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カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

初めてのカウンセリング体験(その2)

2010年05月02日 | 日記 ・ 雑文
冒頭で私は今日ここへ来た目的と動機を述べた。ひとつは「9月から始まる入門講座に参加申し込みをしたが、その前にカウンセリングというものが実際はどういうものであるのか、どうしても体験してみたかった」ということであり、もうひとつは「うつ状態が長い間続いているし、症状(当時はチック症があった)もあるので、心の問題をなんとかして改善し、働けるようになりたいと思っている」ということだった。
この陳述に対し、カウンセラーは2つの要点を的確にとらえて「これこれこういうわけで、今日ここへいらしたんですね」と応答した。こういうタイプのレスポンス(応答)を再陳述と呼ぶが、正確な再陳述だったので私は「はい。そうです」とうなずいた。

この後、長い長い沈黙があった。私は「カウンセラーが私に対して何らかの援助をするのだから、そのために必要な情報を得る目的で何か質問をしてくるだろう」と踏んでいた。私からすれば、今度はカウンセラーが口を開く番なのだ。しかし、このカウンセラーはずっと目を閉じたままで、口を開く気配がまったくなかった。私はとても困惑した。
カウンセリング経験がなかったとは言え、ある程度のイメージだったら私も持っていた。ハリウッド映画や海外ドラマの一場面だと、広い部屋の片隅に置かれた机に向かって医者がカルテのようなものを書きながら、患者はソファーに寝そべって意味のよくわからない発言を続けている。で、時折り医者が患者の言葉に質問を差し挟む。……とまあ、こんな場面だったら何度も観ていたわけだが、「カウンセリングも似たようなものだろうな」と思っていたのだ。無論、このようなドラマの一場面が「精神分析家による精神分析(自由連想法)のセラピー場面である」ということを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。
要するにこのときの私は「カウンセリングとは、医者と患者が行なうのと同様のものである」と認識していたわけだ。“医者と患者”だったら慣れているし簡単だ。風邪をひいて体調が悪いときは近所の内科で診てもらうのが普通だろうが、医者の前に座ると矢継ぎ早にいろいろと質問される。「熱はあるか? 咳は出るか? 鼻水は?」という調子で。いわゆる問診というやつだ。それが終わると喉の奥を見たり、聴診器を胸に当てたりして、最後に診断を下す。診断がなされれば必要な処方箋が得られる……という具合だ。
ところが、このカウンセラーは私を問診する気はまったくないことがわかった。「どうしたらいいんだろう?」。私はずいぶん長い間悩んだ末に「自分から動かないと何も進展しないようだし、そうしなくちゃいけないんだろうな」と思った。しかし、「何をどう話せばいいんだろう?」というところで再び悩み始めた。そうこうしている内に“今最も問題にしたいこと”、“今最も困っていること”が少しづつ浮かび上がってきて、それがだんだんと喉元まで膨らんできて、ついには口から飛び出そうになるような感じになった。
そこで私は口を開いた。「あのう、話したいことがあるんですが……」と。この間の沈黙は時間にして5分間くらいだったろうか? いや、実際はもっと短かったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。が、私の記憶の中では「ずいぶん長い間沈黙があった」となっている。

堰を切ったように私は話し出した。が、内容はほとんど覚えていない。当時最も困っていた精神的な問題は「積極的な気持ちで何かをやろうとするとき、どういうわけか何かの拍子に否定的な感情(や観念)が生じることがあり、そうなると身動きできなくなる」というものだったように思う。
自分が話した内容はよく覚えていないが、この陳述に対しカウンセラーが「まるでブレーキがかかっちゃうような(んですね)」とレスポンスしたのは鮮明に記憶している。なぜなら、これを聞いた瞬間「そう! まさにその通り! ピッタリ!」という感触を得て、まるで霧がかかってモヤモヤしていた心の内がスーッと晴れていくような経験をしたからだ。このとき私は「何とかして懸命に表現しようとしていた自分の心の働きを、端的な言葉でピタリと押さえることができた」という貴重な経験を得たのである。
カウンセラーのこのようなタイプの応答を“明確化”と呼ぶが、それを知ったのもずいぶん後になってからだ。が、それがクライエントにとってどれほど貴重で、またどれほど効果的であるかを、私は身をもって経験していたことになる。
このことが、後にテキストで“明確化”という専門用語を知ったときに役立ったのは言うまでもない。また、現在では「“明確化”というテクニックで実際に応答するのが、カウンセラーにとっていかに容易ではないか」ということや、「安易な気持ちで“明確化したつもり”になっていると、とても危険なことになりかねない」ということも承知している。

