八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「キリストの十字架のみを誇る」 2023年9月10日の礼拝

2023年10月16日 | 2023年度
エゼキエル書9章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。

ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
  これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
  兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。



  ガラテヤは、今のトルコの中央部にある地域で、パウロが伝道し、いくつかの教会が立ちました。パウロが離れた後、割礼を強調する人々がやって来て、ガラテヤの諸教会もその主張に惑わされていました。
  パウロは5章6節で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記しています。「割礼の有無は問題ではない」という言葉は今日の6章15節にも出てきました。割礼を行っても行わなくてもどちらでもよいということです。パウロには割礼を断固否定するというイメージがありますが、そうではありません。実際、テモテという若者に割礼を施したこと(使徒言行録16:3)があります。
  パウロがガラテヤ書で問題にしているのは、割礼を強要する人々のことです。彼らの主張は、「イエス・キリストを信じているだけでは救われない。割礼を受けなければならない」ということでした。パウロは「キリストを信じるだけで救われるのであって、割礼は救われるための絶対条件ではない」と主張しているのです。
  割礼は、神がアブラハムに神の民のしるしとして行うようにと命じた大切なことです。ユダヤ人にとって、これはないがしろにできないことでした。しかし、割礼はしるしであって、救いそのものではありません。
  割礼は、神の民であることのしるしです。ユダヤ人は割礼を身に受けていることにより、神の民の一員としての自覚を持つことができました。そして、自分たちは神に選ばれているという選民思想を持つようになりましたが、それはやがてユダヤ人以外の人々を選ばれていない、救いから外されているというように見下していくことにもなっていったのです。
  神が選んだ神の民ユダヤ人の中にキリストが現れ、神がユダヤ人を選んだ目的が達成されました。そのキリストが現れたのは、ユダヤ人だけでなく、すべての人々を救うという神の計画を成就するためでした。この計画はユダヤ人の最初の先祖アブラハムが選ばれた時(創世記12:2~3)から明らかにされていました。割礼はユダヤ人が神の民のしるしであり、神の民はキリストが神の真の救いであることを示すはずでした。そのキリストが現れた以上、ユダヤ人の神の民としての役割と神の民のしるしである割礼の役目は終了したのです。ですから、パウロは割礼を否定はしませんでしたが、「割礼の有無は問題ではない」と言ったのです。むしろ大切なのは「キリスト・イエスに結ばれている」(5:6)ことなのです。
  さて、「しるし」ということでは、キリスト教会が行う「洗礼」もまたキリストに結ばれている「しるし」(ローマ6:3~11)です。この「しるし」を受けている私たちは、自分がキリストに結ばれ、救われているという自覚を与えられています。目には見えませんが、神から与えられているこの「しるし」はカインに与えられた「しるし」(創世記4:15)、エゼキエル9:1~6の「しるし」で、救いを保証しています。この「しるし」は誰にも消すことができません。パウロが「私はイエスの焼き印を身に受けている」と誇らしげに語るのも、それが理由です。
  ヨハネ黙示録には、神の刻印を受け救われる人々(7:2~8、9:4)と獣の刻印を受け滅ぼされる人々(13~19章)のことがでてきます。ここでの神の刻印とは、キリストに結ばれていること示す「しるし」、キリストの名による洗礼です。自分がこの「しるし」を身に受けていることを自覚し、歩みを続けましょう。


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