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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第228話「空き巣」(昭和34年~40年)

2007-08-16 | 昔の思い出話
 自分は深夜まで続いた研究室での実験を終えて、北白川の下宿の2階にたどり着き、裸電球の下で一息付いて畳の上に座り込んで新聞を読み始めた。暫く読んで、何気なく新聞の上越しに暗い部屋の向こうを見ると、何だか様子が変であった。開けたはずのない押入のふすまが半開きになっていた。おかしいなと思って周囲を見わたしてびっくりした。
 机の引き出しが全部半開きになっている。小ダンスの引き出しも全部開け放たれたままで、下着やセーターが垂れ下がっている。昔、漫画か、映画で見たことがある、泥棒に入られた部屋そのものの状況が我が下宿部屋に展開されているのであった。
  「ああ、やられた!」
 何あろう。空き巣が入ったのであった。ご丁寧に机の上には、引き出しの奧にしまっておいたはずの京都銀行銀閣寺支店の預金通帳が開けたままで乗っかっていた。空き巣は、大分、思案しながら当方の預金通帳を眺めたようである。そして、それと対になっているはずの印鑑を探したのか。そのために、すべての引き出しという引き出しを、また机もタンスも全部さらえたのであった。自分は、印鑑は見つからないように隠していたので、この空き巣氏は無念にもそれを発見できず、通帳を見ただけで終わったのだ。
 他に盗まれたものはないか調べたが、別段無くなっているものは無かった。結局、空き巣は当方の銀行預金だけが狙い目であったらしい。当時、X社から奨学金を貰っていた自分はその大半を貯金に回していた。従って、残高は学生の身分では不相応の高額になっていて、多分20数万円になっていたであろうか。空き巣氏から見ると喉からツバが出るほどであったに違いない。
 それにしても、ここで自分としては何かしなければならないと思った。このまま放っておけば世の中から正義が無くなってしまうと思われた。夜も更けていたが、居ても立っても居れなくなり、北白川派出所へ走った。
  「すみません、泥棒に入られました、直ぐ来て下さい」
退屈そうにしていた警察官は「すわ事件だ!」と立ち上がった。
  「被害は?」
  「はい、何もありません、多分何も無いと思います」
若い警察官はがっかりして、椅子に座りなおして面倒くさそうに言った。
  「人をオチョクッたら、あかんがな!」
  「そうは言うても、部屋の中はすごい有り様なんです。
   直ぐに見に来て下さい」
当方の迫力に負けた警察官は不承不承、下宿までついてきた。
 警察官は懐中電灯を持っていた。詳しく調べてみると、小さな裏庭の塀には乗り越えた時に付いたらしい泥の足跡が残っていた。さらに注意して調べてみると、縁側の廊下にはゴム靴の土足の跡がそのまま残っていて、階段を通じて点々と2階の当方の部屋まで続いていた。そして、我が部屋の惨状は既に述べたとおり。賊は帰りがけに縁側の風呂場で何か用事をしたらしく、風呂場の中も泥だらけで、雑巾には泥が一杯に付着していた。
 警察官と一緒になって、空き巣が歩いた跡を辿っていくと、その一部始終が手に取るように推測されて、ゾクゾクとする興奮を覚えるのであった。
  「ところで、ほんまに何にも盗られていないか、
   もう一度よく調べてくれませんか?」
と警察官は言った。
 その声に従って丹念に調べたが、自分には何一つ被害が発見できなかった。
  「ほんまに、何もないんです、すみません」
 こちらも警察官に何か悪いことをしたような気がして、つい泥棒の代わりに謝ってしまった。心の中では「何か盗んで行ってくれても良かったのに」と思ったりした。立命や同志社の学生ならいざ知らず、当時の京大生は貧乏に決まっていた。殆どの学生は、家に金がないから苦労して競争して授業料の安い国立大学へ進学してきたのだ。本来なら、その学生に余分の金などあろうはずがない。自分はたまたま1年近く前から、会社の奨学金を貰っていたので例外的に貯金があっただけのことだ。その自分の部屋に決め打ちのように狙って入った空き巣は内部の事情に詳しい人間に違いないと思った。
 口が軽くて冗談が大好きであった自分は、不用意にも、
  「大学で実験が忙しいて、暇もないのに、奨学金もろて
   困っとるんや。わはははは。しゃあないから京都銀行に
   全部貯金しとるんや。がははははは...」
と自慢げにしゃべった可能性は否定できなかた。
  「被害がなかったらしょうないわ。この事件は無かった
   ことにしとくよ」
そう言って、警察官は残念そうに帰って行った。
  
  

第227話「人生は不可解なり」(昭和34年~40年)

