60歳の研修医、奮闘中―。福井県坂井市三国町出身の水野隆史さん(60)が今年2月、医師国家試験に合格し、医師としての第一歩を踏み出した。農水官僚から一念発起して10年。本年度から青森県の病院で若い研修医と共に診療技術や心構えなどを実践で学んでいる。
水野さんは高校まで福井県坂井市三国町で過ごし、東京大学農学部卒業後は農水省へ。忙しい日々を送っていた50歳の時に転機は訪れた。新聞で50代の女性が医学部に合格したことを知る。19歳の時に父親を原因不明の病気で亡くしたことを思い出し「身近な人を助けたくなった」。「まだ新しいことができる」と医師を目指すことを決意した。
大学3年次に編入する学士編入試験に挑戦しようと、すぐに約40年ぶりの受験勉強を始めた。仕事後はもちろん、休日も趣味だった妻とのドライブをあきらめ、朝から晩まで勉強漬けの日々となった。
筆記試験にパスしても、面接では試験官から「授業についてこられる年齢ではない」「本当に医師になるつもりがあるのか」と言われ、不合格が続いた。受験した大学は延べ30校に上った。5年がたち、あきらめかけたころ、金沢大学医学類から待望の合格通知が届いた。
同省を退職し、医学生になったが「単位を取るのは受験勉強よりも大変だった」(水野さん)。命を扱うスペシャリストを養成するだけに高いレベルが求められ、同級生の多くが留年する中、なんとか進級した。医師国家試験には2回目で合格。受験勉強を始めてから10年がたっていた。
研修先に決めたのは青森県の十和田市立中央病院。一緒に見学に行った妻が十和田湖などの自然や町並みを気に入ったためだ。「これまで苦労をかけたので、恩返しもしたかった」と二人で青森に引っ越した。
最初の研修は手術中の患者の管理などを行う麻酔科だった。手術中は食事も取れず長時間立ちっぱなし。60歳には体力的にきついと感じる一方、「今は半人前どころか0・01人前。患者の役にはまったく立っていない。もっと頑張らないと…」と自らを鼓舞して研修に励んでいる。
水野さんが理想とするのは、子どものころに地元の診療所にいた医師という。「はしかや風邪、ちょっとしたけがを一人の医者が全部診察して治していた。何でもできる医師になって頼られる存在になりたい」と語る。「いずれは地元に戻り、身近な人に恩返しができたら」と、生まれ育った福井で医療人として働くことを夢みている。
すごくいい話ですね。
水野さんは高校まで福井県坂井市三国町で過ごし、東京大学農学部卒業後は農水省へ。忙しい日々を送っていた50歳の時に転機は訪れた。新聞で50代の女性が医学部に合格したことを知る。19歳の時に父親を原因不明の病気で亡くしたことを思い出し「身近な人を助けたくなった」。「まだ新しいことができる」と医師を目指すことを決意した。
大学3年次に編入する学士編入試験に挑戦しようと、すぐに約40年ぶりの受験勉強を始めた。仕事後はもちろん、休日も趣味だった妻とのドライブをあきらめ、朝から晩まで勉強漬けの日々となった。
筆記試験にパスしても、面接では試験官から「授業についてこられる年齢ではない」「本当に医師になるつもりがあるのか」と言われ、不合格が続いた。受験した大学は延べ30校に上った。5年がたち、あきらめかけたころ、金沢大学医学類から待望の合格通知が届いた。
同省を退職し、医学生になったが「単位を取るのは受験勉強よりも大変だった」(水野さん)。命を扱うスペシャリストを養成するだけに高いレベルが求められ、同級生の多くが留年する中、なんとか進級した。医師国家試験には2回目で合格。受験勉強を始めてから10年がたっていた。
研修先に決めたのは青森県の十和田市立中央病院。一緒に見学に行った妻が十和田湖などの自然や町並みを気に入ったためだ。「これまで苦労をかけたので、恩返しもしたかった」と二人で青森に引っ越した。
最初の研修は手術中の患者の管理などを行う麻酔科だった。手術中は食事も取れず長時間立ちっぱなし。60歳には体力的にきついと感じる一方、「今は半人前どころか0・01人前。患者の役にはまったく立っていない。もっと頑張らないと…」と自らを鼓舞して研修に励んでいる。
水野さんが理想とするのは、子どものころに地元の診療所にいた医師という。「はしかや風邪、ちょっとしたけがを一人の医者が全部診察して治していた。何でもできる医師になって頼られる存在になりたい」と語る。「いずれは地元に戻り、身近な人に恩返しができたら」と、生まれ育った福井で医療人として働くことを夢みている。
すごくいい話ですね。
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