自分は深夜まで続いた研究室での実験を終えて、北白川の下宿の2階にたどり着き、裸電球の下で一息付いて畳の上に座り込んで新聞を読み始めた。暫く読んで、何気なく新聞の上越しに暗い部屋の向こうを見ると、何だか様子が変であった。開けたはずのない押入のふすまが半開きになっていた。おかしいなと思って周囲を見わたしてびっくりした。
机の引き出しが全部半開きになっている。小ダンスの引き出しも全部開け放たれたままで、下着やセーターが垂れ下がっている。昔、漫画か、映画で見たことがある、泥棒に入られた部屋そのものの状況が我が下宿部屋に展開されているのであった。
「ああ、やられた!」
何あろう。空き巣が入ったのであった。ご丁寧に机の上には、引き出しの奧にしまっておいたはずの京都銀行銀閣寺支店の預金通帳が開けたままで乗っかっていた。空き巣は、大分、思案しながら当方の預金通帳を眺めたようである。そして、それと対になっているはずの印鑑を探したのか。そのために、すべての引き出しという引き出しを、また机もタンスも全部さらえたのであった。自分は、印鑑は見つからないように隠していたので、この空き巣氏は無念にもそれを発見できず、通帳を見ただけで終わったのだ。
他に盗まれたものはないか調べたが、別段無くなっているものは無かった。結局、空き巣は当方の銀行預金だけが狙い目であったらしい。当時、X社から奨学金を貰っていた自分はその大半を貯金に回していた。従って、残高は学生の身分では不相応の高額になっていて、多分20数万円になっていたであろうか。空き巣氏から見ると喉からツバが出るほどであったに違いない。
それにしても、ここで自分としては何かしなければならないと思った。このまま放っておけば世の中から正義が無くなってしまうと思われた。夜も更けていたが、居ても立っても居れなくなり、北白川派出所へ走った。
「すみません、泥棒に入られました、直ぐ来て下さい」
退屈そうにしていた警察官は「すわ事件だ!」と立ち上がった。
「被害は?」
「はい、何もありません、多分何も無いと思います」
若い警察官はがっかりして、椅子に座りなおして面倒くさそうに言った。
「人をオチョクッたら、あかんがな!」
「そうは言うても、部屋の中はすごい有り様なんです。
直ぐに見に来て下さい」
当方の迫力に負けた警察官は不承不承、下宿までついてきた。
警察官は懐中電灯を持っていた。詳しく調べてみると、小さな裏庭の塀には乗り越えた時に付いたらしい泥の足跡が残っていた。さらに注意して調べてみると、縁側の廊下にはゴム靴の土足の跡がそのまま残っていて、階段を通じて点々と2階の当方の部屋まで続いていた。そして、我が部屋の惨状は既に述べたとおり。賊は帰りがけに縁側の風呂場で何か用事をしたらしく、風呂場の中も泥だらけで、雑巾には泥が一杯に付着していた。
警察官と一緒になって、空き巣が歩いた跡を辿っていくと、その一部始終が手に取るように推測されて、ゾクゾクとする興奮を覚えるのであった。
「ところで、ほんまに何にも盗られていないか、
もう一度よく調べてくれませんか?」
と警察官は言った。
その声に従って丹念に調べたが、自分には何一つ被害が発見できなかった。
「ほんまに、何もないんです、すみません」
こちらも警察官に何か悪いことをしたような気がして、つい泥棒の代わりに謝ってしまった。心の中では「何か盗んで行ってくれても良かったのに」と思ったりした。立命や同志社の学生ならいざ知らず、当時の京大生は貧乏に決まっていた。殆どの学生は、家に金がないから苦労して競争して授業料の安い国立大学へ進学してきたのだ。本来なら、その学生に余分の金などあろうはずがない。自分はたまたま1年近く前から、会社の奨学金を貰っていたので例外的に貯金があっただけのことだ。その自分の部屋に決め打ちのように狙って入った空き巣は内部の事情に詳しい人間に違いないと思った。
口が軽くて冗談が大好きであった自分は、不用意にも、
「大学で実験が忙しいて、暇もないのに、奨学金もろて
困っとるんや。わはははは。しゃあないから京都銀行に
全部貯金しとるんや。がははははは...」