さて、カウンセリング場面での私の話は多岐に及んだが、“明確化された場面”がハイライトだったと言って差し支えないだろう。その他に印象に残っている話題として、「カウンセリングに関心を持ったので、最近本屋で『カウンセリング入門』というタイトルの本を買ってみたが、読み進めていくうちに吐き気をもよおして具合が悪くなった」という話をした。
カウンセラーから「著者名を覚えてないか?」としつこく尋ねられたので記憶しているのだが、「もしもこの人の知り合いだったり、この団体の関係者だったりしたらマズイよなあ」と思ったので、「う~ん、何だっけ……。ちょっと思い出せないなあ……」とシラを切ったのが、笑える思い出のひとつだ(苦笑)。「そこまで気をまわす必要ないだろうに」と今なら思う。
また、話が過去の経験に及んだ場面も印象に残っている。話を聞いたカウンセラーが「さぞかしつらかったでしょうね」と2~3回応答してきたが、その度に私はうつむいたまま黙っていた。カウンセラーの人はたぶん「ええ」とか「はい」とか、何かひと言聞きたかったのだろうが、結局私は「ええ」も「はい」も発することができなかった。なぜなら、もしも「ええ。そうなんです」などと言ってしまったら、泣き崩れてしまいそうになる自分を感じていたからだ。
「ええ」も「はい」も発しないことで、私は過去のいろいろな本当につらかった経験から距離を置き、かろうじてこのときの自分を支えていたのだ。と同時に「もしも“本当のこと”を話したとして、それが理解されなかったら……」という不安や恐怖も頭をかすめていたのであるが……。

面談の最終場面でカウンセラーから「今後も面談を続けていきたいか?」という質問があったが、このときも答えに躊躇してしばらく黙っていた。「いや、今日は試しにカウンセリングを経験してみたいという気持ちで来たので、正直続ける気はまったくない。でも、ひょっとしたら自分はかなり病んでいるのかもしれないし、だとしたら続けたほうが賢明ではないのか? それに、もしも“続ける気はない”と正直に述べたら、カウンセラーが気を悪くするのではないか? う~ん、どう答えたらいいのだろう……」。これが内心の声だった。
その様子を見てとったカウンセラーが「あなただったら自分ひとりでなんとかやっていけるだろうと私は思いますよ」と述べてくれた。私はパーッと明るい気持ちになり、なにか勇気のようなものが湧いてくるのを感じた。最後にカウンセラーが自分の感想として「今日は久しぶりに深い話が聞けてよかった」と伝えてくれた。

お礼の言葉を述べて別れの挨拶をし、面接室を出て階段を下りると、来たときの自分と今の自分とでまったく別人になっているのがよくわかった。大袈裟に聞こえるかもしれないが、全身にエネルギーが満ち溢れ、身体の隅々にまで、細胞のひとつひとつ全部にエネルギーが行き渡っているような感覚だった。体重が10キロ減ったかと錯覚するくらい足取りが軽かった。まるで宙を浮いているような感覚だった。これは紛れもなく、カウンセリングによる効果だった。
「機が熟す」という言い方があるが、私の場合もまさにそれだったと思う。約2年間かけて煮詰めて、煮詰めて、煮詰めたものが、カウンセリングという好機を得て一気に開花したのだろうと思っている。「カウンセリングってすごい!」。それが実感だった。

スキップしたくなるくらいに快活な気分だったので、窓口の事務員さんに笑顔で会釈して、そのまま帰るところだった。そう、面接料の支払いをすっかり忘れていたのだ。慌てて引き返し「面接料はいくらですか?」と尋ねたところ、「決まった金額はありません。お客様が支払いたい額を支払ってもらえれば結構です」という返答だった。この説明には少なからず驚いたし、また困惑もしたが、私は財布から1万円を差し出した。「おつりは?」と聞かれたので「要らない」と答えて立ち去った。
じつは、あらかじめ本を読んで「相場は5千円~1万円である」ということを知っていたのだが、見栄を張ったわけではなく、「こんな経験が得られるなら1万円でも高くはないな」というのが正直な気持ちだった。

以上が私の“人生初のカウンセリング体験”だ。この1ヵ月後にカウンセリング入門講座を受講し、“初めてのグループ・カウンセリング体験”をすることになるのだが、私のカウンセリングに対する熱意と期待とがどれほど大きかったか、以上を読めば容易に想像がつくだろう。
しかし、その“熱意と期待”は、入門講座が開始された3分後には完全に打ち砕かれたのであるが、ことの詳細は機を改めて書いてみようと思っている。
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初めてのカウンセリング体験(その1)

2010年05月01日 | 日記 ・ 雑文
「私が今までに経験したカウンセリングに関連する経験の中で、印象深かったものを記録として残しておこう」と思い立った。ネタはたくさんあるのだが、最初に書きたいのは「人生初のカウンセリング体験(個人面談)について」である。つい先日、4月27日(火)に今年度第1回目のカウンセリング入門講座が開講し、私は世話人としてその場に臨んだわけだが、参加者ひとりひとりの顔を思い浮かべると同時に「自分の場合はどんなだったかな?」ということが即座に連想されたからだ。
現在は“カウンセラー”を名乗っている私だが、人生初のカウンセリングは“クライエントとして”経験した。その経験をひと言で述べるなら、「かつて経験したことのない特別なものだった」と言える。

