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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第264話「紀州犬/ガク」(昭和40年~44年)

2007-11-09 | 昔の思い出話
 ガクは大阪の毛利玩具で飼われていた犬であった。しかし、商売の邪魔にならないように狭いところに閉じ込められて運動不足となり、ストレスが貯まってよく吠えるだけでなく、体臭もきつくなってきたらしい。お客の出入りする商売になじまないと放逐されて、当方の新居へ無断で引越しをしてきたのであった。元の飼い主は勝手なもので、こちらには事前に何の許可も求めず、押し付けてきたわけだ。しかしながら、元々、こちらは犬やネコなどの動物が大好きなので、そのまま同居を認めて一緒に暮らすことにした。
 しかし、新婚旅行から帰って2、3週間ほど経った頃であろうか、神戸市灘区の消印のある匿名の郵便はがきが届いた。
  「お宅の犬が夜中に鳴いてやかましい。散歩に連れて出るか、
   鳴かないように何とかしてくれ」
と言う内容であった。どうも近所に受験生が居て、ガクの鳴き声が勉強の妨げになっていたらしい。神戸市灘区まで犬の鳴き声が聞こえたのかとびっくりしたが、どうもそうではないようであった。
 ガクは大型犬である。紀州犬の血が混じっているらしく、体重は人間の大人と変わらないほどだった。ハナの周りだけが黒く、茶色の毛で、耳がピンと立った奥目の男らしい顔立ちの優れたオス犬であった。吠えるとドスの利いた声になった。確かに、この声では、苦楽園口駅辺りまでは届くかもしれないが、まさか、神戸市灘区までガクの声が届くはずは無いであろう。
 もちろん、手紙を読んで、こちらがこの地域への新参者であるし、迷惑をかけているならば、それなりに何とかしなければならないと思った。しかし、手紙を出した相手に謝りに行こうにも、匿名とあればどこへも行けない。匿名とは卑怯なりとも思ったが、原因は当方にあり、ガクを黙らせるか、他の方法で何とかしなくてはならなかった。
 ガクの精神を安定させ夜鳴きを止めさせるため、やむを得ず、時々は散歩に連れて行くことにした。普段から散歩に出たことの無い犬は、散歩に連れられるとうれしくて仕方が無いらしい。主人の意向とは無関係に自分の行きたい方向へ、ぐんぐんと引っ張っていく。大型犬であるから力が強い。一体、どちらが主人か分からない状態で、犬の気持ちの赴くまま、引っ張られて歩くことになる。
 あるとき、ニテコ池近くまで来たところ、庭の垣根越しに、松下邸(松下電器の社長の邸宅)のワン公が数匹出迎えに来て、猛烈にガクをめがけて吠え始めた。ガクは最初はしゃらくさいとばかりに無視していたが、じろりと見るや「ウー・バウ」と一声を発した。親分肌の低い威嚇的な声であった。驚いた松下邸のワン公達は尻尾を巻いて奥へ逃げ込んだ。
 このときは、改めてガクを見なおした。ガクが素晴らしく偉く見えた。まるで自分が松下幸之助氏よりも偉くなったような気持ちにさせてくれる。そのご褒美に、当面、匿名の手紙は無視することとし、一日がかりで精一杯大きな犬小屋を作ってやった。この小屋は大きなガクにふさわしいように、人間一人が寝ることが出来るほど大きな小屋であった。
