誰もが、愛のある人が好きです。
つまり、優しさ、という意味の愛ですが。
この、疲れる日常で擦り切れていく自分を、
元気付け、慰め、励まし、力付けてくれる
“何か”を求めます。
ですから、そういう意味で誰もが、愛されたいと願います。
元気付けられたり、勇気を貰うために、
パワースポットへ行ったりします。
ですが、実は仏教では、愛を求めなさいとは言わないのです。
そうではなく、愛しなさい(慈悲を持ちなさい)と言います。
***
大川隆法は、信仰によって御仏の愛が魂を包み、守ってくれる、
高次元になるほど、その層が厚くなる、と書いていましたが、
そうではないと思います。
神仏の愛とは、魂(仏教では魂と言いませんが)に
流れ込んでくるものです。
そして、足腰をしっかりさせ、嵐にも耐える、
しなやかな強靭さを与えてくれます。
江原啓之さんは、愛は魂の栄養であり、人間は愛の電池だと言っています。
愛の充電が足りないと、バッテリーが切れたようになってしまうと。
愛とは、外側を厚く覆う鎧のようなものではなく、
内側に入り込み、人間を豊かにする
エネルギーの流れようなものなのです。
神道思想家の川面凡児や出口王仁三郎は、
魂とは、原子や分子のような細かな粒子の集まりだと言っています。
チベット仏教でも、
意識とは、高次に至るほど微細になっていく
粒子体だといいます。
そして、それは、常に外部から取り入れられ、入れ替わっていく
流れのようなものです。
ですから、神道には“魂ふり”と言って、
神さまから魂を取り入れ、増やしてもらう、
行法があります。
大乗仏教の“空”という考え方でも、
意識は常に移り変わっていく、固定されないものだといいます。
川の流れのように、いつも同じく存在するように見えながら、
その実、常に入れ替わっている物を
“平衡動体”と呼ぶのですが、
“神仏の愛”というのは、この平衡動体である意識体に流れ込む、
新しい澄んだ水の流れだと理解してもらうと、
分かりやすいと思います。
これによって、意識は新鮮さと意欲を持ちます。
これが安定して供給されることが、
人をしっかり、力強く、豊かで強靭にするのです。
***
では、これを得るためには、
どうしたらいいでしょう?
江原さんは、古いアルバムを見たり、
自分に注がれてきた愛を思い出してください、と言っています。
それも良いでしょう。
でも、仏教では、
慈悲の瞑想を薦めます。
愛を求めるのではなく、まず自分から、身近な人たちや不特定多数の人たちに、
施しなさい、と言います。
つまり、自分という流れから、まず“施”として愛を外へ出すことによって、
おのずから、
同質の“愛”が、神仏と呼ばれる存在、
或いはそうした名前を付けなくても“何らかの偉大なもの”から、
流れ込んで来るのです。
仏教には“充電地”はありません。
蓄えず、流れそのものになることが目的だからです。
それが、空を体得する、という事です。
江原さんの薦める方法も、実は、仕組みとしては、
愛されたことを思い出すことで、愛してくれた人たちへの愛が生ずる、
ということなのではないでしょうか。
大川の、包み込み覆う愛、というのが、どういう物か分かりませんが、
わたしには、それはむしろ、人間を固定し、“もの惜しみ”の壁を保護する、
悪霊のようなものではないかと思えます。
***
世の中には、肉体の執着としての愛もあります。
相手を欲しがり、取り込み、自分の許にとどめて支配しようとする、
“貪”としての愛もあるのです。
しかし、神仏の愛とは、そうした物ではありません。
神仏の愛とは、神仏が生きとし生けるものに対して無差別に施し続ける
“意成身”そのもの、とも言えます。
人間が“貪”によってそれを欲しがっても、
“もの惜しみ”の壁に阻まれ、入って来ることが出来ないのです。
しかし、人間が、惜しまず自ら施せば、
おのずから入って来る。
つまり、“施”の訓練というのは実は、
“愛”への一番の近道とも言えるのだと思います。
