美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝のシスレー模写 今、どこに?

2015-06-24 21:41:00 | 中村彝

 
 中村彝が1918年(大正7年)8月に、今村繁三から借用して模写した作品だ。
 オリジナルのシスレーは1917年10月6日にデュラン=リュエルから松方幸次郎に売却された。それが早くも翌年には今村蔵となっている。その証拠が彝のこの模写である。
 
 彝はこの模写を高橋義雄(箒庵)に遺贈した。落合のアトリエ建設時に彝を支援したからである。
 彝はその恩に報いるため箒庵の肖像画を描きたかったが、かなわず、このシスレー模写を贈ることを遺言していたようだ。
 
 その遺言は実行され、鈴木良三がこの模写を箒庵宅に運んだ。
 そして、良三はこれが機縁となって、彼もまた箒庵からフランス滞在の支援を受けたのである。
 箒庵は水戸藩士の子で、実業家であり、茶人としても著名な人物であった。

 このシスレー模写、その後、箒庵から酒井億尋へと渡ったらしいが、限られた時間で当時の所蔵者に辿り着けず、展示させてもらう機会をついに逸してしまった。

 1967年(昭和42年)の新宿ステーション・ビルでの中村彝展までは、展示される機会があったが、その後は出品されていないようである。

 今村蔵のシスレーのオリジナルも、今、どのような運命をたどっているのか。これと似た作品がネットで検索できたが、それは今村蔵の作品ではなかった。
 今村のもっていたルノワールの庭園を描いた風景画同様、戦前に旧知の財閥の手に渡った可能性もあろう。だが、その後は、戦災に遭ったか、海外に流出したか・・・

 シスレーのオリジナルが既に失われているとすれば、彝のこの模写は、彝研究にとっても、シスレー研究にとっても、いっそう貴重な作品となるはずだが、その行方が分からないのである。
 
 シスレーのオリジナル、または彝のこの模写について、何か情報をお持ちの方からご教示をいただきたい。

【追記】彝のシスレー模写は、現存する可能性が大きい。戦後まで出品されているからだ。これまでの所蔵家の繋がりから検討していくのが筋だろう。
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中村彝の名前

2015-06-24 17:02:03 | 中村彝
 中村彝(つね)という名前は、ちょっと難しい漢字が使われているので、初めての人はなかなか読めない。この字を覚えて書くのも大変だが、漢字を上から下に分解してみると、順に<ケイガシラ>、米と糸、<ニジュウアシ>から成り立っている。

 これが正字だが、画家自身は、<糸>の部分を<分>と書くことも少なくない。ちなみに<糸>と<分>という字を草書体風に素早く書くと、似たような字形になることがあるからやや注意が必要だ。

 私が彼の絵に関心を持ったころ、この難しそうな名前について、ちょっと本を読めば何かしらの解説があるだろうと思っていたが、意外に何も書いていなかった。その後もいろいろ画集・伝記の類が出たが、はっきりわからないためか、どの本も名前の由来については触れていない。


 漢和辞典を引いてみればその意味は、すぐにわかるだろうからここに書く必要もないだろうが、<彝>というのは、一般によく知られているところでは、古代中国の祭器を指し示す言葉である。
 
 彝は明治20年の生まれだが、明治15年生まれの美術家に山本鼎(かなえ)という人がいる。この<鼎>も3本脚の古代中国の祭器を意味することは、「鼎談」などという言葉もあるから、多くの人が知っているだろう。
 
 山本鼎の名前を思い出せば、古代中国の祭器をあらわす文字が人名に使われることは、まあ、ありうることだろうと一応の納得がいく。だが、これだけでは人の名前の由来の説明としては何とも物足りない。
 
 山本鼎の<鼎>という字も、「尊いもの」、「優れたもの」の意味が加わって人名にふさわしいものとなったのだろう。もっとも、この美術家の場合、さらにもっと別の意味があるのかもしれないが。

 では<彝>の場合はどうか。

 幕末、水戸の時代環境の中でこの文字を考えてみると、まず、水戸ではとても有名な藤田東湖の「正気歌」の一節にこの文字を使った二字熟語が出てくる。

   乃(すなわ)知る、人亡ぶと雖も、英霊未だ嘗て泯(ほろ)びず。
   長く天地の間に在り、凛然として彝倫(いりん)を叙(つい)ず。
  
 彝という文字は、特に「彝倫(いりん)」という言葉によって、少なくとも幕末の水戸の士族階級にはよく知られていたのである。

 中村彝の祖父中村三五衛門は、藤田東湖の『回天詩史』にその名が記されている下級武士だが、その『回天詩史』に会沢正志斎の文献として『迪彝篇(てきいへん)』を挙げているところがある。

 「迪彝」とは、彝の教えを導く、実践するという意味で、<彝>とは、この場合、「人として常に守るべき道」というほどの意味で、古代中国の祭器とは直接には関係はない。
 そしてこの書物にも、会沢の『下学邇言(かがくじげん)』にも、「彝倫」という言葉は何度も出てくる。
 
 さらに先の「正気歌」の他、東湖の最も重要な『弘道館記述義』にも「彝倫」という言葉は出てくる。
 会沢や藤田東湖の書物は、皆いずれも、水戸を越え、広く人口に膾炙したものである。そこに「彝倫」という言葉が何度も出てくるのであるから、身分は低いけれども、誇り高い士族階級の中村家はこの熟語の意味をよく知っていたに違いない。

 彝という名前と幕末水戸の思想的・政治的風土を濃厚に結び付けるのは、野村彝之介の存在だろう。彼はその実行者とはならなかったが、井伊大老暗殺計画に加わった人物である。
 中村彝が生まれたとき、野村はまだ水戸に生きていた。晩年、宮司を務め、彝が生まれた翌年に亡くなっている。
 
 ちなみに野村彝之介は、鼎之介、あるいは野村鼎実、野村彝之介鼎実などと関連文献では記述されており、<彝>と<鼎>が密接な関連があることをよく示している。

 なお、彝が漢字で<彝>と作品に署名することはあまり多くはない。が、非常によくできた作品に<彝>と署名することがある。しかし、逆は真ではなく、時に非常に問題のある作品にこの署名が見られることがある。それは彝自身の署名と作品とは思われない。

 
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