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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第377話「実用心理学の効用」(平成9年~平成15年)

2008-06-09 | 昔の思い出話
 自分が心理学に興味を抱いたのは、中学の英語の先生が教室で騒ぐ生徒をつかまえて「わしら先生は児童心理学を勉強してきてるんだぞ」と一喝して、生意気な中学生を黙らせたことから始る。そのときの我々中学生は心理学のことなど何も知らなかったのであるが、一瞬どきんとして、腹の底まで見透かされたような気がしたのであった。
 また、大学の教養部で選択した心理学では、先生が知能テストの結果を一人ずつ教授室に呼んで説明された。そのとき相手に気付かせることなくそっと褒めて極めて効果的に学生個人に自信を持たせてくれた。また、正座して座禅を組み、チーンと鳴る鉦の音にじっと聞き入るだけで高血圧が治り、その他の諸病を予防するなどと、当時の学問としての心理学では信じられないような効果を教えられたのである。小学生の時から実益主義の傾向の強かった自分としては、心理学に多大の興味を抱き、その後も関心を持ち続けたのであった。
 また、自分は社会人になって潜在意識の存在に目を向けさせられた。その切っ掛けは既に30年以上も昔の話であるが、結婚する前に、婚約中の家内の父から次のようなことを尋ねられたのである。
  「毛利君。近代を作った最重要の人類の発明・発見を4つ
   上げるとすれば、それは何であるか知っていますか?」
自分は、即座には答えられなかった。義父は続けた。
  「それはだね。アインシュタインの相対性原理。
   ダーウインの進化論。それに、レーニンによる
   共産主義国家の建設。最後に、フロイトによる
   潜在意識の証明だよ」
 アインシュタインもダーウインもレーニンも、当時の自分には得意の領域であった。しかし、フロイトの潜在意識なるものは考えたことがなかった。このときに、義父から、初めてマーフィーの「眠りながら成功する法」と言う本を読んでみなさいと薦められたのである。
 この本を一読して自分は目を覚ました。この本では、潜在意識を活用することで、あらゆることが実現すると書かれていた。その後、特に会社の仕事などで悩みの多い時期には、この潜在意識の活用を実際に行い続けたのである。そして、実際にその素晴らしい効果を確認することができた。
 その手順は次のとおりである。即ち、先ず願望を持つ。それを念じる。念じ続ける。潜在意識にそれを引き渡す。時間が経てば、潜在意識が作用して、いつの間にか願望を実現させていると言うのである。その後、これが自分の信念になった。現在でも、自分のものの考え方の根幹を形成している。潜在意識を信ずること。我が実益主義の性向から、すんなりと素直に消化されたのであった。
 我が人生の各局面で、心理学は現実にかなり自在に駆使された。例えば、二日酔いになったときには、次のように考えて全てを潜在意識に預けた。二日酔いからムリに逃れようとしなかった。効果は抜群であった。

  二日酔いになったとき
  それは後の祭りだから仕方がない
  まあ諦めてじっとしていることだが
  治し方はある

  シャンペンを飲む?
  サウナに入る?
  それは姑息な手段と言うものだ

  立ち向かう方法はただ一つ
  断固として二日酔いは存在しないと信じることだ
  そして1日をいつもの通り過ごすことだ

  やがて夕暮れになって
  すべて前日どおりに為し終えたとき
  二日酔いが克服できたことを知る
  そもそも二日酔いなどなかったことを実感する

  自業自得とは言え
  その苦しみを自己の意思の力で解決する
  何と素晴らしいことではないか

  二日酔いだけの話?
  人生のあらゆる局面で応用が利く至高の心理学
  意思の力で解決できることは多い

 普段の生活でも心理学を縦横無尽に使った。考え方は下記のとおりだ。意識して思う心が潜在意識に教え込むのである。このような考えは、ポジティブに生きるために非常に役に立った。

  笑うから陽気になる
  年だと思うから老ける
  涙を流すから悲しくなる
  頭が痛いと思から痛くなる
  若いと思うから無理も利く
  失敗すると思うから失敗する
  病に逃げ込むから病気になる
  しんどいと思うからしんどくなる
  負けても良いと思うから負ける
  上手く行くと思うから上手く行く
  ここまでと思うから其処までとなる
  怠けてよいと思うから怠けておれる
  まあいいかと思うから中途半端となる
  死んでも良いと思うから寿命が尽きる
  終わっても良いと思うから終わってしまう
  パットする前に入らぬと思うから入らない
  風邪を引いても良いと思うから風邪を引く
  ショットの前に嫌な予感を許すからOBとなる
  何もしなくても良いと思うから何もする気がなくなる
  考えてみれば世の中すべて自分の思い通りとなっている
  一体全体何を好んで悪い結果を引き寄せる必要があろうか
  この世は常に良いことを考えれば好いことが起きる世界なのだ

 最近、子供の教育で取り上げられることの多いピグマリオン効果なるものも、これを常に意識することで大いに役に立った。会社でも部下を効果的に動機付け、育成するためには、叱るより誉めろということである。

  上司が部下を素晴らしいと思い込むと
  それだけで部下は育つ
  素晴らしい部下には好い仕事を与え
  よく思うから部下を厚遇し
  好いアドバイスをし よく耳を傾ける
  部下はそれに反応してすくすくと育つ
  上司はさらに思い込みを強化し
  部下は自信を持って積極的に振舞い
  成果を上げる
  人はよくなると益々良くなる
  善循環である

  上司が部下をダメだと思い込むと
  それだけで部下はダメな部下に育つ
  ダメな部下には価値の低い仕事を与え
  ダメだと思うから部下を軽視し
  口を利かず 耳も傾けない
  部下はそれに反応して徐々にやる気をなくす
  上司はさらに思い込みを強化し
  自信をなくした部下は末席に座り続け
  成果への達成意欲を喪失する
  人は悪くなると益々悪くなる
  悪循環である

  気の毒だが
  上司の最初の思い込みが勝負を分ける
  部下からスタートする諸君の人生の分かれ道がここにある!

  そうと分れば 諸君!
  積極的に活動することを始めよ!
  わが身の運命を他者に任せていてはアブナイ!
  自ら考え 自らの意志で 善循環の輪に飛び込むことを始めよ!

 最後に、人間生きている限り病気は避けられない。しかし、心の持ちようによって病気にならないか、なっても軽微に済むと思われる。健康心理学と言う分野があるが、この方面でも、かなり若い頃から以下のような考え方をしていた。

  病気は心から起こります
  心がそれを受け入れるからです
  時には無意識の心がそれを望むことさえあります
  病気とは病気で一杯になった不健全な心の絵の影です
  病気など自分を害し傷つけるものを信ずることは愚劣です
  健康であることが正常です
  病気であることが異常です
  11ヶ月に一度身体はすっかりと作り直されるのです
  自然に健康な肉体に変わるのです
  自分の完全なる健康を信じてください
  病気を根本的に治すのは医者ではなく心です
  病気が一番偉い医者であったと気が付けば病気は終わります

 最後の最後に不幸にして病気になってしまったら、次のように考えようではないか。

  病気のおかげで
  自分の人生をより価値あるものにできれば
  病気も立派な存在である
  病気になったことで友情の存在を知り
  友人が価値あるものだと知るキッカケになれば
  その病気は何よりも価値が高い
  病気になったことで家族のキズナが深まり
  より親密な愛情を共有することになれば
  その病気にはずいぶんと感謝しなければならぬ
  病気になったことで自分自身を考え
  自分自身のことがさらによく分かるようになれば
  百の勉強よりも千の勉強をしたことになる
  病気とて人生の一つの工程だ
  病気だ 病気だと騒いで
  すべての問題の根源を病気のせいにして
  病気を恨んでみたところで病気が治るものでもない
  病気にすべての罪を着せてそれで済むものでもない
  ものは考えようだ
  気分さえよければ病気であってもキミは幸せなのだ
  治らぬ病気ならその病気と仲良く付き合えばいい
  残りの人生を如何に楽しく暮らすか?
  そのことだけを考えて残りの人生を構築すればいい
  今更 なってしまった病気を悔やんでも何も始まらない
  残りの人生
  病気を前提に組み立てようではないか
  再出発するのだ
  病気と正面から対決するもよし
  病気と仲良く一緒に暮らすもよし
  仲良く暮らしても病気より優位に立つことを考えよ
  病気とは個人と病気との心理戦だ
  気持ちの上で上位に立て
  負け犬になるな
  病気に支配され運命を呪うだけで終わるな
  不幸をバネに飛躍した人が居るが如く
  病気をバネに飛躍することを考えよ
  病気の諸君
  人生の舵を前向きにとれ
  健康な人もどうせ最後にはみな死ぬ運命だ
  病気とて考え方一つでよい方向に向かうものだ
  身の不幸を嘆いているだけでは何も始まらんのだ

 自分とて、これまでの半生の過程で、長時間労働の激務や精神的なストレスから、うつ病を発症しかけたり、過労自殺の瀬戸際かもしれない精神的な危機に落ち込んだりした心当たりの一つや二つもないことはない。しかし、先に書いたような実益的な心理学を自らに適用しながら過ごしたお陰で、ずいぶんと救われたのである。心理学と言っても、専ら暗示の効果を信じ、それを実生活に応用するだけのことであり、打算的な下心が丸見えであった。理論も何もなく、経験的に実践していただけで、賢ぶった物言いは何一つ出来ないが、大変な実益があったことだけは間違いない。
 最後に、自分はマズローの唱えた欲求5段階説の中で、生存や安定の欲求など低位の欲求については、これまでのところ、ほとんど心配無用の幸せな人生を送ることが出来た。しかも自分の関心事をずっと最高位の自己実現の欲求におくことができた。この自己実現については、自分の年齢に関係なく、これからもまだまだ主要な欲求として追求し続けたいものである。
 多くの人々が加齢とともに夢を失い、マズローの5段階の坂道を転げ落ちていくように見えるのは残念なことだ。最終的に、最下層の生存の欲求レベルにまで落ち込んで、そこで呻き声を上げながら終末期を迎える老人も多い。しかし、少なくとも自分は、死ぬまで自己実現の欲求を指向して残りの人生を歩んで行きたいと、毎日のように思いを新たにしている。


第376話「ドイツ語の勉強は役に立った」(平成9年~平成15年)

2008-06-08 | 昔の思い出話
 平素は忙しい毎日であったが、お盆のときくらいはゆっくりしたいと思い、2003年の夏に家内とスイスのユングフラウ(インターラーケン泊)、マッタホルン(ツエルマート泊)、モンブラン(モントルー泊)へと、雪山見物とハイキングのツアーに行った。スイスは案に相違して暑かった。
 何分にも欧州全体が異常気象で、パリでは死者が多数出たほどの猛暑であった。スイスアルプスの氷河は猛烈な勢いで溶け出して、滝のように流れ出ていた。旅行中に何度か山火事を目撃した。地球温暖化は大変な勢いで進行中だ。我々地球人は、いつまでもぐずぐずせずに何かしなければならないと思った。
 ついでながら、地球環境のことになると、いつも超大国アメリカのエゴイズムに腹が立つ。京都議定書を批准しないばかりか、発展途上国ばりの主張をして、中国やインドなどの無制限の炭酸ガスの排出を元気付けている。
 ところで、旅の方は3箇所とも五つ星のホテルで2連泊ずつ。ハイキングも入っており、ゆっくりとした旅程で、最後のモンブラン以外は天気も好くて、いい旅行であった。
 続いて、翌年(2004年)の夏休みには、ドイツの中西部から南部にわたるロマンチック街道へ行った。この夏も例年に比べて格別に暑かった。わが国に上陸する台風も極端になり、数が多くなったり、少なくなったり、各地で豪雨や水害などの異常気象に見舞われた。雨の降り方も尋常ではない。毎年のことながら、特に夏場になると地球の病的な異常状態が目に付く。この程度が毎年激化してくような感じがある。
 このときのドイツ南部の旅行では、フランクフルトからライン川を下り、ロマンチック街道を経てミュンヘンへと楽しんだ。ドイツも1年前のスイス以上に暑かった。2年続きでドイツ語圏へ来たわけであるが、ここでも、その昔、学生時代に一生懸命、勉強したはずのドイツ語がすっかり忘却の彼方にあることを知って愕然とした。街の看板を見ても何屋であるかが分らない。レストランでメニューを見てもさっぱり分らない。簡単な単語でも思い出せるものがほとんどなかった。
 果たして、学生時代にドイツ語などを勉強したことは全くのムダではなかったのか? 専門課程で分析化学はドイツ語の原書の教科書を使っていたし、専門用語の混じった教科書なら、ほとんど辞書を使わすに読めるほどになっていたのである。それが、40年以上経過して、この年になってみれば、脳ミソにはドイツ語のかけらも残っていなかったのである。
 学生時代、自分はドイツ語には格別の努力を傾けて勉強した。工学部学生としては、破格の力の入れ方であった。その理由は、ドイツ語の単位不足で教養課程から専門課程に進級できず留年を繰り返す先輩が大変多く目立っていたからであった。全体の2割くらいの学生が留年した。その原因の大半がドイツ語の単位不足にあった。気の小さい自分は留年が怖かった。お陰さまで、工学部学生なら当然しっかりやるべき数学や力学の方は、勉強する時間がほとんどなくなった。後々のためには、ドイツ語より大事であったはずの、これらの専門基礎科目は最低点の低空飛行を余儀なくされた。
 会社へ入ってからも、仕事の上でドイツ語と接触したことは一度もなかった。技術文献すら読んだことがない。ドイツ語などなくても何も困らなかった。その後、英語が完全に世界共通語となり、外国へ行けば、ドイツ人もフランス人もみな、英語以外は遠慮してしゃべらなかった。使わない筋肉は萎縮するのが早い。あっという間に我が脳ミソからドイツ語が流出して行った。
 当時の大学の教官は一体何を考えていたのであろうか? 日本の国や学生の将来にどのような未来シナリオを考えて教育カリキュラムを編成していたのだろうか?留年と言う脅しで、ドイツ語を過度に強制した教養部の先生は、結局、前途ある学生の時間の消尽と、ドイツ語よりももっと重要なことから学生の関心を逸らせただけではなかったか。現在でも、大学の教養部では、昔のようにドイツ語を学生に強要しているのであろうか。会社に居たときでも、ドイツ語を知らなくて困ったという新入社員に出会ったことがなかった。
 ここまで、書き進んで、一向に本論に入っていけないのが、我ながらもどかしい。しかし、ここにこそ、自分が此処で述べたい結論がある。結論として言いたいことは、人生とは、必ずしも、その時点で必要と思われるものばかりで構成されているとは限らないと言うことである。
 もし、すべてが必然に支配され、必要なものしか存在しないのが世界であれば、人間の一生と言うものは実につまらない。生まれたときから、必然を辿っていけば先がすべて見える。また、必要なことしか存在しなければ、隙間の全くないぎすぎすした厳しい世の中になるだろう。言い方を変えれば、無用の用とでもいうべきものが必要なのである。無用なものにも存在する限り存在の必然がある。永遠に知ることのない知識や後で補充される知識を踏まえて、その時点で完全な判断をすることは出来ないのである。
 何度も書いて申し訳ないが、自分はドイツ語の単位が足らなくて落第した先輩を見て、恐怖に足が震えて、試験前には徹夜でドイツ語を勉強した。しかしながら、そのお陰で、学校や社会の規則と言うものの厳しさを思い知った。さらに、ドイツ語を勉強したお陰で、シューベルトの「冬の旅」の詩の原文にも触れて、その意味が理解できた。そして、「冬の旅」のメロディーを耳にするたびに、今でも初恋や中恋を懐かしく思い出すことができる。時には涙さえ出てくることもある。ベートーベンが少し深いレベルで楽しめるのもドイツ語のお陰だ。
 また、ドイツ語で読んだ様々な本のお陰で、スイスのユングフラウやマッタホルンの見える風景に憧れを抱き続けた。中年の時代。会社の仕事で忙殺されていても、一度はスイスや南ドイツのアルプスを訪ねてみたいという憧れを夢として持ち続けた。学生時代に時間がなくて果たせなかった夢が、少し年を取った今となって、やっと実現していくのである。生きている間に、ユングフラウもマッタホルンも、その麓(ふもと)を歩き、その場の空気を味わうことが出来たし、読めなかったヘルマン・ヘッセの小説や詩も、今は十分の余裕で堪能できる。関心を持ち続けた心理学のフロイトやユングにしても、その発端はドイツ語と関わりがあった。
 これらのすべては、仕事上の実益面では何の役にも立たなかった。しかし、もし、現在の自分に、ドイツ語を介して得たこのような知識や感動がなかったならば、どれだけ殺風景な景色が目の前に展開していたことであろうか。
 考えてみれば、中学校の数学で勉強した二次方程式の判別式を誰が覚えていようか。日本人ならほとんどすべての人が勉強したはずだ。もし必要がないとして、中学校で教えていなかったら、その分、別のことをやっていたであろう。きっと遊ぶ時間が増えただけで、よりバカになって行っただけである。判別式を勉強したのは、判別式が実生活で必要であったからではない。その過程で頭脳の鍛錬をしていたのである。このような鍛錬は、そのプロセスだけに意味があり、その結果は目に見えない。目に見えないからと言って、不必要であるとは言えないのである。
 ドイツ語や判別式だけではない。人間の人生自体、結局、すべて無意味と考えれば無意味である。しかし、意味があると思えば、すべて意味があり価値がある。現在の目で見れば、人生の大半を送った昔の会社での技術者生活は何の意味もなかったとも言える。実際、現在の仕事生活はそのときに得た経験や知識とはほとんど何の関係もない。しかし、会社における技術屋稼業は、やはり、我が人生の中では最大の部分を占めていたし、今も、そのときの思い出や感慨を胸に抱いて現在を生きている。過去の人生のすべてが無意味であったとはとても思えない。
 もっと基本的なことであるが、人生の構成要素にはガラクタも含まれており、ガラクタの混在する方が自然であると言うことである。そして、時間が経てば、ガラクタが、実はビックリするほどの貴重品であったことも分ってくる。
 効率一辺倒の余裕のない切り詰めた時間の中で必要なことだけやって、それが全てであるような人生なら生きる甲斐がないではないか。能の合間に狂言があるがごとく、また、狂言の前後には休憩があるがごとく、何かあるものの隙間には何もない何かが必要なのだ。そして、最後に何もなかった部分が、実は、最も幸せな時間であったことも分ってくる。
 世の中に無用なものは何もない。何をやっていても、それ自体が人生の一部である。何をやっていようと、現在のこの時間を一生懸命にやって、後になって後悔しないようにするのが一番良いのである。
 物事の価値はそのときには分からない。人生のライフサイクル全体で判断する必要がある。学生時代、教養部で膨大な時間をかけて、何故教養科目を勉強しなければならないのか、そのときにはよく理解できなかった。しかし、その効果は後になるほど効いて来たのである。
 会社の仕事においても、若き専門家の時代は専門能力だけで良かった。しかし、組織の上位に進めば進むほど、専門能力のウエイトが下がっていくのであった。さらに進むと、専門家であること自体がマイナスになるような気がするほどであった。木ばかりを見ずに森全体をしっかりと見なければならないのだ(もちろん、森しか見ようとしない人も少なからず居られて困りはしたが)。さらに、個人の生活を考えても、実益一点張りの専門能力だけでは全く面白くない。人間に温もりがなくなる。毎日の生活には芸術や文化の香りが不可欠である。
 最後に、人間の総合的な判断力や人格の充実には、あらゆる分野の知識・経験・感受性が欠かせないが、深いばかりではなく広さも必要である。大学の教養部だけで、その広さが十分に獲得できるとは思えないが、少なくとも其処でその切っ掛けと時間を得たのであった。広く深い教養の価値は決して軽視してはいけない。個人の総合的な能力を決定するのは、専門能力ではなく、人格や人間性そのものであるように思われる。
 実益としてのドイツ語の勉強の効果は間接的であり評価が分かれる。しかし、学生時代に、もしドイツ語を勉強していなかったら、我が人生はどれだけ薄く、味気ないものになっていたか想像も出来ないのである。