平成8年8月某日の午後、私の足はJR目白駅から徒歩10分のところにある日本カウンセリング・センターに向かっていた。目的はカウンセリング(個人面談)を受けるためだった。無論「カウンセリングを受ける」というのは、当時の私の意識である。

本題に入る前に、ここに到るまでの簡単な経緯を記しておこう。この時点から約2年前に、私は8年間勤めていた会社をうつ病が悪化したことにより退職した。その後は「人生の意味と価値とがまったく見出せない」という大きな問題を抱えながら、基本的には“うつうつした気分で”毎日を過ごしていたのだった。
そんなある日、パラパラとめくっていた就職情報誌の中の『カウンセラーの仕事とは?』という記事に目が止まった。内容はよく覚えていないが、「カウンセラーというのはこれこれこういう仕事で、こんなにやりがいのある仕事ですよ。あなたもカウンセラーを目指して勉強しませんか?」といったものだったと思う。これを読んだ瞬間、「これだ!」と思った。全身に強い衝撃が走った。「そうか!カウンセリングという道があるではないか!」と直覚したのだった。
さっそくその記事の下に書かれていた問い合わせ先・日本カウンセリング・センターに電話して講座の案内を入手し、1~2週間後には9月から始まる「入門講座」への受講申し込みを完了させた。が、しばらくすると身体がうずうずして止められないような状態になった。9月の開講日まで1ヵ月以上の間があった。私はカウンセリングを体験したくて、はやる気持を抑えられなかったのだ。
そこでさっそくセンターに電話し、「カウンセリングを受けてみたいので、誰でもいいからカウンセラーと面談したい」と伝え、個人面談の予約を希望した。その後事務局とのやり取りが何度かあり、指定された8月某日の午後、日本カウンセリング・センターに向かったのである。

到着すると事務員さんが建物の2階にある面接室を案内してくれた。階段を上りながら、私の不安と緊張は極限に達していた。当時の私は約2年もの間うつうつした状態を続けており、仕事はおろかアルバイトすらしておらず、基本的には無気力な生活を送っていた。このような人に対する呼び名は当時なかったが、今で言う“ニート状態”だったのだ。ゆえに私は自分に対し「なんという情けない人間だろう……」という恥ずかしい思いを抱いており、「カウンセラーの人もきっとこの私を見たら、“情けない人だなあ!”と思うだろうなあ」と想像していた。上述した“不安と緊張”の中身はこれである。

面接室の扉を開けると、そこに腰掛けていたのは初老に近いガッチリした体格のおばさんだった。その瞬間、私の緊張はフーッとほぐれた。「女性でよかった」と思った。あらかじめ男性か女性かの希望は伝えていなかったので、どちらのカウンセラーが待っているのか会うまでわからなかったのだが、内心「女性だったらいいな」と思っていた。相手が男性カウンセラーだと、かなり強い調子で「説得や叱責や訓戒に類する言葉が浴びせられるのではないか?」と想像しており、怯えていたからだ。当時イメージしていた男性カウンセラーというのは、昔通っていた学校の校長先生に近かったのである。

面接室内に入り、その女性カウンセラーとの挨拶を済ませてソファーに腰掛けた。するとカウンセラーが「ここでの話し合いをテープに録音しても構わないか?」と尋ねてきた。私は「えっ?」と思い、しばらくの間返答に躊躇した。「録音する? 何のために? まさか研究のためにカウンセラー仲間に聞かせて、後でアレコレ討議するんじゃ……。そんなことされたら嫌だなあ。でもハッキリと“嫌だ!”と伝えて、この人の機嫌を損ねちゃったらマズイしなあ……。どうしよう……。どう答えたらいいんだろう……」というのが躊躇していた間の心の声だった。
私が返答に困っていたのを見てとったのだろうが、カウンセラーのほうが「他人に聞かせることは絶対にしませんよ。後で自分で聞き返して勉強するために録音したいんです」と伝えてきた。それを聞いて「ああ。だったら構いませんよ」と答えた。小型テレコの録音ボタンが押され、カウンセリングがスタートした。(つづく)
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来年度講座について

2010年02月28日 | 日記 ・ 雑文
例年と比べると新年度講座の案内を完成させるのがだいぶ遅くなってしまった。いろいろな要因が絡んで時間がかかったわけだが、ひとつは「新規講座を立ち上げることになった」という要因がある。
現在行なっている『懇話会~[福祉・医療]と[カウンセリング]~』に加えて、来年度から毎月1回開催する土曜講座を3科目開設することになったのだが、これの調整に手間取ってしまったわけだ。

