八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「罪を贖う唯一の犠牲」 2022年10月2日の礼拝

2022年10月17日 | 2022年度
出エジプト記12章21~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。
  「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
  あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」
  民はひれ伏して礼拝した。


ヘブライ人への手紙9章23~28節(日本聖書協会「新共同訳」)

  このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。


  出エジプト記12章には、イスラエルの民のエジプト脱出の原因となった過ぎ越しという出来事が記されています。エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を救い出すために、神は死の使いを送り、エジプト人にだけ災いをくだします。イスラエルの民にその災いが及ばないように、死の使いがイスラエルの人々の前を過ぎ越すようにされました。その目印になるように、家の門や鴨居に小羊の血を塗らせたのです。そこからこの出来事の記念の祭りを「過越の祭」と呼ぶようになりました。その祭りは小羊を神殿で献げ、その後小羊の肉を持ち帰り、家族で一緒に食べます。その時の食事の中で過越しの出来事を思い起こす儀式をします。そのことも出エジプト記12章に記されています。
  出エジプト記は、エジプト脱出がイスラエルの民やモーセの勇敢行な行動の結果だとは語りません。ただ神の力によって起こされたと告げています。そして、もう一つ重要なことは、この出来事はエジプトから脱出したとか、奴隷状態から解放されたということだけではなく、エジプトを出た彼らは神が約束された土地に向かって出発したということです。結局かなりの年数がかかりましたが、もともとは数か月の予定でした。とにかく、約束の地へ出発するために、エジプト脱出の出来事があったということです。
  話は新約聖書の時代に飛びますが、主イエスが十字架にかかられたのは過越の祭りの時でした。これは神の御計画であり、主イエスもそれに合わせてエルサレムに向かわれたのです。過越の祭りの時に主イエスが十字架の上で血を流されたことは、死の使いが家に塗られた小羊の血を目印に通り過ぎたことを思い起こさせます。さらに、罪に捕われていた私たちを解放し、神の国へ出発させると連想させます。
  ヘブライ人への手紙は、主イエスの十字架の出来事を旧約聖書のレビ記に記されている贖罪の日の儀式と関連させて説明しています。贖罪の日というのはイスラエル全体の罪の贖いが行われる重要な時でした。神殿の建物は前室としての「聖所」と奥にある「至聖所」とから成っていて、至聖所には年に一回だけ大祭司が入って、契約の箱の上にある「贖いの座」に血を振りまくのです。これにより、すべての人々の罪が赦されました。
  しかし、ヘブライ人への手紙は、この儀式を毎年行わなければならないこと自体不完全であったと言います。そして、主イエス・キリストこそが完全な罪の贖いの犠牲であり、それがキリストの十字架の出来事だというのです。地上の大祭司と違って繰り返すことはなく、「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れ」(9:26)たのです。「ただ一度」というのはキリストの罪の贖いが完全であること示しています。
  「罪の贖い」というのは、私たちから罪を取り除くという意味で使われますが、「罪から贖う」という意味でも使われます。この場合、私たちは神によって買い取られたという意味になります。十字架のキリストにより、私たちは神の所有になったのです。「あなたがたが・・・贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Ⅰペトロ1:18~19)とあるとおりです。このように、私たちの救いは、御子の尊い犠牲によるのです。