八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「私たちを恵もうとする神の意志」  2017年11月26日の礼拝

2018年01月15日 | 2017年度
申命記8章11~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。

エフェソの信徒への手紙2章4~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

  「神の愛」ということを説明するのに「神の意志」と言った人があるそうです。その人の真意は必ずしも明らかではありませんが、聖書を読んでいる内に、何となく分かってきたように思えます。私たちが思い描いている「愛」は、人情とか情愛というような感情的なイメージがあるのではないでしょうか。その時の気分で、愛したり、愛さなかったりというような気まぐれな愛とか、プラトンが説明する「価値あるものを追い求める愛」であったりします。しかし、聖書を通して示される神の愛はそうではありません。一見、激しい感情に左右されているように見える神の愛ですが、それは、不誠実な人間に対して、どこまでも愛を貫く姿であり、全人類を救うという計画をなんとしてでも成し遂げようとする堅い決意があらわれています。
  出エジプト記から民数記まではエジプト脱出とそれから40年の長きにわたって荒野で生活したことが記されています。その間の出来事を簡単に言います。まず、イスラエルの人々はシナイ山で十戒を受け、神と契約を結んで神の民となりました。しかし、その直後から神に背き続け、約束の地を目前にしながら、そこへ入っていくことを拒みその結果、40年間荒野で生活することになりました。その長い年月の間、たびたび神の民は神に背き続けました。神は彼らを罰しながらも、水や食料を与え、襲いかかってくる敵から守り続けられたのです。
  申命記は、40年の荒野の生活を終え、約束の地に入ろうとしている神の民に、モーセが荒野での生活を思い起こさせながら、最後の警告をしている書物です。その中で、これから入っていくところは豊かな土地であるが、それを自分たちの手柄のように考えてはならないし、そこでの生活で多くを収穫があっても自分たちの努力だと考えてはならないと言います。全ては神の恵みであり、神が神の民の先祖に誓われたことに基づいていることを決して忘れてはならないと警告しているのです。8章は、特にそのことを強調しています。
  背き続ける神の民を、神は忍耐し、彼らに恵みを与え、導いて行かれます。そこに、彼らを何とか救おうとする神の愛と強い意志を見ることが出来ます。聖書は、「神が誓われた故に」、「彼らとの契約の故に」という言葉を繰り返し用いています。冷たく響くかも知れませんが、神の愛は決して気まぐれではないということを示しています。それだけではなく、繰り返し神に背いている人々を見捨てることはありません。エゼキエル書18章で、神は悪人の死を喜ばず、神に立ち帰って生きることを願っていると記されています。「私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」とあるとおりです。
  主イエス・キリストの十字架に示された神の愛に、私たちは救われました。罪人である私たちに示された、神の忍耐と寛容がここにあります。そして何よりも、どれほど罪深くあろうとも私たちを救おうとする神の決意と愛があります。