ポーラ美術館に中村彝の「川尻風景」と題される油彩画がある。制作年は「1907年(明治40)?」とされ、画面左下に「T.N.」の署名がある。
前にメナードの彝コレクションが俊子像に重点と特徴があるとすれば、ポーラの中村彝コレクションは、研究的な観点から興味深いと書いた。この「川尻風景」もまさにそうした作品である。
1885年、モネは北フランスのエトルタ海岸で、同じような対象を複数点描いた。そのうちの1点「アヴァルの断崖」(W1018)という作品が、1912年(大正元年)の『現代の洋画』(No.6)にカラー図版で掲載された。そこでは「エトルタの岩」という題になっている。
モネがエトルタ海岸で描いた作品は、時刻はもちろん、画家の視点も、画面上の水平線の位置も同じではなく、専門家によって検討され、描いた視点がかなり細かく特定されている。
これらは断崖や海面、そして空の描写も異なっており、力動的な自然の営みを強く感じさせる一群の作品だ。
さて、その中で日本の美術雑誌にカラーで複製された「エトルタの岩」は、比較的穏やかな海面の描写が特徴的である。視点はアヴァルの断崖の半分ほどの高さにあり、水平線の位置が、画家の目の高さを示している。
この作品は、エトルタの西にあるヴァレットの小道から描かれたもので、ポーラ美術館にある彝の作とされる「川尻風景」と奇妙に全体の構図やいくつかの重要なモティーフが似ている。もっとも、ここで比較の対象となるのは、あくまでも『現代の洋画』に掲載されたモネの複製画ではある。下図がそれである。
実は、ポーラ美術館にも、エトルタの海岸を描いたモネの作品がある。だが、これは画家の視点がより低い位置にあり、遠景に同じようにアヴァルの門が描かれていても、違う視点からの作品である。
日立の川尻の風景を描いたとされる彝の作品は、画面前景の2本の樹木を取リ除いてしまうと、崖に続くくの字形のフォルムのモティーフが現れ、左上方の崖上の小高い波状の盛り上がり部分の色調も含め、モネの複製画に構図全体が基本的によく似ている。
次に穏やかな海面の文様を見てみると藍色と薄緑の交互に繰り返す色面のパターンは、複製画のモネにかなり近似している。
モネのアヴァルの門の下方部から水平線に平行して3本の藍色の平行線が認められるが、これも「川尻風景」に対応して認められる。こんなところまで偶然に合致する必要があるのかと思われるほどである。しかもこの3本の藍色の水平線によって作られた2本の帯のうち上方はいずれの作品においても赤みを帯びている。
もちろんアヴァルの門は「川尻風景」にはない。それはあたかも中ほどで折れてしまったかのように崖によりそう岩となっている。
果たして、日立の川尻の海岸に、モネが描いたのと同じような、くの字形のフォルムのモティーフが見られるような視点をとり得る場所があるのだろうか。筆者はまだ確認できていない。しかし、十王川河口付近から見る風景は、ここに描かれている中央部の崖と少し離れた岩に似ているかもしれない。
この作品は日動出版の『中村彝画集』の中の<中村彝作品目録>では単に「風景」とされ、制作年も1914(大正3)年ごろとされていた。おそらく所蔵館は、これを何らかの情報か調査に基づき「川尻風景」と改めたのだろう。川尻の風景なら彝が日立に行ったのは、1907年(明治40年)しかない。だから、その制作年も疑問符をつけながら改めたのだろうか。
最後に、モネの複製画がカラーで載っている『現代の洋画』(No.6)を、彝が見ていた蓋然性に触れておくと、それは非常に高いと言える。
なぜなら、これは1912年9月発行であるが、この同じ雑誌の第1号(同年4月)には彝自身の「静物」がカラーで、第5号(同年8月)にも別の「静物」がカラーで、第10号(翌年1月)には俊子像の「習作」が同じく載っているからである。
その他、彼にちなんだ小さな記事がときおり『現代の洋画』に見られる。従ってモネの「エトルタの岩」がカラーで載っている第6号を、当時の彝が見ていなかったとはむしろ想像しにくいのである。