 また、ガクの餌として、その頃商品化され、世に出回りはじめたばかりの「ドッグビット」と言うブランドのペットフードをやっていた。初めてドッグビットを見たガクは、これ以上うまいものは無いと言う風情で、バリバリと猛烈な勢いで食べた。ところが、三度、三度の食事で、続けて同じドッグビットだけを与えられて3ヶ月も過ぎた頃、さすがのガクも、とうとう、お椀一杯のドッグビットを見ても、ほとんど食欲がなくなった。腹が減ったと鳴きわめいていても、出されたドッグビットを見たとたんに、ぷいと横を向いて沈黙してしまう始末であった。魚ならどうかと、近くの樋の池で釣ってきた鮒を醤油で味付けして餌として与えたときも、全く見てみぬ振りで餌とは認めてくれなかった。その顔つきや仕草が正直で、まるで人間の子供を見ているようであった。
 ガクは極めて人懐こい犬で、一人で居ることにガマン出来ないようであった。いつも人間の傍に居たがった。夏の夕食時、ガクは庭に面して開け放した引き戸をまたいで、台所に向かって片方の前足を床に乗せて、遠慮勝ちに人間の様子を窺がっている。こちらも、片足くらいなら許してやろうと、見て見ぬ振りをしていると、何時の間にか、ガクは両方の前足を床の上に乗せている。黙認して居ると、次に気がついたときには、後ろ足の片方まで床の上に乗せている。最後には、とうとう、前足も後足も完全に床の上に、つまり胴体全体が台所の床の上に乗っかっているのである。庭からいきなり、家に上がり込むと叱られるので、人の顔色を見ながら、そろりそろりと10分も20分もかけて胴体全体にわたって家の中へ上がり込んできているのだ。知能犯であった。ちょうど、小学1年生程度のヤンチャ坊主顔負けの頭の良さであった。
 ガクは1年近く当家に居たが、靴はかじるし、下駄はかじるし、最後には新築の雨戸収納の壁板までめちゃくちゃにかじって修復不能にしてくれた。また、夜鳴きや遠吠えも、収まることがなかった。犬好きで温厚な我々ご主人様もガマンできなくなって来た。さらに、我が第一子の誕生が近づき、赤ん坊に大きな動物が近づいては思わぬ危険も予想されるので、とうとう、ガクを元の持ち主に返品することにした。最後には、われわれの窮状を伝え聞いた元の持ち主から、人が来てトラックでガクを引き取ってもらった。
 後から人づてに聞いた話によると、大阪まで連れ戻されたガクは、大阪城の近くでトラックの荷台から逃げ出したそうだ。逃げるまではよかったものの、そこは誰一人知った人の居ない闇の中であったらしい。真冬の木枯らしの吹く寒い夜であった。何処へ行く当てもないのに、獲得した自由に喜び勇んで大阪城の奥深く姿を消して行ったと言う。
 その後、ガクがどうなったであろうか?人懐こいガクであったが、結果的には大阪城にガクを棄てたと同じことになった。近辺の住民の方には大迷惑な話であったろう。大変申し訳なく思う。拾われて何処かで飼われるようになったかもしれないが、身体が大きすぎて恐がられて人が近づかない可能性も強かった。最後は野犬になって犬取りに捕まるか、飢え死にするか、いずれにしても悲惨な運命も予想される。何故、ガクを返品することにしたのか、暫くは悔やまれて仕方のない日が続くのであった。


