この陳述に対し、カウンセラーは2つの要点を的確にとらえて「これこれこういうわけで、今日ここへいらしたんですね」と応答した。こういうタイプのレスポンス(応答)を再陳述と呼ぶが、正確な再陳述だったので私は「はい。そうです」とうなずいた。
この後、長い長い沈黙があった。私は「カウンセラーが私に対して何らかの援助をするのだから、そのために必要な情報を得る目的で何か質問をしてくるだろう」と踏んでいた。私からすれば、今度はカウンセラーが口を開く番なのだ。しかし、このカウンセラーはずっと目を閉じたままで、口を開く気配がまったくなかった。私はとても困惑した。
カウンセリング経験がなかったとは言え、ある程度のイメージだったら私も持っていた。ハリウッド映画や海外ドラマの一場面だと、広い部屋の片隅に置かれた机に向かって医者がカルテのようなものを書きながら、患者はソファーに寝そべって意味のよくわからない発言を続けている。で、時折り医者が患者の言葉に質問を差し挟む。……とまあ、こんな場面だったら何度も観ていたわけだが、「カウンセリングも似たようなものだろうな」と思っていたのだ。無論、このようなドラマの一場面が「精神分析家による精神分析(自由連想法)のセラピー場面である」ということを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。
要するにこのときの私は「カウンセリングとは、医者と患者が行なうのと同様のものである」と認識していたわけだ。“医者と患者”だったら慣れているし簡単だ。風邪をひいて体調が悪いときは近所の内科で診てもらうのが普通だろうが、医者の前に座ると矢継ぎ早にいろいろと質問される。「熱はあるか? 咳は出るか? 鼻水は?」という調子で。いわゆる問診というやつだ。それが終わると喉の奥を見たり、聴診器を胸に当てたりして、最後に診断を下す。診断がなされれば必要な処方箋が得られる……という具合だ。
ところが、このカウンセラーは私を問診する気はまったくないことがわかった。「どうしたらいいんだろう?」。私はずいぶん長い間悩んだ末に「自分から動かないと何も進展しないようだし、そうしなくちゃいけないんだろうな」と思った。しかし、「何をどう話せばいいんだろう?」というところで再び悩み始めた。そうこうしている内に“今最も問題にしたいこと”、“今最も困っていること”が少しづつ浮かび上がってきて、それがだんだんと喉元まで膨らんできて、ついには口から飛び出そうになるような感じになった。
そこで私は口を開いた。「あのう、話したいことがあるんですが……」と。この間の沈黙は時間にして5分間くらいだったろうか? いや、実際はもっと短かったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。が、私の記憶の中では「ずいぶん長い間沈黙があった」となっている。
堰を切ったように私は話し出した。が、内容はほとんど覚えていない。当時最も困っていた精神的な問題は「積極的な気持ちで何かをやろうとするとき、どういうわけか何かの拍子に否定的な感情(や観念)が生じることがあり、そうなると身動きできなくなる」というものだったように思う。
自分が話した内容はよく覚えていないが、この陳述に対しカウンセラーが「まるでブレーキがかかっちゃうような(んですね)」とレスポンスしたのは鮮明に記憶している。なぜなら、これを聞いた瞬間「そう! まさにその通り! ピッタリ!」という感触を得て、まるで霧がかかってモヤモヤしていた心の内がスーッと晴れていくような経験をしたからだ。このとき私は「何とかして懸命に表現しようとしていた自分の心の働きを、端的な言葉でピタリと押さえることができた」という貴重な経験を得たのである。
カウンセラーのこのようなタイプの応答を“明確化”と呼ぶが、それを知ったのもずいぶん後になってからだ。が、それがクライエントにとってどれほど貴重で、またどれほど効果的であるかを、私は身をもって経験していたことになる。
このことが、後にテキストで“明確化”という専門用語を知ったときに役立ったのは言うまでもない。また、現在では「“明確化”というテクニックで実際に応答するのが、カウンセラーにとっていかに容易ではないか」ということや、「安易な気持ちで“明確化したつもり”になっていると、とても危険なことになりかねない」ということも承知している。
