Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

大川批判2 霊は不変か

2010-07-01 | 大川批判
古本屋をめぐって、ようやく、
百円均一の『太陽の法』を見付けました!

ここの処、しばらくこれを読んでいたのですが、
結構要旨を掴みにくい本だな、というのが印象です。

真理を含んだものの方が、複雑でも分かりやすく、
作り物は、易しくても、体系として自分の中で再構成しにくいために、
却って分かりにくいように思います。

***

まず、大川の教えを指すらしい“仏法真理”という言葉が分からないのですが、
こういう言葉は、既存の仏教にはないと思いますよ。

新しい言葉を作って悪いはずはないのですが、
まるで、この言葉が、仏教の伝統的な言葉でもあるかのように語られているので、
一応、断っておきます。

***

この本の教えの根幹を成しているのは、どうやら、
現在、唯物主義、科学万能主義がこの世を覆っているので、
この太陽系の創造主の化身であり、釈迦の生まれ変わりでもある大川が、
救世のために真理の法(“仏法真理”)を広めるとの事らしいです。

なんでこれを説き始めたのか知りませんが、
そもそもは、様々の霊示を受けるようになった大川が、
高次元霊を名乗る霊の降臨により、自らを救世主と自覚するに至ったのが
始まりらしいです。

……釈迦の教えって、霊示じゃないんです。まず。
それに、自らを救世主と思ったこともないと思いますよ。

釈迦は真理を体得しましたが、
こんな事は誰にも理解できないだろう、と、
その内容は胸に秘めておこうとしたんです。基本的に。

ですが、梵天に勧められ(梵天勧請)、理解してもらえる確信などないままに、
語り始めたんです。

大川とは性格が違うような気がするんですけど…

また、大川にとっては、“仏法真理”というものは、
仏の心であり、仏の掟であり、流転する仏の生命なのだそうです。

こうした考え方に通じるのが、
流転する(諸行無常ですね)物質界の背景にある魂、霊、生命こそが不変の実在であり、
それは理念とかイデアとか呼ばれるものである(理念=イデアかは議論の余地があると思います)、
という記述だと思います。

おそらく、彼にとって“不変”である真理・霊・生命は、
言葉で語られる理念であるかのように理解されているのでしょう。

これが明らかな誤りであることは、
仏教を学んでいる人間なら誰でもわかると思いますが。

***

肉体が無常の物であるということなら、失礼ながら、
仏教を学ぶまでもなく誰にでも理解できるだろうと思います。

だからといって、
大川のように霊魂は不変であると考えるのは、少し単純すぎるし、
ごく世俗的なレベルで、
キリスト教の影響を受けているのではないかと思います。

大川は、霊のより人格化されたものが魂であり、
魂の中核を成すものが心である、としていますが、
そもそも、仏教では、“わたし”を、
このように単純に、肉体と霊ー魂ー心というような二元論でとらえないのです。

仏教では“わたし”は、無常の肉体と永遠の魂の二つの部分ではなく、
すべて無常の“五蘊(ごうん)”という五つの部分から成るとされます。
それはもう、どの学派でも同じ。スタンダードです。

“五蘊”というのは、
肉体(色蘊)+
感覚(受蘊)・イメージ(想蘊)の二つの心的作用+
行為(行蘊)+意識(こころの識別作用・識蘊)になります。

これらのどれ一つとして永久不変ではありません。
また、これらは依存しあうことによって影響しあっており(縁起)、
どれ一つとして、独立した存在として切り離すことはできません。

そしてまた、この五蘊のそれぞれもまた、
複数の部分から構成されますし、
(たとえば“行為”は、意志の行為、身体の行為、言葉の行為、など)
生成・消滅する一瞬一瞬の積み重ねだと考えられるのです。

般若心経にある「照見五蘊皆空」というのは、
五蘊がすべて“空”(縁起する実体のないもの)だと言っているのです。

すべてが依存しあっている(縁起)という、この考え方は、
自己概念は、家族、友人、恋人、服、持ち物など、付帯する存在を含む、
という心理学の考えに似ています。

これらが変わると“違う自分”になったように感じられるのです。

自己概念から、こうした無常のもの、依存しあうものを分析し、引いていくと、
独立した実体のようなものはなにもないことが分かります。

川の流れのように、常に入れ替わりながら変わらないことを、
“動体平衡”というのだそうですが、

こころの本性とは、
素粒子のような微細な光明による、
ニュートラルで普遍的な“動体平衡”そのものなのだと思います。

それは、誰もが同じであり、
その光明が、仏そのものです。

***

つまり、不変の実在などどこにも存在しない、
あるのは“動体平衡”のような、常に入れ替わる部分の集まりである、
というのが仏教の考え方であって、

霊や魂が肉体から独立して存在し、かつ不変であるとみなす
大川の教えは、仏教ではないことだけは、確かでしょう。

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