八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神の秘められた計画」 2022年10月9日の礼拝

2022年10月24日 | 2022年度
創世記32章23~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
  ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。


コロサイの信徒への手紙1章21~29節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。
  今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。



  ヤコブが逃亡先の伯父ラバンの家から故郷に帰る途中、真夜中に誰かと格闘したとあります。聖書にはっきり出ていませんが、相手は天使だったようです。この出来事は、ヤコブの祈りの激しさを表していると説明されます。
  故郷へ帰る途中とは言え、ヤコブの状況は決して明るいものではありませんでした。伯父ラバンとその息子たちからねたまれ、居づらくなっていました。その時、ベテルで出あった神(創世記28章)から故郷に帰るようにと言われ(31:3)、出立したのですが、その故郷では兄エサウが復讐しようと待ち構えていたのです。
  さて、コロサイの信徒への手紙1章26節に「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画」とあります。この計画とは、すべての人々を罪から救うことです。「計画」という言葉は、すべての人を救うことが単なる思い付きや気まぐれで行われたのではないということです。そして、神が用意周到に準備されたということを意味しています。
  私たちが救われていることも、決して偶然ではありません。神の御計画であり、そのために神ご自身が働いてくださったのです。
  神がアブラハムを選ばれた時、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:3)と告げられました。この言葉は息子のイサク、孫のヤコブにも語られ、彼らの子孫がこの計画のために用いられていきました。ヤコブがべテルで神と出会った時、アブラハムの時と同じ言葉が与えられたのでした。
  イエス・キリストは彼らの子孫として現れましたが、それは偶然ではなく、初めから神の計画だったのです。この計画の一部は、預言者たちによって明らかにされましたが、神が定められた時が来るまで、ほとんどが隠されていました。
  しかし、時が満ち、すべてが明らかにされる時が来ました。イエス・キリストが十字架にかかられ、死からよみがえられたことにより、イエス・キリストの父なる神がこの御子によってすべての人々を救うこととされていたことが明らかにされたのです。この十字架と復活のキリストを、聖書は「福音」と呼びます。喜ばしいメッセージということです。
  この救いの計画は明らかにされ、救いの御業が完了しました。これからは、この救いをすべての人々に伝える必要があります。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされた」(コロサイ1:27)とあるとおりで、このためにキリスト教会が選ばれ、用いられるのです。
  教会に与えられた使命は、「労苦している」とあるように、平たんなものではありません。しかし、教会は孤独の状態で働くのではありません。また人間の知恵や努力を頼りにこの使命を遂行するのでもありません。何よりも神が共に働いてくださるのであり、パウロはそれを「わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っている」と表現しています。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:3)というアブラハムへの言葉は、今や「地上のすべての人は、キリスト教会によって祝福に入る」という意味を持つようになったのです。
  神が全ての人を救う計画は、神ご自身がそのために、先頭に立って働いていることを示しています。そして、救いの中に入れられた私たちに、「私の後に続きなさい」と呼びかけておられるのです。