鉄道模型のある生活ブログ

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後醍醐天皇

2024年01月21日 | 雑談

私が、高齢者学校で「ちゅうせいし」に行っていると言ったら、友人たちは皆「ちゅうせいし=neutron」だと思ったそうですが「ちゅうせいし=中世史=歴史」です。 それぐらい私は理系頭で歴史には縁がない。 すなわち詳しくない。 他のクラスが満員で行ける講座を探していた時に、そういえば、鎌倉から室町に変わった辺りのことを全く知らないことに気が付き、それじゃあちょっと、その辺りの歴史でもと思って習ったのが中世史です。

さて、後醍醐天皇

時代背景としては

鎌倉末期、鎌倉とは北条ですが、北条の力が弱くなって来た頃、後醍醐が天皇になった。 当時天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれていて、交互に天皇になっていた。その頃は10歳ぐらいで天皇になり実権は院、すなわち天皇の父親が握っていたが、本当の実権は北条すなわち鎌倉が握っていた。 後醍醐は子供の時から不遇に扱われ、天皇になることなど考えられなかったが、色々のどさくさで、一代限りの天皇ということで、子供は天皇にできないことを条件に31歳という天皇としては高齢で即位した。

ここから話が始まります。 あまり真剣には考えないで、詳しくはないので。

先日の展示です。 バックグラウンドを白にしました。

これに沿って話をすると、後醍醐天皇がつぶやきます

 

①「やっと朕が天皇になれたか、今までは10代の若造ばかり天皇になって、鎌倉(北条)の言いなりで、今度も、一代限りの天皇との条件付きだ。 朕は31歳じゃ、周りの者の言いなりにはならんぞ。」

 鎌倉にはすごい恨みを持っているんです。

 

②「持明院統を支持している鎌倉幕府を滅ぼしたい。 うわー、鎌倉にバレた。 3種の神器を持って比叡山に逃げたがダメだ、笠置に逃げよう。見つかって京都に引き戻されてしまった。」

 鎌倉を滅ぼしたい画策は2度行って、初めは鎌倉に見つかり家来たちが処刑されたが後醍醐天皇は見逃された。 その後、1331年 また同じように画策して、鎌倉幕府から攻められ、今度は京都の南、関西線の笠置辺りの山に逃げ込んだ。 その時の服装は汚れて、天皇ともあろうものがと言われながら逃げ、戦いで敗れて京都に引き戻されてしまった。

後醍醐「わしは悪くない!天魔の所為じゃ!」

鎌倉幕府「後醍醐を隠岐島に流せ。 天皇として、光厳天皇を立てよう」 

天皇を排斥されて隠岐島に流されてしまった。この時側室の阿野 廉子も行っている。

 

③「朕は悪くない!天魔の所為じゃ!でも、隠岐に流されてしもた。」

後醍醐「あーあ、隠岐島に流されてしまった。 でも、息子の護良親王や楠木正成、赤松則村らが、反鎌倉幕府を掲げ各地で暴れ回っている。 よーし、わしも隠岐島から逃げ出そう

そこで、イカ釣船のイカの下に隠れて隠岐島から逃げたという。

 

④「隠岐から何とか逃げ出した。鎌倉から来た足利高氏が朕に味方して、京都に入れた。尊氏の名を授けよう。 新田義貞も挙兵して鎌倉を攻めて、鎌倉幕府(北条氏)滅亡じゃ」

 鎌倉から後醍醐天皇を討に来た足利高氏が、鎌倉を裏切って後醍醐についたのです。 京都に入り、新しい天皇をクビにして自分が天皇に戻った。 そして当時地方の豪族が北条に対して不満を持っていたので、新田義貞を筆頭に鎌倉幕府を倒したのでした。 後醍醐46歳の時です。

 そして足利高氏は後醍醐天皇から尊の字をもらって、以後足利尊氏になるのですが、当時上の人から名前をもらうというのはとても名誉なことでした。

新田義貞  足利尊氏

 

⑤「いよいよ天皇と公家中心の政治をするぞ! 建武の新政じゃ」

 自分がトップになり新しい政治を始めたのですが、理想とするのは平安時代の貴族が支配する天皇中心の政治です。

 何かにつけ貴族に厚く、武士には恩賞もない。 これには全国の武士が怒り出した。

 

⑥「北条の生き残りの北条時行が鎌倉を取り戻した。それを足利尊氏が成敗したが、尊氏が、朕を裏切って京都に攻めてきたので比叡山に逃げた。

鎌倉は関東を治めるために役所が置かれていました。 それをわずか10歳の北条時行が占領したのです。もちろん北条家ゆかりの武士たちが戦ったからですが、これを治めに足利尊氏が鎌倉に行って倒し、鎌倉を取り戻した。 