第263話「西宮苦楽園口界隈」(昭和40年~44年)

2007-11-08 | 昔の思い出話
 結婚して移り住んだ新居は阪急苦楽園口駅の近くであった。阪急甲陽線で夙川駅から一つ目の駅である。来てみれば、ここは、それまで生活していた大阪都心の喧騒と比べるとまるで月とスッポンともいえる閑静な住宅街であった。夙川沿いの松並木が美しく、春には桜が満開となる。新婚旅行から帰って1週間も経たない内に、この桜がいっせいに咲き出し、満開の桜と緑の大きな松の木の群生の織り成す優雅な世界を出現させていた。
 南北に流れる夙川の苦楽園口の橋から北を眺めると甲山が正面に見える。その昔、中学や高校生の頃、仁川などへハイキングに来て、見慣れた甲山がすぐ側にあった。当時の苦楽園口駅からの西側は駅周辺の一部を除いて、牧歌的でのどかな田園がずっと広がっており、住家もまばらであった。特に樋の池(ひのいけ)町辺りには、今は町名でしか分からないが、その名の通りの樋の池という大きな池があった。自然池であったが、鮒釣り専用の有料の釣堀になっていた。会社の休みの日にはよく釣りに出かけた。釣り場へ行く途中の菊谷町辺りは、田や畑が続き、そのあちらこちらには匂うばかりの田舎の香水の野ツボが点在していたのであった。苦楽園口近くの菊谷町バス停の前には菊谷という表札の付いた大きな門構えの屋敷があった。町名と屋敷に掲げた表札の苗字が同じと言うからには、きっと、昔から何代も続いた名門であろうと、家の前を通るたびに想像を逞しくしていた。この辺りの春のうららかな日差しの下、きれいな水の流れる田圃のあぜ道を歩いていると、上げひばりが高く舞い上がっていく。これが大阪から20キロほどの距離にある世界とは信じがたいものであった。
 苦楽園口駅からすぐ東側の景色も、当時から見るとずいぶんと変わった。夙川公園も次から次へと人手が加わり、自然の景観がかなり失われた。苦楽園口橋も両側に歩道が無い狭い橋であったが、当時は車の通行量も少なく、さして危険や不便は感じなかった。自宅からさらに東の方は名次町という町名で現在も豪邸が並んでいる。民家の密集した我が住処の存する区域とは一線を画した趣がある。その名次町の豪邸の一角に、松下幸之助の名次庵という名の別荘があった。その隣は広大な米国総領事の邸宅に続いていた。総領事の屋敷は現在では転売され、数棟のマンションが建てられるとのことだ。これらの邸宅の前面はニテコ池と言う上水道の貯水池が横たわっており、今でもすばらしい景観が保持されている。ニテコ池の北側には西宮市の満池谷墓地が広がっている。満池谷墓地の隣には西宮市の越水浄水場があり、沢山の桜の木が植えられており、現在でも春には花見客が多く訪れるところだ。
 このような環境に恵まれてはいても、この辺りに住むようになってから、自分は何十年にも渡って、昼間にこの地域を跋扈することはほとんどなかった。初めの頃の朝は、早朝に大阪の薄汚れた工場地帯へ出勤し、1日を炭塵とコールタールと汗で真っ黒になり、ほぼ毎日深夜になってからの帰宅であった。周囲の景色などは余程のことが無い限り、注意して見ることは無かった。自宅はただ単に寝に帰るだけの場所であった。
 市民税や住民税は西宮市に支払いつつも、大阪市の水道水を飲み、大阪市の道路を歩き、ゴミの大半は大阪市に捨てていたのである。その後、この界隈の田園地帯がどんどんと住宅に変り、マンションなども増えて、景観は著しく変った。会社を辞めて、この地域に留まっている時間が長くなって初めて、この辺りの住環境のすばらしさを見直している。そして、あらためて自分は長い人生の後半の現在の自分の幸福を喜んでいるのである。


エジソンと比べたら

2007-11-05 | 徒然草
エジソンの白熱電球って
成功するまで
10000回も失敗したそうな!
10000回!
キミにできるかね?

エジソンの100分の1の努力でも
やってみたら?

そう!
成功するまで
わずか
100回でいいんだよ
ほんの少し頑張ってみたら!


第262話「長崎ちゃんぽん」(昭和40年~44年)

