10/31、11/1と放送大学の面接授業に行ってきた。
題目は「版画史:浮世絵版画から創作版画まで」
有名な版画から初めて見るものまで数百点の画像を駆使した授業で非常に興味深かった。
少なくとも担当科目については講師の方が殆どの点において学生より知識が多い。
ただ、中には細かい点で学生の方が知識が多い点もなくはない。
今回の講義で言えば、版画の技法手法は言うに及ばず、対象物、被写体についても
講師の方が膨大な知識を持っておられる。
ただ、どうも今回の講師は船舶や船については、あまりご存じないのか、
10/31の講義で「黒船来航」の浮世絵で「船に車輪がついている」と。
更に先端に人形が付いているとまでおっしゃった。
紹介された浮世絵と同じものは見つけられなかったが、
外輪船についてご存じなかったのか、それとも他の理由があったのか、
いずれにしても気にはなったものの聞き流していた。
これだけなら「聞き流し」で良かったのだが、話には続きがあった。
そこでまず、外輪船について書いておく。
「舟」あるいは「船」に付いて興味を持っておられる方ならおそらくご存じと思うが、
動力船においては外輪船の方が先で、スクリューは後発。
なかなか議論収まらず、実際にスクリュー船と外輪船の引っ張り合いで
スクリュー船が勝ち、スクリュー優位が実証されたわけだが、
その後外輪船が一気に廃れたかというとそうでもなく、
徐々にスクリュー船に移行していったというのが正しいようだ。
さて、ぺリーの黒船艦隊は1853年と1854年に時来訪したわけだが、
1953年の4艦の内、旗艦のサスケハナとミシシッピの2艦が外輪船の蒸気帆船。
関東で外輪船を見たのはおそらく初めてだったと思われる。
幕府はオランダに外輪船を要請し、1855年にスンピン丸(後の観光丸)を受け取っている。
1857年就航の咸臨丸もオランダ製であるがこちらはスクリュー船だ。
しかし、その後も外輪船(軍艦)を手に入れているから、
一般の評価はスクリュー>>外輪、とまでは言えなかったようだ。
実際問題、航行の全てを外輪やスクリューで行うわけではなく、
外洋航行のほとんどは帆走なので、動力の違いはさほど大きくなかったのだろう。
また船首の人形は船首像、フィギュアヘッドと呼ばれる。
ないものも勿論あるが、航海の安全をつかさどるいわば守護神のようなもので、
女性(女神)像が多いが、男性や動物もあり、それが船の個性を醸し出している。
ご存じなかったとしたらちょっとさみしい。
とはいえ、まあ、ここまではご愛嬌。
2日目も多くの浮世絵や現代版画が紹介された。
歌川広重の木曽海道六十四次の内「洗馬」の絵について
こういうやつ
ですが、
風情や情緒があるのは良いとして、
「舟をこぐ、ギーコギーコという音が聞こえてきそうな」とおっしゃった。
どう見ても「竿(さお)」で「櫓(ろ)」ではないので、
つい「それは竿だから音はしない」と言ってしまった。
どうやら意味が分からなかったようで、怪訝な顔をされていたので
「竿は舟にくっついてないのでギーコギーコとは鳴らない。後ろの筏も同じ。」
と念押ししてしまった。
「今度からギーコギーコは言わないようにします」とは言われたものの
「情緒が無くなってしまった」と言われたので、
こちらも引き下がれず「水音はするから、むしろその方が情緒はある」と言うに至った。
続に「竿差し三年、櫓は三月」と言われ、
(「竿は三年、櫓は三月」「櫂は三年、櫓は三月」とも)
竿で船を自由に操るのは櫓を漕ぐより十倍難しいというわけです。
洗馬(せば)の絵は手前の和船も奥の筏(いかだ)も竿を差しており、
櫓を漕いでおりません。
木曽海道、洗馬ですから洗馬宿。
現在の塩尻市洗馬あたり、JR洗馬駅近くと思われます。
川は奈良井川。
絵では奥から手前に流れていますが、この付近では南から北に流れ、
やがて梓川と合流して犀川となり、更に千曲川と合流して、信濃川となって日本海に至る。
奈良井川は全般にかなり蛇行しており、絵が沈む太陽(西)であっても、
上る月(東)であってもおかしくはない。
川近くの様子はかなり変わってしまっているだろうが、
山々の様子が写実的であるとすれば、場所は特定できるかもしれない。
あるいは、もう場所は特定されているのかもしれないが、
私が、図柄のロケーションについて言及されているものを知らないだけかも。
まあ、ここは講師にケチをつけるのではなく、逆に絵からいろんなことがわかる、
読みとれると思い知った次第で、伝聞や想像で描いていたのか
それとも実はかなり写実的だったのか。
調べればどこかにキチンと研究した方もおられるでしょうが
とても気になった次第である。