第375話「寝付きのノウハウ」(平成9年~平成15年)

2008-06-07 | 昔の思い出話
 60歳を越えるとトイレが近くなる。夜中にトイレに行きたくなって起きたりすると、その後、しばらく寝付けないことがある。特に、夜明け近くに起きたりすると、「寝足りた」という満足感も手伝って、再び眠りに付くことが容易でない。そんな時に取って置きの方法を開発したので、ここに記録しておく。このノウハウのお陰で、自分の夜は、至極、快眠で快適だ。途中の目覚めだけでなく、最初の寝こみにも有効であることは言うまでもない。
 基本は、眠るという目的意識をしっかり抱くことと、ゆったりした気分で広大無辺と接触することだ。テクニカルには身体を重いと感じ、奈落の底にどんどんと落ちていく感覚を意識して感ずるのだ。ゆっくりとした呼吸も大切だが、何もせずには、そのような境地にはなかなか到達できないので、少しばかり手順を踏んで、次のような一連の儀式を行う。
 最初に、自分はこれから眠りに付くという目的意識をしっかりと意識することである。このために、心を込めて、「おれは、これから眠る。正直、眠たいのだ。ああ眠たい。ああ眠たい。本当に眠たい」と心から、真面目に唱える。「眠りたい」と欲を出して言えば、天邪鬼が起き出すので、必ず実感を込めて正直に「眠むたい」というのである。口に出しても良いし、心の中でつぶやいてもよい。これを3回くらい繰り返す。本当に心から念じることである。
 次に、身体を重いと感ずること。布団に横たえた自分の身体が引力に引っ張られて、地球の表面に押し付けられていると思うのである。さらに、身体がどんどんと下に落ちて行く時の感覚をイメージする。少女アリスがウサギの巣穴から「不思議の国」に落ちていくあの感覚だ。何マイルも何マイルも、暗闇の筒の中を地球の底まで落ち込んでいく。不思議の国のアリスの身代わりになって、自分が落ちていくと想像するのである。
 次いで、「右手が重たい」「左手が重たい」「右足が重たい」「左足が重たい」と、ゆっくり、順番に手足の重みを布団に預けていく。手足を長く伸ばして完全に布団に身体全体を預ける。これも、出来るだけゆっくりと2、3回繰り返すのだ。
 続いて、「右手に血液が流れて熱くなっていく」「左手に血液が流れて熱くなっていく」「右足に血液が流れて熱くなっていく」「左足に血液が流れて熱くなっていく」とやる。これをやると本当に順番に手足が熱くなってくるから不思議だ。「血液が流れて」というのがミソだ。体内を温かい血が流れると思わないと熱くなってこない。このように唱えることで、実際にも、手足の血管を巡る血液循環量が増えているのではないかと思う。
 次に、呼吸法を深呼吸の腹式呼吸に切り替える。いわゆるラルゴーのリズムでやる。ラルゴーが分からない人は、要するに普段より3倍くらいゆっくりと体全体で呼吸をするのである。まあ、30秒も続ければ十分だ。30秒続ければ、その後もその呼吸が無意識に続く。腹式呼吸とムリに意識しなくても、横になった状態では、人間は腹式呼吸しか出来ないので心配する必要はない。
 そして、「お腹が熱くなってきた」と言う。これが意外と難しい。実際に熱くなってきたと実感するのに時間がかかるが、へその周りに蜘蛛の巣のように血管が張り巡らされていると思って、そこにじんわりと血液が流れ込んでくることを頭に描くと、比較的容易にお腹のぬくもりを実感できるようになる。
 次に「おでこが冷たくなってきた」という。これは非常に易しい。大抵、頭は布団の外に出ているので、本当のそよ風が額(ひたい)を通過するので、冷たさが実感できる。ここまでやっても、最初から2、3分しか掛かっていないので、必ず寝付けるわけではない。
 まあ、ここまでは、どこかの本で読んだ寝つき法である。他人から借用した簡易版に過ぎない。以下の作業に入るための準備運動のようなものだ。いよいよ、次から、広大無辺と戯れる作業に入る。ここからが自分のオリジナル版である。
 ここでは学生時代に旅行したことのあるの山梨県の富士五湖と静岡県伊豆半島が重要な役割を果たす。先ず、大きな白鷺に登場してもらう。白鷺と握手して、自分が白鷺になったつもりか、あるいは白鷺の背中に乗って、天高く舞い上がるのである。はるか下に、富士五湖が見えるところまで上っていく。そして、河口湖目指してゆっくりと滑降で降りてくるのだ。河口湖の湖畔に来たら、富士山を見上げる。秀麗な富士には、五合目くらいまで雪が積もっている春先の富士である。
 眼前にはずっと富士の裾野が広がっていて、見渡す限りの雄大な富士山全体を横から一望のもとに眺めるのだ。自分は白鷺となって、ゆうゆうと空を飛んでいる。いつの間にか、鬱蒼と樹木が茂る青木ヶ原を眼下に見下ろすところまで飛んできている。広大な樹林が全部、紅葉して、全体が真っ赤になっている。その樹林の隙間から、富士五湖の中でも一番小さな水色の精進湖が見え隠れする。さらに飛んでいくと、白糸の滝が見えるが、ここはさっと飛び越えて、方向を転じて、さらに進む。
 景色は一転して、快晴の芦ノ湖の上に変わってくる。白鷺はゆうゆうと湖面の上を飛んでいく。湖面は波一つなく鏡のように澄んでいる。大きな観光用の帆布のない帆船が白波を立てて進んでいく。帆船の後ろに流れる一本の航跡がきれいだ。白鷺は、その跡を追ってゆうゆうと飛び続ける。
 直ぐ傍の新緑萌える山腹には一本のロープウエーがある。このロープウエーに沿って山を越えていくと、箱根山の噴火口が見えてくる。もくもくと白い湯気が上がっている。黄色いような、赤茶けたような山肌を眺めて、白鷺はさらに悠然と羽ばたいていく。
 白鷺は北から南へ西へととさらに飛び続ける。小田原から沼津の方向に向かっている。いつのまにか三保の松原の上空にさしかかり、岸辺の松の緑と青い海、白い波、浮世絵に書かれたような和船の白帆がいくつも見える。駿河湾を隔てた遠くに富士山が小さく浮かんでいる。
 ここで、白鷺は南に進路を取る。目指すは修善寺から天城峠だ。緑濃い伊豆の山々が重なり合っている。山また山。丸い低い山が折り重なって続いている。山はきれいだ。修善寺温泉の湯気を見下ろして、天城山を飛び越えて、さらに南へ南へと山の上を飛んでいくと、下田の町に至って海となる。断崖絶壁の太平洋が見える。太平洋の荒波が岩に砕けて、白く散っている。ここは石廊崎だ。緑の芝の中の白い灯台が夏の日差しに映えてまぶしい。高い絶壁から眼下の海を覗くと、一羽の白い鳥がゆうゆうと飛んでいる。たった一羽だ。ゆうゆうと飛んでいる。丸く輪をかいて飛んでいる。
 ゆっくり、ゆっくりと頭の中で、上のような情景を滑らせていくと、大抵は途中で眠ってしまっていて、最後まで到達できない。しかし、時には興奮していることもあって、白鷺が石廊崎まで飛んできても、まだ眠りにつけないときがある。そのときは、また、最初の「俺は眠たいのだ!」からスタートするのである。二度やっても眠れないときは三度目に挑戦する。自分はこの方法を開発して、この方法で眠れなくて、四度以上やったことは一度もない。
 空を飛び、意識を無限大に拡大して、悠然とした雰囲気に浸る。この想念が巷のちまちましたことから自分を解放する。より天国に近いところで、下界を他人ごとのように見下ろす。神様になった気分になる。永遠の彼方の広大無辺と自分とが融合する。その境から向こう側に眠りと言う状態が存在する。
 この寝つき法は、眠りに入っていく過程で夢見を促進する。いつのまにか夢と現実とが重なって、現実が段々と遠くなって夢の世界に落ち込んでいく。安らかな睡眠の世界ほど素晴らしいことはこの世にない。


第374話「測定は管理の要諦」(平成9年~平成15年)

2008-06-06 | 昔の思い出話
 2003年の春、ジョギングは又もや休止状態であった。体重は70キロを越えていた。自分は何かをしなければならないと決断したときは、その歯止めとして、まず他人に広言するという癖があった。この時も三日坊主で終わりたくない気持ちが先行して、下記のようなメッセージを、昔居た会社のOBのメール会に発信した。

  新緑の5月です
  風薫る5月です
  皆さん、身体にいいことやってますか?

  自慢じゃないですが
  長い間、サボってたジョギングを
  昨日から始めました

  気持ちがいいですね
  朝ジョグと言うものは

  一汗かいて
  シャワーにかかる
  これも○○ガスのお陰です

  ほんとに気持ちがいいもんですね

  実は昨年も寒くなるまでやってたんです
  西宮の満池谷の墓地の近くの池の周りです

  Mご夫妻の早朝の散歩のお姿も
  ときどき拝見しましたが
  寒くなってやめてしまいました

  その間に太りました
  体重が10キロ、腹囲が10センチ
  あ~、ヤにナッチャウなオドロイタで始めました

  まだわずか二日間のことですが
  秋までは続けます

  皆さん、身体にいいことやってますか

  今朝も走って
  朝シャワー浴びて
  ○○ガスのお陰で
  大変気持ちがよい一日が過ごせそうです

 この年は、春から始めたジョギングが晩秋まで続いた。12月に入って風も寒くなり、自然休止となった。以後、飲んで食べて飽食の一冬を過ごしたが、秋口には63キロ前後で推移していた体重も、一冬を越す間に完全にリバウンドして、再び70キロにせまっていた。
 翌年も気候が温暖になるのを待って5月の連休から走り始めた。暫く走って身体も慣れた夏の朝、ジョギング中に大いなる感動を覚えたことがあった。どこかで書いた桜の木であるが、その続編である。

  私のジョギングコースに
  一本の桜の木があります
  その木は走るたびに目に入る
  気になる木でありました

  その木は老木ではありますが
  人の腰の高さの辺りで
  ノコギリで引かれた
  可哀想な木でありました

  しかしその木はメゲズ元気で
  台座のような老木の横から二本の枝を出し
  真っ直ぐ上向きに
  若々しい枝葉を茂らせていました

  私はその木をリストラ・定年の木と名付けて
  走る度に一度は
  振り向いて
  挨拶をし激励していました

  数ヶ月前のことですが
  何とその若枝は二本とも
  何者かによってへし折られて
  横たわっているではありませんか

  世の中には
  慈悲も愛情も理解できない人が居ると
  涙が出ました
  腹が立ちました

  その後は走る度に
  見れば腹が立つので
  無残な可哀想な木は見ないように
  目に入らないようにして走っていました

  今日たまたま目に入ったその若枝は
  再びノコギリで切られていましたが
  手入れした人の思いやりがあったのでしょう
  人の腕ほどの長さが残されていました

  その腕は生きていました
  何とその腕から
  再び幼い若枝が芽を出し
  数枚の小さな葉を茂らせているではありませんか

  復活です
  この木は生きています
  折られても切られても芽を出しています
  生命のある限り生き続けます

  この幼ない枝に花が咲くまで
  何年経とうとかまうもんか頑張れ
  花が咲くまで
  自分も走り続けて絶対に見届けてやるぞ

  今日は早朝から
  暑い夏の一日の始まりでしたが
  頑張っている老桜とその若枝に
  感激を覚えた朝のひと時でした

 60歳を越えてはゆっくりしか走れないが、走ることが楽しかった。走っているうちに、脳内にエンドルフィンが分泌されて、ランナーズハイという、いわゆる恍惚の境地に至るらしい。自分が其処までの至高体験を現実に味わっているのかどうか分らないが、少なくとも、走っている間やその後の思考は間違いなくポジティブになる。しかも、減量を目指して、毎日体重と腹囲を測定して、目に見える成果が見え始めると気分はルンルンとなる。仕事で達成感を得るにはそれなりの苦労が必要であるが、ジョギングでは容易に目標が達成できる。やったらやった分の成果が必ず出る。その代わり何もやらなければ何もない。
 ところで、走ることは減量という目的を達成するための大切な行為ではあるが、もっと重要な意義は監視・測定を動機付けることにある。体重や腹囲を測定しなければ、減量と言う目的が達成されているかどうかが分らない。やみくもに走り続けるだけでは体重は減らない。監視することにより初めて、減量を目的とした管理が成立するのである。
 体重が増えるのは、食物と言うインプットが運動や活動によるアウトプットよりも過剰となることから起きる。減量するためには、インプットを減らすか、アウトプットを増やすしかない。如何に多く走っても、アルコールと言う番外のインプットが多くなると、毎日走るだけでは体重を制御できない。より大事なことは、インプットとアウトプットの動的なバランスを監視することにある。
 走ったあと、必ず体重計に乗ること。そして巻尺で腹回りを測定すること。測定と監視を続けることにより、体重を管理状態にすることができる。体重を計測して、データをグラフに書いて毎日見るだけで減量が始まる。走ることは、エネルギーの消費を通じて減量に直接の効果を及ぼすだけでなく、人を秤に乗せて計測する動機を与えるのである。
 走る。汗をかく。シャワーを浴びるために裸になる。裸になったついでにハカリに乗る。これらは一連のセレモニーだ。これをできるだけ毎日行う。しばらくすると成果が見え始める。頑張った結果が目に見えることほど人を有頂天にさせるものはない。


第373話「ジョギングの楽しみ」(平成9年~平成15年)

2008-06-05 | 昔の思い出話
 何だかだと言いながらもK技術経営を始めて5年が経過した。この5年間と言うもの、始めた極く最初はヒマであったが後半になるに従って、死ぬほどの多忙な毎日となった。ISOの審査などに出ると、札幌、仙台、福岡、鹿児島など、今までなら行きたくても、時間や費用の関係で行けなかったところへ、毎週のように出張することとなった。一人旅のことも多く、その開放感から寝る前には浴びるほど酒を飲んでしまう。二人でならば尚のこと、今度は付き合い酒でしこたま頂く。
 身体も肥満に過ぎて、ズボンのベルトが目一杯のところまでパンパンに緊張してくる。これは、ひょっとしたら大分健康に影響を与えているかもしれないと、この年(2002年)の5月の連休の合間を利用して、K労災病院の人間ドックにかかった。人間ドックといっても、近頃のドックは機器分析が発達して、極めてスピーディーであった。わずか半日強のスケジュールでほとんどの検査が終了する。
 結果は予想通りであった。血圧、尿酸、肝機能、中性脂肪、といつも指摘されている諸数値が全部黄信号から赤信号に近いものであった。直ぐには死なないまでも、かなりお疲れの様子であった。自分は、こと健康維持に関する限り、よほど頭が悪いに違いない。いつも決まって同じことを指摘されるに関わらず、半年すれば全部忘れて、大酒を食らう不摂生の日常生活に逆戻りしていた。この時もそうであった。体重が71.6キロという状態であった。即、体重を10キロほど減らす必要があった。
 血圧にせよ、肝機能にせよ、すべて肥満が原因である。超音波エコーの写真を見ると見事な脂肪肝となっている。お腹の周りも内側も真っ白となっている。お医者から、くどくど説明されるまでもなく、すべてよく知っているし、その結果何が起きるかもよく知っている。放って置けばアブナイことは耳にたこが出来るほど聞かされている。
 自分の心臓は、この数年前の特別の検査で冠動脈が50%狭窄と診断されたため、それ以来ジョギングをやめていたが、自らの判断でジョギングを開始することにした。酒もしばらくお預けとする必要があった。おそるおそるニテコ池の周りを1周(約1.2キロ)走ってみたら、死ななかった。これはいけるぞと2、3日おいて、2周走っても死ななかった。そのような調子で、一月ほどの間に走る量を少しずつ増やしていった。とうとう7周走っても死なないことを発見した。
 以後、6月から10月まで、週に3日はニテコ池の周りを7周走った。走る都度、体重を計測した。体重を計測することが体重を減少させる最良の方法であるとも発見した。走るよりも体重を量ることのほうが、体重を減少させるためには大きな力を持っているかもしれない。努力が目に見えると、小食になるし、酒も控えるし、あらゆることが好循環して、よい方向に回転するのである。走ることによる体重減少は、その他の目に見えぬ努力含めた中でのワンオブゼムに過ぎないかもしれない。そして、この年10月には見事、体重を61.5キロまで減少させることに成功した。
 そこで、自分は経験則ではあるが偉大な法則を発見したのである。式で書くと、
  E=MC*C
ワープロでCの2乗がうまく表現できないのでC*Cとしたが、要するにあの有名なアインシュタインの式、すなわち質量とエネルギーが等価であることを示す式が、そのままジョギングにも当てはまるのである。アインシュタインの場合のCは光の進む速度であるが、ジョギングの場合はランナーが走る早さである。Mは体重を示しており、自分の体重と走る速さの二乗に比例して、かく汗の量が決まるということになる。
 この式によれば、早く走れば走るほど、走る速さの二乗でエネルギーを消耗するので、その分、減量効果が大きくなる。また、早く走れば息が切れるので、極めてゆっくりと走ることにして、その代わり、走る長さで稼ぐ。すなわち、走るトータルの時間を増やすのである。
 理屈はともかくも、実際に減量することに成功したことは事実であったが、そのあとの現実も書いておかねばならない。実際は、「この辺りでよかろう、あまり体重を減らしすぎるのも問題だ」と、12月ごろからビールや酒を解禁してしまったのである。そして、翌年の春にはどうなったか? 体重は、また、70キロ超に復帰して、元の黙阿弥となった。
 一体自分は何をしているのか。時間の流れとともに、体重が増えたり減ったりする。これを繰り返すのは波動である。アインシュタインや不確定性原理が言うところの、物質の究極は波であるという理論と共通点がある。自分も人間である限り、肉体と言う物質から成り立っている限り、自然の原理原則からは絶対に逃れることが出来ないのである。ただ、自分は意思のある人間である。そのまま、放置して自然に任せるわけではない。
 やることはただ一つ。体重減少への再挑戦であり、改めて減量を誓い、翌年も減量作戦に再度取り掛かるのである。自分は、容易に波動状態にはまり込む意思の弱い人間であり、そのせいで、年がら年中、何かの努力をしている人間である。努力していることが偉いのか、その前に、その原因を作ってしまう精神薄弱のアホなのか、本当によく分からん人間であることがよく分る。しかし、減量途中は、減量と言う努力がそのまま成果につながるのが目に見えて、実に心が楽しい。そして、考えがポジティブになる。