2007-11-04 | 昔の思い出話
 新婚旅行の始まりは伊丹国際空港夕方5時頃発の飛行機であった。披露宴を昼食時間に合わせて行い、終了後、一度、北桃谷の自宅に帰って暫く休憩して、すぐに出発となった。一生に一回の出来事とあれば、荷物もあるし、天気も良くなかったので、自宅から飛行場までタクシーで出かけることにした。
 男は女を守るナイトである、と言う周囲の煽てと彼女を守ってやらなければと言う自負心で、新婚旅行の荷物は彼女の荷物を含めてすべて自分のトランクにまとめた。伊丹空港まではタクシーで事無きを得たが、その後の旅程では重い荷物を一人持たされて、あえぎ歩き始める第2の人生のスタートであった。ここで、徳川家康の名言を思い出す。「人の一生は重い荷物を負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず」と。
 期待していた飛行機は思いのほか何でも無かった。搭乗機は最新鋭のジェット機ボーイング727である。轟音とともに急角度で離陸していく他の飛行機を見て、もし落ちたら、一巻の終わりではないかと思った。この頃の飛行機はよく落ちた。新聞でも、墜落した飛行機に乗り合わせた不運な新婚旅行組が目に付くことがあった。しかし、まさか自分に、そのようなことは起こるまいと言う確信があった。
 昔、大学恩師のQ先生が交換教授として渡米されるときに、「先生、飛行機の滑走中はタクシーのようなものですか?」と聞いたことを思い出しながら、飛行機は飛び立った。常々思うことではあるが、どのようなことでも、その場に出くわすと、想像よりもはるかに穏やかに進行するものであった。このときも、期待に反していささか拍子抜けの快適飛行で1時間を飛んだ。そして、飛行機は諸般の期待に反して雨の飛行場に着陸した。福岡の飛行場周辺はもう真っ暗闇であった。あたふたとタクシーに飛び乗って、博多中津のホテルの名前を告げた。タクシーは初めて訪れるにぎやかな繁華街の宿に停まった。
 宿は大きなホテルであった。新婚とはいえ、自分は一人前の大人として振舞わなければならないと思っていた。通された部屋で、ホテルの仲居が三つ指をついて、正座して、うやうやしくお辞儀をしたときには、500円のチップ(当時の貨幣価値を考えれば結構な高額)を和紙(実はハナ紙)に包んで手渡した。仲居はチップを押し頂いて自分の胸に収めたとき、やっと自分は大人の仲間に入れてもらったような気がした。このとき自分は28歳と1ヶ月であった。
 翌日は、大宰府の天満宮に菅原道真を訪ね挙式の報告をしたあと、これもまた生まれて初めての特急列車一等指定席で長崎に向かった。一等車とはどのようなものか? 一等車とは、当時の常識では、社長か大金持ちしか乗ってはいけないものであった。学生時代には、自分が一生の間に一度でも一等車に乗ることがあると考えたことがなかった。一生に一回の贅沢とはいえ、信じがたい贅沢のように感じた。
 長崎駅に着いて、駅前でこれから宿泊するホテルの場所がわからなかった。重い荷物が指先に食い込むし、「もう何でもエエからタクシーに乗ろう」と思ってタクシーに乗った。乗車後、タクシーはわずか1分でホテルに着いた。振り返って見れば、駅がすぐ近くに見えており、ホテルまで僅か100メートルの距離であった。しかし、上り坂の途中に宿があったので、重い荷物のことを考えると、タクシー代は十分に価値があった。とは言うものの、とんでもない無駄使いをしたのではないかと、罪悪感と良心の呵責で、今でも、時々、布団の中で目を覚ます。
 翌日、長崎名所巡りの観光バスに乗った。観光バスは新婚組ばかりであった。そう言えば、伊丹飛行場から一緒で、一等車の指定席も近くに座っていて、観光バスでも鉢合わせ、と言う組が何組も居て、お互いに顔を覚えてしまうほどであった。中には飛び切り美人で、思わず見とれてしまうような奥さんも居た。これら新婚組は、我々と同じように、日航パイロットのストライキが原因で、旅程のすべてを旅行社に任せた人達であったのであろうか? 
 長崎見物の観光バスが立ち寄ったみやげ物店で、夏みかんの3倍くらいありそうな大きな夏ミカン(ザボン?)を買って、バスの中で食べた。すっぱいものに弱い自分であるが、あまりすっぱいと思わなかった。
 バスから見える景色にはほとんど関心が無く、グラバー亭、原爆記念像など、これまで何度も来たことがある場所ばかりを巡回するので感激はほとんど無かった。次の宿泊地の雲仙も修学旅行で来たことがある場所だ。雲仙は相変わらず、湯気に煙っていて、腐った卵のような硫化水素の匂いに満ちていた。着いたのは夕方もかなり遅かったので、ほとんど外出しなかった。
