Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

分かち合い、施す訓練

2010-08-10 | こころ
“施”の気持ちで、一期一会を大切に、と、簡単に書きましたが、
では具体的に“施”や“分かち合い”って? と考えたとき、
誤解されることもあるかもしれません。

昔、深見の教団で“苦手な人も愛することですよ”と言ったら、
やたらに物を贈ったり貸したりして、挙げ句に
“見返りがない”と怒り出した人がいました。

でも、それを笑ってばかりはいられないと思うんです。
普通“施”といえば、現実の形あるものや時間や知識なんかを、
分け与えることだと思いますよね?

スリランカのスマナサーラさんも、
“五千円持っている人は五千円までしか、
百万円持っている人は百万円までしか施しできませんから、
そこまでで、布施できるカルマの限界が決まってしまいます”
と書いてらっしゃいますし。

人は、限界以上、負担になる布施をあまりすると、
やがてストレスになってキレることもあります。

『チベット密教 心の修行』には、
菩薩だった舎利子が、雷神インドラに右腕を乞われて、
それを切り落としてまで布施したのに、やり方が非礼と拒絶され、
怒りのあまり菩提心(利他の心)を失ってしまった例が取り上げられています。

そして“いくら請われても
自分の身体や全財産を与えるには、充分な注意が必要です。
私たちのような未熟な心の段階にある者は、
はじめから激しい菩薩行をする必要はありません”
と断ってもいます。

***

わたしが言っている“施”の気持ちを持つ、というのは、
自分が逆ギレしたくなるまで、実際に財産や何かを与えてしまおう、
という事ではありません。

それは、無理を伴いますし、誰にでもできる努力ではありませんから。
努力していたら全財産なくなって、生きていけなくなった、
では困るのです。

そうではなく、飽くまでイメージトレーニングによって、
“与えたい”“分かち合う”という気持ちの状態に心を馴らし、
いつでもそのような状態であれるように努力する、という事です。

大乗仏教では、“施”の気持ちを育て、“施”自体を喜びとする事で、
自分自身の中にある物惜しみを、完全に無くすことができる、
と考えるのです。

(スマナサーラさんの本を読む限り、上座部では、
“貪”に対抗するのは“不貪”であり、“施”には物質的な限界があるが故に、
“貪”を打ち消す充分有効な手段ではあり得ない、とされるようです)

“貪”は、好む対象を自分の中に取り込もうとする、内向きの心の状態。
そして物惜しみは、そうして取り込んだものを手離すまいと、
外界に対して壁を作る状態です。

こうした状態だと、人間の心は収縮しがちで、
心=精神体(いわゆるオーラ)も小さく固まってしまいます。
逆に、“施”であれば、心は広がり、壁を作らずにどこまでも浸透して、
容易に対象と心を通わせ、心を分かち合うことができます。

***

“施”の観想(イメージトレーニング)には、
◎身体を与える
◎財産を与える
◎善根を与える
の三つがあります。

身体を与える観想、というのは、
浄め二種”で取り上げた意成身を捧げる浄めの他に、

地獄の住人や餓鬼、禍神に対して、自分の血や肉や皮を、
彼らがすすり、貪るための食べ物として、身体を包み温めるものとして、
与えてしまう、というやり方もあるそうです。

与えることで、彼らの怒りや貪りは消え去り、慈悲や菩提心が生じ、
それが、正しい道へ入ることの契機となる、と
イメージするのです。

財産を与える観想、というのは、
大切にしている物やお金、友人までを含め、自分が執着している対象を、
如意の財宝に変えて、与えてしまうというものです。

与えられた人が、それを自分の物にして楽しむ為ではなく、
彼を苦海から救いだし、慈悲や菩提心を生じさせる、
意成身と同じ働きをする宝珠のようなものとして、その手に与えるのです。

善根を与える観想、というのは、“トン・レン”で書いたもので、
自分が過去に積んだ功徳(善根)を光としてイメージし、
分け与えてしまうという物です。

善根を全く持たない人や存在は、
正しい道に出会い、それを正しいと認識し、
実践を始める契機を得ることさえできないのです。

ですから、自分の積んだ善根を、彼らに振り向けてしまう。
これは、自分の善根への執着を消す努力でもありますが、
迴向ということでもあります。

そうして与えてしまうことは、また、
自身の新たな善根となるでしょう。
何も惜しむことはないと、体で覚えていくのです。

***

本格的に仏教を志すなら、こうした観想を徹底的に行うことが必要でしょう。
ですが、日常的に簡単にできる事もあります。

美味しいものを頂いたとき、美しいものを見たとき、聞いたとき、
何かに感動したとき、友情や愛の喜びの中にあるとき。

それを好み、それに執着するのではなく、
その喜びを、御仏や神々が共に味わってくれているとイメージして、
捧げてしまうのです。

それは善根となり、人々や神々に迴向する事のできる
新たな材料となります。

また、例えば、お寺や神社やパワースポットを訪れることができ、
正しい道が繁栄することや、人々の幸せ、平和などを
願うことができたとします。

また、賽銭箱に喜捨したり、
お線香や玉串やお花を捧げることができたとします。

そういうとき、その功徳を、不特定多数の人々や、
あるいは大切な人たち、
今まさに苦しんでいて、力になりたい人などに
振り向けられるよう願うこともできます。

最初から、いきなり不特定多数の生きとし生けるすべての存在と
分かち合うことは難しいかもしれない。

そうであれば、最初はごく身近で大切な人を対象にトレーニングし、
そこから、日本や世界へと対象を広げていくこともできます。

日常的にそうした努力を積み重ねていくことで、
本格的に菩薩道を目指している人たちのように完全ではなくとも、
物惜しみや貪の傾向を少なくし、かわりに分かち合いの気持ちを
高めていく事ができるのではないでしょうか?

それは、心を伸びやかにし、自己防衛の壁から解放してくれると共に、
人間関係をスムーズにしてくれるでしょう。

それだけではありません。

フリー、つまり、自由であり、垣根がないこと、
それは英語では“無料”をも意味するのだそうですが、
現代においては、そうして垣根がなく、まず無料で分かち合うことが、
利益につながると言うのです。

自分の知恵や知識やコンテンツを、
お金(報酬)なしには渡すまいと必死で垣根を作り守るのではなく、
まず、一部にせよ無料で出してしまう。

つまり、ああしたら利益が逃げる、こうしたら利益が逃げると、
“貪”…欲しがる気持ちによって守りに入るのではなく、
それを必要かも知れない人たちと、まず分かち合ってみることが、
結果として利益につながる。

インターネットにより、
そうしたビジネスの形ができつつあるのだそうです。

そのような新しい時代を生き抜くためにも、
心を“施”“分かち合い”の状態に変えていくことが、
役に立つのではないでしょうか?

最新の画像もっと見る