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鉄道模型のある生活ブログ

鉄道模型にかぎらす、なんでも書いてしまいます。

海外旅行 2006年 ミャンマー15 最終回 帰国

2025年06月02日 | 海外旅行

ヤンゴンの日航ホテルの朝。 今日は帰国日です。

お客さんですよとの声に玄関に行くと

ウインさんご夫妻が挨拶に来てくれました。 この旅行記の初めに書いたようにウインさんが日本に研修に来た時に、私が池袋まで迎えに行って、それから3ヶ月間大阪での研修の面倒を見て、たまには京都や奈良に観光にいったりして、とても感謝してくれていたのです。 そして、旦那さんは初めて会ったのですが、私の帰国前に会いに来てくれたのでした。

嬉しいものです。 そしてお土産ももらいました。 ミャンマーのジャケットでした。

そして、お二人が帰ってゆきました。 

 

ヤンゴンの空港に向かいます。 こうい風景も見慣れてきた頃帰国です。

 

出国検査。 ミャンマーともお別れです。

帰途もバンコクで乗り換えて関西空港に向かいます。

無事にバンコク行きの飛行機に乗りました。 滑走路に出て行く途中で離陸待ち。

これが長い、待っても待っても飛行機は動き出さない。 ここでは軍の飛行機が優先で、民間機は待たされる。

1時間ぐらい待ったかな? やっと離陸して、かなりの遅れです。

 

この海はどこかな、 インド洋だろうか?

 

バンコクにつきました。 ここからは東京組と分かれるので、関空に行くのは2人です。

ミャンマーからの飛行機が遅れたので、乗り換え時間がない。

急いで、搭乗ゲートに向かうのだけれど、放送で私の名前が呼ばれている。 近くの係員に連絡してくださいと言っている。 でも、係員を探すよりも搭乗ゲートにさっさと行かなければ。 バンコクの空港内を2人で走ってなんとか搭乗ゲートについた。 係員が乗用車を用意していて、その車で飛行機に向かう。 なんとか、関空行きの飛行機に乗れました。

客はほとんど日本人でした。 大阪に着く頃、近くの席の人が新聞を読んでいるが、ガサガサとうるさい。 新聞はページを繰ったり、折る時にすごくやかましいのです。 周りの人たちもやかましいと思っているのですが、電車でもそうですが新聞を読んでいる人は、自分が雑音を出しているとは思ってはいない。 堂々とガサガサを続けている。

ついに、私の連れが「喧しい」と怒鳴った。 新聞を読んでいたおっさんはこちらを睨んだ。 でも私の連れはリハビリ関係の視察で一緒に行った人ですが、もともと柔道の整復師をしていて、柔道も段を持っている大きな人です。 新聞を読んでいたおっさんは、不服そうにまだ新聞を持っていたけれど、私の連れが睨み返したので、おとなしくなった。 

というようなハプニングもあったけれど、無事日本に帰れたのです。

でもね、預けた荷物が間に合わなかった。バンコクでの乗り換えで荷物は乗り遅れていたのです。

数日後、荷物は家まで送られてきました。

ほんとうにこんな感じのところがありました。

公費で行っているので、この後、正式な報告書を書いて、まとめて製本されて、関係部署に配られて旅行は終わりです。 旅行の世話やこういう書類の製作をしていただいた事務方の人、ありがとうございました。

ミャンマーでいろいろ対応していただいた方々ありがとうございました。

マンダレーほか大地震に遭われた方々、お見舞い申し上げます。

 

ミャンマー旅行 おわり

 

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海外旅行 2006年 ミャンマー14  マンダレーからヤンゴン

2025年05月30日 | 海外旅行

マンダレーの空港です。

中国が作ったのでヤンゴン空港より豪華なのですが、ここで乗るはずの飛行機が何故か、オーバーブッキング? か何かで、二人しか余裕がなく、団長ともう1人が先に帰って、我々3名、すなわち王宮に一緒に行った仲良し3人組は後の便でということになりました。

マンダレー:ヤンゴン間の便は1時間に一本ほどあり、けっこう飛んでいます。

 