2007-08-15 | 昔の思い出話
 子供の頃から駄洒落が好きだった自分は外見的には全く快活に振る舞っていた。しかし内心は決して幸福感に満たされていなかった。何かしら世の中が理屈通りでなく、理解できないことが多いと感じていた。学生の身分では時間がふんだんにあるから、つい色々なことを考えてしまう。この頃、自分の頭を悩ませていたことの一端を綴っておく。
 フランス革命は自由、平等そして博愛を旗印に勝ち取られた。フランス革命を歴史として勉強すると、王権神授説に対する市民革命の旗の下、自由、平等、博愛が勝ち取られたことになっている。しかし、この世の現実をあらためて考えてみると、これら三者の間には常に矛盾が存在するのであった。
すなわち、力ある者の自由を許せば平等が阻害されるのだ。金持ちはその自由を利用していくらでも金持ちになれる。一方、貧乏人はお金がないだけの理由で自由がなく、何もすることが出来ず、益々貧乏になっていく。貧乏人には、自由があると言われても、現実には何もできない。そこには自由など存在しないのも同じである。
 また、平等を追求すれば自由の抑制は不可避となる。皆が等しく富の分配を受けようとすると能力のある者の活動を抑制し、富のある者から富を奪い取らなければならない。政府の強権で意欲旺盛な実力者から富を奪い、働く意欲なく怠けている者に富を再分配することが必要となる。これも馬鹿げている。
 博愛に至っては、一方的な博く人を愛する人間の自己犠牲の下でのみ成立するもので、全員に博愛の精神があればお互いに持ちつ持たれつで問題ないが、一人でも博愛の精神のないものがいると、一方的にその者に利益が吸い取られるだけとなる。やがては馬鹿らしくなって、現代は一部の奇特な人を除いて、ほぼみなが博愛を諦めたような状況だ。
 この様に本質的に、自由、平等、博愛は相互に矛盾するに関わらず、世の中は立て前を前提に動いて、これらの大義の確立が出発点になる。それぞれ個人の心中は自分の利益だけが目的であるに関わらず、絶対にそれを言わないし、言わせない。実に巧みに人のため、世のためと言いながら自己の利益を引き出していく。特に、政治の世界では、新聞ダネに事欠かない日常がいやでも目に付くのである。
 この頃になって、やっと理解が進み始めた認識論に至っても、悩みの種は尽きなかった。唯物論の見方に立てばすべてが明快に割り切れた。自然科学においては、正しくその考え方で世界が構築されているように見えた。観察できないもの、目に見えないもの、証拠のないものは信じない。この頃の自分はほぼ95%、唯物論を信奉していた。
 一方、観念論は極めて不可思議ながら、世の中の大多数の人がむしろこちらの方を信じているように思えた。先ず宗教がある。神様など見たことも聞いたこともない人が神様を信じている。信ずることにより信念という心の拠り所を持って生きていける。また、その信念が信ぜられることで、長い時間の間には、不思議とそれが実現する。時には病気が本当に治ったりする。観念論にもそれなりの存在の根拠があるように思われる。完全に捨てきるには早い。5%の余地は残しておかねばならぬ。と言うのも、自分が信じようとしている唯物論もそれを突き詰めていくと、最初の開始点には、やはり神様の力の存在を仮定しないと、物そのものの起源が理解できないのである。物そのものが存在すると言っても存在が始まる前には何か行為があったはずだ。唯物論にも、やはり、よく分からない部分が残るのである。
 話は変わるが、数学で2次元や3次元の世界を勉強して、更に多次元にまで理解を進めていくと、多次元は3次元を含み、3次元は2次元を含み、2次元は1次元を含んでいることが分かる。逆に1次元の世界に住む者には永久に2次元の世界が理解できないし、2次元では3次元の世界が理解できない。ひょっとすると、この世の中は多次元の世界であるのに、人間はたまたま、3次元の認識能力しか与えられていないのかも知れない。従って、人間は神様の住んでいる多次元の世界が永久に認識できない可能性がある。まして、修行の足りない自分などは3次元の理解のみで全世界が分かったような気になっているだけかもしれない。
 数学を更に勉強すると、ラプラス変換やフーリエ変換と言うものにぶち当たる。このラプラス変換が当初はわかりにくくて困ったが、機械的にその技法だけを論評抜きで勉強している間に、段々と一つの世界観が掴めてくるような気がした。我々が通常、認識できる世界は時間軸と3次元の方向軸からなる世界であり、例えばラプラス変換のような一定の処理を施すと、時間軸が標準化されて全く別の次元の世界に変換される。その場はもう一つの理屈の下で成立している世界であり、通常の世界と完全に1対1で対応している。丁度、ソフィーが鏡の向こう側に見たもう一つの別の独立した世界なのだ。
 表の世界と裏の世界は、ただ単純に1対1で対応しているだけではない。表の世界ではごちゃごちゃに絡まって何が何だか訳が分からないことでも、裏の世界に変換して考えを整理すると、一直線の道を行くが如く極めて単純な理解が可能となる。この様な抽象化した、目には直接見ることが出来ないラプラスの場という世界を発見した数学者ラプラスには脱帽の至りであるが、凡人には全く見えない世界が見える神様的な人もこの世には居るのである。
 この様に、これまで知らなかった歴史や数学や哲学の勉強を進めていく内に、世の中は矛盾だらけで、しかも自分の理解を超えたことが多すぎて、果たして、自信を持ってこれからの人生を無事に生きていけるのか、本当に心細く自信がない気持ちに襲われてくる。昔、「人生は不可解なり」と遺書を残して、華厳の滝から跳び降りた哲学青年藤村操や玉川上水に愛人と一緒に跳び込んだ天才文人太宰治の話を聞いたりすると、この世の中が本当に生きるに値するものか、いろいろな疑問が狂おしくも頭の中を回り始める。死を選んだ先人達は何を考えて、この世から決別する決心をしたのであろうか。ひょっとして、鏡の向こうの真の世界を垣間見て、現実の世界に絶望したのではなかろうか、結局、何も知らないバカだけが生きて残っているのではなかろうか、などと考え始めるとキリがなかった。
 快活に振る舞っている昼間の自分が居る一方、深夜の下宿で物思いに耽って寝付けない自分を比べて見ると、その矛盾の間に一層のこと思い切って死んでしまいたいような気持ちに襲われるのであった。ただ、自分にはその資格がなかった。勇気がなかった。死ぬことが恐かった。死ぬときはきっと苦しいだろう。痛いだろうと言う想像が常に先行した。

  

熟年不老作戦

2007-08-14 | 徒然草
死に際の一休禅師曰く
「昨日まで他人のことと思いしに
今度はおいらかこいつはたまらん」

来る日も来る日も
起きては仕事して眠る毎日
人生とはまあこんなもんだろうが
どうせ死ぬなら
笑って楽しく明るく暮らしたいね
どうせ死ぬからと
何もしない生き方を選ぶなら
もう既に死んでいるのと同じだからね

死の間際まで
感動して
興味持って
工夫して
健康で
恋もする
そんなカキクケコ人生を
駆けぬけて行きたいもんだ
最後の最後まで
イキイキぴんぴん生きたいもんだ

※カキクケコ(感動、興味、工夫、健康、恋)の出典:大島清著「大島清の不老の探求-若さを創る「脳と体」の鍛え方」PHPエル新書(PHP研究所)


人間世界の鈍感力って?

2007-08-13 | ネコの気持ち




ネコって言うのはね
して欲しくないことを
して欲しくない時にされるのが一番いやなんだ
だからワンちゃんのように
行きたくないときにガマンして
ご主人の散歩になんて絶対行かないよ
それとね
して欲しいことを
して欲しい時にしてくれないのもいやなんだ
だからご主人様にはゴロゴロ喉鳴らして
擦り寄って行ってスリスリするんだ
だが 最近 鈍感な主人が増えてきて一寸いやになってる!
世の中 鈍感力が大事とか何とか言ってさ!
にゃんとかならんのかね?
ところで どこかの国の総理大臣
最高点だった支持率が落ち始めたとき
ちょっとガッカリしたこと あったっけ?
それを慰めるためか 後継者に指名した前総理が言った
キミ 少しは鈍感力も必要だ とね
ところが この一言 今ではすっかり板に付いたみたいだ
完全に固有のパーソナリティーになっちゃってる
ひょっとして生まれつきの素質だったの?
何を見ても 鈍感力
何を聞いても 鈍感力
選挙で惨敗しても 鈍感力
日本国中メッチャ騒いでも 鈍感力
自らの内閣の支持率が底を這っても 鈍感力
鈍感力もここまで実践されれば お見事なもんだ
ネコの我輩もちょっとビックリしてる
この話 これからどーなるかちょっと楽しみだね
自民党ぶっ壊すと言ってやれなかった前総理
でも 心配ご無用
次の総理が本当に自民党をぶっ壊し始めたみたい
ホントの改革が始るって期待出来るもん!
鈍感力でここまでやれれば大したもんだ
国宝級だよ
この総理 若いけど案外大物かもしれん
鈍感なネコがネズミに逃げられたら生きては行けんが
この国の人間社会 鈍感な方がいいみたいだ
これから先のこと 俄然 楽しみになってきた
ニャんとも面白いご時勢だ
どれどれ 
居眠りしながら高みの見物させてもらうとしようかな?