3科目のうちのひとつ、『東洋思想とカウンセリング PARTⅠ』(第3土曜日)は、思いがけない成り行きで開講される運びとなり、私が世話人を担当することになった。
昨年秋に開催した「シンポジウム ~カウンセリングの学び直し~」に参加した長い付き合いのある友人のひとりから、後日電話で、「あらためて友田先生が示した東洋思想の方向から、カウンセリングを学び直したいという気持ちになった」という話を聞き、即座に「だったら、そういうテーマの講座を新たに立ち上げましょうか?」と応えたのが、そもそもの始まりだった。
その後はトントン拍子で話が進み、理事会でのプレゼン(講座内容と主旨説明)もすんなり通って、あっという間に現実化に至った……というのが経緯である。しかもその理事会で、「そういう内容の講座を始めるなら、それを補足するための講座も新たに設けよう!」という話が飛び出して、『東洋思想とカウンセリング PARTⅡ』(第4土曜日)という講座も開設することになった。
ま、詳細を言えば紆余曲折がなかったわけではないが、センターとしては昨年のシンポジウムで示したのと同様、今後も「カウンセリングの真髄を東洋思想に求めて……」という方向で探求し続けていくことになるだろう。

なお、昨年と同じく『カウンセリング入門』(火曜日・夜間)と『カウンセリング概論』(月曜日・夜間)も引き続き私が世話人を担当する。「今年度もたくさんの同好同志の方々と、ともに学ぶことのできる喜びを分かち合いたい!」というのが現在の心境だ。
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決定論からの解放

2009年12月02日 | 日記 ・ 雑文
11月22日(日)に開催された日本カウンセリング・センター設立50周年記念シンポジウムにて、友田不二男氏が生前「易経はカウンセリングの真髄である」という言葉を残していたことを私は知った。
会場からのこの発言を聞いた瞬間、私の脳裏には様々な思考が駆け巡ったが、その内容を今ここで整理し、言葉で表現することは難しい。しかし、私の胸の内にはそのときの“その感覚”が、タイトルの「決定論からの解放」という言葉と結びついて、現在もまだ残っている。
“その感覚”をより明確にしてゆくために、ここで友田氏本人に登場してもらおう。以下の記述は、最近出版された『友田不二男研究』という単行本に記載されている、あるワークショップ中の友田氏のセリフだ。

『重大な問題というのはどういうことかと申しますと、いわゆる因果論、日本では因果論と言いますが、まあ、向うの言葉で言えば、デターミニズム(Determinism)決定論と言うのですが、因果論という考え方を、日本人は何かしら絶対視しちゃっている。これも一つの人間の考え方にすぎないんだ、という思い方がどうしても出来なくて、また因果論的な考え方が絶対に正しい事みたいに信じ込まされちゃっている。これ、この問題が大問題なんです。なんですと言っても、おそらく大勢の方々には、ピンと来ないんじゃないかと思うんですが。――中略――
大体まあ私が了解してる限りだと、人間が意識するというか、人間の意識に上る問題というのは、常に現在なんです。もう一般的に言って意識なんですがね、これは。思いませんか? まあ易経との関係で言えば、問題と言ったほうがピンと来るかもしらんが。これはもう問題に限らず意識一般が全てそうなんで、これは現在なんです。午前中の意識を今、しているわけじゃないんです。このいわば有機体がこう動いて意識するのは、常にその時点、時点なんです。その意識の中で易経に繋げて言えば、特に重要なのはこの問題になってきますよね。つまり正確に言えば問題意識というやつ、「このままでいいのかしら」と、「おかしな事やったんじゃない、昨日おかしな事やったんじゃないかしら」とか、そういう問題意識が今起こる。
そうするとその問題を解くべく、今日、常識化している動きというのはどういうのかと言うと、この問題はイコール結果になってきて、「原因はその前にあるぞ」という考え方するわけですよね。つまり過去に何だか知らんけど、気がつかんうちに何かとんでもない事やったのが、結果として今この問題になっていると。こういう意識の仕方。ですから何かあると、「その前どうだったんだと、昨日のよく調べてみろ」とか、「帳簿よく調べ直してみろ」とか、「お得意さん行って、昨日こんな事やったんじゃないか」と、「言って謝って来い」とか。つい過去へ過去へと原因を探って、この問題を解消しようとする。つまりここで因果論的思考をしながら、こうやるわけです。
ですからあの、現実的に言うと、問題だけが意識されていて、その原因がわからん連中が、まあ上司なら上司に言うと、経験豊富な上司はピンと来る事があって、「そりゃこうしたからだろう」、だろうがいつの間にか、こうしたからだ、になって大急ぎでその修正にとりかかる。子供が何かおかしくなって、学校に行かなくて困った、というのはこっちなんです。どうして困ったのかというと、いじめならいじめというのが浮かび上がって来て、それが原因となってこう繋がる。「ああわかった」ということになる。こういう発想、これがもう今日一般的な正しい発想になっちゃっている。単なる一つの発想にすぎない、思い方にすぎない、という思い方ができない。もうそれがまさに科学的な正確な正しい発想だ思い方だ、となっちゃう。申し上げてること通じますかな?――中略――
まあ個人的な事言えば、この辺のこと言い出したのが、うん十年前、かれこれ50年前ですか。まあ周り衆からコッテンパーにやっつけられて。「お前のは新興宗教の出来損ないだ」と、「科学が因果論を無視して、科学が成立するはずないだろう。非科学的な者は大学卒業者の資格ねえんだ」と、コッテンパーに怒られた。でも今になると、これがノーベル賞クラスの学者連中によって非常にはっきり否認され始めて、因果論で片付けるのはナンセンスだということにはっきりなって来ている。――中略――
最近の常識的な発想では、今この21世紀を目前にして大事なことは、人間のこの思い方、考え方、いわゆる思考の転換だと。思考の逆転が、これが、これ以外に人類を救う道はないんだと。こういうことがまあ、あちらこちらで言われ始めている。多分そういう言葉は、お聞きになっている方々大半じゃないかと思うんですが。ご記憶でしょうか、そういう言葉聞いた覚えあります? あるいは見た覚えありますか? 機会があるとよく言ってるはずなんですが。
こりゃあまあ、私に言わせてもその通りだと思うんで、もう発想を180度転換しないで、依然としてこの因果論的な、ニュートン物理学的な発想で行ったらば、もう人類全体が気違いみたいになるだろうことは、もう目に見えておる。オーム教のサリン事件みたいな、もうあんなのは当ったり前になって、あっちこっちでボカスカ始まります。そういう世の中が来ると言わざるを得ないんですよ。
こういう、今私がやってるような発想というのは、実を言うとこの問題から出発して、それへの対応を模索する動きなんです。非常に単純化して言えば、過去に原因を探るんでなくて、未来への転換を図る。原因なんかどうでもいい、理由なんかどうでもいい、人間が変われるしかないし、どう変わるかそれを発見してくのがもう、存続に関わる任務なんだと、人類の義務なんだと、言っちゃってもいいでしょう。あえてこんなこと今申し上げるのは、易経というのは、基本的に言って、こっちの考え方なんです。後者の考え方。発想の仕方が全部後者の線なんです。』(友田不二男研究 日本カウンセリング・センター編 P.217~229)