さて、カウンセリング場面での私の話は多岐に及んだが、“明確化された場面”がハイライトだったと言って差し支えないだろう。その他に印象に残っている話題として、「カウンセリングに関心を持ったので、最近本屋で『カウンセリング入門』というタイトルの本を買ってみたが、読み進めていくうちに吐き気をもよおして具合が悪くなった」という話をした。
カウンセラーから「著者名を覚えてないか?」としつこく尋ねられたので記憶しているのだが、「もしもこの人の知り合いだったり、この団体の関係者だったりしたらマズイよなあ」と思ったので、「う~ん、何だっけ……。ちょっと思い出せないなあ……」とシラを切ったのが、笑える思い出のひとつだ(苦笑)。「そこまで気をまわす必要ないだろうに」と今なら思う。
また、話が過去の経験に及んだ場面も印象に残っている。話を聞いたカウンセラーが「さぞかしつらかったでしょうね」と2~3回応答してきたが、その度に私はうつむいたまま黙っていた。カウンセラーの人はたぶん「ええ」とか「はい」とか、何かひと言聞きたかったのだろうが、結局私は「ええ」も「はい」も発することができなかった。なぜなら、もしも「ええ。そうなんです」などと言ってしまったら、泣き崩れてしまいそうになる自分を感じていたからだ。
「ええ」も「はい」も発しないことで、私は過去のいろいろな本当につらかった経験から距離を置き、かろうじてこのときの自分を支えていたのだ。と同時に「もしも“本当のこと”を話したとして、それが理解されなかったら……」という不安や恐怖も頭をかすめていたのであるが……。
面談の最終場面でカウンセラーから「今後も面談を続けていきたいか?」という質問があったが、このときも答えに躊躇してしばらく黙っていた。「いや、今日は試しにカウンセリングを経験してみたいという気持ちで来たので、正直続ける気はまったくない。でも、ひょっとしたら自分はかなり病んでいるのかもしれないし、だとしたら続けたほうが賢明ではないのか? それに、もしも“続ける気はない”と正直に述べたら、カウンセラーが気を悪くするのではないか? う~ん、どう答えたらいいのだろう……」。これが内心の声だった。
その様子を見てとったカウンセラーが「あなただったら自分ひとりでなんとかやっていけるだろうと私は思いますよ」と述べてくれた。私はパーッと明るい気持ちになり、なにか勇気のようなものが湧いてくるのを感じた。最後にカウンセラーが自分の感想として「今日は久しぶりに深い話が聞けてよかった」と伝えてくれた。
お礼の言葉を述べて別れの挨拶をし、面接室を出て階段を下りると、来たときの自分と今の自分とでまったく別人になっているのがよくわかった。大袈裟に聞こえるかもしれないが、全身にエネルギーが満ち溢れ、身体の隅々にまで、細胞のひとつひとつ全部にエネルギーが行き渡っているような感覚だった。体重が10キロ減ったかと錯覚するくらい足取りが軽かった。まるで宙を浮いているような感覚だった。これは紛れもなく、カウンセリングによる効果だった。
「機が熟す」という言い方があるが、私の場合もまさにそれだったと思う。約2年間かけて煮詰めて、煮詰めて、煮詰めたものが、カウンセリングという好機を得て一気に開花したのだろうと思っている。「カウンセリングってすごい!」。それが実感だった。
スキップしたくなるくらいに快活な気分だったので、窓口の事務員さんに笑顔で会釈して、そのまま帰るところだった。そう、面接料の支払いをすっかり忘れていたのだ。慌てて引き返し「面接料はいくらですか?」と尋ねたところ、「決まった金額はありません。お客様が支払いたい額を支払ってもらえれば結構です」という返答だった。この説明には少なからず驚いたし、また困惑もしたが、私は財布から1万円を差し出した。「おつりは?」と聞かれたので「要らない」と答えて立ち去った。
じつは、あらかじめ本を読んで「相場は5千円~1万円である」ということを知っていたのだが、見栄を張ったわけではなく、「こんな経験が得られるなら1万円でも高くはないな」というのが正直な気持ちだった。
以上が私の“人生初のカウンセリング体験”だ。この1ヵ月後にカウンセリング入門講座を受講し、“初めてのグループ・カウンセリング体験”をすることになるのだが、私のカウンセリングに対する熱意と期待とがどれほど大きかったか、以上を読めば容易に想像がつくだろう。
しかし、その“熱意と期待”は、入門講座が開始された3分後には完全に打ち砕かれたのであるが、ことの詳細は機を改めて書いてみようと思っている。