 雲仙を朝出発して、次なる宿泊地は天草島の本渡であった。本渡では、昼食時に、ヨットや小型の船が一杯停泊している浜辺のレストランで「長崎ちゃんぽん」を食べた。何故、ここで「長崎ちゃんぽん」を食べたか? 昔、次姉のご主人が「長崎で長崎ちゃんぽんを食って、世の中にこんなにうまいものがあるとは知らなんだ」などとしゃべっていたことを思い出したからである。戦後のひもじい時代の話であったが、この頃でもまだまだ腹いっぱい食べること自体が楽しみの時代であった。
 既に一泊した長崎では残念ながら「長崎ちゃんぽん」を試食することなく通過してしまっていたので、ここで「長崎ちゃんぽん」を食べておかねば一生の悔いが残ると思った。天草本渡に至って、亭主の権限で、「長崎ちゃんぽん」を二つ注文した。新婚旅行に来て、「長崎ちゃんぽん」と言うのは、どう考えてもロマンチックではなかったようだ。新婦の食欲を「長崎ちゃんぽん」で刺激することはできなかった。
 今では、自分はラーメン屋でメニューの中に「長崎ちゃんぽん」を見つけると、そこが江戸であろうと浪速であろうと、「長崎ちゃんぽん」を注文する癖がついている。そして、「長崎ちゃんぽん」の味が、この時の味に似て居れば、ふとこのときのことを思い出したりする。
 「長崎ちゃんぽん」で腹ごしらえが済んだ後、昼前に天草本渡を立った。そこから熊本県の三角(みすみ)に渡り、列車に乗って熊本市に向かい、熊本駅で1時間ほど列車の待ち合わせをすることになった。駅前のタクシー運転手に、「2000円で水前寺公園を駆け足で見物して、1時間後の列車に間に合わせて欲しい」と交渉し、実行した。この程度の臨機応変は、この頃から常習的にやっていたようだ。
 その後、アムステルダムでも、パリでも、サンフランシスコでも、誰かと一緒の旅でも、一人旅でも、どこか旅先で1、2時間の待ち合わせが出来ると、タクシーに飛び乗って、駅近くの名所を見て回ることが習慣になった。今から思うと、これは極めて効率の良い習慣であった。タクシー代という投資は決して安くはないが、改めて出直すことを考えると、十分に引き合うものである。そして、そのたびに、水前寺公園を見物している間、タクシーの運転手を待たせて、あたふたと駆け足で見て回ったことを思い出すのである。
 何もしなければ何も思い出すものはないが、何かしておけばそれを思い出す。「するか、しないか迷ったときには、結果の良否は分らなくとも、50%の確率で何かが起こるし、起こらないかもしれない、50%も起きる確率があるならば、実行しないことはない」と言うへ理屈。これがその後にもずっと続いている自分の処世の原則の一つである。
 続いて、熊本から特急列車に乗って、阿蘇の外輪山を眺めながら、別府まで直行した。別府のホテルだけは何故か名前を覚えている。大きなホテルであった。その名は「杉の井ホテル」である。一つの部屋に、洋間と和室があり、豪華版の極みであった。
 翌日の夕方、関西汽船別府航路の「コハク丸」で、瀬戸内海を特別2等船室で横になりながら帰った。高校の修学旅行では「アカネ丸」の畳敷きの雑居船室。今回は「コハク丸」の特別2等。曲がりなりにも個室である。
 日暮れ前、一人デッキに出てみるとカモメの群れが大挙して船尾の日の丸を追いかけて飛んで居た。青い海。オレンジ色に光る夕暮れと船尾に伸びる白い波。夕景色に映える島々。まるで絵に描いたような景色であった。船室に居た新婦に「甲板に出て、きれいな夕日とカモメのジョナサンを見よう」と誘いに行ったが、このときの新婦は旅の疲れもあって気分が優れず同行してもらえなかった。
 翌朝、神戸港に着くと、何と波止場に次兄夫婦が車で迎えに来ていた。何の予告も無く、突然のことであったが、大変うれしかった。次兄は、時々、このような不意打ちで人をびっくりさせる。夜行の旅に疲れた新婚夫婦を、毛利玩具の車で西宮の新居まで送ってくれるためであった。
 新居までの道すがら、次兄との会話である。
  「疲れたやろ? 新婚旅行で何が一番良かったぁ?」
と次兄。一瞬、返答に困った。
  「そやなあ。長崎やったかなぁ。そや、長崎ちゃんぽんが
   一番美味かった!」
と交わす自分。
 新居に着くと、母が数日間の留守番をしてくれていた。新居の掃除も済み、すべてがきれいに片付けられていた。これも驚きであった。頼みもしてないのにと、母の心遣いが身にしみた。その母も新婚夫婦に遠慮して兄の車ですぐに帰った。さらに、驚いたことに、ガクと言う名前の大型の紀州犬までが当家に居候ろうするために、引っ越して来て、新しい主人を待っていた。しかし、この主人は犬と親しく挨拶する時間もなく、翌日は、早朝から、あたふたと出勤して行った。


