ガクは大阪の毛利玩具で飼われていた犬であった。しかし、商売の邪魔にならないように狭いところに閉じ込められて運動不足となり、ストレスが貯まってよく吠えるだけでなく、体臭もきつくなってきたらしい。お客の出入りする商売になじまないと放逐されて、当方の新居へ無断で引越しをしてきたのであった。元の飼い主は勝手なもので、こちらには事前に何の許可も求めず、押し付けてきたわけだ。しかしながら、元々、こちらは犬やネコなどの動物が大好きなので、そのまま同居を認めて一緒に暮らすことにした。
しかし、新婚旅行から帰って2、3週間ほど経った頃であろうか、神戸市灘区の消印のある匿名の郵便はがきが届いた。
「お宅の犬が夜中に鳴いてやかましい。散歩に連れて出るか、
鳴かないように何とかしてくれ」
と言う内容であった。どうも近所に受験生が居て、ガクの鳴き声が勉強の妨げになっていたらしい。神戸市灘区まで犬の鳴き声が聞こえたのかとびっくりしたが、どうもそうではないようであった。
ガクは大型犬である。紀州犬の血が混じっているらしく、体重は人間の大人と変わらないほどだった。ハナの周りだけが黒く、茶色の毛で、耳がピンと立った奥目の男らしい顔立ちの優れたオス犬であった。吠えるとドスの利いた声になった。確かに、この声では、苦楽園口駅辺りまでは届くかもしれないが、まさか、神戸市灘区までガクの声が届くはずは無いであろう。
もちろん、手紙を読んで、こちらがこの地域への新参者であるし、迷惑をかけているならば、それなりに何とかしなければならないと思った。しかし、手紙を出した相手に謝りに行こうにも、匿名とあればどこへも行けない。匿名とは卑怯なりとも思ったが、原因は当方にあり、ガクを黙らせるか、他の方法で何とかしなくてはならなかった。
ガクの精神を安定させ夜鳴きを止めさせるため、やむを得ず、時々は散歩に連れて行くことにした。普段から散歩に出たことの無い犬は、散歩に連れられるとうれしくて仕方が無いらしい。主人の意向とは無関係に自分の行きたい方向へ、ぐんぐんと引っ張っていく。大型犬であるから力が強い。一体、どちらが主人か分からない状態で、犬の気持ちの赴くまま、引っ張られて歩くことになる。
あるとき、ニテコ池近くまで来たところ、庭の垣根越しに、松下邸(松下電器の社長の邸宅)のワン公が数匹出迎えに来て、猛烈にガクをめがけて吠え始めた。ガクは最初はしゃらくさいとばかりに無視していたが、じろりと見るや「ウー・バウ」と一声を発した。親分肌の低い威嚇的な声であった。驚いた松下邸のワン公達は尻尾を巻いて奥へ逃げ込んだ。
このときは、改めてガクを見なおした。ガクが素晴らしく偉く見えた。まるで自分が松下幸之助氏よりも偉くなったような気持ちにさせてくれる。そのご褒美に、当面、匿名の手紙は無視することとし、一日がかりで精一杯大きな犬小屋を作ってやった。この小屋は大きなガクにふさわしいように、人間一人が寝ることが出来るほど大きな小屋であった。
また、ガクの餌として、その頃商品化され、世に出回りはじめたばかりの「ドッグビット」と言うブランドのペットフードをやっていた。初めてドッグビットを見たガクは、これ以上うまいものは無いと言う風情で、バリバリと猛烈な勢いで食べた。ところが、三度、三度の食事で、続けて同じドッグビットだけを与えられて3ヶ月も過ぎた頃、さすがのガクも、とうとう、お椀一杯のドッグビットを見ても、ほとんど食欲がなくなった。腹が減ったと鳴きわめいていても、出されたドッグビットを見たとたんに、ぷいと横を向いて沈黙してしまう始末であった。魚ならどうかと、近くの樋の池で釣ってきた鮒を醤油で味付けして餌として与えたときも、全く見てみぬ振りで餌とは認めてくれなかった。その顔つきや仕草が正直で、まるで人間の子供を見ているようであった。
