山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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『浦野一族の系譜』②(藤岡市立図書館所蔵)

2015-09-18 20:41:54 | 氏族の追跡
大戸村誌所蔵の系図

海野小太郎幸恒ー(八代)-幸継ー貞春(浦野と改め三河守)法名善塔院ー貞重(弾正左衛門)ー重成(真楽斎)ー重次ー為重
                                                    │        
                                                   重勝(但馬守)


2、三ノ倉全透院と浦野弾正忠重勝
群馬郡倉渕村(現高崎市)大字三ノ倉字栗崎に全透院という古刹がある。開基は延徳元年(1489)といわれ、木部新九郎によって開基され、後大永二年(1522)大戸城主浦野弾正忠重勝が堂宇を建立して中興開基した。

三倉山全透院は、三ノ倉栗崎にある曹洞宗長年寺の末寺であり、延徳元年(1489)五月十五日、木部新九郎が開基となり延命地蔵を祀る地蔵庵を建立したことから始まった。延徳二年正月二十日、木部新九郎は没し、開基の位牌「萬流院境山随心庵主」として祀られている。
 開基の木部新九郎は、鎌倉公方足利持氏から榛名寺別当職を補任された木部弾正左衛門入道道金の一族と推定され、全透院裏手の栗崎城を守護していたと考えられる。開山は養室紹舜大和尚である。


木部氏による榛名山及び三ノ倉地方支配は応永年間(1400)から永正の始め頃までの約百年間で、代わって倉渕村地方を領有したのは大戸の浦野氏であった。浦野氏は永正十年(1513)東の勢力箕輪の長野兼業と衝突し、攻められた大戸は一旦長野氏に降るが、後和睦して両者の勢力均衡を保った模様で、長野氏家系を見ると兼業の子業政には十二人の女子があり、そのうちの一人が大戸城主の室となっている。浦野氏がこの地方を支配した時期は、永正年間から天正十年北条氏直の軍に攻められて滅びるまでの期間で、永正十年長野氏と和睦後、長野氏から栗崎城を与えられて大戸から三ノ倉地方を支配した。その時、栗崎地区に堂宇を建立して全透院を開基した。(倉渕村誌)

倉渕村誌抜粋
浦野氏は貞春のとき大戸城(手子丸城)に居を構え大戸地方一帯を支配した。貞春が大戸城に入ったのは文亀年間(1500年頃)でその後倉渕地方に手を伸ばしたようである。(中略)三ノ倉地方を支配したが、そのとき全透院を開基した。のち長野氏の菩提寺長年寺から住職を招いて寺を開き全透院と命名した。開山した浦野氏の当主は弾正貞重で、全透院と命名したのは父貞春の法名が善塔院であったからと推察される。(中略)浦野氏は永禄六年(1563)今度は武田信玄の軍に攻められてこれに下り、以後は武田氏の武将として勇名をはせている。

ちなみに全透院の家紋は武田菱です

縄張り図「群馬県古城塁祉の研究 下巻」この縄張りを大戸真楽斎が築きました。 


縄張り図「境目の城と館 宮坂武男氏著」 この手子丸城の縄張りは推測ですが、北条氏直が浦野氏を滅ぼして全面補強したものと考えています。


つづく

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