心の諸相

2007-08-12 | 徒然草
病気を予防する世界一の医者
それは、明るく、前向きに生きようとする心
嘆きや悲しみの最良の癒やし手
それは、人のことを我がことのように深く思いやる心
人生最悪の牢獄
それは、人を恨み、嫉み、意地悪く考え、不安を集める心
平和と幸福を運ぶ速達宅急便
それは、人に好意を持ち、ともに楽しみ、認めあう柔軟な心



「メンタル・タフネス」

2007-08-11 | 読後感
この飛行機 どうかしている
離陸 遅れている
オレ もう30分も前に乗り込んでいる
何だか手間取っているらしい
のろまな整備員の野郎のせいか
間抜けなパイロットのせいか
何時まで経っても飛び立とうとしない
乗客の荷物に問題があったのか
一緒に乗るVIPが間に合わないのか
ちゃんと説明しろ
この航空会社 阿呆じゃないか
オレ 座席に座っていらいらしている
降りかかる災難が次から次へと思い浮かぶ
このままでは交渉相手との約束に遅れる
折角のチャンスを逃す
出世が遅れる
家族や友人に見放される
思えば思うほど 腹わたが煮えくり返る
だが 何もできない
外へ連絡も出来ない
自分に可能な状況を変える方法は何もない
思いはさらに続く
しまったなあ!
別の日に行くと決めていたら良かったのに
別の航空会社にしていたら良かったのに
もう一つ早い飛行機にしていたら良かったのに
ちくしょう ちくしょう こんちくしょう
呼吸が激しくなる
心臓が早鐘を打つ
消化器官がねじれる 痛む
脳神経系が引き攣れる
イライラが喉から出そうになる
だが 怒るな!
一歩下がって冷静に見よ!
怒っていらいらしても遅れることに変わりはない
怒れば自分の寿命を縮めるだけだ
怒ってみても損するのはオレ様だけだ
じたばたするな
遅れることは既に決まっていることだ
済んだことだ
盆に返らぬ覆水ならば無視をせよ!
大切なエネルギーはこれから出来ることに使え!
これってストレスなのか?
ストレス?
そんなものはこの世にはない
あったとしてもさっさとゴミ箱に捨ててしまえ!
深呼吸しろ!
怒りを鎮めろ!
出来ないことにイラつくな!
出来ることに専念せよ!
飛行機が遅れて着いた後の善後策を検討せよ
代わりのチャンスがないか考えてみよ
今座席で出来る仕事があれば即それを実行せよ
何もすることなければ目を瞑って睡眠を取れ
先のことが気にかかるなら予定変更を考えろ
暇なら乗客の顔を眺めて心理学の研究をせよ
あと何分で飛行機が飛ぶかクイズして遊んてみろ
飛行機が遅れたくらいで世の中は何も変らぬ
明日の朝になれば太陽は間違いなく東から昇る
そう言えばこの前も飛行機が遅れたっけ?
なのに 
何のトラブルも起きなかった!
対処できない失敗の結果などこの世にはないのだ!
ストレスなんて
ゴミ箱へ叩き込めばそれで全部済んでしまうのだ!

※ J.レーヤー、P.マクラフリン著「ビジネスマンのためのメンタル・タフネス」(阪急コミュニケーションズ)


第226話「電子計算機」(昭和34年~40年)

2007-08-10 | 昔の思い出話
 世は手動計算機全盛時代ではあったが、計算機の技術は確実に前進していた。ある日、博士課程の中町さんから声をかけられた。
  「制御工学の先生が、アナログ型計算機の研究をやっている
   らしい。我々の研究に使えるかもしれないので見に行こうと
   思っている。見たけりゃア、毛利君、一緒に連れて行って
   やるよ」
 その頃の自分は、電気で動く計算機は機械式でがちゃがちゃとすさまじい音を立てて動くものしか知らなかったので、せいぜいそのようなものを想像して好奇心半分で付いていった。制御工学の先生はラジオを裸にしたような配線盤を前にして、得意になって説明してくれた。黒板に簡単な微分方程式を書いて、「今から、この微分方程式を解いてみることにします」と言って、作業を始めた。
 計算機にはキーボードが一切なく、配線プラグの差し込みを付けかえるだけの操作である。ラジオのキャビネットを外して裸にしたような外観であった。
  「微分方程式をこの通り配線します。抵抗とコンデンサーを
   連結するだけの簡単なものですわ。ほれこうやって、初期
   条件に合うように配線して、後は、上流側の端子に電流を
   流せば良いだけですよ!」
と言って、スイッチをプチンと入れた。すると、その横の地震計のような記録計がすっと紙を送り始めるではないか。
  「この記録紙の波型が微分方程式の解ですよ」
 素人の自分には不可解千万。目を白黒させるだけであった。確かに、アナログ型の電子計算機と言うだけのことがあり、微分方程式の解も紙の上の曲線で表される代物であった。自動制御用には、これで良いであろうが、とても計算機として使用が出来るようなものではないと思った。
 暫くして、また、中町さんから声が掛かった。今度は、ディジタル型電子計算機の話であった。
  「KDC-1と言うディジタルコンピューターが京大でも
   試作されたんや。プログラムの講習会があるから、希望者
   は行っても良いとのことや。君も一緒に行かんか?」
 自分は、まだ電子計算機時代の到来に気が付かないでいた。とにかく、アメリカで第2次世界大戦中に真空管のお化けのような電子計算機を作ったと言う話を聞いていたくらいだ。それは大きなビルのワンフロア-を占める代物であったらしい。京大でも先端的な専門の先生居られて電子計算機を試作していたようだ。KDC-1と言うのは京都大学のK、ディジタルのD、コンピューターのCの、それぞれ頭文字を取ったもので、その試作1号機をKDC-1と言ったのであった。
  「一寸忙しいので、遠慮しときますゎ」
 この時の自分の遠慮が大失敗であったことは数年後に気がついた。この時代、音もなく電子計算機時代が忍び寄っていたのである。この頃のコンピュータのプログラム言語は機械語に近いアッセンブラー言語であった。ソロバンのように機械内部の専用メモリーに計算すべき数値を置いて、それに加えたり引いたりする。ADD(加算)とかSUB(減算)とか言う命令語で機械に指示するのだ。ソロバンがやることをそのまま機械にやらせるだけであった。その概念や方法論が分かっておれば、比較的理解もしやすいが、そのようなことを見たこと聞いたこともない頭には、何のことか雲を掴むような話であった。
 その後、暫くして、その時のプログラム解説書を見せてもらった。自分ひとりで勉強しようと思ったが、全く歯が立たなかった。中町さんに「何のことかさっぱり分かりません。諦めます」と宣言せざるをえなかった。
 中町さんは、
  「一番初めのことは、人から一寸聞いておくだけでエラく
   違うもんや。なんでも一人で一からやろうとすると苦労が
   100倍になるんやなぁ。自分もあの時の講習会のお陰で
   何とかなったけど、初めから一人でやっていたら永久に
   分からんかったかもなア!」
と言うことであった。
 あの難しいレオロジーの偏微分方程式を小指の先で扱う尊敬する中町さんでもそう言うことなら、自分には当然分かるはずがないと諦めた。初めて自分の前に現れた電子計算機とのお見合いは、かくのごとくボンクラの新郎の怠慢で破談に終わったのであった。
 折角の幸運の女神が直ぐ目の前に現れていても、意識せぬ頭には気がつかないものだ。また、通り過ぎた幸運の女神には後ろ髪がない。後から追いかけて捕まえようとしてもいたって困難であった。

  

第225話「手動計算機」(昭和34年~40年)