  本日早朝にジョギングをしていた時に発見したのですが
  何時も気付かずに走り過ぎている道に一本の桜の木がありました
  その木は老木ではありますが
  誰かがかなり下の方でその幹をのこぎりで切ってしまったのでしょう
  人が座れる椅子のような状態になっています
  しかし驚いたのはその生命力です
  台座の下から出た新しい幹が真っ直ぐに天を向いて
  太くたくましく育って並の木以上の高さになって居るのです
  途中で不自然に切られたことを全然気にもせずに
  風に心地よく葉を揺らせている木でありました
  オレの人生はオレが決めると言っているようにも見えました
  自分は走りながら考えました
  あの切り口は人生で言えば定年であったかもしれないね
  お前はそこで終われと強制されたのかもしれないね
  しかしその木は全然気にもせず
  新しい幹を出して枝葉を繁らせて別に偉そうにもしていません
  自分もあの木のようにこれから新しい枝を出して
  100歳までごくごく普通の
  しかし生甲斐のある人生が送れたら良いなあと思いました


第372話「暗中模索のトライアル」(平成9年~平成15年)

2008-06-04 | 昔の思い出話
 K技術経営をスタートして、何をやるべきか暗中模索をしていた初期の頃、自分に出来そうなことは何でも手を出した。とりあえず、できそうなことは、会社で少しばかりかじったことのある知的財産管理、技術ライセンス、技術移転の仲介など、また、技術士としては、化学装置やプロセスの設備計画、工程改善、技術開発支援など、また、中小企業診断士として、経営コンサルや経営改善のための診断業務などがあった。しかし、やってみて分かったことは、どれもこれも、それで飯が食えそうなものは何もなかったということである。
 世間では、よくこんな冗談が言われた。
 「中小企業診断士の資格を取りましたので、それをきっかけに
  会社を辞めて、独立しようと思います」
対話は続く。
 「ほう、アホぅな資格を取りましたな、それは足の裏に付いた
  米粒ですよ」
 「ええ? 何ですか? 足の裏の米粒とは?」
 「取っても食えないと言うことですよ。わははは...」
と言うようなものである。
 自分は経営コンサルを目指して独立はしたが、当てにしていた中小企業診断士の資格も技術士の資格も文字通り「足の裏の米粒」を体験した。しかし、本命は全部こけたが、会社を辞めてから付け焼刃で始めたISOの仕事は好調であった。
 脱サラ組みがよくやる失敗は、供給側つまり生産者の論理で営業商品を選択する失敗である。この方面に自分の能力があるから、これを商売にして儲ける予定であると、自分の出来ることを先に掲げてスタートしてはいけないのである。誰が買ってくれるか分らないのに、何か能力があるだけで商売ができる時代ではなくなっているのだ。自分の能力は先ず外に置いておいて、何でも良いから顧客の欲する仕事を見つけ出すのが先決である。営業を確保した上でスタートを切る必要がある。作ったから売る式の生産者の論理ではなくて、欲しいものしか買わない顧客の論理に立って、ことを開始する必要がある。自分の場合、幸いにも何とか船出できた理由は、ISOという、すでに顧客が存在する分野に目を向けたことにある。
 開業の当初はトライアンドエラーの連続であった。初めの内は、知的財産室長の経験を生かして、ライセンスや技術移転の仲介が商売にならないかと期待した。しかしながら、わが国には、大企業から中小企業へと技術移転の仲介が出来るような市場がなかった。
 先ず最初に、大阪市内の著名な特許事務所を何社か訪問して、協業や提携を打診した。特許事務所は弁理士業が中心で、特許の出願やその維持ばかりであった。ライセンスや技術移転を成功裏にやっているところはなかった。また、開発技術の導入をベースに業容拡大を図ろうとするような会社は簡単には見つからなかった。他社から技術導入をできるほどの会社は、資金力があり、技術力がある大企業である。また、自社に不要な、何処にも使い道のない技術を、何とか金に替えたいという大企業の不純な動機ばかりが溢れかえっていて、大手から中小企業への技術移転が順調に運ばないのは当然であった。
 また、知的財産権の取引業の組織が役所の肝いりで東京に出来ると聞いて、K技術経営はぐっと背伸びをして、協議会創立の当初から、高い会費を投入して参加を決めた。が、結局、3年目でギブアップした。特許に関連した引き合いはよく来た。しかし、町の発明家や退職者からの特許の売込みばかりで、良質の技術はなく、それ単独で商売になるような技術や仕事は皆無であった。
 また、阪神大震災後の神戸の中小企業の振興策として設立された術移転推進機構にも参加した。そこで特許流通アドバイザーに認定してもらい、いくばくかの活動も行った。が、これも本気でやれば忙しいばかりで、売上にはほとんど寄与しないことが分かり、2年ほどで活動は停止した。
 また、中小企業診断士として、兵庫県や神戸市の中小企業施策として行われるベンチャー企業の経営相談や開業支援も実際にやってみた。うまく行けば診断士事業の本業に成長する可能性があると考え、大いに期待して、かなりの力を注入した。しかし、専ら補助金を用いて行われるこれらの仕事は単価が安くて、いくら懸命にやっても、K技術経営の売上の10%を越えることができなかった。2年ほど続けたが、これも意気上がらず、自然消滅していった。
 そのほか、技術士として、個人的な技術相談や技術指導も試みた。例えば、開業、間もない頃、大阪大学のある先生の紹介で、廃棄物処理業者の技術コンサルをやったことがあった。しかし、これも無料サービスで終わり、一銭の儲けにもならなかった。その他にも、大阪市内の中堅食品会社に、大手企業や公的研究機関の保有技術をネタに技術の売り込みに日参した。また、東大阪市のガス器具メーカーに燃焼技術のコンサルの売り込みに行った。しかし、技術屋でありながら、技術コンサルの仕事は、数ある候補の中で最初にギブアップすることになった。
 技術コンサルの仕事には本質的な問題があった。つまり、コンサルタントの報酬が、請求できる有期限の時間内では評価出来ないのである。技術コンサルタントとしていくらの報酬をもらうべきか、また、客先から見ても納得の出来る支払い額が確定できないのである。工場の効率化や特定目的のある分野では、比較的短時間に成果のメリット評価ができるので、それに見合ったお金の請求が可能である。しかし、技術開発が絡んでくると、その成果が「売れて何ぼ」の世界となり、結果が売上として見えるようになるのは、はるか数年先の話となるのだ。仮にコンサルに要した時間単位の原価ベースで請求すると、成果が何ら見えない時点で、客先企業がとても支払うような気になれない請求金額となってしまう。数年先の収益など誰にも保証ができないのである。
 何処の世界にあっても、技術開発のメリットは現実の評価が困難であった。せち辛い、生きるか死ぬかの世界で、リスクの取れない、資金力のない小規模企業が相手の商売で、技術コンサルをして稼ぐなんてことは本質的にありえない。ムリしてやれば、コンサルも会社も「骨折り損のくたびれもうけ」となり、せいぜい共倒れになるのが落ちであった。
 このようなことを申し上げては大変不遜なこととは思うが、「ネコに小判」のような場合もある。導入すればきっとその会社がよくなると確信できる技術であっても、顧客の側が興味を示さなければそれで終わりである。技術の中身を理解した上の経営判断であれば、それでも良いが、理解しようともしないし、理解するだけの知識や能力がない場合もある。また、おいしい水があっても、飲むか飲まないかを決めるのは、やはりロバの意思である。歯軋りしても仕方がないが、それも仕方がない。最後に決めるのは顧客である。対象を中小に絞る場合、技術コンサルは報われることの少ない哀れな商売である。
 これらに比べて、ISOは分かりやすかった。ちょうど、2000年ごろから、ISOマネジメントシステムの認証取得が中小企業においてもブームになって来たので、このブームに乗かったことも幸いであった。すでにお客が存在していて、大手のコンサルよりも安ければ受注できた。顧客側の論理に適うような提案が比較的容易であったのである。
 こうした背景のお陰で、K技術経営の立上げに成功した。何とか現在までは持ちこたえて、その間、法人税を順調に払い続けている。丁度、ライト兄弟の飛行機ような不細工な手作り飛行機が人間の背丈の高さくらいに上がって、地表すれすれに飛び続けているようなものだ。本能的に儲からないと思われる分野から、早め早めに撤退して未練を持たなかったことが良かった。しかし、このISOとて、いつまで続くか分からない。いつでも次の何かに転進することを考えておかないと、不況のせいにして、無関係の他人を恨みに思って消えていく運命にある。


第371話「結局ISOに落ち着いた」(平成9年~平成15年)

2008-05-25 | 昔の思い出話
 コンサルをやっていて、昔の知り合いとよく以下のような会話が交わされた。元事務屋氏がつぶやく。
  「技術屋さんは好いですね!」
普段から技術屋であったがために、会社では損ばかりしたと考えていた元技術屋が尋ねる。
  「何故ですか?」
事務屋氏が答える。
  「会社でやっていた経験で飯が食えるんですからね。
   事務屋は働いても何も残らん。えらい損ですわ!」
と、如何にも事務屋だけが損していると言いたげだった。
 どうやら、この元事務屋さん。技術屋は、昔、居た会社で経験したことをそのまま飯の種にして仕事ができると考えているらしい。ところがそうは問屋が卸さないのである。このころ、K技術経営の売上の主体はISOになりつつあった。しかし、自慢ではないが、自分が会社にいた頃、周りでISOのことなど耳にしたこともなかった。いわんや、品質も環境も、それを仕事にするようなことには一度も就いたことがなかった。その後は、厚かましくもISOのコンサルをやっているが、コンサルフィーをもらいながら勉強して、全くのド素人から始めたのである。
 ところで、ISOの資格は、三段構成になっていて、審査員補、審査員、主任審査員がある。お金を払って研修会に行っても、それで取れる資格は審査員補であり、審査の実務経験を積まねば審査員や主任審査員にはなれない。実際の審査は、審査員以上でないとやらせてもらえないので、一人で独立して仕事をやっている限り、審査の実務経験のチャンスがない。卵と鶏の関係と同じく、審査員補にはなれても、永遠に審査員になれない仕組みになっている。
 しかし、ISOのコンサルには何の資格も必要ない。審査員補であることすら必要ない。とは言っても、初心者が入門して、一からISOマネジメントシステムの勉強をする場合には、勉強の方法として審査員補の資格を取るのが一番早い。審査員補の資格取得のための1週間のセミナーに要する費用は約40万円であり、場合によっては全く無駄になるかもしれない。
 自分は、早くからコンサル独立を目指していたので、X商工会議所に在籍していたときに、ダメ元覚悟で、自費で環境と品質の両セミナーの受講だけは完了していた。もちろん、審査員補の資格を取得するには、然るべき審査員評価認定機関に申請と登録の手続きが必要なので、その時点では資格は取れていなかった。目指すはコンサルであり、特に審査員になる考えはなく、単に勉強しておいたに過ぎなかった。まだ先が何も見えない時点で、無理して先行投資をしておいただけであるが、このことが、この後で一番役に立つことになった。
 ISOと言うのは国際的な規格であり、組織において、この規格に沿ったマネジメントシステムを構築し運用していることを外部の第三者の審査機関に評価してもらって、適合のお墨付きをもらうと言うシステムである。このお墨付きによって、企業のブランドイメージが高まり、取引先の顧客や一般消費者からの信用が得られる。品質ISOで言えば、審査機関は、企業が顧客満足を重視した組織であり、顧客に信頼できる製品やサービスが提供できる品質保証のマネジメントシステムを構築し運用していることを、審査と言う行為を通じて認証する。環境ISOで言えば、地球環境を守るなどの社会的責任にも十分に配慮した経営をやれるシステムがあることの認証を与えるのである。
 バブルが崩壊して不況が続き、何とか競争相手との差別化をしたいと苦労している企業から見れば、このISOの認証を取得することは、経営システムの改善に寄与するだけでなく、世の中に優良企業であるとのイメージを定着させる一つの手段にもなる。
 最初は、海外特にヨーロッパとの取引の多い一部の大手企業から始められたが、1995年頃から、世界的にも大きな流れとなって、ヨーロッパが輸出先の大手企業が大手の証として取り組み、続いて、中小企業が経営能力の証として、将棋倒しのように認証取得企業の数が増えてきたのである。このようなブームに便乗して、大手のコンサル会社では、1社の認証取得コンサルで500万円から700万円ものコンサルフィーを要求するというような状況であった。
 自分は、その真似事から始めたわけだ。1社の認証登録には、1日のコンサル訪問を20回もやれば仕事が片付く。1回10万円頂いても200万円の売上となる。大手コンサルの世間相場から見れば格安でありながら、個人コンサルから見れば、1日10万円の報酬になり、決して、悪い商売ではなかった。経験がなくて、最初のコンサル先で、少々の恥をかこうが、失敗して非難されようが、じっと耐えておれば、そのうちに経験が積め、ノウハウも獲得できる。初めの失敗は、次のコンサルに生かせばよいだけだ。
 K技術経営の営業を、当初の数年間、順調に拡大させることができたのは、ひとえに、このISOコンサルの営業にあった。もちろん、最初のうちは、経験ゼロの素人がやるコンサルであるから、客先から見ればお金を払って教えてやっているようなものであった。客先には大変申し訳なく思うが、こちらとしては死ぬか生きるかの瀬戸際にあった。こちらにしても、何も知らないことから発生するトラブルやバツの悪さには、人知れず歯を食いしばって耐え、それなりに解決をしてきたのである。
 しかし、世の中は、うまく行くときはうまく行くものである。ド素人が歯を食いしばって、やっている哀れな様子を見かねて、当方を審査機関に引き合わせてくれた方が現れたのである。京都の㈱K研究所のISOコンサル部のK部長であった。
 当初のISOコンサルは、ほとんどが自らの営業による受注であったが、しばらくして㈱K研究所からも下請けとして、いくばくかの仕事を頂戴することができるようになった。そのような時に、K部長のはからいで、審査員として経験を積めば、㈱K研究所の下請けとしても仕事の質が上がってくるだろうと、審査機関の一つである東京のQAセンター総務部長に、わざわざ同行して紹介をしていただいたのであった。
 世の中とは不思議なものだ。一旦何かが始まると、自然に道が付いて自然に流れが出来てくる。何もしなければ何も始らないが、何かを始めると、自分の意思とは関係なく起きてくるものがある。初めから、全部予測できない不安もあるが、面白さもある。流れに乗れば、結構、うまく行くこともあるのだ。
 幸い、QAセンターの総務部長の面接も無事終了し、自分は審査員候補者として審査員契約をしてもらうことが出来た。その後はQAセンターのご好意によって、審査員として順調に審査経験を積ませてもらえ、1年足らずで環境主任審査員の資格を取得することができた。審査員としてのトレーニング期間中も、すべて、専門技術者の資格で参加することとなり、トレーニングであるに関らず報酬まで頂けた。トレーニングは無給が原則であるが、今となっては、誰かが、どこかで、自分を助けてくれたような気がする。
 審査に参加することは非常に勉強になった。審査員として審査に参加すると、そこで見たり聞いたりしたことが、すべて血となり肉となる感じがした。もちろん、厳格な秘密保持の契約の下に仕事をするのでその限界はあるが、一方で行っているコンサルの苦労が、そのまま、審査時の相手の立場の理解に役立つし、逆に、審査員としての審査経験が、別の企業でのコンサルのポイント掌握に役立つ。自分にとって、審査員とコンサルの立場は、まさしく、車の両輪とでも言えるのであった。
 審査員を始めてからの数年間は、北は北海道から、南は鹿児島まで、一月に2~3回くらいのペースで日本国中を歩き回ることになった。そして、訪問先の経営者を相手にマネジメントシステムのあり方について議論するのである。自己負担なく日本国中を歩き回れること、また訪問先では社長を筆頭に経営者を相手に渡り合うこと、このような経験はそれまでのキャリアーで味わったことが無かった。面白くて、大変、生き甲斐を感ずる仕事になって行ったのである。
 審査員の報酬は、訪問の前後の準備や報告書作成などの仕事量から見て、決して高給というわけではなかったが、受注の不安定なコンサル業を補完するものとして大変役に立った。何にも増して、全国行脚の旅行ができることが精神の安定の上からも大変良かった。60歳を越えてからの仕事として、断然Aクラスに位置づけられるものであった。しかし、お陰で、コンサル営業を何とか拡大してK技術経営を株式会社にまで持ち込むとの当初の意欲をかなり減殺することになった。
 人を駆り立て、何とか成し遂げようとするハングリー精神は、ある程度、厳しい状況がないと成立しないものか。必要は発明の母というがごとく、窮乏は立身出世の母であるようだ。K技術経営の売上は、結局のところ、開業5年目をピークに、その後は横ばいを維持するのが精一杯となった。


第370話「二人の自分」(平成9年~平成15年)