空港のレストランで、まずは昼食。  カレーライスです。

 

そして、ビール。 団長がいないと良いんです、居られると気を遣ってビールなど飲めない。 飛行機に乗れなくてよかった、自由時間を楽しめます。

 

やはり日本の市バスみたいな空港内バスでこの飛行機に乗りにゆきます。 

 

アテンダントさんは綺麗な人です。

 

ヤンゴンに着いて市場を覗いてみました。 ヤンゴンの街の普通のところに行ったことがないので少し覗いたのですが、夕方ですでに店は閉まっている時間でした。

 

夕食を食べている家族がいました。 暑い国なのでしょうか、こうやって外で食事をしている姿はよく見かけました。

 

ホテルに帰ったあと、この船の形をしたレストランに行きます。 ミャンマー最後の夜です。

 

入り口です。 ビルマの昔の武士の格好だろうか。

 

大きなレストランです。

 

バイキングです。 豪華なレストランでしょう。

 

こんなものを持ってきたのですが、美味しそうかどうか、ご自分で判断してください。

 

舞台ではいろいろな催し物をやっています。

 

そこに、私のところに日本人のお爺さんがやってきて

 

日本酒の紙パックをくれました。 月桂冠だ、本社は我が家から歩いて5分のところにある伏見の銘酒だ。 嬉しい!

仲間は「ミャンマーにも知り合いがいて顔が広いんですね」と言うのですが、実はこのお爺さんは、昨日マンダレーヒルの上で、夕日の撮り方を教えたあげた人だったのです。 奇遇にもここで顔を見かけたので、お酒を持って来てくれた。 やはり人には親切にしておくものです。

 

ミャンマーの夜は更けてゆきます。  明日は帰国です。

 

つづく

 

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海外旅行 2006年 ミャンマー13  マンダレー4  マンダレー出発

2025年05月27日 | 海外旅行

マンダレー セドナホテルの朝です。 朝食後出発前、

ホテルにプールがあります。 この周りはマラリアを運んでくる蚊を徹底的に駆除してあるので安心との事。

 

プールに入りました。 ドイツ旅行の時に水着はいつも持って行った方が良いと習ったので海外旅行にはいつも持って行きます。

優雅な感じでしょう?

 

目の保養にもなるし。

 

本日は、伝統治療院を訪問。 上のプールの写真と対照的でしょう? これがミャンマーの面白いところで、立派な所と素朴な所が共存している、とはいえ立派な所はちょっとだけですけれど。 この建物は立派な方です。

 

こういう薬草を使って治療するんです、薬として飲むのではなくて温めて治療。

 

そこで、私もモデルになって、治療してもらっています。 女性の持っている袋の中に薬草が入っていて温かい。

 

ここでもおやつで歓迎されました。

さて、今日はこれからヤンゴンに帰ります。

 

途中美しい服を作っている店に寄りました。

 

綺麗な糸がたくさんあって

 

大きな作業場で機織機がたくさんあって、若い人たちがたくさん働いていました。

 

プログラムが貼ってあります。それに沿ってこの糸を通して機織りをしているのです。

 

鏡を入れて、織っている布の裏を見せてくれました。 花柄が見えています。 こういう仕事をこの娘さんたちはしているんだ。

 

その横には芸能人? のプロマイドが貼ってあって、お気に入りの人の顔を見ながらの仕事です。 やはり若い娘さんだ。

 

こんな大きなポスターも貼ってありました。

 

マイクロバスで空港に向かっています。

料金所みたいな柵があって、ここから高速道路?

 

とても高速道路とは思えない。 牛が荷物を牽いている。

 

たくさん人が歩いている、何でだろう? 祭り??

