何気無く大切な一日が、かけがえ無く今日も過ぎてゆく 高橋忠史・多系統萎縮症と生きる・唄い屋。

難病の多系統萎縮症に侵されても音楽を諦めない男のライヴ報告や日々の思い・命のメッセージ

「ありがとうございます。」と言えたのは

2016年01月20日 20時23分00秒 | Weblog
自分ひとりでは何も出来なくなりつつある。
まだ何とか歩けているが、いずれ近い内に車椅子のお世話になる、と同時に誰かの手を借りないと移動できなくなってしまう。
そういう事が間近になってきて始めて自分自身の無力さを知る。

誰の力も借りず、自分ひとりの力で生きてきたと思う気持ちが強かった。
そう信じていた。
音楽の世界で生きて来たのも、教えてもらう人も無く、どうやってこの世界で生きて行けばいいのかも分からず、目の前はいつも道無き荒野だった。
あて無き荒野を突き進むには、誰に何を言われようと、音楽で生きてやるという思いを信じて、やり遂げるまで決してあきらめないという強い意志を持ち続ける事。
そして無駄と言われても努力を惜しまず続ける力。
いばらの道を切り開く武器は、独学で学び続ける事で身につく誰の真似でもなく誰にも真似されない独創性。
レベルは高くなくても想像力で築き上げた独創性の高い音楽力がいばらの道を切り開いてきた。

そんな風に生きてきたから、誰の助けも借りず、おのれ一人の力で遣って来たと思い込んでいた。
気付いてなかったんだ。
生きてるだけで、出会ったことも無い沢山の人達のお世話になっているんだと言う事。
今夜食べた、晩御飯だって。
畑を耕して野菜を作ってくれた人、豆を加工して味噌、醤油を作ってくれた人、鯖の干物を作った人鯖を捕ってきた漁師さん、半年かけて米を作ってくれた人、その米を炊く炊飯器を作るのに関わった沢山の人達、まだまだあるが切りが無いからこの辺にする。
とにかく、晩御飯一回分を食べれるのも、これよりもっと多くの人達のかかわる力で成立する。
当たり前の事だが、その事のありがたさを感じた事は無かった。
自分で出来なくなる事が増えてきて始めて気付いた。
「ありがとうございます。」
と声に出して言えるようになった僕がいる。

言えるようになった今と、言おうとしなかった今までが違っているわけじゃない。
見えても見てなかった、感じれるのに感じようとしなかった。
ちょっと、見方を返ればその見る角度を返れば、醜いと思っていたものが美しく見えるかも知れないのに、そのちょっとが出来ないのが人間なんだろうな‥‥!。

今日は、寒くて部屋でずっと音楽のミックスに没頭していたので、数日前の写真を掲載します。
散歩途中の遊歩道、いつも見慣れた何気ない木立ですが。
太陽の光の差込具合と雲の位置、そしてシルエットになって木肌が見えない事で、いつもとは違うというか二度と見れない美しさがそこにありました。
そんな風に見えたのも、僕の心が変化しているからでしょうか。






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