2008-05-24 | 昔の思い出話
 この年の5月、ゴールデンウイークは遊ぶ気にもなれず、長時間、机の前に座り込んで何か勉強をしていた。勉強の合間に、心理学者になって、意識と無意識のハザマについて考えた。人間の成功は無意識を如何に活用するかに拠っている。意識する心は常に無意識を教育しておかなければならない。
 考えてみれば、人間の行動のほとんどは無意識の下で行われている。自ら努力して息をしようとか、心臓を動かそうとか考えたことがない。怖いときに心臓が早鐘を打ったり、興奮して、手に汗を握ったりするが、これらはすべて無意識の行動である。
 頭脳の働きも同様だ。相手が何か腹の立つことを言ったときに、腹を立てようと考えてから腹を立てているのではない。先に無意識的に腹が立ってしまっているのだ。その原因を後から意識が理由をつけているに過ぎない。感情なんていうものはすべて無意識に発動するものである。
 何かの拍子に、ふと、よいアイディアを思いつくことがある。トイレとか風呂の中とか、特に何も考えていないときに良い考えがひらめく。これは典型的に無意識下で起こる現象である。ことほどさように、無意識が我々の生活の中で、縦横に活躍している。時間で言えば、実に90%以上が、無意識に行なわれていると言えるであろう。
 本能と言われるものはすべて無意識の所産、所業である。人に負けたくない、一生懸命にやりたい、感動したい、生き甲斐を感じたい、自己実現を図りたい、まだまだ死ぬ気はない、若いやつには負けん、等々、これらはすべて無意識で考えているから持続するのだ。こんなことを四六時中意識して考えていたらストレスが高じて、結果的に何も出来ずに終わることになる。
 神様は、人間を長生きさせるために、これらをすべて無意識で働くように作られたのだ。仏教でいう悟りの境地もこれに近い。意識の働きを可能な限り抑制すること。そして、その結果、到達する境地が悟りである。頭で考えるよりも、直感的に到達する結論の方が正しいことが多いし、悟りというのはなるべく理屈で考えないように鍛錬した状態なのだ。悟りを諦めと誤解する人が居るが、決して、同じではない。本人には真実が見えていて、素人から見れば諦めと写ろうが、それは決して諦めではない。
 じっとしている。目をつむっている。諦めた振りをしている。一見、何も気が付かないように見える剣の達人は、研ぎ澄まされた無意識で殺気の方向を察知する。極限まで動かない。動けば必殺の剣を振る。これが極意の境地であり、悟りの境地であり、意識と無意識をとことん極めて、意識と無意識をいわゆる弁証法的に止揚した結果なのだ。
 自分は、まだまだそのような境地にはなれない。意識する心でしか、考えることが出来ないし、意識して行動しなければ失敗することが多い。意識しなければ、現実に電柱に頭をぶつけたり、ドブにはまったり、石に蹴つまずいたりで、何をするか知れたものではない。しかし、無意識のレベルを上げる必要はいやというほど感じている。この無意識のレベルをどのようにして上げるか? 凡人は、普段から意識して無意識を鍛えておかねばならぬ。そして、それ以外に方法がないということである。
 無意識を鍛え、普段から無意識を家来にして常に良いことを考えさせておくこと。これが人生で成功する秘訣ではなかろうか。無意識とは、意識の一形態であり、潜在意識とも言うらしい。
 完全なる無意識などは、この世に存在しない。完全なる無意識とは、人であれば生きていないことであり、場所で言えば人の居ないゼロ空間のことである。真空というのは、何もないことではなく、真空を構成する物質が詰まっている空間のことを言うのとよく似たものだ。
 意識する心が全く気付かなくても、無意識が先に働き始めることがある。何か分らぬが胸騒ぎする。第6感が働く。逆に、意識する心が過剰に意識しすぎて苦しいとき、無意識にゲタを預けることがある。意識と無意識をうまく使い分ければ、結構、世の中は暮らしやすくなる。
 二人の自分には、意識と無意識とに分けて考える考え方のほかに、本人と分身と言う二人を考える考え方もある。自分と言う人間とそれを見守るもう一人の分身を意図的に意識するのである。都合が悪い時には、いつでも分身に責任をなすりつける。あるいは分身に自分を笑い飛ばしてもらう。時には、アホやな、アイツは!と一緒になってお互いを笑い飛ばす。また、よく頑張った自分を分身に誉めてもらう。逆に誉めてあげる。決して一人の自分ではなく、二人になって掛け合い漫才をやる。さらに、自分が落ち込んだとか、むしゃくしゃしてどうしようもないときは、そのむしゃくしゃの気分をすべて分身に預けてしまうのだ。そして、分身の背中をぽんと押して、崖の下へ突き落としてしまう。しばらく分身がいなくなるが、一向に構わないのである。それでも、ダメな時は分身を紙と思って、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てる。何だかだとやっているうちに時間が過ぎる。時が来れば、いつの間にか分身はさっぱりした顔をして戻ってくる。

  人には
  無意識の意識と
  意識する意識があります

  意識する意識は考える意識です  
  意図する意識です

  無意識の意識は何も考えない意識です
  従ってウソをつきません

  意識する意識は
  自分の都合の良いように
  ウソをついたり
  解釈を捻じ曲げることがあります

  人は 
  行動するときには
  意識する時は意識する意識に
  意識しない時は無意識の意識に
  支配されています

  平素の人間の生活空間で
  どちらの生活時間が長いでしょうか?
  多分無意識の意識の方ではないでしょうか?

  そこで皆さん
  普段から無意識の意識を
  鍛えて教育しておかなければなりません
  それは意識する心の仕事です

  いざと言う時に
  意識せずに
  自分の普段の願望通りに行動するためには
  何時間も何時間も無意識の意識を
  意識する心が
  鍛えておかなければなりません
  普段から意識して
  鍛えるのです

  そして
  無意識の意識が
  意識する心に囁くのを待つのです
  無意識の意識は寡黙ですが
  常に意識する意識に影響力を及ぼしています

  意識する心は旧式のコンピューターのようなものです
  時間がかかります
  時に直感で行動するとき
  この時は無意識の意識が活動しているのです
  
  無意識の意識を支配するものは
  他でもないこの自分の
  平素の意識する心なのです

  そして
  意識する意識が
  無意識の意識と区別がなくなって
  一体化するとき
  人は一切の苦悩、煩悶、迷いから
  解放されて自由になるのです

  昔の修行者は
  意識する意識を捨て
  無意識の意識に同化することを
  目標としました
  人はこれを「悟り」と言いました

  もう一つの方法は
  無意識の意識を
  意識する意識の支配下に置くことです
  これは現世で
  人を成功に導く法則です
  
  「悟り」の裏返しですが
  実は同じことです
  人の悩みは
  無意識の意識と意識する意識との
  隙間に生まれる
  葛藤、相克、コンフリクトにあるのですから


第369話「家族の一員」(平成9年~平成15年)

2008-05-23 | 昔の思い出話
 わが家は大の猫好き家族で、いつの時代も、大抵、猫が居た。ずっと、オス猫ばかりの面倒を見てきた。メス猫は子供が生まれて処置に困るので、家で飼う猫はオスが原則であった。
 時代は少しさかのぼるが、1995年ごろにはソウキチという名前のオス猫を飼っていた。ソウキチは茶色のトラ猫であった。可愛いヤツで、面白い癖があった。癖というのは、その座り方である。猫らしく手を前について招き猫のように正座するよりも、お尻を下にして、足を前に投げ出して、まるで年寄りのおっさんがあぐらをかくようにして座るのだ。
 一人にしておくといつの間にか、足を前に投げ出して座っている。朝目を覚まして枕元に居るソウキチを発見して、ネコと目が会ってぎょっとする。こちらに向かって足を投げ出し、まるで、田舎のおっさんのように座っているのだ。その姿があまりにもユニークなので、写真にとって、夕刊フジに投稿したところ、一発で採用が決まって、その写真が紹介された。我々家族の誰もが新聞に登場する栄誉に浴することなど全くないが、末席のソウキチだけが、真っ先にその栄誉を受けたのであった。
 この猫は、大変家族に愛されていたが、長女に子供が生まれて、産後の養生に赤子を連れて帰ってきたときに、猫が赤ん坊にイタズラをしてはいけないと、武庫川の東側、尼崎市の空き地に置き去りにされたことがあった。一度はソウキチと涙の生き別れをしたのであったが、捨ててからこの猫が不憫で、二、三日、うなされるような気分で過ごすことになった。別れてから4日目に大雨が降った日には、「あの猫は今時分、雨に濡れていないだろうか?」と心から案ずるに至り、その翌日、家内と二人で、置き去りにした空き地に戻って、その周辺を探し歩くことになった。
 捜索活動の一日目は夕方の遅くまで探し続けたが、暗くなって、諦めて帰宅した。翌日は、少し、余裕を持って夕方のまだ十分に明るい日が射す時間に探しに行った。ソウキチ、ソウキチ、と大きな声を掛けて辺りを探し回った。1時間近く、探し回って、諦めて帰りかけた頃、50メートルほど離れた遠くのガレージにチラッと猫が走る姿が見えた。家内と自分には、一瞬、電撃のようなものが走った。「ああ、ソウキチや」と大声を出した。どの猫を見てもソウキチに見える中で、自分は間違いなくソウキチであることを確信した。
 猫はすばやく、1台の車の下に身を伏せたので、直ぐに見えなくなった。家内がソウキチかどうか、確かめに行くと言って走った。しばらくして、紛れもなく正真正銘のソウキチを抱きかかえて戻って来たのであった。この世に奇跡が起きたのである。
 捨てたりして申し訳なかった。本当に本当にスマンと、猫の頭を撫でながら、家内と自分とソウキチは奇跡の再会を心から喜び合った。涙が出た。自分が運転する帰りの車の中で、ソウキチは家内に抱かれて軽く震えていたが、腹が減っていたらしく、家内の用意したエサを貪るように食べるのであった。
 そのソウキチが元気を取り戻して、これまでと変わらず数ヶ月間は、夜な夜な雄叫びを上げて、我が家の周囲を歩き回っていたが、どうしたことか冬の寒いある日、突然居なくなってしまった。家出をしたのか、猫取りにあったのか、あるいは交通事故にあったのか、神隠しにあったように突然居なくなった。案の定、我が家は火が消えたような寂しさになった。
 数日間は、家の周りを、ソウキチ、ソウキチと声を掛けて、呼びまくり、探し回ったが、二度目の奇跡は起こらなかった。一度捨てた猫であり、薄情をしたのはこちらの方であった。今度は、猫に逃げられても文句は言えないと思ったが、大変に淋しい思いをした。
 ソウキチの失踪があまりにも不憫であったので、2、3ヶ月経ったある春の日に、家内は何処からか代わりの子猫をもらってきた。次もオス猫であった。白色にキジ模様の小さい猫であった。体全体が手のひらに入るくらいの大きさであった。自分は会社を辞めて、自宅オフィスに居る時間が長くなっていた頃なので、生まれて間もない子猫をひざの上に乗せて、猫のふわふわする毛並みの温かさを楽しみながら仕事をした。このため、ネコは自分のことを本当の親と思ったのか、よくなついてくれた。この猫はユウスケと名づけた。
 ユウスケは本当に小さい子猫であったが、成長が早くて、直ぐに元気盛りの中ネコに育った。目の前で書斎のカーテンにおしっこをかけたり、昼間から精力をもてあますような有様で、毎晩、毎晩、家の外を歩き回るのが大好きなネコであった。しかも、男らしく、ニャーゴニャーゴとあらん限りの大きな声を出して歩く。たった今、2階の台所にいたかと思うと、すぐに外へ行きたくなる。そして、外へ出るため、2階から1階へ下りる階段の途中で、もう外の世界に向けてニャーゴニャーゴと雄叫びを上げている。それは、それは、本当に元気な男らしいネコであった。
 特に冬の寒い夜なども、ひっきりなしに周辺を徘徊して鳴きまくるので、隣のアパートの2階の住人が、鳴き声で寝つけないのか、「やかましい、静かにせい」と声を荒げて、鳴き声の方向を目指して、暗がりにバケツで水をぶっ掛けたことがあった。自分としては、ユウスケの声であることが分かっているだけに、「おいおい、相手がネコや思うて、ひどいことせんといてや!」と願うばかりであった。うちのネコが犯人であることがバレて、若い衆からにらまれてもいけないので、息を潜めて静かにしている以外に手の打ちようがなかった。
 このユウスケは、ある冬の寒い日の昼、我がオフィスの窓ガラス越しに外から中を覗いて、窓を開けて部屋に入れてくれと言っていた時、自分は仕事が忙しくて手が放せなかった。この時に、ちょっと窓を開けて家の中へ入れてやっておれば、家出しなかったかもしれなかったが、実は、これを最後に、姿を見せず、行方不明となったのであった。オス猫と言うものの行動は自由自在、明日をも知れぬ身であることが痛感される。
 そして、また直ぐに、3匹目のネコをもらってきた。今度もオス猫のつもりであったが、何かの間違いでメス猫になってしまった。白と黒のパンダのような模様のネコであった。パンダは中国語で熊猫というそうだが、こちらも同じ模様であるが、熊ではなく可愛らしい本物の猫だ。身の上の詳細は本人に語ってもらう。

・・・吾輩は猫である。名前は小太郎と申す。何しろ、芦屋の良家に拾われて、明るい部屋でにゃーにゃー鳴いていたことは覚えているが、ある日、西宮の毛利家から迎えが来て、吾輩に白羽の矢を立ててくれた。その時の迎えが当家の女主人のバアサンだった。何せ、何匹も居た兄弟猫の中からわざわざ吾輩を選んでくれたからには、流石に目が高いと誉めて進ぜようし、感謝も致しておる。ただ、男の子が欲しいといって、わざわざ吾輩を選んだのに、何を隠そう、吾輩は女の子だったのである。しばらく、吾輩のことを男の子と勘違いして、名前を小太郎と付けて呼んでもらっていたが、一度、頂いたありがたい名前のことだ。女の子であることがバレテも、そのまま、小太郎と申すことにしたのである。実は、吾輩が妊娠するまで、男の子として育てられていたのだ。少し、おなかが大きくなってきたので、おかしいと思ったバアサンが吾輩をお医者に連れて行ったら、お医者に“おめでた”と言われて、吾輩もびっくりしたものだ。
  以後、中絶はされるや、避妊手術はされるやで、吾輩はすっかり女になり損なってしまった。こんなことがあったので、いつまでも、子猫のように振舞っていても、誰からも文句を言われる筋合いはない。吾輩は永遠に子猫のような気分で、紐でもタオルでも動くものがあれば、直ちに飛びついて、じゃれまくっている。家中の壁という壁は、吾輩が生きている証拠として、すべて爪を立ててある。それでも、吾輩が女になることを強制的に拒否したので、良心がとがめるのか、負い目を感ずるのか、吾輩が何をしても、主人もバアサンも一向に怒ることをしない。今となっては、この快適な生活が何よりも嬉しく、誇りに思っている。近所には、オスの野良猫がやたらと居るが、吾輩のように、上品な美ネコは高嶺の花と申すべく、吾輩自身も一向に汚い野良猫には興味がわかない次第だ・・・。

 このネコも、手の平ほどの大きさのときから、自宅オフィスでひざの上に乗せて育てた。すっかりなついて、昼間の昼寝は事務所の椅子と決めていた。事務所の扉が閉まっていても、ノックの代わりに壁やドアを遠慮なくがりがりやって入れてくれという。扉が閉まって、誰も人が居なくても、自分で内側に戸を開ける方法を知っている。昼間に外から帰ってくると、大抵は小太郎が先に事務所で寝て待ってくれている。本当に可愛いらしい、目の中に入れても痛くないネコなのである。
 小太郎は、お母さんになりそこなった分、いつまで経っても性格が少女のままで、子猫のようによく遊んだ。また、絶えず遊んで欲しいとねだりに来る。リビングで、応接セットの陰に隠れて、かくれんぼうをしたり、ソファの周りを走り回って鬼ごっこをしたり、こちらも童心に帰って真剣に遊ぶことが出来る唯一の遊び相手である。このネコのお陰で、自分もいつの頃からか年を取らなくなったのではないかと思う。
 ネコは気分に余裕がある時は、余裕を持って遊んでくれる。時には、お腹を上にして、好きにしてという仕草をする。そんなネコと同じ絨毯の上で、上になったり、下になったり、組んずほぐれつして遊ぶのだ。しかし、時には、力を入れ過ぎてネコを怒らせることもある。そんなときは、ネコは爪を立てて、口を開けて大声で鳴いた。
 ネコが不機嫌なときは、顔を見れば直ぐ分かる。眉毛、まつげ、上まぶた、鼻の形、顔の表情に素直に現れるのである。嬉しいときや何か関心のあるものに引き付けられたときは、ひげや眉毛が彼岸花のように開く。尻尾を直立させて、ぴんと上向きに立てるときは、大抵嬉しいか、ご飯でも欲しいときだ。尻尾を振るときは、犬と違って機嫌が悪い証拠なので注意を要する。
 総じて、猫は犬と違って、感情の起伏が激しく、気位が高く、自分に興味のないことには一切関心を見せない。いやなものには初めから付き合わない。自分勝手だ。しかし、そのふわふわの毛皮のぬくもりと、ゴロゴロと甘えながら顔をこすりつけてくる仕草には、ネコにしかできない可愛いらしさがある。
 ネコ三代を比較して、今更改めて思うのは、猫とてやはり生き物であり、それぞれが極めて強い個性を持っていたことである。ソウキチ、ユウスケ、小太郎、どれも顔形が違うだけでなく、得意技も、欲しいことも、遊び方も、好みの食べ物から寝相に至るまで、すべてが違うのであった。猫とて、個性を十分に見極めて、性格に応じて接してやらないと可哀想である。最後に、犬は人間の友達であるとよく言われる。ネコもそうであることに間違いない。


第368話「ITとの格闘」(平成9年~平成15年)