カウンセラーとして臨床経験を積み重ねていくにつれ、友田氏がこのようなセリフによって提起した問題は、私の中でも“大問題”として明確に意識されつつある。現在の私に言えるのはそれだけだ。
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シンポジウム終了!

2009年11月23日 | 日記 ・ 雑文
日本カウンセリング・センター設立50周年記念シンポジウムと記念式典・祝賀会が昨日開催され、ようやくこの大仕事から解放された。厳密に言えばトラブルや混乱やうっかりがなかったわけではないが、「大失敗や大問題は発生しなかった」という意味で、ほっと胸をなでおろしているところだ。
この成功(と一応言っておく)をもたらしてくれたたくさんの協力者、スタッフ全員、講師の方々、そして全国から駆けつけてくれた参加者の皆様に心から感謝している。

正確な数ではないが、当日は180名程度の参加者があった。これには本当に驚いている。というのは、今年3月にシンポジスト(講師)の選定作業をした際に、「客寄せパンダとなり得るような、いわゆる業界の有名人には講師を依頼しない。今回のシンポジウムは自分たちだけの力で、つまり現在のセンターの身の丈で開催する!」という大方針が決定していたからだ。
この方針そのものには賛成していたが、しかし同時に「客寄せパンダはいない。友田不二男もいない。そんなシンポジウムにどれだけの人が参加してくれるだろうか?」という懸念を開催日直前まで払拭できずにいたのが、私の正直な気持ちだったのだから。

当日の私の任務は、第1部:シンポジウムの総合司会と、第2部:記念式典・祝賀会の前半部分(記念式典)の司会だ。もちろん私の本業は司会業ではないので、たどたどしい日本語で何度も噛みながら遂行したわけだから、どう贔屓目に見ても「お粗末な司会だった」と言わざるを得ないだろう。まあ、中には「なかなかいい司会だったよ」と言ってくれた人もいたが。
また、記念式典内で「設立50周年記念事業・出版報告」というかたちでスピーチも行なった。事前に書いて用意した原稿を読んだだけだが、「素晴らしいスピーチだった」という感想を述べてくれた人が一人(!?)いたので、とても満足している。
私個人に対するこれらの評価に、私は「本当にありがたいなあ」と素直に思っている。皮肉はひとつもなかった(と信じている)。カウンセリング関係者というのは、やっぱり人に対して許容的・寛容的な人が多いのだろうか? ……という気もするが。