タフガイへの道

2007-11-03 | 徒然草
常にポジティブに考える
常にエネルギッシュに振る舞う
常に自信があるように見せる
ミスの後は素早く平常心に戻る
絶対に弱さを見せない
絶対に文句を言わない
絶対に愚痴をこぼさない
絶対に否定的な話し方をしない

他人からタフに見えるように行動することが最初だ
タフであるように行動すれば自らタフであるように感ずる
タフであると感ずればタフであることを自ら信ずることができる
自分がタフであると信ずれば負ける確率が激減する
タフへの道の善循環が始動する


第261話「禁止的コスト」(昭和40年~44年)

2007-11-02 | 昔の思い出話
 結婚式は大阪内本町にあった大阪国際ホテルで行われた。大阪国際ホテルは戦後すぐに皇太子殿下(平成天皇)が大阪へ来られた時に、宿所になったほどの由緒ある高級ホテルであったが、場所がキタやミナミの繁華街の中間に位置する中途半端な所にあったので、あまり人気が出ず、現在では廃業となり、その跡形もなくなっている。ただし、我々の住んでいた松屋町筋の住居からは至近距離にあり、親族一同には足の便が良かったので、一も二もなくこのホテルに決めた。
 結婚式の仲人には、ご近所の氷・炭販売業のご夫婦にお願いした。当初、京都大学のP教授に仲人のお願いに行ったが、忙しいと言う理由で断られた経緯は前述の通りだ。大阪大学のQ教授にお願いに行くと、やはり、同様の理由で断られてしまった。しかし、Q先生には主賓でご来臨頂き、祝辞挨拶だけならというお心遣いを頂戴して、何とか面目は維持することが出来た。
 新婦側の主賓は朝日新聞などの文芸評論や解説などで良く名前が登場する高名なJ教授であった。このように、両家の主賓はいずれも超一流であったので、新郎新婦のレベルはともかく非常に格好の良い披露宴となった。J先生のご挨拶はシェクスピアに関する高級なお話であった。しかし、ゼニ勘定の得意な大阪商人の生活からあまりにもかけ離れていたので、参会者一同、目をぱちくりして聞いた。
 披露宴の司会の前半は新婦の父の会社の総務部長をやっておられるベテランの方にお願いし、新郎側からは高校時代の同級生である比良松君にやってもらった。前半は、やや堅苦しい挨拶が続くので、年功ある大先輩に、後半は友人から余興やその他の何が飛び出してくるか分からないので、当方の友人に仕切ってもらうという設定であった。比良松君は弁護士であるから、口頭表現力や押出しには全く遜色がなく、お陰さまで、和気藹々とした、大変垢抜けしたスマートな披露宴となった。
 新郎の友人達の祝辞は、普段の当方の生活振りを暴露するものばかりであった。本人の身から出たサビゆえ仕方のないことである。例えば、友人代表の和草君からは、
  「新郎の毛利君は、高校時代のマラソン大会に弁当だけ持って来て、
   トレパンを持って来るのを忘れはりました……」
 これを聞いた参会者一同からは、「うわははは……」と、大爆笑が破裂した。
大学の同級生で挨拶をしてくれた谷川君や小島君も、会社の先輩や同僚においても、皆さん方、当方の失敗談のネタには事欠かなかった。この時とばかりに、当方が密かに蔵の奥に仕舞っておいた失敗談が遠慮会釈なく棚卸されて、散々な目にあった。
