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信長殺しの黒幕説③

2018-02-01 16:46:20 | 山城ー野州

信長殺し将軍黒幕説に終止符を打つハリボテ「鞆幕府」の真相

渡邊大門(歴史学者)


ところが、義昭の登場以降、奉公衆は復活しているのである。たとえば、美作国東北部には草苅氏という有力な領主が存在し、当主である景継は義昭の兄・義輝の代から太刀や馬を贈っていた。つまり、景継は幕府との関係を重視していたのである。

 景継は幕府との関係を義昭の代に至っても継続しており、奉公衆の「三番衆」に加えてもらうように依頼した。その結果、足利義昭の御内書と上野信恵の副状によって、景継は三番衆に加えられた。景継は奉公衆に加えられたので、その喜びは言葉に言い尽くせないものがあったと想像される。

 毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可にしても、奉公衆に加えるにしても、与えられた者にとって何か意味があったのであろうか。要するに、栄典授与などを得ることにより、他者に対して何らかの形で優位に立てるかということだ。

 結論から言えば、支配領域での実効支配の強化や戦争などが有利に展開したとは考えられない。ただし、与えられた当人が喜び、権威的なものを手に入れたと感じたことが一番重要だったといえるだろう。実効性はあまり期待できなかったと考えられる。
織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写)
 義昭は信長に追放され、将軍としての実権を喪失していた。とはいえ、義昭は半ば「空名」に過ぎない栄典を諸大名に与えることにより、彼らを自らの存在基盤に組み入れる根拠としたのである。それは、実権を失った義昭にとって最後の大きな武器であり、現職の将軍であることの強みでもあった。

 義昭は何とか奉公衆を組織し、配下には大名たちもが付き従った。では、義昭のもとに馳せ参じた大名には、どのような面々が揃ったのだろうか。その一員の中には、武田信景、六角義尭(よしたか)、北畠具親(ともちか)などの聞きなれない人物が存在するが、彼らはいかなる人物だったのだろうか。その経歴に触れておこう。

 武田信景は若狭武田氏の出身で、父は信豊、兄は義統(よしむね)である。義統の跡を継いだ子息の元明は、越前国朝倉氏の勢力に押され、のちに支配下に収まった。朝倉氏が滅亡すると、織田信長の家臣・丹羽長秀が若狭国を支配した。
結局、元明にはわずかな所領しか与えられず、若狭武田氏は滅びたのも同然であった。こうした事態を受けて、信景は義昭のもとに参上したといわれている。信長に対しては、良い感情を抱いていなかったはずだ。

 六角義尭は近江国六角氏の流れを汲み、義秀の子であるといわれている。六角氏もまた永禄末年に織田信長の攻撃を受け、もはや往時の勢いはなかった。武田氏と同じく、信長には好感を持っていなかっただろう。義尭は義昭の配下にあって、重用されたと指摘されている。それは、かつて六角氏が歴代足利将軍を支えたからだろう。

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 北畠具親は伊勢国司北畠具教の弟で、当初は出家して興福寺東門院主を務めていた。ところが、天正4(1567)年に織田信長が兄・具教(とものり)を殺害すると、還俗して北畠家の復活を目指した。

 南伊勢に入った具親は、翌年に北畠一族や旧臣とともに挙兵したが、具親は北畠信雄(信長の次男)の前に敗れ去り、北畠家の再興に失敗する。そのような事情から、鞆へ来て義昭につかえたのであり、やはり信長は不倶戴天の敵だった。

 このように見ると、「鞆幕府」を構成する中心メンバーは、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の3人であり、頼りなるのは毛利氏の家臣だった。ただ幕府を構成するには、形式を整えるため、烏合の衆のような存在も必要であった。それゆえに義昭は、彼らに毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を与え、忠誠心を植えつけようとしたのであろう。ironnaより

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