美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

中村彝のセザンヌ模写

2015-06-22 21:15:27 | 中村彝
 中村彝のルノワール礼賛とその影響はよく知られているところだが、実は、セザンヌのある静物画の複製画から4分の1ほどを比較的フォルムに忠実に部分模写した作品がある。もちろん彝の芸術にセザンヌの影響があることも、よく言及されるところではある。しかし、模写があるということは、具体的にはこれから述べる1点以外は知られていない。

 この作品は、2007年11月のころだろうか、ある大手画廊の広告として、美術雑誌の裏表紙にカラーで現れた。その時は驚き、その出現を祝い、喜んだ。私はこの作品を古い本の白黒の図版でしか見たことがなく、もはや存在しない作品ではないかと思っていたから、よくぞ残っていたと感動に近いものを覚えた。
 
 ところで、その古い本というのは森口多里が書いた『中村彝』である。その作品はやや断片的構図となっているから、著者がそれについて、何か特別なものを感じたとしてもおかしくはないのだが、特に言及はなかった。
 戦後の画集にもこの白黒図版が載っているものがあるが、それはこの古い本の図版からの複写と思われ、それが模写であることにはやはり気付いていない。



 批評家たちは、おそらくこの作品が断片的だとは感じていても、まさか何か具体的な作品の部分的な模写とまでは思わなかったのかもしれない。
 
 それにしても、美術商というのは、批評家や研究者と違い、作品を吸引する恐るべき力を持っているものだとその時感心した。しかし、その時の画廊の広告は、当然というべきか、それが模写作品であるとは断ってはいなかった。

 私はそれまでにも折に触れて研究紀要などで、その白黒図版の作品(上図)は、オスロにあるセザンヌの静物画(下図)の左下方4分の1ほどの部分模写であることを指摘してきた。だが、美術商はそのことには、何も気付かなかったのかも知れない。気付いたところで、あまりプラスになる情報ではなかったとすればなおさらだろう。


 
 彝のセザンヌ部分模写が今どこにあのかは知らない。同じ美術商のところにあるのかどうか。それともすでに転売されたのかどうか。これはこれで興味深い作品と思うので、適正な価格でよい買い手に作品が収まれば嬉しいし、拙稿を書いてきた意味もあるというものである。果たして<世の中>において拙稿のような小論が、なにがしかの役割を果たしたのだろうか。

 ついでにここに触れておくが、ルーベンスの部分模写である彝の「裸婦立像」の同じ所蔵先は、里見勝蔵の「静物(ポットと果物)」(制作年不詳)も持っている。そして、偶然だろうか、これこそが、彝が部分模写したセザンヌ作品の全体的な模写作品なのである。
 
 この里見の作品は、(財)たましん地域文化財団編集・発行による『近代日本の洋画ーたましん所蔵ー』(1991)の37ページに載っている。だが、ここでもセザンヌの模写とは断っていない。
 今日では解説等で改められているかもしれないが、もしまだ改められていないなら、彝によるセザンヌ作品の部分模写がすでに明らかになっているのであるから、里見によるとされるこの全体模写作品も、その展示キャプション等で模写であることが明示されてしかるべきだろう。
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中村彝の"R"の秘密

2015-06-22 13:41:50 | 中村彝
 ポーラ美術館の中村彝の作品「泉のほとり」は、ルノワールの影響が濃厚な作品であり、そのため、確認できないルノワール作品の模写と誤解されていたことがあった。
 だが、「たましん」所蔵の中村彝「裸婦立像」(1919年作)(下図)は、全くその反対の作品であった。

 これは、小さな作品であるが、彝の支援者であり、手紙もよくやり取りしていた伊藤隆三郎がかつて持っていた作品である。画面右上にT.Nakamoura(またはT.Nakamura)の署名があり、左上にはInspiré de R.1919の書き込みがある。

 私は、この作品をよく調べもしないで、先入観にとらわれ、この書き込みを単に「ルノワール(Renoir)に刺激を受けた作品」と読んでしまった。従ってルノワール風な作品ではあるが、彝のオリジナルな作品であり、模写の可能性があるなどとは全く考えもしなかった。
 おまけに1919年はルノワールの没年でもあるから、彝が彼に捧げた「オマージュ的な作品か」などと余計な推測まで付け加えて、自著(1991年刊)の中の<中村彝年譜>に書き記してしまった。

 彝がいくらルノワールの芸術に夢中になっていたとはいえ、ルノワールが亡くなったのはこの年の12月3日であるから、彼はそれほど敏感には反応できなかったかもしれないのに、私は冷静さを欠いていた。(ルノワールの訃報は12月中に日本に届いており、まあ、ありえない話ではなかったのだけれど・・・。)
 
 彝が敬愛した芸術家で、Rがつくのはレンブラント(Rembrandt)、ロダン(Rodin)、ルノワール(Renoir)の3人がいるが、豊満な女性裸体像と印象派風の素早いタッチから、このRがルノワールのRであることは明白と思われた。私の彝年譜を参考にしたか、しないかは分からないが、彝のある画集の作品解説にも、やはりルノワールのRと読んでいるものがあった。


 
 ところがある日、全く無関係な美術の本を読んでいた時、私はプラド美術館にあるルーベンス「三美神」の挿図にふと眼がとまった。これは、有名な作品であり、もともと知っていた画像であるから、ふだんなら珍しくもなくやりすごしたところだったが、その時は、「これだ!」という感じが起こって、その三美神のうち、向かって左側の裸像に眼がひきつけられた。「なんだ、これじゃないか!ルノワールじゃないぞ!」と呟いていた。下図がそのルーベンスである。


 
 私の脳は、彝の「裸婦立像」の画像を記憶していて、その起源を別個に探っていてくれたのだ!だが、その裸像は、ルーベンス作品の一部分であったため、すぐには気がつかなかったのである。
 もし、ルーベンス作品の全体像が模写されていたら、いかにそれが印象派風の素早いタッチであったとしても、私はすぐにその源泉を探し出すことできたろうし、私でなくても、誰でもすぐにルーベンスのかなり自由な模写だと美術史を学んだ者なら、気づいたことであろう。
 だから、Rの意味ももちろんルーベンス(Rubens)のことだと分かったに違いないのに、こうして画像が分断されてしまうと、容易には元の画像が想像できなくなってしまうのだ。
 
 非常に有名なプラド美術館のルーベンスの「三美神」であったが、彝の小品とは結びつかなくなるのである。
 しかし、再び何気なくこの画像に出会ったとき、全体にではなく<部分>にも反応できたのは、脳が無意識的に彝の「裸婦立像」の真の源泉を探っていたからだろう。おそらく、冷静さを欠いて余計な推測まで付け加えていた以前の自分を批判している自分が幸いにもそこにいたからだろう。


 ※初めてこの<R>の秘密に関する小論を書いた後、私が茨城県つくば美術館で仕事をしている頃、彝が持っていたルーベンスの「三美神」の複製画が、ある人から茨城県近代美術館に寄贈されたことを聞いた。もっと早く彝が持っていたこの複製画の存在が明らかにされていたら、もちろん、この秘密ももっと容易に解けていたろう。しかし、それにしても部分の模写、それもかなり自由な部分の模写となってしまうとなかなかその全体像に思い当たらないのである。
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