2007-08-09 | 昔の思い出話
 昭和37年の頃の話である。未だ、電気式の計算機すら高価で普及せず、計算には専ら算盤が幅を利かせていた。この時期を10年ほどさかのぼる我々の子供の頃は現代の子供が塾へ通うのと同じような動機で、算盤(そろばん)教室や習字教室へ習いに行った。寺子屋時代から続いていた読み、書き、算盤の算盤教室である。算盤の出来る人は算数もよく出来るようになるので、余裕のある親は子供に算盤を習いに行かせた。勿論自分の家は子供に算盤を習わせるだけの経済的余裕がなかった。
 算盤教室の前を通ると、中から先生の声が聞こえてくる。
  「ええ、御破算(ごはさん)で願いましては....、3千8百5十万飛び.....」
まるで早読みのお経のように節のついた先生の声が聞こえてきたものだ。自分も習いに行きたいと思ったことがしばしばあったが、思っただけで終わった。
 大学生になり、化学機械の演習問題でいやになるほどの手計算をやらされたときには、本当に参った。算盤が出来る人を本当に羨ましく思った。ただ、技術的には高度な計算をする必要があったので、対数表がなくては仕事にならなかった。
 自分の場合、計算は殆ど計算尺を使った。計算尺は安物では用が立たず、先生からは外国製のヘンミを使うように指示があったが、国産のリレーが安かったのでそちらを使った。それでも当時では破格の値段で、一本2000円ほどする高級品である。通学鞄の中には常備品として必ず計算尺をしのばせていた。
 恵まれた研究室には電動機械式の計算機があった。すさまじい騒音でがちゃがちゃと算盤がやる計算を機械が行うのである。しかし常備の電動計算機の台数は潤沢でなく、いつも誰か先輩が使っていた。後輩の自分達はタイガー社の手動機械式の計算機を使った。これも計算方法は算盤と同じであり、大変、手の疲れる方式であった。
 化学機械製図で必要な計算は、専ら、計算機や計算尺に頼った。手計算で行うと間違いも多く、驚くような計算結果が出る。その通り図面に書いていくと思いもかけない形の図面が出来上がり、後から計算違いであることを発見することがある。数字だけを見ていては間違いが分からないが、絵に描くと良く分かる。
 化学機械製図では、水蒸気を発生させる3重効用缶の図面を描いたことがある。何も考えずに溶接記号を適当に書き込んでいると、江口先生が覗き込んで、
  「はあ、これは駄目ですねえ、これでは人が一人、中で
   死にますよ」
と言われる。
 何のことかときょとんとしていると、先生の説明では、すべての溶接が缶の内部から仕上げることになっていて、作業する人がタンクの内部に閉じこめられてしまうとのことであった。あまり考えることをせずに設計をするとその様なミスが至るところで出てくる。素人とは本当に恐ろしい。
 暇なときは、よく手動のタイガー式計算機をおもちゃにして遊んだ。ストップウォッチで1分間に何回、そのハンドルを回すことが出来るかの競争をするのである。負けないように必死に頑張るが、やはり運動神経の発達した人は生まれながらにして俊敏であった。

  

第224話「研究生活」(昭和34年~40年)

2007-08-08 | 昔の思い出話
 京都大学工学研究所は本部構内の中央部東の隅にあった。新しくできた衛生工学科が土木工学と化学工学の寄り合い所帯のようなこともあって、化学機械学科から衛生工学科に出向いた人達も直ぐ近くにおられた。文献の輪読会(勉強会)等でも交流があった。
 工学研究所の南側の一番東よりの2階に我が研究室があり、その一室に4年生の自分にも一応机があてがわれた。学生の分際で研究室に机が持てるというのは、ある意味では研究者としての人格が認められたということで夢のような嬉しさであった。
 授業のないときはこの机に座って卒論の構想を練るか、他の人の実験を手伝うか、はたまた、新聞や週刊誌を読んで個人的な特別研究を行うか、何れにせよ、そこにいて暇なことは全くなかった。その様なわけで、夏休みといえども、いっぱしの研究員になったつもりで毎日研究室に出ていたのであった。
 当時は、未だコピーと言っても湿式のコピー機で反転用の原紙を作り、そこから青焼きを作るリコピーの2段構えになっていた。この原紙を作る機械の名前をトーコープと言い、作業は暗幕で仕切られた暗室で行うのであった。大学の研究室では先生や先輩や自分自身の勉強のためにずいぶん多くのコピーを取らねばならなかったので、コピー取りは研究室の最下級生である我々4回生の仕事になっていた。特に夏の暑い日は狭い風通しのない暗室で汗みどろになってコピーを取った。コピーは失敗が多いもので、1ページのコピーに平均して30秒ほどの時間が掛かった。コピー機の調子の悪いときは大変であった。
 トーコープは昔の洗濯機の絞り機のような二本のローラーが付いている。このローラーの間に濡れた二枚合わせのコピー用紙を通す。透明の薄い方の紙がリコピー用の原紙となるが、これに皺がよるのである。機械のご機嫌が悪いと何度やっても失敗が続く。人間が機械に振り回されてしまう。1ページのコピーをとるのに10回ほどやり直して、やっと1ページということになる。たかが10ページの文献と言っても、全部コピーをとるのに優に30分かかることがある。
 この頃、自分は以下のような戯れ詩を作って憂さを晴らしていた。

  俺は京大生
  人も羨む工学部の学生さ
  仲間が先生から
  トーコープを頼まれたら
  手伝いに行き
  はたまた先輩から
  リコピーを頼まれたら 
  応援に駆けつける
  俺が頼まれても
  助けてくれる仲間はいるさ
  ヴァイスヴァーサ
  その仲間意識が素晴らしい
  おかげさまでこの俺ときたら
  学校にいる半分の時間は
  リコピーとトーコープの前に居る
  大げさに言えば
  リコピーとトーコープは
  俺の全生活の半分を占め
  俺の一日の気分は
  リコピーとトーコープの
  その日の調子で決まる
  俺の生活のトータルから
  パチンコとマージャンを取れば
  残り少ない貴重な時間が
  リコピーとトーコープの餌食となる
  リコピーとトーコープは
  一歩も引かぬ鉄の力で
  俺の時間をむさぼり
  俺は残されたわずかの時間に
  やっとの思いで
  生協の冷や飯を食らう
  直ぐシワの寄るトーコープ
  直ぐ紙が詰まるリコピー
  額に汗してやり直す忍耐力
  強靭な精神力函養のチャンス
  リコピーとトーコープが得意なこの俺は
  忙しくて 忙しくて
  悩んでいる暇など全くない
  これぞ人が羨む京大の
  俺の毎日の大学生活

