TOTO

お気楽主婦のお気楽な日記

SとMの間

2009-06-10 15:29:45 | Weblog
いつものたわごとです…
一笑に付してください…


先日の毎日新聞の夕刊の「Crossroads」という記事に
昨今の洋画不況について書かれていた。
外国映画興行の苦戦が深刻なんだそうだ。
だからして、カンヌ国際映画祭でのマーケットも冷え込んでいて、
配給会社は買い控えをしている。
以前ならパルムドールといった受賞の看板でアピールできたが、
今はそれさえも“売り”にはならない。
見て欲しい映画があっても、ビジネス面で折り合いがつかない。
公開までの経費は数千万円から数億円。
宣伝の仕方によっては、それも跳ね上がる。
その反面、巨額をかけた宣伝はヒットの条件にもなっている。
倒産する洋画配給会社もでてきて、これからは淘汰の時代なのかもしれない。
作品選びにはビジネスの可能性を探るのが必須となってきているようだ。

これから考えると、『ICWR』の日本での“世界最速公開”
映画のタイプと内容から考えてもバランスのとれない派手なワールドプレミア。
日本で公開されたフィルムに出てくるクレジット。
Jドリームにエイベに博報堂…どれもこれも木村関連。
おそらく木村っちが出演していなければ日本公開はされなかったかも?
木村拓哉の名前で巨額が集まるからね。

木村っちが関わると各方面が動き出す。
『ミスブレ』関連でも各社が動いた。
出版社にゲーム、製パン…。
いったいどれくらいの金額が動いたんだろう。
周囲が勝手に動いてる。
でも…どれにも木村っちは確実に関連づけられて…。
気持ちのよい状態じゃないと思うのだ。
本心は単純に俳優として現場に徹したいだろう。
『ICWR』の初日舞台挨拶なんか、羞恥プレイのようだった。
宣伝と映画の内容の大きな乖離を感じて、
木村っちは恥ずかしかったろうに…。
照れもあったろうけど、居心地が悪そうだった。
それでも集まってくれた観客のために頑張ってた。
映画はビジネスでもあり、宣伝は必要って知ってるからね。
プロだもん。



そして、同じく毎日新聞の記事「記者の目」

「日本映画には蛮勇も必要。
 観客は多様性認める心を」

というキャプションが目に付く。
先だってのカンヌ国際映画祭についての内容だ。
不況で控えめだったお祭ではあるが、
映画の内容で大荒れだったらしい。
私も主演女優賞のシャルロット・ゲンズブールの演技について賛否両論の記事を読んでた。
子どもを失くした夫婦が森に籠もり、
やがて妻(ゲンスブール)が狂気に嵌っていく映画。
かなりグロい描写もあって、ブーイングがあがったそうな。
他にも荒々しい暴力と性描写を執拗に描く作品が何本もあったのだとか。
醜悪で不快で、うめき声や失笑がもれる上映会になったらしい。
容赦ない非難にさらされる。
しかし、その一方で芸術性が認められれば評価は高い。
評論家の批評では最悪だった作品が受賞したりしている。

そんな作品群の中で日本映画の影は薄かったそうだ。
日本文化の奥ゆかしさかとも書かれているが、
もう少し大胆になってもいいのでは?とある。
また、政治的主張をする作品を日本で作ることは難しい。
作り手は踏み込むことに及び腰だし、
タブーに触れれば過剰反応が起こる。
蛮勇を起こす作り手が少ない。

その他にも“市場の圧力”が問題となっている。
総興行収入で言えば世界有数の映画大国の日本。
が、一人当たりの映画を見る本数は平均して1年に1.2本なんだそうだ。
これには驚いた。
アメリカは4.8本、韓国は3本、フランスは2.9本。
日本人はあまりにも映画を観ない。
年に1本も観ない人も多いのかも?
日本は映画入場料が高いから、興行収入で映画大国になっているだけなのだ。
1年に1回だけ観る映画…そりゃ観客は爽快感や興奮を求めるわな。
そこに冒険や挑戦はしにくい。
だからといって…毒にも薬にもならない映画ばかりでは未来はない。
「時には批判覚悟で世界に打って出る映画を観たい」
と、記者は語る。
「作り手には蛮勇を、観客には寛容さを」
日本映画の多様性と成熟のためにはそれらを期待したい、と記事は結ぶ。

多様なものを認める寛容。
全面否定してただ切り捨てるだけではなく、
自分がわからないものは「わからない」と言える、ある意味の強さ。
観る側にも必要なものがあるはずなのだ。