 昔から目の前で凡人が誉められるのは一生に2回しかなく、それは結婚式と葬式の時だけと相場が決まっているそうだが、残念ながら、自分の結婚式では目の前で本人の期待したとおりに誉めてくれる人は一人も居なかった。しかし、それがため座が大変和やかなものになったのは事実だ。その最大の貢献者は新郎本人の普段の行いにあった。自分は、「平素からこの時のために話題作りに励んでおいたのが良かった。平素のずっこけ振りもムダにはならなかった。世の中で大事なことは、やっぱり何もしないよりも何かしておくことにある」と意を強くした。
 新郎はご馳走を沢山食べた。また、酒も沢山飲んだ。他にすることがないので隣席の仲人にビールを注いだり、自分自身で自分に注いで何杯も飲んだ。披露宴での新郎は退屈であった。あのような高いところに座って、何もすることがなく、出来ることと言えば、ただ皆さんの様子をニコニコと見ているだけであった。新婦の様に、お色直しのために席を何度もはずすこともないから、祝辞や挨拶や余興などの人の話をしっかりと聞いたり見たりして、楽しませてもらった。緊張するどころか、何か他人様の結婚式のような気がして仕方がなかった。
 自分は主役として初めてこの場に臨んで、結婚式とか披露宴とかいうものは正直に何とまあ緊張感のない、つまらんものかと思った。自分は大学の教養部で社会学の先生が言っていたことを思い出していた。それは、「結婚式の披露宴の社会的な意義は相互認知にある。即ち、この女はこの男と関係が出来た。他の男はこの女に手を出してはならんのだぞ!と云うことを世に広く知らしめ、お互いに認識を共有するためである。それが現代に至って儀式化したのだ」と言うような話であった。
 しかし、他方で、自分は別のもっと経済学的な理屈を考えていた。「そうは言っても、これだけ多数の人達で構成している社会のことだ。間違ってもわざわざ手出しする者が出て来るほど世界は小さくない。むしろ、このような結婚式は二度としてはいけないぞ!と、わざとお金が掛かるようにして、経済的な制約を課すことによって、式を挙げることを抑止しているのではないか」と考えた。披露宴には、罰金といっても良いほどの費用が掛かるし、準備や何やかやで、貴重な時間を大量に消費する。直接の費用はともかくも、関係者全員の費やした時間をカネに換算すると相当なものとなる。全部の人間がこういうことを何度もやっていては世界が成り立たない。
 苦痛を伴うが、登った後の気分の良い富士登山については、「一度登るカシコ、二度登るバカ」という格言がある。結婚式についても「一度するカシコ、二度するバカ」とでも言うべきか。大抵の人は結婚式や披露宴にカネをかけるのはバカだ、何とかならぬかと思いつつ、小さくはないお金を消費する。この制裁金は安くはなく、そう簡単に繰り返し出費することが出来るものではない。これを禁止的コストと言い、気ままに離婚したり結婚したりさせないようにするための社会が仕組んだ巧妙な制度ではないか。これも長い人々の歴史から生まれてきた生活の知恵かもしれない。などと考えている間に自分にとっても一生に一度の披露宴が終わったのであった。


御社のISOマネジメントシステムは経営に貢献していますか?(2007.11.1)