 工学部の学生で4年生になり研究室に入ってしまうと、ドクターや修士の先輩、それに助手、助教授の先生方の研究のための下働き、言い換えれば、手元であった。勿論、自分の卒論研究のためもあったが、大抵の場合、それは別の先輩の博士論文や学会への発表論文でもあり、そこには目に見えない二重構造があった。雑用も研究修行の一つであった。徒弟制度の最下層に居るのが我々4回生である。その時の不満を極めて淡泊に表現したのが上記である。
 前に記したように、自分の卒論は早々に出来てしまったので、三石先生は別にもう二つの課題を自分に課した。何れも、レオロジーのテーマで、一つはカメラ2台で立体写真を撮ることであった。これはガラスの管内に対象の流体と微細な気泡を流し、その気泡の立体写真を撮影することで、管内の流れの速度分布を測定しようとするものである。流体は当時流行のノンニュートニアン流体であり、CMCと言う薬品を水に溶かして作る。この研究テーマは、先生の頭の中には構想だけしかなく、実験装置のアイディアを含めて一切、最初から作って行かねばならない代物で、残りの半年の間に研究の全体構想を作り、テスト装置を組み立て、データー取得をスタートさせるという所まで進めることは全く無理な話であった。
 それでも色々な文献を読んで、如何に立体写真を撮るべきか勉強をしたが、写真のことや写真機を固定して動かす旋盤の送り機構のような構造、また気泡の作り方等について、十分な検討が出来ず、途中で投げ出してしまった。何分にも研究についてはずぶの素人の悲しさで、一人に任されてしまっては、ほいほいと仕事が出来るだけの能力が未だ出来てはいなかった。
 地図を作るための航空写真ではカメラ2台で地表を撮影し、その画像のずれから地面の高低差を識別するらしい。又、カメラは任意の場所に焦点を合わせるため、旋盤の送り機構と同じものを歯車を組み合わせて作る、気泡はポンプの回転軸に針穴を開けておけば空気が勝手に入り込む、等のヒントは貰った。
 しかし、自分は大阪の商売人のせがれとして育ち、旋盤を見たことも手で触ったこともなく、又カメラにしても趣味に出来るほど裕福ではなかったので、いわゆる写真機に関する常識がなく、何も手が付かぬまま日時が過ぎ去り、結果的にはこの課題に対しては何もすることが出来なかった。
 もう一つの課題は、レオメーター(液体の粘度測定器)を購入して、各種濃度のCMC溶液の基本物性、すなわち粘度を測ることであった。これは測定装置を購入し、試験サンプルを調整して測定するだけなので、時間さえあれば容易に出来るものであった。CMC溶液を作って、色々な温度や条件を設定して粘度を測定する。非ニュートン流体なので、粘度と言っても簡単ではなく色々な異常現象が起こった。この測定は同級生の岩端君や蘇我君が研究で扱う物質の基本物性を与えるものであった。
 自分の卒論は既に出来上がっていたので、後はレオメーターを操作して粘度を測定したり、追い込み時期には彼らの研究の手伝いをすることが自分の仕事の主要部を占めることになった。難しい方の課題を投げ出した弱味のある身分なので、同級生や先輩の手元として頑張ることは不可避であった。しかし、気分的には極めて楽であり、鼻歌や冗談を連発して、大抵の人が苦しむ4回生の後半を駄洒落三昧で過ごした。しかし、4回生と言えども、まだ教室で履修すべき単位がかなりあったので、後期の試験の折は卒論のための実験と試験勉強の両方をこなすことが必要であった。
 後期の試験は寒い2月の冬の最中なので、たまたま、風邪を引いてしまい下宿で寝込んだことがあった。下宿で寝ていると、昼間、外から岩端君の呼ぶ大きな声がする。
  「毛利君、先生が怒っとるぞ、実験サボって、自分だけ
   下宿にこもって試験勉強をするのはけしからん言うて...」
 何と先生は自分がずる休みをしていると考えているらしい。この時は死ぬほど頭にきた。これまでも自分は自分のあらゆることを犠牲にして、人のために働いてきている。この数カ月も他人の卒論のため毎日徹夜に近い手伝いをしている。それが分からずに、本当に風邪で寝込んで熱を出して苦しんでいる真面目だけが取り柄の学生に対して、出て来いとは何事かと思った。しかし、大学では学生たるもの、先生の命令には逆らえない。
 それで、その時は、ふらつきながらもオーバーを着て、自転車に乗って、レオメーターを運転するために研究室へ出向いたのである。一切、先生には弁解をしなかったが、試験勉強で秘かに良い成績を取るために、下宿に閉じこもっていると思われたことは心外だった。
 先生と顔を会わせたとき、先生は自分に対して、
  「毛利君は自分一人で卒論が出来たと思っているかも知れんが、
   あれが出来たのは、私がちょっとサジェストしたからだ。
   君でなくても誰でも出来るんだ。自分のことだけ考えたら
   いけないね」
と言われた。
 自分には言いたいことが山ほどあったが、相手は先生であり、当方は沈黙したままであった。

  

第223話「会社奨学金」(昭和34年~40年)

2007-08-07 | 昔の思い出話
 4年生の5月ごろに教室事務所の掲示板に企業からの奨学生の募集案内が張り出された。この頃は高度経済成長が軌道に乗り始めた時期でもあり、就職戦線は文科系の学生には未だ厳しかったが、技術系の学生は完全な売手市場であった。企業は技術系の学生については将来の人事の計画などは無視して、とにかく学生を確保することに血まなこになっていた。
 廊下に張り出された奨学生の募集案内の中にX社の名前を見つけて何故か気になった。いつの頃からか、自分は就職先として秘かにM石油にしたいと思っていた。また、東京に本社のある会社には何故か興味が湧かず、出来れば関西の会社にしたかった。
 自分が専攻している化学工学を有効に活かすには石油精製会社が好ましいと思い、また拠点が四国松山や和歌山など西の方に工場があるM石油に秘かに心を寄せていたのである。何か話があれば乗ってみたいと思っていた矢先、たまたまX社の奨学金の募集があった。考えてみればX社もエネルギー会社であり、また本社が大阪にあり、M石油と同じような条件ではないかと考えたのであった。
 しかし、突然、降って沸いたような話しに飛びついて、それが好きになれない会社であっては困るとも思い、X社が好きになれそうかどうか暫く考えてみることにした。テレビでときどきコマーシャルが出て、X社の名前が出ることもある。その都度、頭の中にX社のイメージを思い浮かべたが、そのイメージはどうもダサくて、そう簡単に好きになれそうになかった。しかし、奨学金申し込みの締め切りが迫ってくるし、内容が破格的に良かったので困った。殆ど大学卒の初任給に近い金額が遊んでいる学生に毎月支給されることになるのであった。
 思い余って、主任教授の水科先生に相談に行った。
  「X社の奨学金をもらいたいのですが、よろしいでしょうか?」
先生は、
  「同級生の大中君も希望しているので、直ぐに約束は出来ないが
   申し込みだけはしてみたらどうかね!」
と前向きのご返事がいただけた。
 自分としては、奨学金を貰うだけであり、就職ではないと簡単に考えていたが、そうは問屋が卸さなかった。奨学生になるには書類選考ではなくて、面接試験があるのであった。
  「申し込んでも気にいらなければ、試験にはわざと落ちたら
   ええんや。誰もまだ正式に奨学金をやると言ってないし、
   勿論、就職試験でもないし...」
と、例の化学工学で勉強したトライアンドエラーの思想を浅はかにもここに適用してしまったのである。つまり、やってみて駄目なら仮定をやり直して、再度挑戦すれば宜しいと言う思想である。極めて都合の良い悩むことの少ない思想であり、如何にもアメリカで育った学問のバックボーンになる哲学であった。
  「はい、先生、それでは申し込みしますので、先に進んだ節には
   宜しくお願いします」
と頭を下げて引き下がった。
 ところが、びっくりしたことには、実はこれが事実上の入社試験であった。青田刈りでない証拠として、就職試験とは会社も大学も一言も言っておらず、表面的には、あくまでも奨学生の募集を装っていた。暫くすると、会社から面接試験と身体検査を実施するとの通知が来た。通知に従って本社へ出向くと、入社試験と見まがうばかりの顔ぶれで面接試験に臨まれ、こちらがびっくりしたのであった。
  「ところで、君は何故当社に目を付けたのかね?」
と言う質問があった。
 自分はまだX社に就職する意思を決めていなかったが、質問されれば答えざるを得ない。真面目に答えた。
  「日本経済の根底には常にエネルギーの問題があります。
   このような場で将来、自分としては思いきり仕事が出来たら
   大変嬉しいと思います」
この返答は相手に満足を与えたようであった。次いで二の矢が飛んできた。
  「石油は枯渇するかも知れないし、その時のエネルギー問題は
   どうなると考えているのかね?」
 自分は意外と平静であった。元々、就職試験と言う意識が当方にはない。小遣い銭として奨学金が欲しかっただけのことだ。頭は比較的すいすい回転した。
  「石油は何れ枯渇します。30年もすれば大きな問題に
   なる可能性があります。自分はその後、必ず、石炭の時代が
   来ると思っています。石炭は300年は大丈夫と聞いています。
   X社は都市ガスの原料としてずっと石炭の技術を培ってこられ   
   たし、その備えは他のエネルギー会社と比べれば遥かに有利に
   出来ているのではないでしょうか」
 この答えも、極めて面接者に満足を与えたようであった。この面接試験の時期は昭和37年であった。未だ石油というエネルギーすら本格化していない。国の基幹エネルギーは石炭であり、流体革命というキャッチフレーズのもとに、石炭から石油へと技術革新が進み始めたばかりであった。自分としては、たまたまその時期に読んだ本の聞きかじりで、気楽にずいぶん大胆なことを言ったものである。現実には、石油の後で都市ガスは全面的に天然ガスに転換するなど、ガス会社の専門家ですら考えが及んでいなかった。
 最後に、
  「君の信条を言ってくれたまえ」
と来た。 自分は普段思っていることを正直に言った。
  「弁証法的唯物論です」
相手はぎくっとしたようであった。ここで自分は次のように言ってその場を逃れた。
  「私は自然科学を学ぶ者です。自然科学を深く研究していくと
   唯物論から抜けだすことは出来ません。人間の認識において
   唯物論の主張する主体としての客観性を否定すると科学は成立
   しなくなります。マルクスは社会科学に弁証法的唯物論を取り
   入れましたが、これは私の信条とは関係がありません。
   マルクスは社会科学に唯物論を便宜的に取り込んで一つの実験を
   しただけです。自然科学と社会科学とは別のものだと思います」
 企業では共産主義者が嫌われていることは知っていた。従って、社会科学へ適用される唯物論への言及は絶対に避けるべきだと思っていた。しかし、心の中ではそうではなかった。当時の自分は共産主義革命はあり得ると思っていたし、また社会科学の場でも弁証法は適用できると信じていた。また、もし、日本で革命が起こっても、エネルギーは国の基幹産業であるから、企業としてはつぶれることが絶対にないと思っていた。この発想こそがエネルギー会社に自分の目を向けさせた第一の原因に他ならなかったのである。
 X社の身体検査も懇切丁寧なものであった。生まれて初めてベッドの上で横たわって、胸部の断層写真を取られた。自分の身体に何か異常でもあったのかと心配になった。「たかが、奨学金やないか。不都合があったら落ちたらええんや。それにしてもあの大層なX線撮影はいったい何のためやろか?」と不安に駆られた。変なことは考えないように努めようとしたが、面接試験の結果の発表までは心が落ち着かなかった。結果は合格であった。断層写真も異常無しという所見であった。この結果、一月2万円(大学院に進んでからは2万5千円)の奨学金が頂けることになった。この金額は当時の初任給とほぼ同額であった。X社に就職すれば返却不要。他社に就職するときには全額返却と言う条件である。
 その後3年間に渡り、毎月大阪淀屋橋の本社人事部へ奨学金受け取りに出向いた。この定期的な訪問は自分をしてX社への就職を最終的に決定させるのに大きな影響を与えた。通っている間にX社への違和感が消えていった。
 その後、この事実が既得権になり、同級生の競争者が遠慮してしまった。また、総額40数万円の一括返却が経済的に極めてきつかったので、そのまま、入社となった。自分にとっては、まさしくこの時が入社試験であったのである。大学院に進学して、その時期が来て、改めて当方から入社の意思を表明したときには、入社試験や面接試験は特に何も行われることなく、そのまま採用と決定した。緊張感のない極めて気楽な奨学金の選考試験だけで入社が決まった。