つまり、優しさ、という意味の愛ですが。
この、疲れる日常で擦り切れていく自分を、
元気付け、慰め、励まし、力付けてくれる
“何か”を求めます。
ですから、そういう意味で誰もが、愛されたいと願います。
元気付けられたり、勇気を貰うために、
パワースポットへ行ったりします。
ですが、実は仏教では、愛を求めなさいとは言わないのです。
そうではなく、愛しなさい(慈悲を持ちなさい)と言います。
***
大川隆法は、信仰によって御仏の愛が魂を包み、守ってくれる、
高次元になるほど、その層が厚くなる、と書いていましたが、
そうではないと思います。
神仏の愛とは、魂(仏教では魂と言いませんが)に
流れ込んでくるものです。
そして、足腰をしっかりさせ、嵐にも耐える、
しなやかな強靭さを与えてくれます。
江原啓之さんは、愛は魂の栄養であり、人間は愛の電池だと言っています。
愛の充電が足りないと、バッテリーが切れたようになってしまうと。
愛とは、外側を厚く覆う鎧のようなものではなく、
内側に入り込み、人間を豊かにする
エネルギーの流れようなものなのです。
神道思想家の川面凡児や出口王仁三郎は、
魂とは、原子や分子のような細かな粒子の集まりだと言っています。
チベット仏教でも、
意識とは、高次に至るほど微細になっていく
粒子体だといいます。
そして、それは、常に外部から取り入れられ、入れ替わっていく
流れのようなものです。
ですから、神道には“魂ふり”と言って、
神さまから魂を取り入れ、増やしてもらう、
行法があります。
大乗仏教の“空”という考え方でも、
意識は常に移り変わっていく、固定されないものだといいます。
川の流れのように、いつも同じく存在するように見えながら、
その実、常に入れ替わっている物を
“平衡動体”と呼ぶのですが、
“神仏の愛”というのは、この平衡動体である意識体に流れ込む、
新しい澄んだ水の流れだと理解してもらうと、
分かりやすいと思います。
これによって、意識は新鮮さと意欲を持ちます。
これが安定して供給されることが、
人をしっかり、力強く、豊かで強靭にするのです。
***
では、これを得るためには、
どうしたらいいでしょう?
江原さんは、古いアルバムを見たり、
自分に注がれてきた愛を思い出してください、と言っています。
それも良いでしょう。
でも、仏教では、
慈悲の瞑想を薦めます。
愛を求めるのではなく、まず自分から、身近な人たちや不特定多数の人たちに、
施しなさい、と言います。
つまり、自分という流れから、まず“施”として愛を外へ出すことによって、
おのずから、
同質の“愛”が、神仏と呼ばれる存在、
或いはそうした名前を付けなくても“何らかの偉大なもの”から、
流れ込んで来るのです。
仏教には“充電地”はありません。
蓄えず、流れそのものになることが目的だからです。
それが、空を体得する、という事です。
江原さんの薦める方法も、実は、仕組みとしては、
愛されたことを思い出すことで、愛してくれた人たちへの愛が生ずる、
ということなのではないでしょうか。
大川の、包み込み覆う愛、というのが、どういう物か分かりませんが、
わたしには、それはむしろ、人間を固定し、“もの惜しみ”の壁を保護する、
悪霊のようなものではないかと思えます。
***
世の中には、肉体の執着としての愛もあります。
相手を欲しがり、取り込み、自分の許にとどめて支配しようとする、
“貪”としての愛もあるのです。
しかし、神仏の愛とは、そうした物ではありません。
神仏の愛とは、神仏が生きとし生けるものに対して無差別に施し続ける
“意成身”そのもの、とも言えます。
人間が“貪”によってそれを欲しがっても、
“もの惜しみ”の壁に阻まれ、入って来ることが出来ないのです。
しかし、人間が、惜しまず自ら施せば、
おのずから入って来る。
つまり、“施”の訓練というのは実は、
“愛”への一番の近道とも言えるのだと思います。