中村彝のルノワール礼賛とその影響はよく知られているところだが、実は、セザンヌのある静物画の複製画から4分の1ほどを比較的忠実に部分模写したように見える作品がある。見た目はリトグラフか、パステル作品のように見える。
もちろん彝の芸術、特に静物画、時に風景画などにセザンヌの影響が強く見られることも、よく知られている。しかし、技法が何であれ、セザンヌ作品の模写らしきものがあるということは、具体的にはこれから述べる1点以外は知られていない。
この作品は、2007年のころだろうか、ある大手画廊の広告として、美術雑誌の裏表紙にカラーで現れた。その時は驚き、その出現を喜んだ。私はこの作品を古い本の白黒の図版でしか見たことがなく、もはや存在しない作品ではないかと思っていたから、よくぞ残っていたと感動に近いものを覚えた。
ところで、その古い本というのは森口多里が書いた『中村彝』である。その作品はやや断片的構図となっているから、著者がそれについて、何か特別なものを感じたとしてもおかしくはないのだが、特に言及はなかった。
彝の作品をできるだけ集めた重要な画集にもこの白黒図版が載っているものがあるが、それはこの森口本の図版からの複写と思われる。それが本当に彝の作品であるとしても、この画集でも模写であることにはやはり気付いていない。

批評家たちは、おそらくこの作品が断片的だとは感じていても、まさか何か具体的な作品の部分(的な模写)とまでは思わなかったらしい。
それにしても、美術商というのは、批評家や研究者と違い、作品を吸引する恐るべき力を持っているものだとその時感心した。しかし、その時の画廊の広告は、当然というべきか、それが模写的な作品であるとは断ってはいなかった。
私はそれまでにも折に触れて研究紀要などで、その白黒図版の作品(上図)は、オスロにあるセザンヌの静物画(下図)の左下方4分の1ほどの部分であることを指摘してきた。だが、美術商はそのことには、何も気付かなかったのかも知れない。気付いたところで、あまりプラスになる情報ではなかったとすればなおさらだろう。

セザンヌの部分模写的な作品が今どこにあるのかは知らない。同じ美術商のところにあるのかどうか。それともすでに売却されたのかどうか。いずれにせよ、これはこれで興味深い作品と思うので、適正な価格でよい買い手に作品が収まれば嬉しいし、拙稿を書いてきた意味もあるというものであるが、果たして<世の中>において拙稿のような小論が、なにがしかの役割を果たしえるのだろうか。
ついでにここに触れておくが、ルーベンスの部分模写である彝の「裸婦立像」(伊藤隆三郎旧蔵)の同じ所蔵先は、里見勝蔵の「静物(ポットと果物)」(制作年不詳)も持っている。そして、これこそが、先のセザンヌ作品の全体的な模写作品なのである。
この里見の作品は、(財)たましん地域文化財団編集・発行による『近代日本の洋画ーたましん所蔵ー』(1991)の37ページに載っている。だが、ここでもセザンヌの模写とは断っていない。
今日では解説等で改められているかもしれないが、もしまだ改められていないなら、里見によるとされるこの模写作品も、その展示キャプション等で模写であることが明示されてしかるべきだろう。
この作品は、2007年のころだろうか、ある大手画廊の広告として、美術雑誌の裏表紙にカラーで現れた。その時は驚き、その出現を喜んだ。私はこの作品を古い本の白黒の図版でしか見たことがなく、もはや存在しない作品ではないかと思っていたから、よくぞ残っていたと感動に近いものを覚えた。
ところで、その古い本というのは森口多里が書いた『中村彝』である。その作品はやや断片的構図となっているから、著者がそれについて、何か特別なものを感じたとしてもおかしくはないのだが、特に言及はなかった。
彝の作品をできるだけ集めた重要な画集にもこの白黒図版が載っているものがあるが、それはこの森口本の図版からの複写と思われる。それが本当に彝の作品であるとしても、この画集でも模写であることにはやはり気付いていない。

批評家たちは、おそらくこの作品が断片的だとは感じていても、まさか何か具体的な作品の部分(的な模写)とまでは思わなかったらしい。
それにしても、美術商というのは、批評家や研究者と違い、作品を吸引する恐るべき力を持っているものだとその時感心した。しかし、その時の画廊の広告は、当然というべきか、それが模写的な作品であるとは断ってはいなかった。
私はそれまでにも折に触れて研究紀要などで、その白黒図版の作品(上図)は、オスロにあるセザンヌの静物画(下図)の左下方4分の1ほどの部分であることを指摘してきた。だが、美術商はそのことには、何も気付かなかったのかも知れない。気付いたところで、あまりプラスになる情報ではなかったとすればなおさらだろう。

セザンヌの部分模写的な作品が今どこにあるのかは知らない。同じ美術商のところにあるのかどうか。それともすでに売却されたのかどうか。いずれにせよ、これはこれで興味深い作品と思うので、適正な価格でよい買い手に作品が収まれば嬉しいし、拙稿を書いてきた意味もあるというものであるが、果たして<世の中>において拙稿のような小論が、なにがしかの役割を果たしえるのだろうか。
ついでにここに触れておくが、ルーベンスの部分模写である彝の「裸婦立像」(伊藤隆三郎旧蔵)の同じ所蔵先は、里見勝蔵の「静物(ポットと果物)」(制作年不詳)も持っている。そして、これこそが、先のセザンヌ作品の全体的な模写作品なのである。
この里見の作品は、(財)たましん地域文化財団編集・発行による『近代日本の洋画ーたましん所蔵ー』(1991)の37ページに載っている。だが、ここでもセザンヌの模写とは断っていない。
今日では解説等で改められているかもしれないが、もしまだ改められていないなら、里見によるとされるこの模写作品も、その展示キャプション等で模写であることが明示されてしかるべきだろう。