  

第222話「卒業論文」(昭和34年~40年)

2007-08-06 | 昔の思い出話
 間もなく、4年生になって専門の講座(研究室)に配属されることになった。どの講座に属するべきかについては、全く知識が無く、就職さえ出来れば何処でも良いという感じであった。実際、先生の説明では講座と就職先との関係は皆無であるとのことであった。
 自分は何も分からなかったので、名前の印象だけで希望を選択した。元々は石油会社へ行きたいと思っていたので、蒸留や物質移動をやる第2講座が良いと思った。しかし、大学院へ進学する場合は、原則として一旦講座を変らなければいけないことになっていたので、4回生は腰掛であり、何処でも良いというムードがあった。 この頃は原子力産業や技術の勃興期でもあり、自分は原子核化学工学と言う名前に魅せられて、何をするところかも分からないまま、それを第一希望とした。その希望が叶って、京都大学工学研究所の中にある研究室に配属されることになった。一応、化学機械学教室第一講座の水科研究室所属ではあったが、三石助教授が担当しておられて、三石研と呼ばれ、第一講座からは場所も組織も完全に独立していた。
 ここでは、原子力そのものの研究よりも、重水の蒸留による分離、放射性廃液の処理等が研究テーマとなっていた。配属は岩端君と蘇我君の計三人で本部の化学機械教室から隔離された別室の雰囲気があった。
 三石先生は当方のことを勉強が良くできると評価してくださっているようであった。何が根拠かは分からないが、ときどきその様な発言をしていただいた。そのためかどうか、この講座では一生懸命にやって、人の役に立ちたいという殊勝な心がけで臨むことになった。先生の期待に背くことは絶対に出来ないと思った。
 4年生は一応最終学年なので、テーマとして卒業論文がある。卒業論文が大変なことは大学に入学する前から聞いていたので、初めからしっかりと頑張る覚悟は出来ていた。三石先生から頂いたテーマは「段塔による放射性微粒子の湿式除去に関する研究」と言うもので、その研究目的は放射性廃液の処理にあった。これは実験を伴うものではなく、理屈をこねくり回すだけで論文にするものであった。段塔で必然的に発生する飛沫同伴による効率の低下を数学的に解析して定量的に予測するものである。
 このためには微分方程式ではなく、差分方程式の知識が必要であった。そして、何よりも先ず、現象を解析して解ける形の差分方程式を作ることが一番の課題であった。差分方程式なる言葉はこの時に初めて接することになったが、これは独学で勉強した。微分方程式の拡張編のような位置づけで余り困難はなかった。しかし、電子計算機のない時代のことゆえ、代数的に解ける形になるように差分方程式を編み出すことは一朝一夕に出来ることではなく、前期の夏休みが終わる頃までは、朝晩の区別無く必死になって苦しみ抜いた。
 なるべく早く、卒論の課題の端緒を掴みたい。もしこのまま続けて何もできないまま半年が過ぎると卒論は完成しない。卒論が出来ないと留年だ。焦る気持ちにさいなまれながら、何処から答えを見出せばよいか、盛夏の夏休み中を悩み抜いた。この時の当方の焦りの気持ちを理解してくれる人は誰もいなかった。人と顔を合わせると「夏休みは何処へ遊びに行った?」とか、人によってはいきなり「学生さんは暇があって宜しいな!」と羨ましがられたりした。
 その様な中で日記の切れ端には次のようななぐり書きがしてあった。

   自分の頭の悪さを忘れている汝よ
   余りいい気になるな
   余りいい気になるな
   既にお前は
   本来あるべきお前から
   一歩も二歩も後退している
 
   いい気になって
   怠惰をむさぼっている
   自分の頭が如何に悪いか
   再び身にしみるまで
   ずっと、いい気でいるのか

   「おい!」  
   余りいい気になるな
   
   お前の目指す目標は
   いや更に遠く
   お前の足どりは
   目標へ一歩たりとも進んでいない
   お前はここで
   休息の安逸をむさぼり
   怠惰にふけって
   歩くことをやめてしまうのか