2008-05-22 | 昔の思い出話
 会社時代の初期に、無味乾燥なLP計算のプログラミングに挑戦して、つまらぬ失敗を重ねた経験があり、時には、電子計算機など所詮そろばんの親玉に過ぎないと思ったりすることがあった。また、先端技術の展示会などに出席しようものなら、バイオとエネルギーと新素材は時間をかけて見るが、情報のブースは素通りすることが多かった。ITと名前が変わって、手の届かない先端的な情報通信技術に直面することで、自分の心の底にあるコンプレックスに触れられるのが怖かった。
 しかし、自分は根が負けず嫌いであった。別に名指しで言われているわけでもないのに特に若い連中から、
  「最近の中高年はパソコンのことは何も知らん!」
  「中高年にインターネットの話をしてもしようが
   ない!」
  「パソコンが使えない中高年は雇っても使い物にならん!
   リストラは当然だ!」
などと、中高年がまとめて悪し様に言わるのを聞くと、自分自身が非難されているように感じて腹が立った。
 また、電器の専門店へ行って、パソコンの売り場で新しい機械を見て、ふと疑問に思ったことを近くの店員に聞こうとすると、人の風貌を見ただけでいやな顔をされる。普通の言葉でしゃべればいいのに、年寄り向けにムリに気を利かして、もって回った言い方で店員が何を言おうとしているのかさっぱり分らないこともある。
   「若いからって、何を言うてやんねん。たかがゲームや
    ファミコンで憶えた知識だけで偉そうに言うな。
    馬鹿たれ!」
と、相手には聞こえないように、心の中でつぶやいてしまうのだ。
 自分は、こう見えても、昔から電子計算機の世界とはかなり親密な関係を保ってきたのだ。オペレーションズリサーチのような経営数学にも自信があった。学校でろくに勉強もやってない連中に馬鹿にされてたまるかと思ったりして、年を取っているだけで相手を無能扱いする若い連中に、機会があれば一泡吹かせてやりたいと今でも思っている。
 しかし、パソコンを少し触ってみると直ぐに分かることだが、パソコンを使うだけでは、論理的な思考や、まして、数学の基礎知識など全く必要のない世界である。理屈などは関係なしで、便利に使い、それで商売が出来る世界である。自動車の内部構造や走る原理や力学的な構造や材料などの知識が何もなくても運転できるようなものだ。
 そして、驚いたことに、世の中は専門家が操作する大型電子計算機のメインフレームから、素人の小型パソコンをネットでつないで、世界中が瞬時に交信できる情報と一体化したオープンシステムの時代に、ものすごいスピードで変化していたのである。機械のメーカーやソフトを作る一部の専門家を除いて、専門知識などほとんど関係のない時代になっていたのだ。
 経営コンサルの世界も、このネット社会に如何に関わっていくかという点から戦略が語れないと商売ができなくなった。我がK技術経営も時代の流れとともに、あっという間にITの時代に入った。
 我がオフィスにも、日々の仕事がコンサル先からメールで来るようになった。コンサル先の担当者が、文書を丸ごとメールで送ってくる。自分は夜も寝ないで、その添削をやり、翌日には、完全な文書に仕上げてメールで送り返す。担当者とはほとんど顔を合わせることなく仕事が進んでいく。仕事の責任者である担当者は、寝ている間に問題が解決し、朝には正解が自分のデスクに届いている。便利な世の中になったものである。
 仕事を受注しているコンサルから見て愉快でないのは、金曜日の夕方5時を過ぎてから、何十ページもの分厚い文書がメールで届けられて、月曜日の朝までに回答を要求される場合だ。こちらは、他人が休んでいる土曜日も日曜日も関係なしに、仕事を強制される。メールさえなければゆっくり、くつろげる週末が無言の圧力で無残に奪い取られてしまう。時代が進み、技術が進むとともに、人々の生き様に余裕が無くなり、ますます忙しくなる。新幹線が出来たお陰で、東京出張がすべて日帰りになったようなものである。
 ITを使えば便利が良くて生産性が上がるので、会社の経営や仕事にはITが不可欠の時代になった。ITを知らない経営コンサルは没落するしかない。あたかも英語をしゃべれないアメリカ人みたいなものになる。その一方で、自分はうつうつとITにコンプレックスを持っていたのであるが、やむにやまれず、これではいかんと、あえて、ITに挑戦したのである。それがITコーディネーターと言う資格であった。この資格は、国のe-japan計画に乗じて、お役人が一儲けしようと企んだ国家資格であった。しかし、決して腰の軽い、容易に取得できる資格ではなかった。もちろん、この資格取得に挑戦するに先立って、心の中ではずいぶんと葛藤があった。

  お前はいつまで勉強する気なんや?
  お前の年はいくつや?
  お前は資格をいくつ取るつもりなんや?
  資格を取ってどないすんねん?
  資格を取ることが趣味になってるんとちゃうか?
  もう遅いのとちゃうか?
  あほとちゃうか?
  
  いやあほとちゃう
  年なんか関係ない
  今からでも遅うない
  おれは62歳や
  そやけど
  おれは死ぬまで勉強するんや
  儲けるための資格や趣味とはちゃう
  もう年やとは口が裂けても言わん
  ITにはそれだけの値打ちがある

 ITコーディネーターの資格取得には1、2年に限り、特例の適用があって、公認会計士、税理士、中小企業診断士等の資格があれば、特別セミナーに参加して、簡単な試験に合格すれば、ITコーディネーターの資格をくれることになっていた。しかし、4日間のプレセミナー(20万円)プラス3ヶ月間の本セミナー(50万円)を要し、個人的に見れば総計で100万円にもなる大変な投資であった。
 セミナーに参加して資格を取っても、何の役にも立たない可能性もあったが、メクラ蛇に怖じず挑戦する羽目になり、結局、資格を取るまでに、上記の70万円と多大の時間を費やした。この間の4ヶ月間は土日も休まず、普通人の2倍以上の日常の仕事に加え、セミナーの予習、復習、宿題を死ぬ思いでやった。お陰で、世間では風邪が流行しても、風邪を引いている暇も無かった。今では自分の信条にもなっているが、「人間は忙しい時には風邪は引かない」を実証した。風邪とは暇な人が掛かる一種の贅沢病であり、暇な人が逃げ込む生活習慣病の一つであると思った。
 セミナー参加者には若い人が多く、しかもITというだけあって、レベルが高く、瞬発力の高い人が多かった。しかし、自分は年の功と面の皮の厚みで勝負して、決して負けてはいなかった。若い人に混じって、喧々諤々の議論を交わすことも楽しかった。お陰で、多大の投資にかかわらず、セミナー参加の意義を十分に感ずることが出来た。
 まだまだ、若いやつには負けないぞと言う自負を感じただけでも儲けものであった。また、自分よりもIT知識に劣る若い人達が結構多数居ることも分った。最終日にテストがあったが、長年の受験エキスパートの自分にとっては難しいものではなかった。しかし、本業の極めて忙しい最中に無理してセミナーに通ったので、さすがに合格通知が来たときには嬉しかった。
  
  まだ先が20年もあるかと思うと
  新しいことを始めたくなりました
  ものは初めと
  ITコーディネーターに挑戦しました
  苦労の甲斐あって
  ITコーディネーター認定を獲得しました
  そしたら
  またむくむくと
  新しいことをやりたくなって来ました
  それは情報と環境に関することです
  その発端は
  あのミズホ銀行のテイタラクです
  ITと言うか情報と言うか
  経営そのものに対する危機管理がなっていません
  ついでに言うならば
  日本の経営者の格付けが
  国際的に30位から40位を低迷する中で
  その原因が
  今50~65歳の人が完全にサボっていたから
  と言う非難があります
  曰く
  10年前の40~55歳の人が
  なすべきことをなさずに来たからだ
  この10年間完全にサボっていた
  とのことです
  考えて見れば
  自分のような落ちこぼれの端くれが
  歯軋りしても何の意味もありませんが
  まだ後20年は世の中で何かやれるぞ
  今からでも遅くないぞ
  せめて町の経営者の役に立ちたい
  と思っています
  責任を問われている同年代の
  せめてもの罪滅ぼし
  と思っています
  情報も環境も
  これからの世の中で今判断を誤ると
  悔いが100年後にまで及びます
  今からでも遅くはないぞ
  今からでも遅くはないぞ
  中年よ、高年よ、大志を抱け
  と言い聞かせています
  世の中はゴールデンウイークとやらで
  休まないと人並みではないような感じですが
  休まずに勉強をしています
  情報のリスクマネジメント
  環境のライフサイクルアセスメント
  少々精神分裂気味で何かと気が散りますが
  まだ20年もあるかと思うと
  気分が落ち着きません
  60歳を越えてはいますが
  まだまだやらねばならないことは多い
  と思っています

 K技術経営は創業以来、順調に売上が伸びて、パソコンがなければ仕事が一歩も進まなくなっていた。コンサルの仕事とは、人と話しているか、本を読んでいるか、車両で移動しているかである。その他の時間は、すべてパソコンとの格闘であった。パソコンはK技術経営にとっては武士の刀のようなものである。それだけに、パソコンのトラブルに遭遇すると、慌てるどころか、恐怖に顔が引きつる思いがした。
 その頃、そのような我がパソコンに対してもウイルス頻繁に届くようになった。「コンサル殺すに刃物は要らぬ、ウイルス一つもあればよい」といった感じである。その出所は、特に、昔、勤めていたX社のOB会のメーリングリスト発信が多かった。毎日、毎日、ウイルスの襲撃に悩まされて、ついに頭に来た。このメーリングリストのメンバーに次のような一文を送って溜飲を下げた。

  最近のウイルスの猛爆撃は
  大昔のB-29から投下された
  焼夷弾を思い起こさせます

  誰か愉快犯の仕業でしょうか?

  忍び込んでくるウイルスを
  一つ一つつまみ出す今日この頃のこと
  父や兄が大昔
  必死になって
  竹箒ではたいて消し止めた
  あの焼夷弾の火消しのことを
  思い出させます

  誰か愉快犯の仕業でしょうか?
  それともこの世の反逆者?
  はたまた
  悪意ある人の仕業でしょうか?

  B-29から焼夷弾を落としていた時の
  兵隊さん達もきっと愉快だったでしょうが
  お陰で東京や大阪がすべて灰になりました

  昨今のウイルスの猛爆撃で
  大事なデータ―を喪失する会社
  時には何十億何百億の損失を発生させるでしょう

  パソコンがアウトになるまいと
  しなくても良い苦労をさせられて頭に来ています
  必死になって防御していますが本当に頭に来ています

  何とも脆弱な21世紀に突入してきたのでしょうか?
  本当に頭に来る今日この頃です

  昨今のウイルスがすべてX社OB会発信であることも気になります
  何処かに弱い穴が空いているのではありませんか?

  メーリングリストのメンバーはすべて繋がっています
  何処かに穴があってそこから水が漏れてはいないでしょうか?
  愉快犯は穴を見つけるのが好きな人達です
  愉快犯を不愉快にさせる方法はないものでしょうか?


第367話「地上の楽園」(平成9年~平成15年)

2008-05-21 | 昔の思い出話
 年を取るとともにいつの間にか朝早く目が覚めるようになった。夜明けを感じて、一度目を開けると、外が明るければ容易には寝付けない。布団の中で、しばらく考えているが、大抵の場合はそのまま起きてしまう。前の晩に、ビールや酒を飲んで寝ることが多く、夜中に一度はトイレに行く。トイレに行ったら、水分の補充をしなければと、つい、コップ一杯の水を飲む。すると、夜明けごろにまた満タンとなって、再び起きなければならないことになる。
 この頃、朝の起きる時刻は、夏だと5時だし、冬だと6時だ。朝起きて、一人朝食の時間をゆっくり過ごすと、仕事で町へ出る必要がない限り、山歩きの散歩をすると決めていた。そして、北山の一番南側の池で、池面を見ながらベンチに腰掛けて、朝の祈りをするのが習慣になっていた。朝の祈りとは、例のマーフィーさんを信じてのことで、概ね、次のようのものである。

   K技術経営はいつも調子がよろしい
   K技術経営の売上は日に日に増えていく
   K技術経営の売上は今に3億円になる
   K技術経営の商売繁盛が目に見える
   ああ、楽しい気分になってきた
   本当に、幸せの気分が充満してきた

   総ガラス張りのきれいなビルの一角に
   K技術経営のオフィスがある
   K技術経営の社長様はそのオフィスで
   社員が忙しく働いているのを見ている
   社業ますます隆盛、社員の意気は高い
   これらのすべてが現実だ
   目の前にありありと見える
   ああ、楽しい気分になってきた
   自分は本当に幸せだ

