みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

倭国大乱と古事記(その2)

2018年09月18日 | 俳句日記


昨日は、世界の民族移動と戦争について
概観しましたが、今日は古代日本の人口
分布から、歴史を推理してみます。
8月31日の人口表を参考にして下さい。

表を元に、年代ごとの東日本と西日本の
人口比を見てみましょう。
東は東海、西は近畿を境とします。

[人口比較]*推定

時代区分…東日本….西日本…...合 計
BC61世紀.17,300、2,800、20,100
BC32同、96,500、9,000、105,500
BC23同..251,800、9,500、261,300
BC13同、140,700、19,600、160,300
BC..9同、.64,900、10,900、75,800
AD..2同..292,600.302,300.594,900

縄文人口のピークはBC23の頃でした。
これだけの人口が、既に高度な文化を持
ち、共通の宗教観の元に数万の集落が共
存していたならば、もはや文明圏です。

ならば、王とは言えないまでも、地域毎
の裁定者がいない筈はありません。
また、取り纏める規模によって序列があ
ったとも考えられます。

狩猟採集社会ですから、富の偏在などと
言うものは無い、穏やかな共和制のもと
での秩序が保たれていたのでしよう。
既に連合国家の萌芽があったのです。


しかし、寒冷化が進み食料が減ります。
追い打ちをかけるように、BC10世紀頃
に富士山が噴火しました。


5万人の関東の人口は7千迄減りました。
北陸・中部も3分の1になっていますから
その影響だと思われます。
西へ移動した部族もあったでしよう。

しかし、まだ東日本が優っていました。
それが2世紀になると逆転します。
東日本からの南下と稲作の普及、並びに
渡来難民の増加が原因だと思います。

彼らは、独自の集落も形成した筈です。
集中して居たのが北部九州でした。
30余国と称されていたクニは、その辺りの集落で、帥升も卑弥呼もそこにいた。


邪馬台国もその一部だったと思います。
私は、邪馬台国の位置を福岡県南の筑後
川上流域だと思っています。
300年後、磐井の乱が起きた所です。

かくして九州には10万5千の人が住むよ
うになりました。
勿論、倭人の集落も有ります。
奴国は名前からして倭人だったのでは?

最も増加率が高いのは近畿です。
一期前が2千人だったのが10万8千人の
過密地帯になっています。
倭人と渡来人の混合地帯だったのです。

もう一つ注目する地域が有ります。
前の2千が5千8百となる中国地方です。
出雲の存在が影響していたと考えます。
何かが見えて来たのではありませんか?


魏志倭人伝とは?、倭国大乱とは?
明日は「邪馬台国と卑弥呼」について、
書いていきます。

9月18日〔火〕曇りのち晴れ
九日の月を眺めながら酒を買いに行く。
まだ世間は明るい。
しかし汗ばむ季節はもう去った。

あと六日で中秋の名月、
願いごとのある人は準備を怠らぬ様に。
十五夜の月は験がいいのである。

〈九日の 月を仰ぎて 手付け酒〉放浪子
季語・月(秋)







亡命渡来人は出雲にもクニを作ります。

東日本に分布していた倭人は危機感を






最新の画像もっと見る

コメントを投稿