   そんなお前になってはいけない

   お前の足はのろくとも
   一歩一歩踏み固めて
   絶えず前進せねばならない
   お前こそ
   怠惰な群衆のただ中にいても
   我慢して
   頑張り抜いて
   前進する人間でなければならない

   自分の頭の悪さを再認識せよ

   頭の悪さを克服するために
   今のお前には
   一瞬の休息も
   与えられては居ない

   何が何でも努力する
   人が何と言おうと努力する
   俺には俺流の生き方がある

   努力は楽しいこともあるが
   死にたくなるほど苦しいこともある
   そんな時
   そんな時こそ
   人知れず歯を食いしばって
   努力しようではないか

   俺は真価を人に見せるために
   生きているのではない
   自分で自分の真価を見るために
   生きるのだ

   人の評価は放っておけ
   人はどうせ
   この俺よりも
   この俺のことをよく知らないのだ

 夏休みも終わりに近づいたある時、工学研究所の屋上で岩端君達の研究の手伝いの作業をやっていると、三石先生が素っ頓狂な声を上げて、
  「毛利君、毛利君、こうやったら出来るのではないか!」
と紙切れに書いた数式を持って追いかけて来られた。勿論、単なるヒントに過ぎず、答えが既に出来ていたわけではない。しかし、その考えを推し進めると確かに何かが出来そうな気がするものであった。大きな一歩前進を先生から教えていただいた。
 それからと言うもの、約一月、殆ど夜も眠らずに紙の上に差分方程式を、書いては行き詰まり、書いては行き詰まり、と呻吟する毎日が続いた。そして、ある日、工学研究所の自分のデスクで、飽きもせず、ああでもなくこうでもないと、式をひねくり回していると頭のどこかにひらめくものがあった。その差分方程式の内の、ある項をアルファと置き、別の項をベーターと置いて整理すると、まるで嘘のように式が簡単になり、代数的に解けるかもしれない形の式にまとまってきたのである。
  「先生、先生、出来ました、やっと出来ました!」
 今度は自分が先生を追いかけて、息急ききって先生の部屋へ報告に行った。その瞬間、先生の大きな顔がほころんで、ぱっと明るくなった。
  「おう、やったか。ふんふん、出来たみたいだね」
と仰有っていただいた。この時の感激は並ではなかった。先生は当方の報告を聞いて一晩考えてくると言われた。
 翌くる日、先生は明るい顔で、
  「毛利君、あれで出来ているよ、OKだ」
と言われた。正直、どっと肩の荷がおりたような気になった。まだ、半年を残して前期日程の終わる直前に、卒論の骨子が出来てしまったのである。
 ここでも又、しつこく量的な努力を講じていると、それはやがて質に転換して、結果が突然にひらめいて出てくる、「量の質への転換」と言ういつもの哲学を体験したのであった。後は人海戦術で色々なケースで計算をして図表を作るだけである。それは努力家の自分にとっては得意中の得意であり全く苦にはならない。その様なわけで、普通の学生は卒論のための実験設備や薬品で多額の予算を使うのであるが、この自分ばかりは、殆ど一銭の国費(研究費)を使わずに、卒論を仕上げてしまったのであった。また、まだ前期が終わりかけの頃で、殆どの学生は研究のための構想を練っていたり、せいぜい実験設備を構築中であり、未だ、卒論が出来たと言う声などは何処にもなかった。
 後々のことになるが、最終的に出来上がったこの卒論には自分の名前も入って、専門誌である「化学工学」誌に投稿された。また、その主要部が数年後に同じ研究室の助手の人の博士論文として日の目を見ることになった。4年生の時点で苦しみ抜いた上でのことではあるが、博士論文に相当する業績が残せたことに大きな誇りを感じている。

  

第221話「工場見学旅行」(昭和34年~40年)

2007-08-05 | 昔の思い出話
 化学機械学科3回生の最後の試験も終わって4回生になる直前の春休み、3回生一同は片山助教授に引率されて、山陽道から北九州の工場地帯にある化学工場の見学旅行に行った。帝人岩国、徳山曹達本社工場、宇部興産本社工場、三井石化大竹工場、三菱化成黒崎工場、八幡製鉄所などの工場へ行った。今から思うと錚々たる大手の一流企業ばかりであった。関西では殆ど見ることが出来ない超大型の化学プラント。何処へ行っても化学機械学科の先輩が活躍され、工場幹部になっておられたので大変歓待していただいた。
 その頃は、工場長を初め部長クラスの幹部の方々がそんなに偉いという意識もなく、ごく普通の先輩、後輩のように接していた。行く先々の宿でも差し入れの酒食が豪勢で、貧乏旅行が通り相場の学生の分際に係らず、大変リッチな気分に浸らせていただいた。工場見学の合間でも近くの名所旧跡に案内していただいたりした。例えば、安芸の宮島や錦帯橋等は帝人のお世話で見物させてもらった。
 どの工場も目を見張るような巨大設備が所狭しと並んでいた。機能美溢れた外観が美しく、科学技術の粋をこらしていた。自分達が苦労して研究や勉強をしているのは、このようなプラントを自由自在に設計したり運転したりするためである。自分達は今まさにその世界に入ろうとしている。銀白色に輝くプラントの前に立っているだけで、自然と胸が大きく膨らんでくる。
 前の年には東亜燃料工業下津の石油精製工場を見た。やはり、大型プラントを間近に見ることは何か胸に迫り来るものがあった。例えば、宇部興産のセメントキルンは実はびっくりするほどの太さ、長さであるが、実際に直ぐ側で見ると巨大すぎて逆にその大きさが実感として感じられなかった。近くに寄ると、じりじり焼けるような輻射熱を感ずる。丁度、太陽の真下にいたので今日の陽射しは強烈だと言う風にしか感じられない。要するに、経験がないので見ても分からないのである。「百聞は一見にしかず」などと言うが、初めて見る者には、結局、メクラが象を撫でているのと同じレベルなのだ。その大きさは、後になって記憶の中で醸成されて発酵するかのように、ゆっくりと実感されてくるのである。また、その超特大キルンは目にははっきり見ない速度でゆっくりと回転している。内部の温度が1300度を越える温度になっている。100メートル近い長さのパイプ炉が形を保って回転をしていること自体、不思議だと本当は思わなければならないのに、素人にはごく当たり前のことにしか見えないのである。 
 キルンを目の前にして、係の人からこんな説明を聞いていた。
  「実は、この前のことですが、停電がありましてね。真夏だったが、
   運転中のキルンの回転が停電で突然止まってしまったんですよ。
   運悪く、ひどい夕立が同時に来ましてね。キルンの上半分が急冷さ
   れたんです。すると、キルンは弓のように上向きに曲がりました。
   その後、停電が復旧したんですが、キルンは曲がったままでびくとも
   動かず、ニッチもサッチも行かなくなって往生したんですよ!」
 現場で運転をしている者には、これは本当に大変なことなのだ。また、このような大きなものでも、一本の火箸か熱せられた鉄棒のような感覚なのだ。しかし、学生には全然ピンと来ない。「へー」と思っているだけで、大変さの実感がない。学生の分際では、このような現場の苦労や、それを何とかして解決していく現場技術のすばらしさが分からない。それでも、見ないよりは遥かに色々なことが分かってくる。
 また、八幡製鉄所では巨大な高炉を前にして、担当の技術者が語ってくれた。
  「溶鉱炉の運転は経験の産物で、内部でコークスや鉱石がどの
   様になっているか、全く分かっていないのが実状です。
   しかし、この前、コークスと鉱石の混合がなるべく均一に
   なるように、また生成ガスの上昇がスムースになる様にと考えて、
   コークスと鉱石の粒度調整をしたら、何と生産量がいきなり
   2倍になったのでびっくりしました。まだまだ、高炉は
   化学工学的に検討する余地がありますね。この仕事は本当に
   やりがいがありますよ。化学工学屋として、このような仕事に
   従事できるのは感激ですね」
などと、顔を紅潮させながら話す技術者を前にして、学生たちは、やっぱり、「へー」としか感じられない。巨大な溶鉱炉の内部のイメージが頭の中に描けないのだ。この様な話は、学生の分際では全く「猫に小判」であった。しかし、やはり圧倒的に広大な製鉄所と、人が立って中を歩けるほどの太いパイプが縦横に走っている構内を見ただけで、心の中では驚愕しているのであった。
 この頃は「ぐっと来る」という言葉が流行っていたが、スケールの大きな物を目の当たりにして、正しく「ぐっと来る」と言う心境になり、自分達は偽ドイツ語で「グートコメン」を連発して悦に入っていた。
 工場見学で直接目に触れるものは要するにハードである。ソフト技術は目に見えない。ソフトの領域はどちらかと言えば工業化学であり、ハードの領域が化学工学であると言える。したがって目に見えるハードの偉大さにたまげて、工業化学よりも化学工学の方が遥かに偉大で価値あるものと見えてしまう。訳も分からず化学工学(化学機械学)を専攻するようになった自分達ではあったが、工場の現場を見て何か幸運児になったような誇らしい気持ちを抱いたのも事実であった。
 自分は生まれつき運がよい男なのだ。時に失敗もするが最後には必ず成功する。それが自分の得意技である。そのような将来への楽観が胸の内に去来する。
  「ようし、この化学工学というヤツは実に頼もしいぞ。
   やるぞ、勉強するぞ!」
 文字通りメクラが蛇に怖じない状態であった。人生で一番幸せな青春時代の真っ只中に居たのであった。