 まだ実現していないK技術経営の商売繁盛であるが、白昼夢を見るように、既に実現している気持ちになって、しばしの時間を過ごす。自分は、マーフィーさんを信じて、その言いつけを素直に守っているのであった。
 雲ひとつなく晴れ渡った六甲山の山並みの上をゆっくり漂う白い雲を見ていると、早朝の北山池は本当の極楽であった。早朝は誰も居ないからだ。たった一人の朝の山は、本当にすがすがしくて気持ちがよい。
 さわやかな時間がゆっくり過ぎて、ふと我に帰ると、野鳥の賑やかな鳴き声に気付く。大きな鳥は居ないが、小さな鳥たちが、遠くや近くの木々でやかましいほど囀って(さえずって)いる。
 都会育ちの自分は、町ではスズメとハトしか見ることがなかった。他には、せいぜいカラスくらいであろう。しかし、こうやって、連日、山に分け入ると、何と多くの小鳥たちがこの国に居るものかと毎日のように驚く。
 苦楽園口界隈に引っ越してきて、滅多に町では目にしない鳥で、最初に存在を認識した鳥はヒヨドリであった。朝の早くから、ぎゃーぎゃーとけたたましい叫び声を上げる鳥が居たので、家内と次のような会話を交わした。
   「明け方頃、鳥の鳴き声がやかましいて、よう眠れん
    かったな!」
   「あれは、一体、何という名前の鳥やろか?」
   「知らん。知らんけど、ぎゃーぎゃー言うとったから、
    ギャーギャー鳥ということにしとこうか?」
 この鳥のことを、いつの間にか、我が家ではギャーギャー鳥と呼んでいた。その後、鳥の違いが少しは分かるようになってから、この鳥はヒヨドリであることが判明した。
 ヒヨドリはスズメとハトの中間くらいの大きさである。頭がつるんと丸い坊主のような感じが特長だ。寝癖が悪いためか、その頭は、時々、髪の毛が不揃いになっている。自分は、この可愛らしく乱れた坊主頭を見るたびに、頭に櫛くらい入れておけよといつも思った。ヒヨドリは、年がら年中、近くに住んで居るが、特に春の木の花が咲く頃、よく花をついばんでいるのを見かける。梅の花がことのほか好きなようだ。
 大群で移動する緑の小さな鳥がメジロである。メジロの鳴き声は、一羽ずつでは小さな声である。それでも、大群となると、大変、賑やかになる。チーチーチーとか、チーチーチュルチュルチーとか、ピーチュルピーチュルピーチュルチーなどと聞こえる。桜の木などに驚くほどの大群が群れて騒いでいる。その群れが、一斉に次の木から次の木へと、目まぐるしく移動していく。体長はスズメより小さい。身体全体が緑色をしており、きれいで可愛らしい。その名の通り、目の周りにくっきりと白い縁取りがあって、一目でメジロと分かる。最初は、色だけ見てウグイスかと思ったが、ウグイスは人の目に姿を見せることは滅多にない。メジロはウグイスよりも小柄で身体全体が丸い感じがする。メジロも花が好きで、小枝に止まって花をついばんでいることが多い。また、柿の実も好物のようである。
 いつも一羽か二羽で居て、メジロのように団体生活をしない鳥に、シジュウカラやジョウビタキがいる。シジュウカラもジョウビタキも北山の常連であるが、自宅の木にも時々遊びに来る。どちらもスズメくらいの大きさであるが、シジュウカラは胸が白くて縦に黒いスジ模様があり、サラリーマンがネクタイをしているように見える。頬が白いので、最初はホオジロと思っていたが、ネクタイをしているので直ぐ見分けがつく。
 ジョウビタキもなかなかきれいな鳥だ。茶色の胸毛と黒に鮮やかな白い紋付きの羽根が目印だ。冬や春先にしか見かけないが、夏はどこへ行っているのであろうか? 自分は、このジョービタキが好きだ。北山の入り口の銀水橋を渡った辺りで見かけることが多いが、時には自宅の木に止まりに来ることもある。派手さはないが、個性があって、群れることを好まず、一目を置かせる渋さを持っている。
 夙川には、セキレイ類が多い。普通は、黒と白のコントラストの強いセグロセキレイが多いが、時にキセキレイを見かけたりする。普段見ない鳥を見かけると、一日得をしたような気分にさせてくれる。
 このほかに、夙川でよく見かけるのは、ムクドリ、白鷺、コサギ、コガモ、カルガモである。カワセミも居る。カワセミは、昔は、夙川の川上に居たが、苦楽園口の橋よりも南のより人家に近いところでも見かけるようになった。カワセミは飛んでいるときの羽根の瑠璃色が本当にきれいだ。飛ぶときは、一直線に飛び、スピードも速い。競争をさせれば、ツバメといい勝負をしそうだ。カワセミがじっとしていると、胸の濃い茶色が目に付いて、青いきれいな羽の色はほとんど目に見えない。日向の小石の上で、じっとしていることもあり、突然、直滑降で水の中に飛び込んで遊んでいる。
 珍しくない鳥はカラスであるが、よく見ると2種類のカラスが居る。ハシボソカラスとハシフトカラスだ。嘴(くちばし)の形が違うのと鳴いた時の声が違う。普通、カーカーとかアーアーと澄んだ声で鳴いているのが嘴の厚く太いハシブトカラスであり、だみ声でガアガアとわめいているのが口の細いハシボソカラスである。口先や顔つきの印象と鳴く声とが逆である。嘴が太いと、人間の唇の厚さに似て、あつかましい印象があり、声も太くなるのではないかと思うのだが事実は逆である。
 ムクドリは、イタリアのローマの夕暮れ時に、空が真っ黒になるほど群れて飛んでいるのを見て驚いたことがある。遥か上空のことで、本当にムクドリかどうか目で見て確かめたわけではないが、誰かがムクドリだと言っていたからそう思っているだけだ。このムクドリは、日本でも、市街地や公園などでも非常によく見かける。しかし、自分は、この近辺でムクドリが遥か上空を飛んで、何時間も滞空している光景を見たことがない。ムクドリは、どちらかと言うと、地面を這っていることが多く、飛んでも一度にそう長い距離は飛ばない。鳥との付き合いが少し増えてきた今となっては、ローマの夕暮れ鳥はムクドリではなかったであろうと思う。
 ムクドリは嘴と足が黄色くて、ほっぺの横が白いので直ぐ分かる。飛べば、尾羽根に白い丸い輪のような模様がある。また、春先によく見かける鳥に、ムクドリと似て手羽先が茶色くて、全体にもう少し白っぽく、くちばしが黄色くない鳥が居る。こちらはツグミと思われる。
 最近は、夙川で白鷺をよく見かける。図体が小ぶりのコサギが多い。時には青サギも見る。白鷺は、一日中、仙人のようにぽつんと川の浅瀬に立って、流れを見ている。その姿が如何にも東洋的で、郷愁をそそる雰囲気を持っている。しかし、飛べば広げた羽根は鶴のように真っ白で優美な鳥だ。日本武尊(やまとたけるのみこと)が死んで、白鷺に化身して上空に飛び去ったという話を聞いたことがあるが、日本に昔からいる鳥なのであろう。確かに、飛んで羽ばたいている白鷺は、非常に神々しく見える。
 飛んでいる白鷺が地上に下り立つときは、尾羽根を広く広げて舞い降りる。その尾羽根を見るたびに、自分は、女子テニスプレーヤーのひらひらする真っ白のミニスカートを思い出す。清潔感溢れる純白色の躍動感は美しい。あるとき、狭い川原で、10羽ほどの白鷺が一箇所に集まって、羽根を大きく広げて集団でダンスをしているのを見かけたことがあるが、あれは一体何をしていたのであろうか。
 コサギも身体は小さいが普通の白鷺と同じ形をしている。しかし、大抵の場合はたった一人で行動している。いつ見ても可愛らしいのは、頭の頂部から首筋にかけて、1本の細い長い羽根がたなびいており、おしゃれな感じがするのである。また、コサギは魚を取るのがうまい。狙った獲物は逃さない。時には、片足で小石をぶるぶると揺らせて、威嚇して、小魚が小石の隙間からとび出すのを待っている。なかなかの知能犯である。
 青サギは、普通の白鷺よりもやや大柄で色は名前のように青くない。灰色といった方が正確だが、灰サギでは名前にならないので、青サギでよかろうと思う。
 夙川にはコガモがやたらと居る。群れを成して川の浅瀬を我が物顔で泳いでいる。首筋や羽根の先にきれいな青色や緑色をもったヤツも居る。並んで水面を泳いでいたかと思うと、突然、首を水面下に突っ込んで逆立ちをする。時には、何羽も並んで逆立ちをしていて、まるでシンクロナイズドスイミングを見ているようだ。川底の藻を食べているらしい。
 カルガモは、東京のお堀端で雛を孵して、親を先頭に行列して歩く姿をよく新聞写真などで見かけるが、自分はまだ一度もその実物を見たことがない。一度、見たいと思っている。カルガモも、結構、多く生息している。くちばしの先が普通のカモより平べったくて黄色いので直ぐ見分けが付く。
 朝の散歩で、北山池に鵜が一羽、泳いでいるの見たことがあった。最初は、「何だ、カラスが泳いでいる。けったいなヤツやな」と思ったが、よく見ると首が長かった。その鳥は、ひとしきり水泳を楽しんだかと思うと、ばしゃと一しぶきを上げて飛び上がるや、見る見るうちに、天空のはるか遠くの高い所まで飛び上がって、最後は点になった。その高さがあまりにも高くて、鵜の真似をするカラスとは言え、カラスではあの高さまで飛び上がることは、絶対に真似のできない芸当だと感心した。鵜は北山ダムに非常に多くいる。広い北山ダムの貯水池には、ブイや筏などが散在しているが、それぞれに鵜が一羽ずつ留まって、自分の陣地として確保している。うっかり飛べば、その隙に他の鳥に場所を取られるのを警戒しているのであろうか。
 カラスも、結構、高く遠くを飛ぶが、鵜ほどには高く飛べない。真似をされる鵜の方がカラスよりも確かに高い能力がありそうだ。しかし、カラスを侮ってはいけない。その超能力ぶりは人間を遥かに凌ぐ。いつも驚くことであるが、道でカラスを見かけて、それだけではカラスは平気の平左で人を無視している。よし、ビックリさせてやろうと、投げる小石を拾うために道にしゃがんだだけで、こちらの動きを察知して、カラスは飛び去ってしまう。こちらが、まだ見える動作をしていなくても、心の中で石を投げてやろうと思っただけで、テレパシーを感知するのか、急いで飛び去っていくことを何度も経験した。
 また、カラスはよく水浴びをしている。「カラスの行水」である。この言葉は短い風呂の代名詞となっているが、結構、長時間、水浴びを続ける。スズメもカラスに負けず行水が好きだ。行水の時間はスズメのほうが遥かに短い。短い風呂のことは、カラスの行水と言うよりも「スズメの行水」と言う方が適切だ。
 ハトも水浴びが好きである。晴れたよい天気の日には、何羽も揃って、水浴びをしていることがある。彼らも時には風呂に入るのだなと思う。ある時、大雨があって、増水した夙川の流れが白波を立てて勢いよく流れている中で、どうしたことか、生きているハトが一羽、もがきながら流されて行くのを見たことがあった。一瞬のうちに視界から消えて行ったが、助かったであろうか? 
 可哀想なハトにはもう一つの憶えがある。これもある時、散歩をしていると、夙川の流れの小さな州に、横たわってじっとしているハトが目がついた。遠目で見ると、どうも普通の横たわり方ではなかった。そのまま通り過ぎるわけには行かないと思い、わざわざ中州に降りて、ハトを見に行った。そのハトは仰向けになって死んでいた。よく見ると、胸の辺りに10円玉大の丸い孔が開いていた。中はがらんどうであった。出血も何もしていなかった。死骸は汚れてもいず、生きたハトの毛並みそのままであった。ナゼ胸に孔が開いたのか不思議に思ったが、思うに、周辺の松には多くのカラスが住みついている場所であり、何らかの原因で死んだハトをカラスが餌食にしたのではないか。平和に見える世界でも、その実相は大変な生存競争の世界であり、かつ無慈悲が支配していることを実感した。
 ハトに餌をやることを楽しみにしている人が多いが、夙川公園で、一人の人がハトに餌をやり始めると、遥か100メートルも200メートルも遠くの方から、一直線に多くのハトが我勝ちに餌場目掛けて飛んでくる。まるで、ハトだけにしか分からない無線信号でお互いが交信しているように見える。人間の目では、木々に隠れて直視できないようなはるか遠くからでも集まってくる。きっと、人間の耳に聞こえない超音波を発して、お互いに連絡しているのではなかろうか。
 スズメも丸顔で、小柄の割には大きな丸い目をしていて可愛らしい。もし、スズメの数がこんなに多くなければ、きっと、町で一番の人気者となっていたであろうが、運悪く数が多過ぎて人から見向きもされない存在だ。しかし、スズメの羽や背中の模様をじっくりと見ていると、結構、微細な細工がしてあって、神さまが苦労して描いた様子がありありだ。
 スズメの学校では、語学をしっかりと教育しているのか、実に多様多彩な言葉をしゃべっている。チュンチュンは基本語であるが、ジュークとかチチチチーチョンとかジョクジョクとか言っている。音の違いもあるがモールス信号のように、その間隔を変えることにより意味をも持たせているような気がする。実に良くしゃべる。多分、スズメが、ミソサザイを除けば、鳥の中では一番おしゃべりだろう。スズメは、スズメ同士の会話が頻繁なので、かなり教養が高いかもしれない。鳥の中でも、スズメだけに学校の存在が認められている根拠が分かるような気がする。
 自分としては、スズメは十羽一からげではなく、一羽ずつ個性のある存在として見てやって欲しいと思う。強気のスズメ、気弱なスズメ、人懐こいスズメから臆病なヤツまで、本当に個性の豊かなスズメがたくさん居る。ハトにやった餌をはしこく横取りするスズメ。じっと遠慮して遠巻きに見ているスズメ。餌を持った人の手に止まらんばかりに接近するスズメ。実にさまざまである。群れを好まず、たった一羽で一人孤独を楽しんでいるスズメも多い。
 あるとき、我が家の2階の部屋に、どう間違えたのか1羽の小雀が飛び込んできたことがあった。素手でつかまえようと、窓を閉め切って、部屋の中で追い掛け回したが、すばしっこくて、とても捕まえること出来なかった。最後には、諦めて、その運動能力に敬意を表して、窓を開けて大空に逃がしてやった。
 日当たりのよい場所で、毎日、元気に遊びまわっている無邪気な子スズメを見ていると、小林一茶の優しい気持ちが十分に理解できる。
   「スズメの子、そこのけ、そこのけ、お馬が通る」
 特に小雀が可愛らしい。飛ぶのがやっとという初心者の小雀が居たら、手にそっと拾ってやって、頬摺りをしてやりたくなる。


第366話「猛勉強の報酬」(平成9年~平成15年)

2008-05-20 | 昔の思い出話
 K技術経営を立ち上げて、丸4年が経過し、5年目となる正月を迎えていた。間もなく62歳となる年であった。この年はISOのコンサルや審査員活動で、全国を走り回っていた。大変に忙しい年であり、それなりに充実した毎日を送っていた。
 ある時、審査に同行した東京に住むベテラン審査員の人から、突然、夜遅くに電話があり、自分個人の仕事の進め方について厳しく詰問されたことがあった。
  「審査員をやっていて、あなたが有限会社にする意味は
   何ですか?あなたは他人にいい格好をするために、
   何の意味もないことをやっているのですよ!」
 自分は、この言葉を聞いて唖然とした。自分は、親から叱られた子供のように、慌てて反論した
  「いや、私はISOの審査員だけでなく、中小企業経営
   全般の経営コンサルもやっているのですよ!」
 すると、相手からさらにキツイ言葉が返ってきた。どうやら、先に審査に同行した際に、こちらの態度に少し失礼があったので、それが当方への電話の切っ掛けとなったようだ。先方様はお酒を少し飲んで居られたようで、夜中に急に何か思いついて、文句を言いたくなったらしい。続けて、次のように言われた。
  「私もコンサルをやっていますが、自分の仕事をするために
   有限会社にしても面倒なだけです。はっきり言って、何の
   メリットもありません。あなたの場合は自己顕示欲だけだ。
   悪いことは言わないから、会社登記は今直ぐにやめなさい!」
 何の関係もない他人から、自分が今や生甲斐の中心としている会社のあり方について、止めろと命令されたのであった。しかも、明らかに人を目下と見ての説教口調であった。根は親切心から出ているのであろうが、親切にもほどがある。何と失礼な物言いかと、普段は大人しい人間ではあるが、瞬間的に頭に血が上ったのであった。確かに、自分はISOコンサルを主とした営業をやっているし、現在は売上の90%をISOが占めている。しかし、自分の目標とする志は大きく、ISOなどはほんの入口に過ぎないと考えており、最終的には、総合的な経営コンサルタントを目指しているつもりであった。ISOは一部に過ぎないのだ。しかも審査員はアルバイトのつもりであった。たまたまISO以外は景気が悪くて、うまく進んでいないだけであった。この時期に、このような自分への言いがかりは誠に不本意であると思った。
 こんな風に、他人から馬鹿にされる原因は、ISO以外に実績を伴わない不甲斐なさにあるのではなかろうか。こうなれば、人の批判がどうであれ、自分はますます初志貫徹で、もっと総合的な経営コンサル業の方向へ進んでいかねばならないとの思いが、体内を駆け抜けるのであった。
 ISO審査員の仕事を、今のようなやり方で請け負うのは、そろそろやめるべきではないか?ISO以外の新しいコンサルの営業品目や新商品を開発して、別の分野にもっと挑戦するべきではないか? 電話で説教されるずっと以前から、頭を悩ましていたのであったが、なかなか良い考えが浮かばなかった。
 しかし、この時代、不況の中でも、一つITだけ景気が良いらしく、その繁盛振りが人々の口に上ることが多かった。自分も一からITの勉強でもするかと思いつくのに、そう時間はかからなかった。
 事実、ITが経営革新の重要な手段になる可能性は十分にあった。多くの中小企業は、高度成長期以降、旧いビジネスモデルを踏襲して行き詰まりを迎えているのに、何ら有効な手を打てないでいる。リエンジニアリング(組織の再編成)はITを核にしてこそ意味がある。そして、自分は、ITを中小企業に広めることこそK技術経営の志向すべき方向があるのではないかと思った。
 そこで、自分はITコーディネーターの資格取得を目指すことによって、IT参入への入口にしようと思った。調べてみると、資格取得のための最後の機会となるセミナーは、この年の正月が開けると直ぐに始まることになっており、即断即決で受講の申し込みをした。
 セミナーの参加者は、上級の情報処理技術者や公認会計士、税理士、中小企業診断士等で平均年齢が40歳前後の若い人達が中心であった。自分のような60歳を超えた老骨は少なかった。年寄りが、このような連中と対等に付き合っていくために、事前に十分の予習をしておく必要があった。
 自分は、正月休みを挟んで、最小限、事前送付のテキストだけでも読んでおかねばならないと思った。テキストはかなりのボリュームがあり、全部で16冊もあった。このテキストを正月休みの間に、精読・完読しなければならない。1日に1冊ずつ読んでも時間が足りなかった。しかし、やろうと思ったからには断固としてやる。少なくとも自分ひとり頑張れば済む問題は絶対にやり遂げてやる。遊びになど行っている暇はない。と悲壮な決意をしたのであった。このお陰で、正月は甲山の神呪寺へ、ほんの1、2時間、息抜きの初詣に行っただけであった。ずっと、自宅事務所のデスクに張り付いて、受験生のような正月を送り、酒もほとんど飲まなかった。
 久しぶりの猛勉強であった。勉強に疲れると耳元で悪魔がささやく。今さら新しい勉強を始めても、商売道具として活用する時間がない。お前はもういい年ではないか?今更、苦労しても、その元が取れるのか?お前は意味のないことに手を染めようとしている正真正銘のアホと違うか?等々の雑念が次から次へと襲ってくるのであった。そのような時に、耳元で囁く悪魔を退散するために書いたのが下記の落書きである。

  ワハハハハと笑いながら
  50になった時には
  60までとにかく頑張ろうと思った

  60になったら
  70まで後10年あるワイと思い
  70になったらなったで
  80まで後10年もあると思うだろう

  80になったら
  90まで何と未だ10年もあるのかねと驚いて
  90になったら
  100までナント未だ10年も残っているがなと嘆息するかもしれん

  考えてみれば
  今日から100まで10年を何度繰り返すのか
  人生とは何と永いものよ

  60や70の人よ
  先は永い
  今日から登板して完投できることは山ほどあるゾ
  思い立ったが吉日だ

  60や70の人よ
  100の人と比ぶればキミはまだまだ青二才だ
  自分は年だと決して言わないでくれ

  60や70の人よ
  先はホントに永いんだ
  ワハハハハガハハハハと突き進め
  嘆くな、焦るな、くたばるな
  キミにはまだまだ時間があるのだから

 しかし、結論を先に書けば、ITコーディネーターの資格は取ったものの、中小企業診断士や技術士の資格と同じく、それ自体は何の役にも立たなかった。資格を武器にして、ビジネスが取れたこともなければ、其処で得た知識を活用してお客に何か好いことをしゃべった憶えもない。資格など、コンサル商売には何の役にも立たないのである。直接の効用を求めるならば、多分、資格取得に至るまでの時間つぶし以外の何者でもなかろう。
 それでも、自分はこれらの資格を取るために勉強したことの後悔はまったくしていない。十分に役に立ったとさえ思っている。やはり普段から勉強して知識を蓄えておくことは大切である。色々な雑学が身に付けば、自然と自信が付いて来る。誰かがITに関連してウソ八百並べても、雑学のお陰でホントかウソかぐらいかは分る。自分の弱い場面に遭遇しても平然として居ることができる。勝負師にとって大事なことは、知識不足を自覚するあまり、自分より知識のない者に騙されないことだ。コンサル人たる者、いわれなく、へりくだっていては商売にならないのである。
 また、特に最近思うことは、人生は結果ではないということである。結果が勝負であるなら、生きている限り、人は永遠に結果を出し続けなければならなくなる。これが最後の結果だと思っても、その後30年も生きることになれば、その後の成果がゼロでは具合が悪いのである。従って、結果よりもプロセスが大切であることに思いが至る。旅をして目的地に着いても、途中の景色を一切見ずに一心不乱に目的地に着いて、一体、どんな意味があると言うのか。旅のより重要な意味は目的地に着くことではなく、途中の景色と時間を楽しむことにあるのだ。人生も同じではないか。錦を飾って、冥土に早く到着することが目的になっては、本末転倒もはなはだしい。
 自分の場合、今から考えれば、資格を取るための勉強そのものを楽しんでいたのである。資格試験に合格した喜びだけで、すべてが終わり、その後がなくても、それで良いのであった。お陰さまで人生のある時間を有意義に過ごせたと思えば元が取れているのだ。何もせずに、ぼやっと過ごしているだけなら、得られなかったであろう貴重な経験を、その過程で得ているのである。偶然にせよ、その後、付加的に何か得るものがあるならば、それは余禄というものだ。何もない基本的に欲がない状態からスタートするから、万一、余禄があって何か得ることがあったときには、望外の喜びと感謝以外には何もないのである。
 

第365話「アメリカ9.11事件」(平成9年~平成15年)

