしばらく続いたあと、世話人が口を開いた。「他のグループだとこういう場合、まずは自己紹介をしましょう! となるんですが……。お互いに自己紹介をしたらいかがでしょう」と、参加者同士で自己紹介することを促すような発言だった。
これに応えて参加者のひとりが口火を切った。ひとり、またひとりと、挨拶を交えた自己紹介が進んでいったが、私は自分から進んで何かをしゃべる気にはぜんぜんなれず、最後のほうまで口を固く閉ざしていた。が、いよいよ残り2名となったとき「一番最後になるのは嫌だな」と思って慌てて発言した。何を言ったか覚えていないが、たぶん名前しか言わなかったような気がする。

この時点で私はこの講座に深く失望していた。1ヵ月ほど前の個人面談で“かつて経験したことのない貴重な経験”を得ていた私は、カウンセリングに対する猛烈な興味・関心と学習意欲を持ってこの場に臨んでいた。目の前の机に新品のノートを開き、鉛筆を握り締めて、世話人の講義を今や遅しと待ち構えていたのである。それが開口一番「どうぞ、ご自由に」と言い放たれ、続いて「自己紹介をしましょう」となったのだから……。
付け加えておくが、私がここに来た唯一の目的は「カウンセリングの専門家からカウンセリングを学ぶため」だったので、「他の受講生と知り合いになるとか仲良くなる」というようなことはまったく眼中になかった。ゆえに自己紹介などという行為は、私にとっては無意味・無価値にしか思えなかった。なんと言うか、このときの私の心境は、世話人に対する憤りや失望とともに、世話人から放り出されたような見捨てられたような気持ちになっていた。

参加者全員の自己紹介が終わると、その後は受講生の誰かが世話人に質問をし、それに世話人が答える、というようなやり取りが続いた。私と同様に他の受講生も「なにをどうすればいいのか、まったくわからない」ように見えた。受講生が発する質問は、どれもみな“苦し紛れ”のようだった。が、私のほうはそんな会話に真剣に参加する気にはぜんぜんなれず、特別な興味も関心も生じないままずっと傍観していた。
世話人の話の中には、いくつか印象深い内容のものもあったが、私の胸中は次のようなものだった。「あー、バカバカしい。こんなことが最後まで続くのなら、ここに来てもまったく意味はないな。今日は終了時間までここに座ってなんとかやり過ごすことにするけど、来週からは欠席しよう。参加費は全額支払ったのだから、何か理由をつけて休んでも文句は言われないはずだ。せっかくカウンセリングに興味・関心を持ったのに残念だなあ……」と。

こんな具合でふてくされながら、その場をやり過ごしていたのだが、終了時刻の10分くらい前に衝撃的なことが私の内面で起こった。世話人の「本当に自由でいいんですよ。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなくていいんですよ」という発言を聞いた瞬間、「自由ってなんだ?」という疑問が生じたのである。「今までの30年間の人生において、俺はかつて一度も“自由とは何か?”という疑問を持ったことがない。ということは、自由が何であるかを俺は知っていたわけだ。でも、よくよく考えてみたら自由とは何なのか、本当はぜんぜんわかってなかったではないか!?」という事実に気がついてしまったのだ。「なんということだ……」。私はこの事実に愕然とした。

時間が来て講座は終了した。結局私は自己紹介の場面で名前を述べただけで、それ以外は一切言葉を発しなかった。が、そんなことはどうでもよかった。講座や世話人に対するいろいろな感情もどうでもよくなっていた。それどころではない、尋常ではない心理状態に陥っていたのである。
参加者の多くは雑談などしながら駅までの帰路を集団で歩いていたが、私はその輪の中を挨拶もせずに通り抜け、ひとり早足で去っていった。もともと社交的なタイプではない私だが、ましてやこのときは“重大なこと”が心中に起きていたので無理もなかったと思う。こんな心理状態で他者と社交的な会話をするなんて、そんな気にはぜんぜんなれなかった。

私は“自分に起きたこと”がいったい何なのか、どうしてそれが起きたのか、考えずにはいられなかった。このとき私が“考えずにはいられなかったこと”とは、「自由とは何か?」という哲学的な問題ではなく、「30年間まったく気がついていなかったことに、どうしてたった1回の、しかも2時間半という短時間で気がつくことができたのか?」という問題だった。しかし、いくら考えてもわからなかった。結局のところ「カウンセリングというものに何か重大な秘密があるに違いない!」という結論を出すだけで精一杯だった。

ふと気がつくとそこは原宿駅だった。目白駅からJR山手線に乗ったあと、新宿駅で乗り換えなければならなかったのだが、考え込んでいるうちに原宿まで来てしまったのだ。私がどれほどこの問題に取り付かれていたか、また、どれほどの集中力で思考をめぐらしていたか、このようなエピソードを付け加えれば想像がつくだろう。

以上が私の「初めてのカウンセリング体験(入門講座編)」だ。このあと私が「よりいっそうの強い興味・関心を抱きながら、意欲的にカウンセリングに取り組む人物に変貌していった」のは言うまでもない。何しろ私は「カウンセリングには何か重大な秘密がある!」と確信してしまったのだから。
余談になるかもしれないが、このとき私が焦点付けした“カウンセリングの秘密(?)”については、現在でも「そう、そこのところがカウンセリングの最大の問題であり、カウンセリングの核心部分なのだ!」と思っている。という意味では、自画自賛になるが、「初心者のくせにそこのところに問題意識を持って焦点を当てたとは、なかなか良いセンスの持ち主だったのではないか?」と、過去の自分を振り返っている。
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我が家の音楽事情

2010年05月07日 | 日記 ・ 雑文
ふだんは音楽CDというものをほとんど聴かない私だが、クルマを運転するときは別だ。CDチェンジャーを搭載し、つねに音楽をかけながらドライブしている。
最近のお気に入りは川本真琴のベスト盤(正確にはシングルコレクション)だ。この人のラブソングはすごいと思う。ありきたりな表現だが、強烈な何かが胸に響いてくる。専門家っぽく(?)評論すると、“言語化できるギリギリのところ”(ジェンドリンの言う“エッジ”のところ)を表現しようとしているのだろう。
もっとも、いわゆるアーティスト(芸術家)と呼ばれる人々は、こういう才能を持ち合わせていて、しかも開花させた特別な人間なんだろうけど。というような意味で言えば、「カウンセラーのレスポンスもアートである」と言えるかもしれない。

さて、そんなことを思いながら、今日もクルマで息子(5歳)を隣町にある幼稚園まで迎えに行った。後部座席に息子を座らせて帰路につくと、しばらくして息子が「僕はマイケルがいいの!」と言う。車中の音楽は川本真琴だった。しかたなしにマイケル・ジャクソンのCDにチェンジすると、いつものことだが信号待ちで音楽に合わせて踊り出した。
そう、我が家の一人息子は今、マイケル・ジャクソンに夢中なのだ。とくに気に入っているのは「ビリー・ジーン」「ブラック・オア・ホワイト」「バッド」「スリラー」「ビート・イット」などだが、これらの曲に合わせてダンスするのが楽しいらしい(苦笑)。その姿は“ミニ・マイケル”と呼ぶにふさわしいほどである。……というのは親のひいき目だろうけど。

帰宅後、今度は「マイケルのDVDを観たい!」と言った。それを観ながらまた踊るわけだ。
なんとも微笑ましい光景ではあるが、近い将来に息子が「マイケルのようになりたい!」などと言い出したらどうなるのか少し心配だ。マイケルのようなスーパースターになってくれるだろうか? ……などという期待は持たないほうが、たぶん賢明だろう。
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