と自慢げにしゃべった可能性は否定できなかた。
「被害がなかったらしょうないわ。この事件は無かった
ことにしとくよ」
そう言って、警察官は残念そうに帰って行った。
机の引き出しが全部半開きになっている。小ダンスの引き出しも全部開け放たれたままで、下着やセーターが垂れ下がっている。昔、漫画か、映画で見たことがある、泥棒に入られた部屋そのものの状況が我が下宿部屋に展開されているのであった。
「ああ、やられた!」
何あろう。空き巣が入ったのであった。ご丁寧に机の上には、引き出しの奧にしまっておいたはずの京都銀行銀閣寺支店の預金通帳が開けたままで乗っかっていた。空き巣は、大分、思案しながら当方の預金通帳を眺めたようである。そして、それと対になっているはずの印鑑を探したのか。そのために、すべての引き出しという引き出しを、また机もタンスも全部さらえたのであった。自分は、印鑑は見つからないように隠していたので、この空き巣氏は無念にもそれを発見できず、通帳を見ただけで終わったのだ。
他に盗まれたものはないか調べたが、別段無くなっているものは無かった。結局、空き巣は当方の銀行預金だけが狙い目であったらしい。当時、X社から奨学金を貰っていた自分はその大半を貯金に回していた。従って、残高は学生の身分では不相応の高額になっていて、多分20数万円になっていたであろうか。空き巣氏から見ると喉からツバが出るほどであったに違いない。
それにしても、ここで自分としては何かしなければならないと思った。このまま放っておけば世の中から正義が無くなってしまうと思われた。夜も更けていたが、居ても立っても居れなくなり、北白川派出所へ走った。
「すみません、泥棒に入られました、直ぐ来て下さい」
退屈そうにしていた警察官は「すわ事件だ!」と立ち上がった。
「被害は?」
「はい、何もありません、多分何も無いと思います」
若い警察官はがっかりして、椅子に座りなおして面倒くさそうに言った。
「人をオチョクッたら、あかんがな!」
「そうは言うても、部屋の中はすごい有り様なんです。
直ぐに見に来て下さい」
当方の迫力に負けた警察官は不承不承、下宿までついてきた。
警察官は懐中電灯を持っていた。詳しく調べてみると、小さな裏庭の塀には乗り越えた時に付いたらしい泥の足跡が残っていた。さらに注意して調べてみると、縁側の廊下にはゴム靴の土足の跡がそのまま残っていて、階段を通じて点々と2階の当方の部屋まで続いていた。そして、我が部屋の惨状は既に述べたとおり。賊は帰りがけに縁側の風呂場で何か用事をしたらしく、風呂場の中も泥だらけで、雑巾には泥が一杯に付着していた。
警察官と一緒になって、空き巣が歩いた跡を辿っていくと、その一部始終が手に取るように推測されて、ゾクゾクとする興奮を覚えるのであった。
「ところで、ほんまに何にも盗られていないか、
もう一度よく調べてくれませんか?」
と警察官は言った。
その声に従って丹念に調べたが、自分には何一つ被害が発見できなかった。
「ほんまに、何もないんです、すみません」
こちらも警察官に何か悪いことをしたような気がして、つい泥棒の代わりに謝ってしまった。心の中では「何か盗んで行ってくれても良かったのに」と思ったりした。立命や同志社の学生ならいざ知らず、当時の京大生は貧乏に決まっていた。殆どの学生は、家に金がないから苦労して競争して授業料の安い国立大学へ進学してきたのだ。本来なら、その学生に余分の金などあろうはずがない。自分はたまたま1年近く前から、会社の奨学金を貰っていたので例外的に貯金があっただけのことだ。その自分の部屋に決め打ちのように狙って入った空き巣は内部の事情に詳しい人間に違いないと思った。
口が軽くて冗談が大好きであった自分は、不用意にも、
「大学で実験が忙しいて、暇もないのに、奨学金もろて
困っとるんや。わはははは。しゃあないから京都銀行に
全部貯金しとるんや。がははははは...」
と自慢げにしゃべった可能性は否定できなかた。
「被害がなかったらしょうないわ。この事件は無かった
ことにしとくよ」
そう言って、警察官は残念そうに帰って行った。