2008-05-12 | 昔の思い出話
 長女のご夫君は、大阪で弁護士生活を過ごしていたが、更なる向学心を捨てきれず、アメリカ留学を念じ続けていた。その強い意志と願望と努力が実って、ついに、2001年の夏から米国ニューヨーク州にある大学へ留学することになった。
 若夫婦には3歳になる女の子と零歳児の男の子の二人がいたが、家族を引き連れて留学することになった。ご夫君は英語の勉強と家族受け入れのホームの準備を兼ねて、家族に先んじて6月頃に単身出発していたので、その奥さんである我が長女とその子供たちは遅れて9月初めにアメリカへ出発することになった。ただ、長女が乳飲み子を抱えている上に、さらにもう一方の手で、ヨチヨチ歩きの幼児の手をつないで行く分けにも行かず、家内が介添人として同伴することになった。さらに、英語が得意で、好奇心旺盛な我が次女が介添人の付け人として同行するという、二重三重の万全の体制で伊丹(いたみ)空港から出発した。まだ残暑厳しい夏の日が照りつける時節のことであった。
 伊丹空港では、ご夫君の両親ご夫妻、次女のご主人、併せて自分が見送った。出発する連中は楽しくて、まるで自分たちのための短期海外旅行にでも出発する雰囲気であった。飛行機が飛び立つ前は、皆で記念写真を撮ったりして時間を過ごした。自分は、家内をマイカーで送って来たことでもあり、駐車場に自分の車があることとて、時間的には慌てることもなく、彼らが消えた後、飛行機が飛び立つまでの間、のんびりと送迎デッキに出て見送った。
 いつ見ても、大きなジャンボが離着陸する様子は見ていて、豪快で楽しいものである。「久しぶりのアメリカだ、楽しんで来いよ」と念じつつ、飛行機が視界から消えて見えなくなるまで見送った。家内は、目的地までの付き添いが済んだ後は自由行動で、次女とも別れて、一人でワシントンへ数日間立ち寄って、気ままな一人旅を楽しむ予定であった。そのため、事前に飛行機やホテルの予約や手配の万端を整えていたので、自分としては何一つ心配していなかった。そして、翌日には、アメリカはニューヨーク州イサカから無事に到着したとの電話連絡があった。
 自分は、久しぶりのチョンガ生活で、三度のメシをどうするかなどとぼんやりと考えながら、何気なく、朝のTVを付けると、目を疑うようなニュースが飛び込んできた。NHKのアナウンサーが興奮して、何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。その内容は、ニューヨーク国際貿易センタービルにハイジャック機2機が突入し、飛行機の乗客乗員全員が死亡、ビルの倒壊による犠牲者は何千人に上るか分からないとの想像を絶する報道であった。摩天楼立ち並ぶニューヨークの中でも、ひときわ目立つアメリカ繁栄のシンボルとも言える超高層ツインビルに、ジャンボ機が相次いで激突し、その数時間後に、2棟のビルが次々と崩壊していく様子が何度も何度も放映されたのであった。
 長女たちの旅行経路と目標地は、ニューヨークのラガーディア空港で乗り換えて、さらに1時間ほどの飛行距離にある町イサカであった。この時には、彼らは、事件のあったニューヨークを二日前に通過しており、既にイサカに到着していたので、彼らの身の危険を心配する必要はなかった。しかし、この事件は、ニューヨークだけでなく、別の旅客機がペンタゴンへ突入したとか、ピッツバーグ上空でさらなる旅客機1機が墜落したとか、いくつもの計画的かつ同時的なテロが広域的に発生していたのであった。ブッシュ大統領は、直ちに「これはアメリカへの戦争行為である」と声明を発表した。アメリカ全体が衝撃の大きさに、まるでパニックに陥っているように見えた。
 その日の夜半、「そうだ、こんな時に知らん顔していては、後で何を言われるか分かったもんではない」と先ずは義理から生じた義務感で、火事場見舞いの電話をしてみようと思い立った。ところが、家内は、めったなことでは事前にほとんど準備をしないという大変おおらかな血液型であったので、この時もイサカの電話番号を書き残していなかった。「困ったなあ、長女の主人の実家に今更電話番号を聞くのも気が引けるしねぇ」と思いつつ、先ずは、同行した次女の夫君にTELを入れた。さすが、血のつながった我が娘である。次女の方には、ちゃんとイサカのTELの記録があった。「家内の血液型はO型、次女はA型、血液型は正直だね」と思った。
 1回目の電話は話中で通じなかった。何度かけなおしてもつながらなかった。アメリカと日本の間の国際電話もパニックになっていたのか、回線に制限が加えられているような感じであった。
 航空会社も、特にアメリカとの国際線は、第2、第3のテロを警戒して、便数を大幅に削減したとか言っていたが、実は完全にストップさせていたのだ。家内と次女は果たして、無事に帰国できるだろうか?出発前に帰国便の予約はしていたが、そんなものは、この非常事態には紙切れにしか過ぎない。不自由な場所で、彼女らは、やり直しの再予約が出来るだろうか?と次第に心配が募ってきた。
 悪いときには、悪いことが重なるものである。どうしたことか、この時に、これまで一度も経験したことがなかった、自分の背中の少し下で腰痛が発生しつつあった。朝目が覚めて、布団から立ち上がろうとすると、簡単に寝床から起き上がれないのだ。身体を捻ると、腰の部分に激痛が走った。自宅1階の夜半閉めてあるスチールのシャッタを開けようと屈むと、腰が痛くて手が前に出せなかった。
 イサカには電話はつながらないし、毎日自活のための食物の買出しに出かけねばならないし、腰の方は日増しに痛くなってくる。家内が居たならば「腰が痛い、何とかせぇ」とすべてを家内のせいにして、一言命じておけばOKであった。しかし、現実は、家内達の情報が全くなく、さらに、こちらの腰痛まで付録として発生して、この不自由な生活があと何日も続くのかと思うと、腹立たしい気持ちが、もくもくと積乱雲のように立ち上るのであった。
 「彼女たちは、ひょっとすると永久に帰って来ないのではないか?」「帰る途中で再びテロに会わないか?」などと、あらぬ不安ばかりが掻き立てられる。「ビン・ラディンが何様か知らんが、腹の立つヤッチゃなぁ!」と腰痛でうめきながら、「お母ちゃん!早よ、帰って来てくれよ!」と涙をこらえて、三度の飯の仕入れに近所のスーパーやコンビニに通った。
 このような状態で2、3日を過ごしていたときに、自宅の電話が鳴った。アメリカからであった。長女のご夫君からの電話で、家族一同無事で、元気にしており、次女は初めの予定通りの飛行機で帰るとのこと。家内はワシントンの観光を取りやめたこと、また、飛行機は新たな予約を取らねばならないので、いつ帰れるか分からないが心配は無用とのことであった。「助かった。しっかりした若い男の声ほど頼りになるものはないなぁ」と思った。
 そして、無用と言われた心配を正直に受け止めて、それ以上、心配することをやめていたところ、2、3日して、思いもかけない時間に自宅のTELが鳴った。
   「もしもし、お父さん?」
アメリカに閉じ込められているはずの次女からの電話であった。
   「今、飛行場の傍のバス停留場に居るの。こちらは、今、朝で、
    まだ外は真っ暗やねん!」
と、イサカ近辺の空港からの電話であった。
   「おいおい、女一人、真夜中に、そんなところで大丈夫か?」
   「うん、大丈夫や!」
本人は、怖くないらしい。元気に答えてくれている。
   「搭乗予定の、ニューアーク行きの飛行機が、朝の
    6時半に出発するので、その1時間半前には、
    飛行場に着いているようにと、予約のときに
    係りの人に言われたん。バスで一人でここまで
    来たんやけど、飛行場は未だ開いてないし、人が
    ほとんど居てへんねん!」
本当に勇敢な娘であるし、日本人らしい娘のき真面目さとアメリカの地方空港や係員の発言のいい加減さに思わず苦笑いだった。
   「気をつけて帰っておいでや!」
と言って、後は、運を天に任せて祈るだけであった。
 次女は既に他家に嫁に行った人間である。彼女の日本着は成田であり、東京からは新幹線で帰るようなことを言っていたので、その迎えはご夫君に任せた。先ずは、ともかく、一人目はOKとなり、心配の種が一つなくなって、一つ分だけほっとした。
 さらに3日遅れて、二人目家内の帰還が決まったと連絡が入り、決死の日本への出発の実行となった。やはり、早朝の飛行機であったようであるが、家内の場合は長女のご夫君が車でイサカ最寄の飛行場まで送ってくれたらしい。少し安心して、伊丹着の帰国時間を確認してその日を待った。
 自分は、伊丹空港に家内を迎えるために、3時間以上、普段ならば十分すぎるほどの余裕を見て車で自宅を出発した。夕方のラッシュであったのか、何か交通事故でもあったのか、西宮と伊丹を結ぶ国道171号線は大渋滞であった。腰が痛いのを我慢してハンドルを握っていたが、渋滞でのろのろとしか動かない車の中で、痛む腰をカバーするべく、左側の尻を少し浮かせて、なるべく右肩に加重をかけてハンドルを握っていた。しかし、いらいらしながら、大渋滞にはまり込んで、結局、伊丹へ着いたときには、余裕の時間を完全に消化し切っていた。その間、始終、背中の一部の筋肉がぴくぴくと踊るような感じがして、それを抑えるために背中全体をコチコチに硬直させていた。
 到着ゲートから、愛しの奥様が、おっとりと、しかし、しっかりとした足取りで出てきたときには本当にほっとした。ほっとしたら、いたわりの気持ちは、そこで終わってしまった。彼女の長旅の疲れ、遭遇した事件、不安な一人旅のことなど、ゆっくり聞いてやる余裕をすっかり忘れた。本人以外は知る由もないが、自分ひとり、やきもきしていた1週間であった。そのことで、もう十分に誠意を尽くしたように感じていた。
 当然、伊丹から自宅までの帰りも自分が車の運転をしたが、この時は、背中全体がこわばって、腰が痛いのか、背中が痛いのか分からないような状態であった。おかげで、長旅の家内をいたわるどころか、家内の居ない毎日の布団の上げ下ろし、三度の食事の買い物の不便など、如何に不自由したか、自分のことばかりを話題にしていたのである。
 翌日、目が覚めると、腰の痛みはウソのようになくなっていた。その代わり、左肩の背中が全く我慢できない状態になっていた。最初の腰の痛みが北上して場所を変えた。左の背中部分には、左手を前に上げて、車のハンドルを握ることすら許されないほどの痛みが走った。
   「伊丹へ行ったら、腰のイタミが背中のイタミに変わり
    よった!」
と冗談を言って、顔は笑っても、本当のところ、そんなことを言っている余裕はなかった。
 この背中の痛みは、その後、延々と1年以上も続き、忘れた頃に自然に治った。自分は、既に61歳を過ぎていたので、四十肩ならぬ六十肩というのがふさわしかろうと考えた。この背中の痛みが長期にわたって続いたお陰で、車のハンドルを握る意欲はすっかり喪失した。自分の人生における車生活は、ここで、ほぼ終わりを告げた。考えてみれば、アメリカの9.11事件は、地球の反対側に居る自分と言う個人の生活にまで、甚大な影響を与えたのであった。


第364話「森と湖の国」(平成9年~平成15年)

2008-05-11 | 昔の思い出話
 フィンランドという国は、ハンガリーと並んでヨーロッパの中でも特に好感の持てる国である。昔、会社勤めしていた頃、IGU(世界ガス連盟)の国際的な技術交流の会合で、英語があまり得意でないハンガリーとフィンランドと日本の代表(自分のこと)が自然発生的な三国同盟を結んで、隣の席に座ったり、パーティーではいつも一緒に集まって雑談したりしていた。三国同盟には、時々イタリアの友人も参加してくれた。
 日本人の自分には、ヨーロッパ系のハンガリー人やフィンランド人と顔立ちは違っても、どこか遠い祖先が共通するような親近感を感ずる。彼らの言葉には、英語やドイツ語やフランス語と決定的に違う要素がある。英語と似た単語、語源を共有する単語がほとんどないのである。従って、彼らも英語は下手であった。日本人の自分とあまり変わらないのだ。そこで、お互い劣等生どうし気が合って認め合うだけの理由があった。こちらから求めなくても、気がつけば隣の席に、いつの間にか、フィンランドのサボライネン君が居たり、ハンガリーのパロータス博士が居たりするのであった。
 ハンガリーへは、一度だけのことであるが、仕事で訪問したことがあったので、三国同盟のもう一国であるフィンランドへも、是非、行ってみたいと思っていた。フィンランドは緯度の高い北欧にあるのできっと夏も涼しかろう、日本の一番暑いときに日本を脱出し、避暑を兼ねて訪問するのが最高だろうと考えて、かねてより機会を窺っていたのだ。
 人間とは不思議なもので、普段見過ごしているものでも、関心を持てば感覚が研ぎ澄まされる。いつもなら何とも思わず見捨ててしまうはずの、ある旅行社の宣伝広告が、向うの方から目に飛び込んでくるのは、極めて自然の成り行きであった。1週間ほどの旅程で、野山のハイキングがふんだんに織り込まれた、シルバー向けの企画が目に付いたのだ。しかも、真夏のお盆休みの間に、日曜日に出発して、次の日曜日に帰ってくるので、仕事への影響が全くなかった。少し値段は高いが、自分たちにとっては理想的な計画であった。
  「おい、夏休みにフィンランドへ行かへんか?」
と、家内に声を掛けると、二つ返事が帰ってきた。
 家内は面白い女である。大抵のことは直ちに厭だと断るくせに、自分に興味があることだと、大胆にも一発で回答を返してくるのである。これまでも、うっかり冗談で言ったことで、後へ引けなくなり、大変高くついた失敗は数知れない。あまりの決断力にびっくりして、自分は一歩後へ下がりながら言った。
  「しかし、キミは、今年の夏、長女とアメリカへ行くことに
   なってんのとちゃうのか?」
  「かめへん、両方とも行く!」
との返事であった。
 と言うようなわけで、出発のわずか1.5ヶ月前に、フィンランド行きが決定した。家内が旅行社に電話で申し込むと、すでに満員御礼に近い状態であったそうだが、滑り込みセーフと相成った。
 成田からヘルシンキまでは、ハンガリーのマレブ航空のチャーター便であった。機内のサービスも食事も、日本航空とは比べ物にならないほど質素なものであった。初日に降り立つ町ヘルシンキは日本が第二次大戦の直後、初めて出場したオリンピックの行われた町であった。お陰で、ヘルシンキという名前は子供のときから、脳裏に強く焼きついていた。戦争が終わって間もなく、日本人全体が自信喪失の真っ只中にあった、あの時期に、雑音がガアガアピイピイと鳴って、しかも音が周期的に大きくなったり小さくなったりする短波放送で、古橋や橋爪などの日本水泳陣の活躍振りを聞いて、手をたたいたり胸を膨らませたりした思い出があったのだ。
 この二年前のアメリカ家族旅行は添乗員抜きの旅であった。今回は添乗員も付いて、乗り換えの心配もなかった。が、飛行機に乗り込むや否や、突然、真面目になって、道中、せいぜい缶ビール1缶を楽しむ程度で我慢した。何を隠そう。数年前の、あの心筋梗塞の検査入院以来の潜在的なプレッシャーがあったお陰で、懸命に節酒していたのである。
 ヘルシンキには真夜中の12時を越える大変遅い時刻に到着した。空港からホテルまでのバスには、ガイド役として大阪人らしいアクセントの日本人女性が乗り込んできた。しっかりした自信たっぷりの中年女性で、何十年もフィンランドで住み着いているらしく、日本語と同じ程度に達者なフィンランド語を操る女性であった。バスの外の景色は真っ暗闇で何も見えない上に、少し雨模様であった。ヘルシンキ、ヘルシンキと期待してきたが、窓ガラスからの視界はゼロ。見物は翌日の朝までのお預け。少し残念であった。
 ホテルまでの道中、このガイドから旅程の簡単な説明を受けた。バスがホテルに到着する寸前に、旅行者全員にフィンランドの硬貨混じりの両替をしてくれたのは助かった。夜半に到着した我々には空港で両替するチャンスもなかった。翌朝から、いきなりのチップや新聞や雑貨を買うのに大変役立つのである。
 我々の宿泊したホテルはヘルシンキの町のほぼ中心部にあった。早朝に起きれば添乗員の女性が引率して朝のヘルシンキを案内してくれることになっていたが、家内と自分はそれをはずして、二人だけで歩いた。
 ホテルから中央駅までは、徒歩で1、2分くらいの距離で、駅の周辺をぶらぶら歩いた。想像していた通り、閑静なきれいな町であった。朝が早かったので、真夏と言うのに、20度Cくらいであった。ひんやりとした朝の冷気を感じた。この旅行は全体にゆっくりした旅程で、自由時間が多く、我々のように束縛が何よりも嫌いな人間には打って付けであった。
 朝のごく短時間の自由行動のあとは、ほぼ1日かけて、専用観光バスに乗って、昨夜の大阪出身らしい女性ガイドの案内で、ヘルシンキ市内の名所をあちこち見て回ったようだ。が、どこをどう見たのかほとんど記憶がない。
 旧大統領の官邸とか言う小さな黄白色の建物が見える港の空き地に、ごちゃごちゃと屋台の集合しているマーケットプレース(市場)があり、そこで小一時間ほど過ごした。港にはストックホルム行きと船腹に大書された大きな豪華客船が停泊しており、北欧の町であることが実感できた。
 家内は、マーケットプレースでイチゴの実のような食物を買った。自分も少し食ったのに、それが何であったか忘れてしまった。こう言うところへ来ると、自分はトラブルに巻き込まれたくない思いが先行して、つい腰が引ける。だが、家内は大胆だ。屋台のおばさんの話す言葉が全くわからなくても、つい何か買いたくなるらしい。
 続いて、ヘルシンキ大学や19世紀風の低い建物の官庁街に囲まれた広場へ来た。石畳の、中央にひときわ目立つモニュメントのある広場で、ユニフォーム姿の若い兵隊さん達がトラックに積まれた四角いコンテナーのような演奏台で、ブラスバンドを吹奏していたことが記憶にある。
 日本人の女性ガイドがずっと付いて説明をしてくれたので、フィンランド語については、かなりの知識を得ることができた。フィンランド語でサンキュウーはキートス、グッドバイはナケミーンということは直ぐに覚えた。ナケミーンは日本語のような語感で、セミの鳴き声を想像させた。また、冬は寒いので海が凍る。海は公道ではないので車の免許証が要らない。従って、ヘルシンキの人は車の運転免許取得の練習を冬の海の上でするそうだ。
 ヘルシンキからそう遠くないところに、スオメンリンナという世界遺産に登録されている村があった。ここはがっかりした。200年ほど昔のフィンランドの町並みがそのまま保存されていることが世界遺産の登録理由であるが、自分の目には普通の田舎町と変わらず、さして驚くものではなかった。骨董的な雰囲気からすれば、昔住んでいた大阪空堀通りの方がはるかに世界遺産にふさわしい。我々には、世界遺産の法隆寺や安芸の宮島など、壮麗な芸術的建築物に見慣れているので、何でもない普通の町を見せられると、いささかがっかりする。「へー、こんなもんでも世界遺産になるんかぁ!」が偽らざる感想であった。
 ヘルシンキのことであったか、この村のことであったか定かではないが、最初の昼食をとるときまで、自分は至極真面目に酒類を控えていた。従って、遠慮がちに生ビールの小グラスを注文した。ところが、自分の次にウエイターが尋ねた隣の客は,何の遠慮もなく、大ジョッキを注文した。しかも、ぐっと飲み干して、お代わりまで注文する始末。この時、自分は何故か、非常に悔しくなった。「何にぃ、コンチクショウ、負けるもんか、我慢して、エライ損した」と、負けん気がむらむらとこみ上げてくるのであった。
 その男は、その後どこへ行っても何のためらいもなく、大ジョッキを注文しては男らしく悠々と飲むので、自分としても対抗意識を抑えきれなくなった。1度飲めば、後は雪の坂を下る雪達磨であった。相手は意識していないであろうが、自分はその後も旅行が続く間、ずっとビール飲み競争を続けた。フィンランドへ来るまでは、何とか必死で続けてきた節酒が、残念なことに、外国の地で、はかなくも胡散霧消してしまったのであった。
 ところで、ハメーンリンナはヘルシンキからバスで半日の距離にある。このハメーンリンナ近くにあるアウランコ湖の水辺の景色は大変美しい。森閑とした針葉樹を背景に夕暮れの湖を眺めていると、何か幽かな東洋の雰囲気を感ずる。あの日本画家の東山魁夷が、ここに居付いて、この風景をモデルにしたらしい。彼が描いていた絵が、あまりにも日本的なので、てっきり、京都の北山杉か何かを題材にしていると思っていたが、そうではなく、フィンランドの杉山の絵であったとは。そのようなことはここへ来るまで、全然、知らなかった。じっと湖面を見詰めていると、東山魁夷が好んで描いた森の水辺に1頭の白馬がゆっくりと歩いて居る感じを実感するのであった。
 「このアウランコ湖はアウランコであって、アラ!ウンコと間違わないでほしい」と、例の女ガイドが人を笑わせるために言った。「あら!ウンコ」などというはしたない発想を思いついた上に、人の前で広言できたので、彼女を大阪出身と確信した。
 ムーミンというのは日本のアニメであるが、原産地はフィンランドである。タンペレと言う町で、ムーミン谷博物館とやらへ行って、日本から逆輸入されたムーミンやムーミンパパ、意地悪ばあさんの人形やそれらの絵を見た。日本人なら誰でも知っているムーミンの親近感からか、日本の観光客も多く来るらしい。お陰で、タンペレの町の経済も潤い、活性化につながっていたそうだ。日本も思わぬところで世界的な貢献をしていることが分かった。
 ハメーンリンナからタンペレまでは、ずっと、つながった大小いくつもの湖に沿って長い船旅をした。残念ながら、湖は透明度がほとんどなく、日本の田舎のため池のような汚れ方であった。昔、摩周湖や十和田湖の澄んだ水をみて感激した自分の目には、これを見てがっかりした。美人は遠くから見ているうちが花。近くへ寄って身近に眺めて幻滅を感ずることもままあるが、これもその一つであった。森と湖の国フィンランドの湖は、遠めに見ている方が良ろしい。汚れたと言われる琵琶湖の方がはるかに澄んでいてきれいだ。諏訪湖の水はあまりきれいではないが、フィンランドの湖水はせいぜいそのレベルだった。
 ハメーンリンナでもタンペレでも、半日ほどの行程で軽い山歩きをした。フィンランドは寒い国なので、夏場にはツンドラがせいぜい草原となるような風景を想像していた。が、思いのほか木々の緑が深かった。山は杉やヒノキ、唐松に似た背の高い樹林がうっそうと続く。山道の際には野いちごがふんだんに自生しており、勝手に食べてもよろしいとのことであった。自分も含めて観光客の皆さんは、かなり沢山、野イチゴを食った。すっぱい味であまりうまいとは思わなかった。
 山の入口で、「ここがトイレです。水洗トイレではありません。山へ入るとしばらくトイレはありません。山全体をトイレと思ってください」と、フィンランド人のガイドから説明を受けた。女性と男性のうちマナーの良い皆さんはトイレに行かれたが、自分は水洗でない、狭い木製のトイレを使う気がしなかった。つまり、フィンランド人の肥溜めをあえて直視する気にはなれなかった。美人は美人のまま、遠くから見て楽しむが如く、フィンランドのイメージをそっとしておきたかったのだ。
 この山歩きでは、日本語の出来る若い主婦兼事業家のフィンランド人女性が案内をしてくれた。ここでも彼女の堪能な日本語にびっくりさせられた。山歩きのコースはいくつもあるらしく、どのコースを選んでも良いとのことで、女性ガイドは気楽にスタートしたが、結局、バスが待機する元の場所に戻れず、道に迷ってしまった。道には迷ったが、何だかんだと言っているうちに解決して、バスの方から我々を迎えに来てくれた。グループツアーでは多数の仲間が居るので、全く不安がないのが救いだ。
 また、どこへ行っても日本語の出来るフィンランド人に出くわすことも驚きであった。ここのガイドの女性は、東京でしばらくOLをやっているうちに、すっかり日本びいきになったとのこと。今では、国に帰って、いっぱしの事業家であるとのことであった。彼女は町の市場で寿司レストランを開業しており、その寿司レストランも、山歩きの後に案内してくれた。店には日本の竹と紙で作った提灯がぶら下げられており、ハッピを着た彼女のご主人や息子さんが板前をやっていて、それなりに日本の雰囲気を演出していた。こぎれいな小さな店であった。
 シベリウスの生家では、シベリウスの作品のCDを数枚買った。シベリウスは交響詩フィンランディアくらいしか聴いたことがなかったが、結構多数の作曲を残している。交響曲も多いらしい。クラシック音楽については、自分はあまりにも幅を広げて多くを聞いているので、淡白で盛り上がりに欠けるシベリウスの曲が特に好きだと言うわけではない。まあ、メンデルスゾーンと同じレベルか、それ以下であろうという感想である。
 ナーンタリでも、日本語の出来るフィンランド人がガイドに付いた。今度は男性のガイドであった。少しなまりはあるが仲々の日本語で、結構理解できる。自分の英語よりはるかに流暢な日本語だった。彼らはどこで日本語を憶えるのだろうか? このガイドの案内で、バスに乗って一通りのナーンタリ観光を終え、ホテルに帰って後は自由行動ということになった。午後3時頃だったか、日はまだ高かった。ホテルから数キロ離れた海辺のみやげ物街は5時まで店が開いていると聞いた。それでは、歩いて見物に出かけるかと家内と二人で、地図と磁石を持って出かけた。磁石持参はこれまでの旅行で得た自分のノウハウである。方向さえわかれば、どんな細い道に入って行っても不安がない。
 地図を頼りに裏道を歩いたお陰で、途中で、民家の裏庭でネコを見つけた。ネコは日本のネコと同じ顔をしていて、同じ仕草がかわいらしかった。また、日本と同じくニャーンと鳴いていた。
 裏道に入らないとネコなどには出くわさないが、裏道を歩いてこそ、その国の人々の生活ぶりにも触れることが出来る。民家の裏庭に野菜が一杯植わっていたり、無造作に車が放置されていたり、子供が走っていたり、日本の郊外の町や田舎と大差がない。ここでは自宅近くの裏道を歩いているような感じさえするのであった。
 ナーンタリのホテルは豪華な一流ホテルであったが、勇気を出してサウナへ入った。昔、ハンガリーへ行ったときに、ミシュコルツのホテルで、仲間のヨーロッパ人から共同浴場(天然温泉)へ誘われたのに、自分は外人さんばかりの中で、たった一人、日本人として皆に同行して裸になる勇気が出ず、一生に一度の機会を逸したことがあった。
 サウナはフィンランドの名物であり、フィンランドのサウナはタンペレの山歩きのあと日本人と一緒に入って大体様子が分かっていた。今回はホテルに入ってからの自由行動であった。この時間にサウナへ行くのは自分ひとりで、サウナには日本人が一人も居ない可能性があった。家内は家内で、女性用のサウナへ一人で行くとのこと。負けるわけにはいかない。自分も男である。サウナでは、素裸でも、パンツ姿ても、どちらでも良いとのことだ。自分は、やはり恥ずかしいので水泳用のパンツをつけて入ったが、フィンランド人もほとんどの人がパンツを着けていた。と言うのは、そのまま、屋外の冷たいプールに飛び込むのに便利だからであった。
 サウナでは、熱いのが好きなフィンランド人が一人、火元に陣取って、しょっちゅう、火元に水をぶっ掛けてくれる。水は直ちに蒸気となって部屋中に充満する。100℃近い高温であるが、自分は辛うじて我慢ができた。じっとりと汗が出てくるが、じっと我慢していると汗がしっかりと出て、入浴効果に良いらしい。自分は、我慢が肝心とはいっても熱いサウナでは2分と持たなかった。出ては冷やして、また入る。冷やすといっても、自分の場合は空冷で、隣の部屋でじっとして居るだけだ。元気な人のように冷たいプールにそのまま飛び込む冒険は出来なかった。
 サウナに出たり入ったりしているうちに、いつの間にか、熱い好きのフィンランド人が居なくなって自分一人になった。誰も見ていないとなると、くだんのフィンランド人の真似をして、試しに水掛けをやってみた。なるほど、水は瞬時に蒸気になって、その都度、熱気が加重される。これは面白いと、何度もの何度も水をぶっ掛けているうちに、一人の外人さんが入ってきたので、自分は、また、ネコのようにおとなしくなった。
 その後、トゥルクという町をバスで通過したが、この町の記憶はほとんどない。どのバスに乗っても、ガイドから、フィンランドはロシアとスエーデンの二つの強国にはさまれて、苦労の末、独立を獲得したというイバラの道の長い歴史を持っていると聞かされた。
 自分はバスの中でガイドの説明がないときは、時間がもったいないと思って、ずっと英語のテープを耳にしていた。この長い旅行の間に、フランケンシュタインのテープ1巻を聞き終わった。しかし、その後はどう考えても異質のフィンランドとフランケンシュタインのイメージが重なって困った。フランケンシュタインなど聴かなければ良かったと後悔した。
 また、折角、旅行前まで続けていた節酒の習慣も完全に元の木阿弥になった。一度、元に戻ると、もう二度と節酒などする気が起こらなくなった。「無理が通れば道理が引き込む」の喩えに似て、楽しいことに専念すると苦しいことが奥へ引っ込むのである。楽と苦とは本質的に両立しないものであった。
 