でも、今度は足利尊氏が鎌倉にいすわって、挙げ句の果てに後醍醐天皇を裏切って京都に攻めて来た。 これも、後醍醐の武士に対する政策がまずく、たくさんの武士の不満が募っていたからでした。 

 

ここからが面白い

足利尊氏は京都に入り、後醍醐天皇を追い出したのですが、後醍醐天皇は奥州にいる北畠顕家に助けを求めます。

北畠顕家 この人は京都の公家の息子です。 16歳で奥州を治めるために、陸奥将軍府の長となっている。

公家の衣装の下に鎧を着ている、若くて格好良い人なので芝居や漫画でもよく出てくるそうな。

 

⑦「北畠顕家と新田義貞が京都に来て、足利尊氏を九州に追い遣ってくれて京に戻れた」

 北畠顕家が奥州から京都に来た速度は、秀吉の中国大返しよりも速かったと言います。 あっという間に東北から京都まで来た。 東北は馬の産地であったために馬による進軍だからと言われています。 こうして足利尊氏に勝利して、尊氏は九州に逃げ、京都を取り返し、後醍醐天皇はやれやれでした。

 

⑧「足利尊氏が九州から攻め上ってきて楠木正成も討たれて、花山院に幽閉されてしまった。 3種の神器も取り上げられた。」

 九州に逃げた足利尊氏が軍を立て直して、またまた京都に攻め込んできた。 この時迎え撃った楠木正成も討たれてしまった。そして、花山院に幽閉され、またまた天皇を排斥されて新しい天皇がたち、3種の神器も取り上げられてしまった。

 

⑨「仕方がない吉野に逃げよう。渡した3種の神器は偽物じゃ。北畠顕家、新田義貞たちよ足利尊氏を討て!」

 また逃げたんです。 吉野は京都から近鉄特急で乗り換えを入れて2時間ぐらい、そこからロープウエイで山を登ってと、当時どれぐらいかかったか知らないが奈良の山奥の淋しいところですが、金峯山寺は当時からあったと思います。 3種の神器は偽物だと、この言葉が本当かどうか疑わしいのですが、吉野から全国に足利尊氏追討の宣旨を出している。

一方、京都では新天皇の元に、室町幕府が誕生、足利尊氏が初代将軍になっている。 もう勝負はついたようなものなんだけれど。

北畠顕家もまた奥州から出かけて来ますが、今度はあちこちの武士集団が反後醍醐天皇なので戦いながらの進軍で一向に進めないが、なんとか関ヶ原を越したあたりまできた。 その時には兵の数も減っていて、京都から来た足利の軍勢に太刀打ちできないので、奈良周りで大阪の堺まできた。 その間も何度も戦っているのですが、堺からは後醍醐天皇の政治を改めるように後醍醐天皇に直訴状を出しています。 そして石津川の戦いでついに北畠顕家戦死。 若干21歳です。

石津川は私が中学生の頃に親の仕事の関係で何度も行っていて、田圃の中に風車、オランダよりずっと小さいけれどあちこちに風車があったので記憶にあります。 

そして、新田義貞も戦死。

 

⑩「北畠顕家も新田義貞も戦死した。全国にいる我が息子たちよ、頑張って戦え! !」

これで後醍醐天皇の味方はいないかと思ったら大間違い、息子たち、すなわち親王ですがこの人たちをあちこちに赴任させて豪族を集めて、戦うように指示しているのです。

でもね、みんな死んで行くのです。 かわいそうに。 ちなみに後醍醐の子供は36人です。 うわー多い。 

と思ったのですが今テレビでやっている紫式部の頃の天皇は、子供40人とか50人とか居て、それらの子供たちをある程度の役職につかさなければならないので大変だったようです。

 

⑪「あーあ、自分が死んでしまった。墓は京都に向かって建てろ!」

 1339年 後醍醐51歳です。 これで南北朝が終わったのではありません。 この後に息子の後村上天皇がたち、南北朝はこの後数十年も続き、金閣寺を建てた足利義満の時に、南北朝合一がなされたのです。

なぜ、後醍醐の後何年も南北朝が続いたかというと、人それぞれ思惑があって、都合によって南朝についたり北朝についたりした人たちがいたからです。

ということで、後醍醐天皇でした。 すごい人ですね、 何度逃げたことか。 人を巻き込んで息子たちも死に追いやって。

不屈の帝王と本には書いてありましたが、屈していれば不幸になる人が少なかったのに。

武士の世になっていたのに、それが分からなかった。気に入らなかった?

おわり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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