ガクは極めて人懐こい犬で、一人で居ることにガマン出来ないようであった。いつも人間の傍に居たがった。夏の夕食時、ガクは庭に面して開け放した引き戸をまたいで、台所に向かって片方の前足を床に乗せて、遠慮勝ちに人間の様子を窺がっている。こちらも、片足くらいなら許してやろうと、見て見ぬ振りをしていると、何時の間にか、ガクは両方の前足を床の上に乗せている。黙認して居ると、次に気がついたときには、後ろ足の片方まで床の上に乗せている。最後には、とうとう、前足も後足も完全に床の上に、つまり胴体全体が台所の床の上に乗っかっているのである。庭からいきなり、家に上がり込むと叱られるので、人の顔色を見ながら、そろりそろりと10分も20分もかけて胴体全体にわたって家の中へ上がり込んできているのだ。知能犯であった。ちょうど、小学1年生程度のヤンチャ坊主顔負けの頭の良さであった。
ガクは1年近く当家に居たが、靴はかじるし、下駄はかじるし、最後には新築の雨戸収納の壁板までめちゃくちゃにかじって修復不能にしてくれた。また、夜鳴きや遠吠えも、収まることがなかった。犬好きで温厚な我々ご主人様もガマンできなくなって来た。さらに、我が第一子の誕生が近づき、赤ん坊に大きな動物が近づいては思わぬ危険も予想されるので、とうとう、ガクを元の持ち主に返品することにした。最後には、われわれの窮状を伝え聞いた元の持ち主から、人が来てトラックでガクを引き取ってもらった。
後から人づてに聞いた話によると、大阪まで連れ戻されたガクは、大阪城の近くでトラックの荷台から逃げ出したそうだ。逃げるまではよかったものの、そこは誰一人知った人の居ない闇の中であったらしい。真冬の木枯らしの吹く寒い夜であった。何処へ行く当てもないのに、獲得した自由に喜び勇んで大阪城の奥深く姿を消して行ったと言う。
その後、ガクがどうなったであろうか?人懐こいガクであったが、結果的には大阪城にガクを棄てたと同じことになった。近辺の住民の方には大迷惑な話であったろう。大変申し訳なく思う。拾われて何処かで飼われるようになったかもしれないが、身体が大きすぎて恐がられて人が近づかない可能性も強かった。最後は野犬になって犬取りに捕まるか、飢え死にするか、いずれにしても悲惨な運命も予想される。何故、ガクを返品することにしたのか、暫くは悔やまれて仕方のない日が続くのであった。


しかし、新婚旅行から帰って2、3週間ほど経った頃であろうか、神戸市灘区の消印のある匿名の郵便はがきが届いた。
「お宅の犬が夜中に鳴いてやかましい。散歩に連れて出るか、
鳴かないように何とかしてくれ」
と言う内容であった。どうも近所に受験生が居て、ガクの鳴き声が勉強の妨げになっていたらしい。神戸市灘区まで犬の鳴き声が聞こえたのかとびっくりしたが、どうもそうではないようであった。
ガクは大型犬である。紀州犬の血が混じっているらしく、体重は人間の大人と変わらないほどだった。ハナの周りだけが黒く、茶色の毛で、耳がピンと立った奥目の男らしい顔立ちの優れたオス犬であった。吠えるとドスの利いた声になった。確かに、この声では、苦楽園口駅辺りまでは届くかもしれないが、まさか、神戸市灘区までガクの声が届くはずは無いであろう。
もちろん、手紙を読んで、こちらがこの地域への新参者であるし、迷惑をかけているならば、それなりに何とかしなければならないと思った。しかし、手紙を出した相手に謝りに行こうにも、匿名とあればどこへも行けない。匿名とは卑怯なりとも思ったが、原因は当方にあり、ガクを黙らせるか、他の方法で何とかしなくてはならなかった。
ガクの精神を安定させ夜鳴きを止めさせるため、やむを得ず、時々は散歩に連れて行くことにした。普段から散歩に出たことの無い犬は、散歩に連れられるとうれしくて仕方が無いらしい。主人の意向とは無関係に自分の行きたい方向へ、ぐんぐんと引っ張っていく。大型犬であるから力が強い。一体、どちらが主人か分からない状態で、犬の気持ちの赴くまま、引っ張られて歩くことになる。