題目は「版画史:浮世絵版画から創作版画まで」
有名な版画から初めて見るものまで数百点の画像を駆使した授業で非常に興味深かった。
少なくとも担当科目については講師の方が殆どの点において学生より知識が多い。
ただ、中には細かい点で学生の方が知識が多い点もなくはない。
今回の講義で言えば、版画の技法手法は言うに及ばず、対象物、被写体についても
講師の方が膨大な知識を持っておられる。
ただ、どうも今回の講師は船舶や船については、あまりご存じないのか、
10/31の講義で「黒船来航」の浮世絵で「船に車輪がついている」と。
更に先端に人形が付いているとまでおっしゃった。
紹介された浮世絵と同じものは見つけられなかったが、
外輪船についてご存じなかったのか、それとも他の理由があったのか、
いずれにしても気にはなったものの聞き流していた。
これだけなら「聞き流し」で良かったのだが、話には続きがあった。
そこでまず、外輪船について書いておく。
「舟」あるいは「船」に付いて興味を持っておられる方ならおそらくご存じと思うが、
動力船においては外輪船の方が先で、スクリューは後発。
なかなか議論収まらず、実際にスクリュー船と外輪船の引っ張り合いで
スクリュー船が勝ち、スクリュー優位が実証されたわけだが、
その後外輪船が一気に廃れたかというとそうでもなく、
徐々にスクリュー船に移行していったというのが正しいようだ。
さて、ぺリーの黒船艦隊は1853年と1854年に時来訪したわけだが、
1953年の4艦の内、旗艦のサスケハナとミシシッピの2艦が外輪船の蒸気帆船。
関東で外輪船を見たのはおそらく初めてだったと思われる。
幕府はオランダに外輪船を要請し、1855年にスンピン丸(後の観光丸)を受け取っている。
1857年就航の咸臨丸もオランダ製であるがこちらはスクリュー船だ。
しかし、その後も外輪船(軍艦)を手に入れているから、
一般の評価はスクリュー>>外輪、とまでは言えなかったようだ。
実際問題、航行の全てを外輪やスクリューで行うわけではなく、
外洋航行のほとんどは帆走なので、動力の違いはさほど大きくなかったのだろう。
また船首の人形は船首像、フィギュアヘッドと呼ばれる。
ないものも勿論あるが、航海の安全をつかさどるいわば守護神のようなもので、
女性(女神)像が多いが、男性や動物もあり、それが船の個性を醸し出している。
ご存じなかったとしたらちょっとさみしい。
とはいえ、まあ、ここまではご愛嬌。
2日目も多くの浮世絵や現代版画が紹介された。
歌川広重の木曽海道六十四次の内「洗馬」の絵について
こういうやつ

風情や情緒があるのは良いとして、
「舟をこぐ、ギーコギーコという音が聞こえてきそうな」とおっしゃった。
どう見ても「竿(さお)」で「櫓(ろ)」ではないので、
つい「それは竿だから音はしない」と言ってしまった。
どうやら意味が分からなかったようで、怪訝な顔をされていたので
「竿は舟にくっついてないのでギーコギーコとは鳴らない。後ろの筏も同じ。」
と念押ししてしまった。
「今度からギーコギーコは言わないようにします」とは言われたものの
「情緒が無くなってしまった」と言われたので、
こちらも引き下がれず「水音はするから、むしろその方が情緒はある」と言うに至った。
続に「竿差し三年、櫓は三月」と言われ、
(「竿は三年、櫓は三月」「櫂は三年、櫓は三月」とも)
竿で船を自由に操るのは櫓を漕ぐより十倍難しいというわけです。
洗馬(せば)の絵は手前の和船も奥の筏(いかだ)も竿を差しており、
櫓を漕いでおりません。
木曽海道、洗馬ですから洗馬宿。
現在の塩尻市洗馬あたり、JR洗馬駅近くと思われます。
川は奈良井川。
絵では奥から手前に流れていますが、この付近では南から北に流れ、
やがて梓川と合流して犀川となり、更に千曲川と合流して、信濃川となって日本海に至る。
奈良井川は全般にかなり蛇行しており、絵が沈む太陽(西)であっても、
上る月(東)であってもおかしくはない。
川近くの様子はかなり変わってしまっているだろうが、
山々の様子が写実的であるとすれば、場所は特定できるかもしれない。
あるいは、もう場所は特定されているのかもしれないが、
私が、図柄のロケーションについて言及されているものを知らないだけかも。
まあ、ここは講師にケチをつけるのではなく、逆に絵からいろんなことがわかる、
読みとれると思い知った次第で、伝聞や想像で描いていたのか
それとも実はかなり写実的だったのか。
調べればどこかにキチンと研究した方もおられるでしょうが
とても気になった次第である。
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