第363話「記憶喪失した機械」(平成9年~平成15年)

2008-05-10 | 昔の思い出話
 1996年に自分は初めての個人用のパソコンを購入した。パソコンがまだあまり世の中に溢れていなかった頃だ。会社を辞める直前だった。何が良いパソコンかよく分らないまま躊躇なく、会社で使い慣れていたアップルのマックを買った。このような時代に、何故、皆はマックを使わずに、ウィンドーズを苦労して使っているのか理解出来なかった。
 しかし、ウィンドーズ95が出現して以来、マックは劣勢に立ち始めた。マックの方がはるかに使いやすく出来ていたのに、ウィンドーズがマックの真似をして、そのお株を奪った。マック愛好家は、仕事に必要なソフトが揃わず、悔しい思いをすることが多くなった。
 巨人より阪神、大鵬より柏戸、家康よりも秀吉、頼朝より義経、源氏より平家が好きであった自分は、本能的にウインドーズが好きになれず、一生マックで行こうと思った。マックの方がはるかに操作が易しかった。マックはパソコンのことなど何も知らなくても、誰でも操作できる庶民的なOSであった。ウインドーズはただマックの真似をしているだけではないか? 英語のウインドーズと言う意味は、元々、マックが開発した窓のようなアイコンをクリックするだけでパソコンが扱えることを意味しているのである。後発のウインドーズがマックの真似をして、先発の母屋を乗っ取ろうとしているのではないか? 何故、真似をしたウインドーズの方が売れるのか。自分にはサッパリ理解が出来なかった。
 その後、やむを得ずウィンドーズのパソコンを買ったのは、(有)K技術経営を設立して、会計ソフトを購入する必要に迫られたからだ。マックには良い会計ソフトがなかった。ウィンドーズは使ってみると、案の定、使いにくかった。しょっちゅうフリーズする。フリーズすると、折角、途中まで作った文書がご破算で、一から作り直さなければならなかった。
 その数年後の2001年5月、パソコンをそこそこ使いこなせるようになって順調に仕事を進めていた頃、たまたま自分は経営コンサル業務拡大策の一環として、多変量解析なる統計的手法に興味を持った。その通信教育を受講すれば、エクセルもマクロも同時に勉強できるように思ったのだ。通信教育は、CD-ROMを1枚送ってくるだけで、後は宿題を紙に書いて送るだけの至極簡単な通信教育だった。
 自分は、普通の人なら6ヶ月かかる通信教育でも、一生懸命やりさえすれば3ヶ月で仕上げることができるのではないかと思って、日夜、パソコンを酷使した。また、統計的手法というものは本質的に操るデーターがべらぼうに多いし、エクセルやマクロのことをよく分からん人間が試行錯誤的にやっつけるので、消化しきれない大量のデーターのインプットと頻繁なキーボードの押し違えとで、パソコンが悲鳴を上げている様子が手に取るように分かっていた。
 わけの分からん命令を次から次へと繰り出されたパソコンは、まさにお疲れの絶頂に達していたのであろう。また、K技術経営の仕事も順調に滑り出しており、昼間の仕事量も増えてきていて、パソコンがなければ、ニッチもサッチも行かないような繁盛振りであった。我がパソコンは日本のトップメーカーF社のものであったが、さしものF社のパソコンも使い込んで2年半も経った頃、突然、画面に変なメッセージが現れた。
 パソコン自らが「もうアカン、疲れた!」と訴えたのであった。とにかく、基本がわかっていないご主人のすることである。パソコンにとっても大変な難行苦行であったのだ。突然、「メモリーが不足しているので、不要不急のソフトを削除してください」と言うメッセージが出たのである。
 自分は、パソコンは仕事のためだけにしか使っていなかったので、頼みもしていないのに、パソコンにゲームなど不要不急のプログラムが多数存在することが不愉快であった。そこで、自分は「これらのゲーム関連プログラムをすべて削除すればよいのだ」と判断して、ゲームソフトと思われるソフトを一つずつ削除し始めた。何個目かのソフトを削除しようとした時に「このアプリケーションを削除するとシステム全体に影響するかもしれません」と言うような素人には判断が出来ない、またメーカーの責任回避としか言いようのない、物騒な警告が出た。自分は、それが重大なことに結びつくとは、毛頭も考えず、OKをクリックした。
 これが大失敗であった。OKをクリックするや否やパソコンが瞬時にフリーズした。やむなく電源を切って再スタートしたが、何度やってもパソコンが立ち上がってくれなかった。何時間もマニュアルのQ&Aをひっくり返して格闘したが、どうしようもなかった。
 途方にくれた自分は、意を決して、F社の修理センターに電話して助けを求めた。
  「もしもし、パソコンが起動しないのですが、何とかなり
   ませんか。仕事に重要なメモリーが一杯、詰まっています
   ので、パソコンはどうなっても構いませんが、メモリーだけ
   は回復したいのです。何とか助けてください」
と泣き込んだ。
  「分りました。そのようなことなら、当方でお受けしますので、
   大阪堂島の修理センターまで持ってきてださい」
 自分は、この返事でホット安心して、「助かった」と思った。
  「専門家が見てくれるなら、何とかなるだろう、多少、
   費用がかかっても安いものだ」
と、パソコン本体を風呂敷に包んで修理センターに持参した。
 昔のパソコンは図体が大きくあまりに重いので、阪急梅田駅から修理センターまで、歩いて15分くらいの距離にタクシーを使った。しかし、それでもパソコンに取り付いた悪魔は強かった。パソコンを預けてすっかりリラックスしていた、真夜中の11時頃に無情な電話が鳴ったのであった。
  「F社の修理センターです。先ほどからお宅のパソコンの
   修理作業をしています。ところが、どうしたことか
   プログラムが暴走して、メモリーのすべてを消失して
   しまいました。申し訳ありません。修理代は頂きません。
   明日一番に取りに来てください」
 自分は、一瞬、「アホな!」と我が耳を疑った。何しろ、このパソコンには開業以来、営々とインプットした(有)K技術経営のすべての情報が蓄積されているのだ。コンサル用に作ったISOの教育資料、顧客提供資料、契約書、請求書、2年半の経理データーなどであった。わがK技術経営のすべてのナレッジがバックアップもなく、一瞬のもとに消失したのであった。何と抗議したものか? F社に損害賠償を請求できないものか? その夜はマンジリともせず、朝までの一夜を過ごした。
 翌日、パソコンを引き取りに行ったときには、可愛い我が子と全財産を一緒にして棺桶に入れて持って帰るような気持ちだった。自分は独立開業以来の最大のショックを感じていた。
 F社の修理マンは、まるで、お医者さんが言うように言った。
  「夜も寝ずに最善を尽くしました。原因が分かりません。
   申し訳ありません」
 この一言で、損害賠償など言うことが出来なくなった。専門家ですら理解できないのだ。このトラブルの原因は、もともと、他ならぬ自分が作ったものだ。また、バックアップなどと言う面倒なリスク対策をしていなかったのも自分であった。リスクそのものの存在は認識していても、対策を講じていなかった。すべての責任は自分にある。今更、泣いても始まらない。「It is no use crying over spilt milk.(覆水盆に返らず)」が頭をよぎった。K技術経営の情報の蓄積を一から始める以外に、他にできることがなかった。
 修理センターから帰り、その足で大阪日本橋の電器屋街へ行き、代わりのパソコンを買った。K技術経営の業務はパソコンが無ければ仕事にならない状態になっていた。パソコンは完全に記憶喪失した。しかし、基本はすべてご主人様、すなわち、自分の頭の中にある。時間さえ掛ければ再生可能である。OK、OK。かまうもんか。わが子の記憶は喪失したが、機能は回復した。古いパソコンは予備として使ってやろうではないか。2台目の新パソコンとはルーターを介してメモリーを共有しよう。お互いをバックアップの関係にすればよい。二度と同じ過ちはしないぞと考えた。
 この時ほど、リスクマネジメントの大切さを思い知ったことはない。自分のリスクに対する備えは完全にゼロであった。世の中のことは、また特に自分だけのことであれば何とでもなると甘く見ていた。そしてその報いは十分であった。
 この失敗のお陰で、自分のパソコンに対する知識及び認識は大きく前進した。パソコンは基本的に脆弱な機械である。自分の存在のすべてを、このような、かそけき機械に任せることはできない。便利ではあるが万全の備えが必要である。後に、みずほ銀行が情報システムのトラブルに見舞われて大きな社会問題になったが、自分はそのような経験を先行して骨の髄まで思い知らされた。
 それにしても、我々の毎日の生活の基盤は完全に電子化されている。銀行にしても、役所との関係にしても、病院のカルテにしても、個人の取引にしても、今やコンピュータに主要なメモリーを預けている。戦争があったり、大災害があれば、これらは全部ご破算になる。また、単なる単純事故や人為ミスでも完全に消失する可能性がある。社会保険庁の年金記録でも大騒ぎしているが、あれが普通の状態であると思わねばならない。年金の場合は人為的な入力ミスが大半であるが、メモリーに関する事故があった場合は、国家が壊滅するほどの事態に至る可能性がある。民間の会社でも緊急事態の対応をしっかりしておかないと、倒産どころではなく、社会的な大災害に至る可能性がある。よくもまあ、みな、心配もせずに、おおらかに生きていけるものだ。そうなった時には自分一人のことでないからと安心しているのであろうか。あるいは、ただ単に気が付いていないだけのことか。「赤信号みんなで渡れば怖くない」かもしれないが、可能な限り、個人的なリスクマネジメントを平素から心しておくべきである。