それから同日発売した単行本『友田不二男研究』(日本カウンセリング・センター刊/3,600円[税込])も予想以上の売れ行きだった。じつはごく身近な関係者の一部には数日前にすでに手渡していたのだが、この出版物に対する感想も続々と私の耳に届いている。現在までのところ、その内容はすべて好意的・肯定的なものだ(もっとも、批判的・否定的な感想は伝えにくいだろうなあ……とは思う)。
繰り返し何度も述べているような気もするが、何しろ「ほぼ4年間を費やして完成させた本」なので、その間の苦労やいろいろな思いを言葉で表現するのは到底不可能だ。が、これらの感想を耳にすると心底から「報われた」という気になる。「この仕事に携わってきて本当によかったなあ!」と、今なら嘘偽りなくそう思える。
売れ行きもまあまあなので、本音を言えば、「この一書が、現在のカウンセリング界に一石を投じるような役割を果たしてくれるといいんだけどなあ」と考えているが、それはちょっと欲張り過ぎというものだろうか。
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上記「冬季ワークショップス」について

2009年11月11日 | 日記 ・ 雑文
今年度から新たな試みとして、12月に「冬季カウンセリング・ワークショップス」を開催することになった。毎年夏に開催されている「夏季ワーク」が今年はどういうわけか盛況だったので、「冬にも開催したらどうか?」というアイデアが浮上し、現実化に至ったわけである。
私は世話人として仙台会場(12月12日~13日開催)に参加することになった。仙台会場のテーマは「出版物『友田不二男研究』を読む」という設定だ。
『友田不二男研究』(日本カウンセリング・センター刊/11月22日発売/定価3,600円[税込])というのは、11月22日(日)に開催される「日本カウンセリング・センター設立50周年記念シンポジウム」に合わせて発刊しようと編集を進めてきた単行本で、「スケジュールにまったく余裕がなく、間に合うかどうか最後までヒヤヒヤした」のだが、昨日の時点でようやく11月22日前に納品されることが判明した。
その出版物を素材にして、多数の参加者とともに「カウンセリング理解をよりいっそう深めていきましょう!」というのが、今回のワークの主旨である。

P.S. 上記した設立50周年記念シンポジウム「テーマ:カウンセリングの学び直し ~これからの半世紀に向けて~」も若干の空席がありますので、希望者は参加申込手続きを早めに行なってください。
申し込み・問い合わせ先 日本カウンセリング・センター ホームページはこちら≫
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単行本 『友田不二男研究』 について

2009年09月03日 | 日記 ・ 雑文
第1回目の打ち合わせが友田先生が亡くなられた同じ年(平成17年)の秋だったので、もうかれこれ4年近くが経過しているプロジェクトである『友田不二男研究 ~日本人の日本人による日本人のためのカウンセリング~』の発行が、ようやくこの秋に実現できる見通しがついた。
私は執筆者の一人として、また実際の編集業務を遂行する編集者として、この仕事に長期間携わってきたのだが、つい先日、ようやく原稿を印刷所に入稿することができたのである。正直に今の心境を表現すれば、「予想していたよりもはるかに激務だった」と言わざるを得ない。ま、それだけに「完成したときの喜びもひとしおだろうなあ」とは思っているが……。

この出版物のコンセプトは、「日本にロジャーズ流カウンセリングを導入し、かつ広めていった友田不二男の業績と人物像を明らかにする」というものである。
現在の日本のカウンセリング界においては、「友田不二男の名と存在は、すっかり忘れ去られてしまっている」かのように私には思えてならない。同氏は生前述べていた。「現在の日本のカウンセリングのレベルは、50年前のロジャーズのレベルにすらぜんぜん到達していない。はるかに稚拙なレベルである」と。
この一書によって、読者はこの言葉の“意味するところ”を実感し、その実感に基づいて“カウンセリングというもの”によりいっそう真摯な態度で取り組むようになってくれるのではないか? と、執筆&編集担当者である私は密かに期待している。と同時にこの一書を通じて、“カウンセリングというもの”をより深く探求し、研究し、実践していこうとする同好同志の方々との交流も深めていけたら……と願っている。
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カウンセラー・スポンジ説

2009年07月20日 | 日記 ・ 雑文

 クライエント・センタードの立場におけるカウンセラーの機能と役割とは、結局のところ何なのだろうか? 突き詰めるとどうなるのか? ロジャーズが言うように「純粋な嘘偽りのない受容的・応答的・共感的な態度で接し続ける人間関係」を経験することによって、それがクライエントの側に「人格の変容もしくは人間の成長をもたらす」のだろうか?
 このあたりの問題、すなわちカウンセリング関係の核心部分に関する現在の私の考えを整理してみようと思う。それが表題の「カウンセラー・スポンジ説」という言葉で象徴されているのである。