  

第220話「予餞会」(昭和34年~40年)

2007-08-04 | 昔の思い出話
 昭和37年1月に化学機械学科4回生が卒業する前の送る会(予餞会)が行われた。京大楽友会館であったのか、それともどこか別のホテルの一室であったのか記憶はないが、自分は新たな感動を経験した。
 予餞会であったから、学部3回生や先生達が卒業する4回生を囲んで、みな和気藹々とスピーチや余興をやるわけである。軽くお酒が入って座が盛り上がる。それまでの経験から言えば、コンパというのは座敷で座って大酒を飲み、要するにバンカラで大変ガラが悪いのが通り相場であった。しかし、ここは違った。男ばかりの集団なのでスケールの大きなバンカラが背景には確かに存在するが、それは奥に隠れているのだ。ここでは、思いもかけないユーモアと知的な雰囲気に満ちた場であった。ホテルのホールのような部屋で順番にスピーチや挨拶をするが、どの人もみんな上手に人を笑わせた。非常にウィットに富み、大変スマートで、極めて知性的であった。上手に言葉を操って、そのことで楽しい雰囲気を作り上げる。参会者の全員がそれを共有して楽しんでいる素敵な知的集団であった。このような集団がこの世にあることなど考えたことがなかった。普段駄洒落を言わない謹厳実直な先生も、軽く駄洒落を言って人を笑わせた。大声で、わいわいと騒ぎながらも雰囲気はすこぶる高いレベルを維持していたのだ。
 自分はこのような雰囲気が大変好きである。自分の帰属する集団のアイデンティティに触れるまさにその瞬間を意識できた思いがした。間もなく卒業していく先輩にも豪傑が沢山いた。平素、教室では講座ごとに固まっているので、殆ど他の講座の先輩達とは接触がなかったが、みなさん素晴らしい人達であった。ある先輩の名前を忘れたが、「クンズラ」の話は今でも記憶に残っている。「クンズラ」とは鯨のことであるが、内容らしい内容は何もないのに、部屋全体を興奮させ笑わせた。自分にもあのような話術と度胸があれば、生きていくことがどんなに楽しかろうと羨ましく思った。
 下記の歌もこの時、誰か先輩が歌った歌である。この歌を聴いて、みんな腹を抱えて笑った。その後、数年して少し歌詞が変えられて、流行歌として世の中に出た。先んずること数年。京大はやはり時代の最先端を行く世界であった。

  そこを通るは女学生
  3人そろったその中で
  一番の美人が目に付いた
  色はホワイト目はぱちり
  口元ほんのり紅色で
  溢れるばかりの愛らしさ
  マイネフラウになるならば
  僕はこれから勉強して
  ロンドン、パリーを股に掛け
  5年、10年、また5年
  やっと大学出た時にゃ
  彼女は他人の妻だった
  残念だ、残念だ
  残念だったら「また探せ!」 

  そこを通るは女学生
  3人そろったその中で
  一番のブスケが気にいらず
  色は黒くて目は細く
  口元だらりと紫に
  溢れるばかりの嫌らしさ
  マイネフラウになるならば
  僕はこれから泥棒して
  網走、小菅を股に掛け
  5年、10年、また5年
  やっと刑務所出た時にゃ
  彼女はそれでも待っていた
  残念だ、残念だ
  残念だったら「また入れ!」

  そこを通るは女学生
  3人そろったその中で
  一番の普通が目に付いた
  色は白くて目は細く
  口元普通で皆普通
  溢れるばかりの平凡さ
  マイネフラウになるならば
  僕はこれからサラリーマン
  会社と家とを股に掛け
  5年、10年、また5年
  やっと課長になった時にゃ
  彼女は梅干し婆さんだ
  残念だ、残念だ
  残念だけど「もう駄目だ!」

 自分はこの歌の3番目の最後の落ちが特に気に入った。会社と家とを股にかけて、やっと会社で課長になったときには、彼女は梅干婆さんになっていた。残念だけどもうダメだ。なんて正しく我々凡夫サラリーマン候補生の将来を暗示していた。この時には全員が大爆笑になった。学生全員が自分のことのように、その将来を考えたに違いない。なお、マイネフラウとはドイツ語であり、「我が妻」と言う意味である。

  

なぜ飛ぶ飛行機

2007-08-03 | 徒然草
胴体だけなら飛べやしない
主翼だけなら飛べやしない
プロペラだけなら飛べやしない
エンジンだけなら飛べやしない
なのに重い飛行機なぜ飛ぶの?
それはだね
みんなで力合わせて頑張るからさ!



ユーモアの効用

2007-08-02 | 徒然草
ユーモアは無毒・無害の強力精神安定剤
薬剤より即効的にして
ストレスを中和し人々の注意を引き寄せる

ユーモアは問題解決足場の建設資材
コミュニケーションを増進し
苦境を切り抜ける勇気を自身に与える

ユーモアは自身をも笑いとばすお噺(はなし)材料
一歩下がって自己を冷静に見つめ
自分の反応をコントロールできる

ユーモアは守勢から攻勢に転ずる変速クラッチ
非常時にあっても平常心を維持しつつ
率先者として人々の信頼感を増幅させる