 

やっぱり何かあったみたい。見物人がたくさんいました。

 

ここにも牛車が

 

こういう情景も癒される感じです。

 

私としては横にある鉄道の線路を睨んでいて、列車が来たら写そうと狙ったのですが来なかった。 腕木信号が写っています。

 というような景色にところを通ってマンダラ空港に戻って来ました。

ヤンゴンまで行くのですが、ここでちょっとトラブルが、

 

つづく

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海外旅行 2006年 ミャンマー12  マンダレー3  マンダレーヒル

2025年05月14日 | 海外旅行

丘と言うか山の上に寺院があるので行きます。

山の麓に大きな狛犬がいる門を通り過ぎて、車で7合目まであがった。

そこからが、お寺というよりエスカレーターホールなのですが、お寺の領域なので裸足にならなければなりません。

長いエスカレーターが何層かあるのですが、裸足でエスカレーターは怖いよ。 当然だけれどこんなことは初めてだ。 足指を挟んだらちょん切れてしまう。 

怖い目をして降りたところが

 

お寺です。 まあ、日本のお寺と違うこと。 白人系の人もたくさん来ていました。

 

こういうお釈迦様はかなり見慣れてきたのですが、金色というだけではなくて顔が優しいというか子供っぽさもあります。

 

これは日本でも見る「びんずる様」のような像ですが、キンキラキンです。

 

いろいろ展示してありますが、皆さん裸足でしょう。

 

ここはかなり高いので遠くまで見えます。

実は夕日が綺麗とのことでここに来たのです。

 

立派な建物も見えます。

 

夕日になるまで時間待ちです。 土産物屋がたくさんあります。 この方が試しているのは肩こりをほぐすテコ棒。

実は私も買ってしまいました。 家に帰ってから何年か使いましたが、案外良いです。 

 

階段があります。 ここを下ってゆくとお釈迦様が立っている像があるというので、夕陽を見てからここを下ってまた上がってきました。 もちろん裸足です。

 

夕日になってきました。

 

広い平地の向こうに夕日が沈んでゆきます。

 

でもね、ディジカメで普通に撮ると、自動補正してしまうのでこんなに明るく写ってしまうのです。

実はこの時に、日本人の団体の観光客がいたのです。

みなさんお年寄りですが、引率は日本のお坊さんです。

この辺りは大東亜戦争で、日本の兵隊さんが10万人ほど亡くなっている激戦地だったそうです。 この方々はその慰問に来ておられたのです。 

そして、お爺さんが写真を撮っても私が撮ったように夕焼けらしく写らないので大苦戦していたので、その方のディジカメの露出補正を教えて夕日が写るようにしてあげたのです。 まあ、日本語で説明できるので楽ちんでした。

さて、この激戦地のことは知らなかったのですが、後から知ったことを後記します。

 

薄暗くなった階段を降りて、お釈迦さまを見にゆきます。 途中子供達が遊んでいました。

 

下りだけではなくて、途中上がったり降りたりもあり厳しい道です。 行ったのは3人だけでしたが、これで時間が遅くなってどえらいことになったのでした。

 

お坊さんもいました。

ストロボを焚いて写しているので明るいですが、

ほぼ真っ暗なんです。

 

これが立位のお釈迦さまです。

ここから、また山の上まで戻りますが、先ほどの子供達がやってきて何やら言っています。

実は、我々がいないので通訳の人がこの子供達を使って私達を見つけて早く戻るように伝言を頼んだそうです。

上のお寺は閉まる時間でエスカレーターは止まって、エレベーターも止まっていて、大変な目に遭ってお寺の外に出ることができたのですが、団長さん遅くなって申し訳ございません。

 

さて、ここで日本兵が沢山亡くなったとのことですが、有名なインパール大作戦の一環でしょう。

大東亜戦争と書きましたがここは太平洋でないので太平洋戦争というより、大東亜戦争のほうが似合います。 もちろん第二次世界戦争というのは後からの話です。

日本がこの戦争を始めたのにはいろいろありますが、最終的にはアメリカやイギリスなど世界の国から石油などの資源を止められたことが戦争をせざるを得ない主因です。 アメリカというよりもルーズベルトやチャーチルたちが日本がこれ以上強くなられては困るので、経済封鎖してきたそうです。 日本には石油をはじめ色々な資源があまりない、これらを輸入できなくなると日本の産業が崩壊し、多くの失業者がでて国が滅びるので、石油を確保にアジアに進出したらしい。 

