何気無く大切な一日が、かけがえ無く今日も過ぎてゆく 高橋忠史・多系統萎縮症と生きる・唄い屋。

難病の多系統萎縮症に侵されても音楽を諦めない男のライヴ報告や日々の思い・命のメッセージ

「千の夢ひとつの愛」その5

2012年09月23日 03時26分18秒 | Weblog
9月23日


「千の夢ひとつの愛」その5



  (二つの答え、その間に無限大の宇宙が広がる)


 1+1=2

 これが僕の原点です。なに、又算数と思われるでしょうが、音楽の話に繋がっていくのでお付き合い下さい。
 
 たぶん、この地球上に同じものは存在しない。だから厳密に言うとこの数式はおかしいのです。
 たとえば、この1がりんごだとします。単純に一個のりんごともう一個りんごがありました。さてりんごはいくつでしょうと問うとこの数式の通り2個のりんごですと答えて正解です。
 何がおかしいかと言うと、りんごはりんごでも、この世に同じ形、同じ色、同じ重さのりんごなんて存在しないのです。
 少し青みがかった小さめのでも実がぎゅっと締まって見た目より重いりんごが一個ありました、すぐ側に、真っ赤に熟れた大きめのりんごがありました、さて、りんごはいくつでしょう。と問われたら、数式はもう一つ産まれます

 1+1=1+1

 この二つの数式を説明しなさいと問われたら、こんな解釈が産まれてきます。
 色や形や重さが違ってもりんごはりんごだから最初の数式が正しい。
 色や形や重さが違うと言う事は双方りんごではあっても個性があるのだから、足して2個のりんごと言う事は出来ない。だから後の数式が正しい。
 どちらも間違っていないですよね。

 そして二つの数式の間に、沢山のあいまいな解釈も成立します。
たとえば、りんごはりんごだから最初の数式が正しいけど、それぞれの個性を無視した答えで、その個性を尊重すれば後の数式が正しくなる。
 単純に赤いりんごと青いりんごに例えれば、赤と青のりんごが二つといえるので、個性を尊重しても最初の数式が正しいと言えるんじゃないか。
 と、いった風に、書き出したらきりが無いほどいろんな解釈が生まれてきます。そのあいまいな部分が実は現実で、答えがあっても、その答えを導き出す解釈は無限大にあるんですよね。こんな単純な二つの数式の間に無限大に広がる宇宙があるんです、だから僕はそこに音楽を感じてしまうんです。

 こんな風に考えているから、毎日唄うのが楽しくて、いくら体調が悪くても、長距離の移動で疲れきっても、明日僕はどんな解釈で歌を唄うのかなとわくわくして、明日も頑張るぞと思えて1000日、いや1449日一日も休まず唄い続けられたんだと思います。

 とまあ、ここまでは真面目に標準語で説明してきたどぉ。


  (ヘタクソな生き方)


…とにかくよう頑張ったな。それはそうと、なんで5年もたった今頃、本を書こうって思たん。終わってすぐやったらみなさんの記憶にも新しいから本も売れたやろし、メディア媒体も興味を引いてくれたやろに、ほんまにあんたは生き方がヘタクソやなぁ。…

 生き方がヘタクソやってよう言われるけど、こんな生き方や考え方しかでけへんからなぁ。自分では生き方ベタとは思てないけど、みんなから言われるからそうなんかもしれへんなぁ。

 それともうひとつ、お前は欲が無さ過ぎるって若いときから言われ続けてきたなぁ。
 僕には誰にも負けへんぐらいの欲望があるんやけど、人には見えへんのやと思う。

…その欲望って何?…

 僕には音楽しかないやん。売れたいというのは当然あるけど、そんなことより、向上し続けたいんや。昨日の僕より今日の僕が向上してるって感じ続けて生きていたいんや。
 前にも書いたけど、僕は音楽の才能が無いとは思わないけど、プロのミュージシャン達と付き合ってると劣ってる事ははっきりわかる。
一流のミュージシャンが1年で到達できる事を僕は10年頑張らないと出来ない。
多分それは記憶力が弱いからやと思う。僕は、体験して失敗を繰り返す事によって少しずつ少しずつ頭や無くて身体で覚えてゆく。失敗を繰り返さないと身体が覚えないから、ものすごく時間が掛かってしまうんや。

 なかなか向上出来ないから、僕は向上心といういう奴がものすごく強いんや。でも、その向上していくスピードがスローモーションみたいやから、周りに居る人には僕が努力してるようには見えないし、技術も表現力も向上しているとは思えないので、こんなにチャンスに恵まれているのに、そのチャンスをモノにしようとしないのか、欲の無い奴やな、と言う風に思われてしまっている。

僕も目の前にあるチャンスをつかみたいんやけど、行動もゆっくりやし、ほんまにこれを掴み取る事がチャンスなんやろうかって考えてしまうんや。やっぱりこれは掴み取っておかなあかんと思ったときには、目の前にみえてたチャンスがもう消えてしまってるんや。
あっ、またやってしもた。あっ、またまたやってしもた。その繰り返しの人生や。

 本のことやけど、それは連続ライブやってる最中から、本にしようって言ってくれてた人が居たし、僕もそのつもりやったんや。それこそチャンスやしね。
でも、千日目が終わった瞬間、巨大なブラックホールに吸い込まれていくような虚無感に襲われて何がなんやわからんようになってしもてん。それから、ずーと、僕にとって1000日連続ライブって何やったんやと問い続けてるうちに5年がたってしもた。

 話し始めても横道ばっかりそれて長なんねんけど、考え始めても一緒で、一本道で考え続けたら早い事答えが見つかるんやろうけど、考えてるときもしょっちゅう横道にそれて寄り道が長なってしまうねん。そやから答えが見つかるまでごっつい時間が掛かってしまう。
 特に今回の1000日連続ライブは4年間も掛けて達成した事やからよけいやったわ。

…それで、答えが出たから書き始めたんか。…

 1000日連続ライブが僕にとって何やったかは、きっと一生判らんと思う。
 けど、あのとてつもない大きな虚無が襲ってきた理由が、やっと最近わかったんや。それは又後で。
 とにかく、ずーっと本を書こうと思ってきた。そして何度も原稿を書き始めたんやけど、すぐに行き詰ってしもた。僕の中で、1000日連続ライブを達成した事が物凄い事のように思ってしまっていたんやね。
 そして、虚無の原因がわかった時、同時に、1000日連続ライブの達成が、僕にとってそれほど大切な事ではなかった事にも気づいて急に全部楽になったんや。

 ええかっこする必要は無い思て生きてきたつもりやけど、やっぱりどっかでカッコつけたいっていう思いが潜んでるんやな。そやから、本を書くときもどっかでええ所みせなあかんと思てたんや。経験した事は凄い事やけど、他の人にとっては、どうでもええ事かもしれへんもんな。そやったらカッコつける事も無いやんって思えて、よし気ままに書いてみよって思えたんや。

 人はどうでもええ事って書いたけど、1000日連続ライブに関わって惜しみなく協力してくれた人たちは別やで。
 毎日唄い続けてる僕よりも僕の体調や、ライブスケジュールが埋まってるかどうか心配して、ホームページの日記を読み続けてくれた人がどれだけおったか。
 僕の身勝手な生き方に4年間も付き合ってくれた人達にはちょっとカッコええ所見せたい気もするけど、ホームページの日記で隠さず全部さらけ出してきたからな、今更カッコつける必要はないか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