前にメナードの彝コレクションが俊子像に重点と特徴があるとすれば、ポーラの中村彝コレクションは、研究的な観点から興味深いと書いた。この「川尻風景」もまさにそうした作品である。
1885年、モネは北フランスのエトルタ海岸で、同じような対象を複数点描いた。そのうちの1点「アヴァルの断崖」(W1018)という作品が、1912年(大正元年)の『現代の洋画』(No.6)にカラー図版で掲載された。そこでは「エトルタの岩」という題になっている。
モネがエトルタ海岸で描いた作品は、時刻はもちろん、画家の視点も、画面上の水平線の位置も同じではなく、専門家によって検討され、描いた視点がかなり細かく特定されている。
これらは断崖や海面、そして空の描写も異なっており、力動的な自然の営みを強く感じさせる一群の作品だ。
さて、その中で日本の美術雑誌にカラーで複製された「エトルタの岩」は、比較的穏やかな海面の描写が特徴的である。視点はアヴァルの断崖の半分ほどの高さにあり、水平線の位置が、画家の目の高さを示している。
この作品は、エトルタの西にあるヴァレットの小道から描かれたもので、ポーラ美術館にある彝の作とされる「川尻風景」と奇妙に全体の構図やいくつかの重要なモティーフが似ている。もっとも、ここで比較の対象となるのは、あくまでも『現代の洋画』に掲載されたモネの複製画ではある。下図がそれである。
実は、ポーラ美術館にも、エトルタの海岸を描いたモネの作品がある。だが、これは画家の視点がより低い位置にあり、遠景に同じようにアヴァルの門が描かれていても、違う視点からの作品である。
日立の川尻の風景を描いたとされる彝の作品は、画面前景の2本の樹木を取リ除いてしまうと、崖に続くくの字形のフォルムのモティーフが現れ、左上方の崖上の小高い波状の盛り上がり部分の色調も含め、モネの複製画に構図全体が基本的によく似ている。
次に穏やかな海面の文様を見てみると藍色と薄緑の交互に繰り返す色面のパターンは、複製画のモネにかなり近似している。
モネのアヴァルの門の下方部から水平線に平行して3本の藍色の平行線が認められるが、これも「川尻風景」に対応して認められる。こんなところまで偶然に合致する必要があるのかと思われるほどである。しかもこの3本の藍色の水平線によって作られた2本の帯のうち上方はいずれの作品においても赤みを帯びている。
もちろんアヴァルの門は「川尻風景」にはない。それはあたかも中ほどで折れてしまったかのように崖によりそう岩となっている。
果たして、日立の川尻の海岸に、モネが描いたのと同じような、くの字形のフォルムのモティーフが見られるような視点をとり得る場所があるのだろうか。筆者はまだ確認できていない。しかし、十王川河口付近から見る風景は、ここに描かれている中央部の崖と少し離れた岩に似ているかもしれない。
この作品は日動出版の『中村彝画集』の中の<中村彝作品目録>では単に「風景」とされ、制作年も1914(大正3)年ごろとされていた。おそらく所蔵館は、これを何らかの情報か調査に基づき「川尻風景」と改めたのだろう。川尻の風景なら彝が日立に行ったのは、1907年(明治40年)しかない。だから、その制作年も疑問符をつけながら改めたのだろうか。
最後に、モネの複製画がカラーで載っている『現代の洋画』(No.6)を、彝が見ていた蓋然性に触れておくと、それは非常に高いと言える。
なぜなら、これは1912年9月発行であるが、この同じ雑誌の第1号(同年4月)には彝自身の「静物」がカラーで、第5号(同年8月)にも別の「静物」がカラーで、第10号(翌年1月)には俊子像の「習作」が同じく載っているからである。
その他、彼にちなんだ小さな記事がときおり『現代の洋画』に見られる。従ってモネの「エトルタの岩」がカラーで載っている第6号を、当時の彝が見ていなかったとはむしろ想像しにくいのである。