 読者の中には、面接記録全部をありのまま文字にしたもの(逐語記録と呼ばれる)を目にしたことがある人や、あるいは面接の録音テープを聞いたことがある人も少なくないと思う。
 これらの記録を素材にした講座や学習会の場面で、「カウンセラーがほんとうに“ただ話を聞いているだけ”でクライエントが変化し成長する」という事実を目の当たりにし、驚きとともに「不思議だなあ」という感想を漏らす人は決して少なくない。
 かくいう私も初めて面接の録音テープを聞いたとき、「なあんだ。カウンセラーって特別なことは何もしていないじゃないか」と思ったし、「こんな程度のことだったら、自分にも簡単にできるだろうな」と思ったものだった(苦笑)。
もちろん現在の私に言わせるならば、「カウンセラーが“ただ話を聞いているだけ”なんて思われたら、とんでもない!」と反論したくなるが。実際1時間の面接が終わるとグッタリして、その場にへたり込んでしまうこともあるくらいだ。要するにカウンセラーは面接中の1時間、「膨大な精神エネルギーを使用して、全心身を最大限に機能させているのだ」と言ってよいだろう。
 が、このような表現で「カウンセラーが何をしているのか?」を実感的に理解できる人はおそらく稀に違いない。そこで以下に“カウンセラーがやっていること”の具体を記しておくことにする。

 よく知られているように(かどうか、本当はわからないが)、クライエント・センタードと呼ばれる立場のカウンセリングでは、5つの中核となる技法が使用されている。1.単純な受容 2.再陳述 3.反射 4.明確化 5.場面構成 の5つだが、このうち“場面構成”は「効果的なカウンセリング場面、もしくはカウンセリング関係を作るために使用される技術」なので、ここでは論旨の関係上ちょっと脇に置かせてもらう。残り4つの技法のうち、“再陳述”は“単純な受容”の高等テクニックであり、“明確化”は“反射”の高等テクニックである、と言ってよいだろう。
 そうすると、カウンセラーはカウンセリング場面において「受容と反射を繰り返しているだけである」と表現して差し支えないと思う。その行為がハタから見れば、“ただ話を聞いているだけ”に見えてしまうのだろうが、仮にそのように見えたとしてもまあ仕方がないかなあ……という気もする。
 もちろん、「受容と反射を繰り返しているだけ」というその“受容”や“反射”をカウンセラーは、「この人にしてみれば、ほんとうにそうなんだろうなあ。そういう気持ちになるだろうなあ。なるほどなあ」というふうに経験しながら応答しているのであって、決して“口先だけ”で言葉を伝えているのではない。このあたりのことは、よく知られている“ロジャーズの3条件”――受容(無条件の肯定的関心)、共感的理解(感情移入的理解)、自己一致(純粋性)――でもって、カウンセリング場面におけるカウンセラーの態度条件が端的に示されている通りだ。

 さて、クライエントの側は、上述の態度条件が満たされているカウンセラーから「受容と反射が繰り返される」という場面を、いったいどのように経験しているのであろうか?
 私の知人でありカウンセリングを学んでいる仲間の一人は、自分のクライエント経験を次のように述べていた。
 「私が胸の内にある悩みや今の気持ちをポソっと言うと、カウンセラーはそれをシュッ…と吸い取ってくれた。そうすると別の何かが浮かんできてそれを言うと、それもまたシュッ…と吸い取られた。私がどんなことをどんなふうに話しても、それらはシュッ…シュッ…と、ことごとく吸い取られていった。カウンセラーはまるでスポンジのようだった」と。
 クライエントの多くは胸の内にたくさんのいろいろな思いを抱えており、いわば“胸がいっぱいの状態で”カウンセラーのもとを訪れる。カウンセラーはそれらの思いや考えに真摯な態度で耳を傾ける。そうするとクライエントは、あたかもそれらが“吸い取られた”かのように経験されるのであろう。そうするとどうなるのか?
 ここから先は仮説になるが、クライエントの心の内にあるものが次から次へと吸い取られたならば、心の中に“何らかの空間(スペース)”が生まれるのではなかろうか? その空間が心の働きをより機能させ、その機能によって“洞察”とか“気づき”などの重大な意味のある出来事が起こり得るのではないだろうか?

 諸富祥彦氏(明治大学教授)はこのあたりの問題について、
『我々が他人に悩みを聞いてもらい、そこで何らかの「気づき」を得る時、我々の注意はむしろ、(聴き手にではなく)専ら自己の内面に向かっているように思われる。我々が一人で思い悩む時、物理的には一人であっても、(比喩的な表現を使えば)心の内側には多くの「自己ならざる自己としての他者」が存在している。そしてそれらの人々の目を気にしたり、何かを言い聞かせられたりしている。つまり、物理的には一人であっても心理的には「ひとりきり」になれないでいるのである。一方、自分の悩みを共感的に理解してくれる聞き手がいる時、我々は、心の中に存在している複数の他者を、言わばいったん相手に「預ける」ことができ、それらから解放され、何者にも邪魔されずに、自己の内面の探索に専心することができる。つまり、心理的に「ひとりきり」になることができる。カウンセリングとは、他者からの共感的理解を得て、そこで初めて内面的に「ひとりきり」になりきることができる、という逆説的な関係なのである』(『“真空”における人格変化』カウンセリング研究VOL.13 P.64 日本カウンセリング・センター 1994年)
 と述べている。要するに「クライエントがひとりきりになれる」というところにカウンセリング関係の意味がある、というわけだ。