『キネ旬』の『ICWR』インタビューで、
木村っちをShitaoと関連付けて“究極のマゾヒスト”と書かれていた。
演技アプローチがシチュエーションに身を任せるという積極的な受動態であり、
またShitaoが痛みを伴うハードな役だったことからでもあるだろう。
それに対して木村っちは、

「たとえ演じる役柄がマゾヒストであっても、
 それを演じ、表現する時点で僕らは“どサド”だと思う」

と、答えてはいるが…。

マゾヒズム=肉体的・精神的苦痛を受けることにより性的満足を得る異常性欲。
日常一般的(?)にはMだとか言う。
深刻な意味合いではなく、簡単に使うことばになってるのかも。
性癖とは関係なくね。

木村っちは『わっつ』なんかでは、自分はサド=Sだと言っていた。
私の勝手な妄想入りの考えでは、
木村っちはMに他ならないと思うのだけど…。
しかも、戦うマゾヒスト。
痛みを痛いと言うことを拒否し、
歯をくいしばり、痛みをエネルギーに消化しようとする。
原動力は自分に対する負けず嫌い。
戦う相手は自分自身。

特に俳優としてMなのかな…と、思う。
決して自分が望んだ作品なくても、全身全霊でエネルギーをつぎ込む。
それに伴う“痛み”も一身に我が身に受ける。
俳優としてのM。

「個人的な欲を作品に持ち込むのはよくない」

「自分から『俺、こんなこともできますよ』というのはないので、
 監督が欲してくれて、初めてそこに行きたくなる」 @『T.』

っていう木村っちだからして…なんだけど…。
俳優として、貪欲に自分をアッピールするのは正解でもあると思う。
が、木村っちは…それもしにくいか…立場的に。
動いちゃうんだもん、色んなところが…。
そりゃ巨額は集まるよ。
でも、その分、口も手も出る、規模だけ大きくなる。
その全てを引き受けて、且つ、
作品で冒険できる人材が日本映画界に何人いるのか?
各方面からの批判を跳ね除けて、
蛮勇をもって木村っちを素材として使いきるだけの監督は?
木村っちは映画出演に対して寡黙で消極的だって責められるのは、
オファーにも原因があるのかもしれない。
お金の匂いがプンプンしたのには、木村っちは背を向けたいだろうし。
(向けたくても、義理とか諸々あるけどね)
蛮勇をもって挑戦する作品のオファー。
それがなかなかないのかもしれないな…。

それとは別に事務所のマネージメントの問題もある。
上記のカンヌについての記事。
出品された是枝監督作品についても書かれていた。
男性の性欲処理のための人形が心を持って動き出すファンタジーなんだそうだ。
その人形役は韓国の女優さん。
監督がファンだからの起用だそうだが…
「アイドル性とエロスを併せ持つ日本人女優がいるだろうか。
 たとえ本人がやる気になったとしても、周囲が許さないだろう」
と、書かれている。
周囲とは、ファンでもあるし、マネージメントでもあると思う。
「果敢な挑戦なくして、跳躍は望めない」と記事にもあるが、
それこそ木村っちの“欲”なのではないかと思う。
それには周囲の蛮勇と寛容も必要になる。
木村っちはそれをMとして待っているのかも…。
拘束されることのジレンマさえもエネルギーに変えて待っているのかも。
痛みを力に昇華していく究極のマゾヒストなのかもしれない。

グループにいるっていうのも、一種のM的責めなのかもしれない…ね。

あ、ファンに対してはSだ。
焦らして、焦がれさせて、決して満たさない。
ずっとどこかで飢えさせてる。
どれほど露出の嵐だろうと、すぐに渇望がやってくる。
演者としてはサドであらなければならないと言う木村っちだが、
その点では、ちゃ~んとサディステックでいらっしゃいます。


おそまつ






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3 コメント

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激しく納得! (H子)
2009-06-12 12:40:53
素晴らしい。 異を唱えるすべもなし。 こうべを垂れて拝読致しました。 これからも楽しみに!! たまにしか更新しないお粗末な日記ですがお暇な時には是非お寄り下さい♪
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いらっしゃいませ♪ (toto)
2009-06-17 14:12:46
H子様
コメントありがとうございます♪
こんなアホなブログですが、読んでいただいて嬉しいです。ついつい手前勝手な木村っち語りをしてしまってお恥ずかしいかぎりですが、同意してくださる方がいらっしゃると励みになります。何よりも…木村っちの作品をもっともっと見たいですね。
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H子様に追伸♪ (toto)
2009-06-17 14:16:58
H子様のブログは以前から行かせていただいていました~♪
『ICWR』についての記事はフムフムと頷きながら感心させてもらいました。
ウチみたいなとこを読んでいただけて嬉しいです♪
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