2007-11-01 | 社長のサプリ
 信じがたいことであるが、ISOの品質マネジメントシステムや環境マネジメントシステムの規格要求を忠実に実行しても自動的に会社の業績が向上したり、環境パフォーマンスがよくなる保障は何処にもない。世間では、ISOの認証を取得したときに、会社を上げてお祝いしたり、営業PRにこれ努めたりと大忙しであるが、認証を取得しただけでは、実際の成果には直結しないのである。このことが世間でほとんど理解されていない。
 ISOの認証は、審査機関が組織のマネジメントシステムにおいて、規格の要求事項を守る手順が確立され、実行されているかどうかを確認して付与するものである。審査機関の審査では主として手順の適合性(規格の趣旨に沿っているか、それが実施されているか)を見て、その有効性をほとんど確認しないし、しようと思っても実際のところなかなか難しい。また、最終の成果であるパフォーマンスについては、審査機関は審査をしないのである。審査機関は組織のマネジメントシステムが管理の手順として維持されているかどうかだけを見ているのである。品質や環境上の成果がほとんど出ていなくても、手順さえきちんと守っておれば、3年でも6年でも、認証登録が継続される仕組みとなっている。
 よく経営者が「うちはISOを取ったのに、一向に成果が出ない」と、ぼやいておられるが、それは言う相手を間違っているのである。成果が出ない真の理由は、自分自身が成果を目的として行動していないからだ。誰に文句を言うべきかと言えば、それは自分自身に言うべきものである。規格には、「目標を作って、継続的に改善せよ」とは書いてある。しかし、「何をせよ、どれだけせよ」とは何処にも書いてない。書いてないことは審査機関と言えども審査できないのである。審査機関は規格の要求事項に沿って、組織が「目標を作って、継続的に改善しているかどうか」に関する管理の手順とその実施だけを見ている。それを勘違いして、審査機関に対して少しでも値切ってやろう、少しでも手を抜いて効率的に進めてやろう、と考えていては笑止千万だ。手を抜けば、その分の成果しか出て来ないのは当たり前のことだ。成果が少なくて困るのは自分自身であり、審査機関ではない。また、組織で実行すべき内容は組織自身が考えないと誰も教えてくれない。それを考えるのが組織の実力であり、売上げなどで組織間に差が生ずる根源なのだ。
 言うなれば、ISOマネジメントシステムと言うものは缶詰の容器に過ぎない。缶詰の中に何を詰めるかは組織が決めなければならない。もし、組織自身に主体性がなく、何をやっていいのか分からぬまま、なるべく手を抜いて認証を継続しているとすれば、お金だけ払って中身のない缶詰を抱かえて、食事しているつもりになっているようなものだ。
 基本的に重要なことは経営者の目的意識である。経営者がISOの本質を理解して、何を何処までやるか自身が決めなければならない。何でもかんでも、従業員に丸投げして、楽をしている経営者の下に居る従業員は、仕事が楽になったと喜んでいるだけである。トップの責任は重大なのだ。
 ISOの登録を開始して3年経ち、更新審査を迎えた時点で、一度、わが社のマネジメントシステムの有効性やパフォーマンスがどのようになっているかを確認して、反省してみる必要がある。下手なISOは社内に官僚主義を蔓延させ、何よりも大事な創造性や改善の活動を阻害する副作用もある。形式的にISOをやっているため、何かやっているような気になって、安心感だけが生じて、実質的には何もやっていない。そのような構図に落ち込むのが最も恐ろしい。ISOがうまくいっていない組織の経営者はそのことに気が付いていない。
 何の成果もなく、副作用があるだけのシステムに膨大なコストをかけて大切に維持しているとすれば、それはお笑いものだ。継続して審査機関のお墨付きがもらえたと安心するためだけでは意味がない。最初は良くても、時間の経過とともに実体がなくなっている可能性だってある。ISOは意識して目的的にうまく使いこなせば大いに経営の役に立つが、経営者に主体的な目的意識がないと、何の役にも立たない竹光の剣になるかもしれないのである。