山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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熊倉城

2018-03-13 18:56:15 | 山城ー武州
熊倉城は埼玉県秩父市荒川日野にあります。もう熊も冬眠から目覚める時期となりました。林道にはやたらにクマ出没注意の看板があります。熊ベルはもちろん熊スプレーも持参してください。なるべく友人と登る方が安全です。

熊倉城地図

秩父鉄道白久駅の南から林道があります。(現在工事中ですが、すぐに迂回でき、元の道になります)

白久駅

駅の南側の道を進みます。

地図のように、駅から南に林道を進みます。1.6kmくらいの距離です。途中、白久温泉の旅館の道は坂道で、左下の道を進みます。(私は間違えてしまいました。)

広い駐車場があり、東に登り道があります。

5分も登れば尾根に着き、細尾根を進むと

堀切が見えてきます。(尾根左手北に進みます)

大堀切

大堀切を見返しています。

南曲輪(坂を登れば二の丸)

南曲輪を見返しています。

二の丸は広大です。

縄張り図、長尾景春は当主上杉顕定が家宰職を継がせなかったため叛旗を翻し、武州の地で顕定軍と各地で闘争を繰り広げた、顕定軍の武将が太田道灌で、長尾景春は鉢形城を追われ秩父の山奥に山城を築き対抗したと言われる。この熊倉城が景春が籠った山城です。

次回 本丸
長尾景春の乱
挙兵
文明5年(1473年)、五十子陣で山内家家宰の長尾景信(白井長尾家)が死去した。白井長尾家の家督は子の景春が継いだが、家宰職(家務職とも)は当主上杉顕定が景春の叔父で惣社長尾家の長尾忠景に与えた。家宰職は陪臣ながら関東管領の補佐役とあって関東では大きな権力となっていた。
長尾氏は白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、鎌倉長尾家(後の足利長尾家)に別れ、持ち回りで家宰職を務めていた。しかし、本来は長尾氏の嫡流である鎌倉長尾家とそれに次ぐ犬懸長尾氏から輩出され、両家が当主の不在や幼少などで適任者を欠く場合に白井・惣社両長尾家の長老から選ばれる仕組みであったと考えられている。だが、上杉憲忠殺害事件の時に鎌倉家当主長尾実景とその息子で犬懸家を継いでいた憲景がともに殺害された影響で、家宰職が景春の祖父景仲、景信と2代続けて白井家から出る事になった(景仲次男であり、景信の弟である忠景は対抗馬になり得ない)。この論理で行くと、次期家宰職の最有力者は足利長尾家(鎌倉長尾家が足利荘に移転した)の長尾景人であったが、景信の死の前年に若くして没し、後を継いだ息子の定景や犬懸家当主である景人の弟房清は家宰職を務めるには余りにも若かった。そのため、一族の長老となり、景仲よりも以前に家宰を務めていた養父の長尾忠政の没後に武蔵守護代など家中の要職を務めてきた忠景が家宰職になる事はこれまでの選出方法から考えれば不自然な人事ではなかった[1][2]。その一方で2代続けて家宰職を出した白井家の力が強くなりすぎることを嫌った上杉顕定は家宰職を景春ではなく忠景に与えたという側面もあった[3]。
だが、景春はこの人事を深く恨んだ。更に白井家が家宰職の占めた時期に同家と関係を結んで所領の給与や安堵を受けた山内上杉家傘下の武士の中には家宰職が白井家から惣社家に移る事で今までの権利を失うことを危惧して景春が家宰職を継いで従来通りの安堵を受ける事を望む者もいた。特に家宰職とともに継承されてきた所領では問題が現実化し、白井家側の武士と惣社家側の武士との衝突も発生している。ウィキペディアより






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