あるとき、ニテコ池近くまで来たところ、庭の垣根越しに、松下邸(松下電器の社長の邸宅)のワン公が数匹出迎えに来て、猛烈にガクをめがけて吠え始めた。ガクは最初はしゃらくさいとばかりに無視していたが、じろりと見るや「ウー・バウ」と一声を発した。親分肌の低い威嚇的な声であった。驚いた松下邸のワン公達は尻尾を巻いて奥へ逃げ込んだ。
このときは、改めてガクを見なおした。ガクが素晴らしく偉く見えた。まるで自分が松下幸之助氏よりも偉くなったような気持ちにさせてくれる。そのご褒美に、当面、匿名の手紙は無視することとし、一日がかりで精一杯大きな犬小屋を作ってやった。この小屋は大きなガクにふさわしいように、人間一人が寝ることが出来るほど大きな小屋であった。
また、ガクの餌として、その頃商品化され、世に出回りはじめたばかりの「ドッグビット」と言うブランドのペットフードをやっていた。初めてドッグビットを見たガクは、これ以上うまいものは無いと言う風情で、バリバリと猛烈な勢いで食べた。ところが、三度、三度の食事で、続けて同じドッグビットだけを与えられて3ヶ月も過ぎた頃、さすがのガクも、とうとう、お椀一杯のドッグビットを見ても、ほとんど食欲がなくなった。腹が減ったと鳴きわめいていても、出されたドッグビットを見たとたんに、ぷいと横を向いて沈黙してしまう始末であった。魚ならどうかと、近くの樋の池で釣ってきた鮒を醤油で味付けして餌として与えたときも、全く見てみぬ振りで餌とは認めてくれなかった。その顔つきや仕草が正直で、まるで人間の子供を見ているようであった。
ガクは極めて人懐こい犬で、一人で居ることにガマン出来ないようであった。いつも人間の傍に居たがった。夏の夕食時、ガクは庭に面して開け放した引き戸をまたいで、台所に向かって片方の前足を床に乗せて、遠慮勝ちに人間の様子を窺がっている。こちらも、片足くらいなら許してやろうと、見て見ぬ振りをしていると、何時の間にか、ガクは両方の前足を床の上に乗せている。黙認して居ると、次に気がついたときには、後ろ足の片方まで床の上に乗せている。最後には、とうとう、前足も後足も完全に床の上に、つまり胴体全体が台所の床の上に乗っかっているのである。庭からいきなり、家に上がり込むと叱られるので、人の顔色を見ながら、そろりそろりと10分も20分もかけて胴体全体にわたって家の中へ上がり込んできているのだ。知能犯であった。ちょうど、小学1年生程度のヤンチャ坊主顔負けの頭の良さであった。
ガクは1年近く当家に居たが、靴はかじるし、下駄はかじるし、最後には新築の雨戸収納の壁板までめちゃくちゃにかじって修復不能にしてくれた。また、夜鳴きや遠吠えも、収まることがなかった。犬好きで温厚な我々ご主人様もガマンできなくなって来た。さらに、我が第一子の誕生が近づき、赤ん坊に大きな動物が近づいては思わぬ危険も予想されるので、とうとう、ガクを元の持ち主に返品することにした。最後には、われわれの窮状を伝え聞いた元の持ち主から、人が来てトラックでガクを引き取ってもらった。
後から人づてに聞いた話によると、大阪まで連れ戻されたガクは、大阪城の近くでトラックの荷台から逃げ出したそうだ。逃げるまではよかったものの、そこは誰一人知った人の居ない闇の中であったらしい。真冬の木枯らしの吹く寒い夜であった。何処へ行く当てもないのに、獲得した自由に喜び勇んで大阪城の奥深く姿を消して行ったと言う。
その後、ガクがどうなったであろうか?人懐こいガクであったが、結果的には大阪城にガクを棄てたと同じことになった。近辺の住民の方には大迷惑な話であったろう。大変申し訳なく思う。拾われて何処かで飼われるようになったかもしれないが、身体が大きすぎて恐がられて人が近づかない可能性も強かった。最後は野犬になって犬取りに捕まるか、飢え死にするか、いずれにしても悲惨な運命も予想される。何故、ガクを返品することにしたのか、暫くは悔やまれて仕方のない日が続くのであった。