当時、東南アジアの各国はイギリスやフランス、オランダなどの植民地でした。 日本が攻めたのはそれらの国そのものではなくて、統治しているイギリスやフランス軍を追い出して、石油などの資源を輸入できるようにできるようにするためだったようです。 よくミッドウエーやレイテでのアメリカとの戦いばかり言われますが、アメリカが本気で戦ってきたという誤算があり、そうなったのですが本当に欲しいのは東南アジアの資源です。 

ですからあちこちの国でフランス、イギリスを追い出して、ついにビルマまできてイギリス軍をあっという間に追い出して、インドのイギリス軍に向かっていったのです。 それがインパール作戦で、その頃はすでに日本は敗戦色が濃くなり、食糧や弾薬の補給もままならないまま、ビルマの奥地に進んで行ったのでした。 自転車部隊などもあったと聞いています。

そして、マンダレーヒルから見えたあたりでも大きな戦いが行われて、10万人近い兵隊が亡くなったとのこと。

実際には、このうち3割はマラリアで亡くなったそうですが(先日の新型コロナの比ではない)、日本兵は撤退しようにも大本営の進めという命令に従って玉砕で、わずかに残った人たちが「ビルマの竪琴」のように水島上等兵らしき人に見送られて日本に帰った。

そして、夕日の山頂で出会った日本人の方たちは、この霊を慰めに来ておられたのでした。

なお、日本軍がイギリス、フランスを追い出したことで、戦後多くの国は植民地から解放され、日本のおかげで自分の国が戻ったと感謝の言葉を述べています。 ですから、ミャンマーの人達も日本人に好意をもっているのです。 西欧各国は植民地から物を搾取してゆくだけで奴隷扱いでしたから。

 

さて、マンダレーヒルからホテルに帰って

庭では毎夜色々な催しが行われています。

 

あやつり人形です。

 

踊りです。手に蝋燭を乗せています。

 

そして、席に回ってくるのです。

私はにやにやしていますが、実はおひねりを貰いにきているので、もちろん喜んで渡しています。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

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海外旅行 2006年 ミャンマー11  マンダレー3  マンダレー総合病院

2025年05月11日 | 海外旅行

王宮の後は別れていたメンバーと一緒に、マンダレー総合病院です。

 

大きな病院です。

 

放射線科です。 昔、日本の大学病院もこんな感じだった。

 

一般撮影室です。 女性の技師が撮影しています。 交通事故なんだ。 そりゃあバイクがあんなにたくさん走り回っていてよく事故が起こらないなと思っていたら、やっぱり事故はあるんです。 家族がついています。 日本では放射線被曝があるので家族は部屋の外にいますが、ここではあまり気にしていません。 本当のところ、家族への被曝は何にも問題ないほどなんですけれど、日本では御法度です。

 

島津のコントローラーの前に立っているのは放射線技師です。 この装置は私も使ったことがあります。

 

透視の装置がありました。イメージインテンシファイヤ付きですがディジタルではない、カセッテ方式です。

 

CTもありました。 ヘリカルです。島津です。

 

MRIもありました。オープンタイプなので簡易型ですが、0.3テスラーでしょうか。日立です。

 

MRIの画像です。 私はMRIの画像はよく知らないのですが、椎間板ヘルニアでしょうか? 横にはサジタル方向の再構成画像も表示されています。

 

当然、ここにはディジタルのドライプリンタがあります。

 

他の部屋には、血管造影用のカテーテルが置いてありました。 インターベンショナルラジオロジーもやっているんだと感心しましたが、この放射線科の部長は、午前中に行った医科大学の放射線科の教授で、岡山大学で研修を受けたとのこと。

 

マンモグラフィーの装置もあるんだ。 マンダレーはヤンゴンに次ぐ大きな町なので、病院もいろいろな装置を置いてあります。

 

この装置は見たことがなかったけれど、多分、結石破壊装置です。 尿管結石などを衝撃波で潰して排出する装置。

 

この後は、山の上にあって夕陽が綺麗なお寺に行きます。

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