Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

大川批判1・恋愛は磁石か

2010-06-24 | 大川批判
“太陽の法”が古本屋にないので、
幸福の科学の教義が分からないのである。

それで取り敢えず、以前英語版のtwitterで読んだ、
ニュージーランドの幸福の科学(Happy Science)の宣伝部長みたいな人の
ログを批判しようと思う。

残念ながら英文は忘れてしまったのだが、大川の言葉として、
愛は磁石のようなもので、引き付けあい、くっつきあう、
という意味のフレーズが引用してあった。

非常に陳腐ではあるのだが、別に、
普通の若者や女性がこう語るのなら、なんの問題もない。

しかし、仏教系の教団の教祖であり、
釈迦の生まれ変わり、かつ
覚りの境地にあると主張する人物の発言だとすれば、

極めてインチキ臭いのだ。

つまり、仏教では、魂は形あるもの、固体ではなく、
粒子状、原子状の実体のないものなのである。

全く無明の状態にある魂ならば“形がある”という間違った考えにより、
実際に形をとり、磁石のように引き付けあうこともあり得る。

しかし、修行の進んだ人間ならば、それはごく微細な粒子状であり、
恋人どうしであれば、溶け合ってしまうことになる。

これは、江原啓之さんの、
いい恋人どうしはオーラが一つになっている、
という観察に一致する。

***

このブログを読んで下さっている方ならお分かりだろうが、
仏教では基本的に、個体としての自我が実在するとは考えない(無我)。

これは、四法印の“諸法無我”に説かれ、
また般若経に詳しい。

般若経を奉じる大乗仏教では、
それがすべての事物に適用されると考える(無自性)が、
小乗では、個人についての無我のみを認める。

どちらにしても、人はそれ自体として存在することはできない。

例えば、個人の自我というものは五蘊に依存し、
それらが分解してしまえば、同じようには存在し得ない。

そうした五蘊もまた、さまざまな条件に依存する。

例えば物を認識する場合、視覚や聴覚、他様々に依存し、
何か一つが欠けるだけでも、同じようには認識できない。
気象や明るさなどの外的条件にも依存するだろう。

それは例えば、心理学における自己概念が、
彼に付属するさまざまな事象、
例えば家族、友人、ペット、家や部屋、服や持ち物などを含むのに似ている。

それらが変われば“違う自分”になったように
感じられるのである。

仏教で行う止観という瞑想のうち、“観”は、
こうした“空”
…すべては条件に依存せずには存在しない事に関する分析を行う。

分析が進み、アイデンティティが分割されていくにつれ、
自分という存在が極めて不確かで、
周囲に依存しなくては存在できないことに気付いていく。

それにより、自我に伴う執着、すなわち煩悩が
少しずつ薄くなるのだ。

***

インド・チベット仏教では更に、
分析の進んだ意識は、粒子がより細かくなっていると考える。

いやむしろ、本来的にはすべての意識が極めて微細な光明なのだが、
実体が存在するとする間違った考え…“無明”のために、
その状態(仏性)を失い、粗大な存在になっていると考えるのだ。

それは現代科学が、
すべてのものは、そもそも素粒子からなる、とするのと同じだ。

覚りとは、それを実感・体得することであり、
それにより意識の変容がもたらされるのである。

***

日本の川面凡児や出口王仁三郎による神道思想も、
おなじように、精神を原子・粒子状のものと考える。

特に川面凡児は、粒子状の霊(ひ・み)が凝縮したものが魂であり、
それが更に凝縮したものが肉体であるとし、
それらが異なるものだとは考えないのだ。

また、江原氏の言う“オーラ”とは、この魂と同じものであろう。
意識体は肉体より大きいため、肉体からはみ出すのだと思う。

わたしにはオーラは見えないが、
神道によれば、魂は三つの丹田で肉体と結ばれているという。
主な精神活動は、ここで行われるのである。

日本の仏教系霊能者や修験者のなかには、
オーラはないと主張する人がいるそうだが、

意識が肉体と同じほどに粗大であれば、
いくら霊視能力があっても、波長があわず、見えないだろう。

日本の仏教では“空”と“無”が混同される傾向があり、
前世に正しいものを学んで、最初から意識が微細な人を除いては、
覚ることは難しいと思う。

***

大川隆法が釈尊の生まれ変わりであれば、
最初から、かなり微細な意識体を持っている筈なのである。

魂を磁石ととらえるようでは、
残念ながら粗大きわまりない。

もし、幸福の科学に、
釈尊への敬慕ゆえに間違って関わっている人があるなら、
早々に間違いに気付き、チベット仏教を学ぶのがいいだろう。

ダライ・ラマの本は非常に分かりやすく、かつ正統な経典に乗っ取ったもので、
偏見をもつ人が考えるようなものではない。

また、もっと本格的に学びたい人には、
広島にある日本で唯一のチベット仏教の僧院で行っている、
“MMBA(文珠師利大乗仏教会)”があるので、検索してみて欲しい。

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