 このような考え方は、現在の臨床心理学においてはあくまでも“仮説”に過ぎず、いわば“探求の方向を示している”に過ぎないが、重大な示唆をたくさん含んでいるように筆者には思える。
 私が師事した友田不二男氏は、「成長は現実の環境や人間関係の中で起こったことがないんですよ。それはおそらくひとりぽっちの黙想のようなもの、いわば“真空の中で”起きるんです。宗教的な神秘主義者は、長い間ひとりで黙想しますよねえ。ですから、ひとりぽっちでいる間に何かしら力を強化するようなことがあるに違いないんですよ」と述べたブライアン(仮名)と名付けられたクライエントの発言を支持し、「これはまことに重大な意味を持つ洞察的な表現もしくは提言である。人間の真相はそうでしかあり得ないであろう」と述べ、「さらに言えば、ブライアン氏が発した“真空”(vacuum)は、禅における“無”もしくは“空”と同一視できると思う」と述べている。(『ロジャーズ全集第9巻』P.215、P.236、P.262 岩崎学術出版社 1967年)

 もしも友田の言う通りであるならば、カウンセリング関係においてクライエントが経験する心の内の“空間(スペース)”は禅の“無”や“空”にそのままつながってくるし、“ひとりぽっちの状態”になることは“座禅”や“瞑想”にそのままつながってきそうである。
 となると、「カウンセリングと呼ばれている“何か”は、臨床心理学よりもむしろ宗教の世界(禅仏教など)との関連性のほうが強い」ということになりそうだが、果たしてどうなのか?
 今後も上述した見解を手がかりにして、臨床活動等の実践と経験によって確かめながら、自分自身の歩みによってカウンセリング理解をさらに深めてゆきたいと思っている。
<参考文献:『“真空”における人格変化』カウンセリング研究VOL.13 P.64 1994年 『ロジャーズ全集第9巻』P.215、P.236、P.262 岩崎学術出版社 1967年>

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夏季ワークショップについて、思うこと

2009年06月04日 | 日記 ・ 雑文
日本カウンセリング・センターが主催する今年度の夏季カウンセリング・ワークショップの案内がようやく出来上がり、ちょっと一息ついているところだ。
東京会場は今年から「月火水コース」と「金土日コース」の2コースを設けることになった。地方会場は別にして、東京会場だけは昨年まで、それこそ数十年以上の長きにわたり「平日5日間連続開催」を実施してきたのであるが、その伝統も今年で終わる。
理由は言うまでもない。ここ数年の明らかな傾向として「平日5日間では参加者が集まらなくなってきた」からだ。多忙な現在人からすれば、「平日5日間の休暇を取る」なんて至難の業であろうから、期間が短縮されるのも仕方がないことだと思っているが……。

日本におけるカウンセリング・ワークショップのルーツは、友田不二男、ローガン・ファックス、遠藤勉、堀淑昭の4名が1955(昭和30)年に茨城県日立市大甕(おおみか)で開催した「カウンセリング研究討論会」だ。このワークの開催期間はなんと10泊11日だった。参加者40数名が茨城キリスト教大学内で合宿生活をしながら、最終的にはものすごい熱気を帯びた会合になったと伝え聞いている。
その後、大甕ワークの存在(毎年夏に開催されていた)は、またたく間に全国各地のカウンセリング関係者たちに知られることとなり、“大甕参り”という流行語も生れたそうだ。

数えてみれば、それからもう半世紀上が経っている。
私自身はカウンセリングと出会った頃、10年以上前から東京会場の「平日5日間」に参加してきた。その長期間ワークの中で、まさに“劇的”としか表現できない体験を何度も重ねてきた。そういう私からすれば、期間が短縮されることに対して一抹の寂しさがないわけではない。
とは言え、世話人を引き受けたからには期間が長かろうが短かろうが、その期間に自分の持っている力を出し尽くして臨もうと心を定めている。
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「安いよ~!」

2009年03月15日 | 日記 ・ 雑文
最近まったく日記を書いていないので、我が家の息子(4歳)の近頃についてひとつ。

息子はテレビCMでオモチャなど自分が欲しい物(商品)を見ると、即座に「安いよ~!」とのたまう。それを聞いた私たち夫婦は、顔を見合わせながら苦笑している。……という光景が、最近の我が家の日常だ。
近所のスーパーで買い物をする際、「これは高いなあ。安いからこっちにしよう!」という母親の言動を鋭い視線で観察していたのだろう。高い・安いの意味など、たぶん理解していないのだろうが、「この人(母親)は“安い”と認識したら自動的に買うんだな」と、息子なりに学習したのだろうと想像する。

このような話を公開すると我が家の経済状態がバレてしまうので、なんとも恥ずかしい気がするが、今のところ外車のテレビCMを見ても「安いよ~!」とは言わないのが、せめてもの救いか。
ま、要するに私は“子どもの学習能力というもの”に強い関心と驚きとを抱いているのである。このように書けば、少しは「カウンセラーのコラムっぽい内容」になるだろうか?
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