八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神の義」 2014年8月17日の礼拝

2014年09月08日 | 2014年度
詩編42編2~7a節(日本聖書協会「新共同訳」)

 涸れた谷に鹿が水を求めるように
 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
 いつ御前に出て
   神の御顔を仰ぐことができるのか。
 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
 人は絶え間なく言う
 「お前の神はどこにいる」と。

 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
 喜び歌い感謝をささげる声の中を
   祭りに集う人の群れと共に進み
 神の家に入り、ひれ伏したことを。
 
   なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
   なぜ呻くのか。
   神を待ち望め。
   わたしはなお、告白しよう
   「御顔こそ、わたしの救い」と。
   わたしの神よ。


マタイによる福音書5章3~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。



  ずいぶん前のことですが、「義」という漢字は「茨の冠をかぶった王の下に、我(自分)を置く形」と言った人がいました。確かに王という字の上に二つの点々があり、茨のトゲのように見えます。漢字の成り立ちからは正しくはありませんが、聖書が教える神の義をよく説明していると思います。
  さて、今日の聖句は「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」です。
  ルカによる福音書には「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」という言葉があり、今日のマタイ福音書の言葉によく似ています。多くの学者たちは、ルカ福音書の方が元の形に近いと説明しています。もしそうだとすると、マタイ福音書は何故「義」という言葉を加えたのでしょうか。おそらく、主イエスがおっしゃった「飢えている」ということを、単に空腹とは捉えなかったからだと思います。
  この山上の説教は、信仰を持たない人々にではなく、信仰を持っている人々に語られたものです。特に、マタイはキリスト者に語られた言葉として、ここに記しているのです。
  マタイ福音書がキリスト者に伝えたいのは、いわゆる処世訓ではなく、キリスト者としての信仰と生活のあり方なのです。ですから、今日の聖句も単に空腹とか満腹とかということではなく、キリスト者が飢え渇くように求めるのは、神の義であると強調したかったのでしょう。
  「義」と訳されている言葉は、マタイ福音書では3章15節にすでに出てきました。洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとした主イエスを思いとどまらせようとしましたが、主イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とおっしゃって、強いてヨハネに洗礼を授けさせたという出来事です。ここでは「正しいこと」と訳されていますが、これは、規則に当てはめての正しさということではなく、「神の御心」ということです。それは、また、「神の御言葉」と言い換えることができますし、さらには、神ご自身ということもできます。
  今日の詩編42編2~3節に「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」とあります。またアモス書8章11節には「主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」ともあります。
  「義に飢え渇く」というのは、文学的問題でも哲学的問題でもありません。ただひたすら神を求めることです。神との良い関係の中に生きることを求めることです。マタイ6章33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」という主イエスの言葉も、その事を指し示しています。
  それでは、私たちは義を求めていないのでしょうか? いいえ。聖書に教えられるまでもなく、私たちは正義を求めてきたはずです。しかし、それはしばしば、自分にとって都合の良い正義ということになりがちなのです。また反対に、機械的に正義が執行されることを求め、悪人を裁き、断罪することに終始しているのではないでしょうか。
  エゼキエル書18章に次のような二つの教えがあります。
  第一の教えは、正しい人間の息子が罪を犯し、その罪から離れないならば、その息子は自分の罪の故に死ぬ。父親の善行は省みられない。また、悪を行ったその息子に孫が出来、その孫が寿美から離れて神に対して正しく生きるなら、その孫は必ず生きる。すなわち、子どもは父の善行や罪によって生き死にするのではなく、その人自身の善悪によって裁かれると言うことです。
  第二の教えは、正しい人がその正しさから離れ、悪を行うなら、彼はその悪の故に死ぬ。反対に、悪人がその悪から離れ、神に対して正しく生きるなら、彼はその悔い改めの故に、必ず生きるということです。
  最後に次のように言われています。「それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(エゼキエル18:29-32)
  自分にとって都合の良い正義は、神に対してさえも「間違っている」と主張することを示していますが、また反対に、神の正しさが私たちの理解をはるかに超えていることも示しています。このような神の正しさを、私たちはなかなか素直に受けとめることが出来ないのではないでしょうか。私たちの心の中には、悪人が悔い改めるよりは、悪人が滅ぶことを望むことの方が強いように思えます。
  このエゼキエル書18章で重要なことは、悔い改める悪人とは、私たちの知らない誰か他の人のことではなく、私たち自身のことだということです。神に対して罪を犯し続けている私たちに向かって、悔い改めて神に立ち帰れ、そして生きよ、と告げているのです。
  神の正しさを、哲学の問題として考えるのではなく、神との関係の中で考えることが大切なのです。言い換えるならば、「正義」という概念を定義することにではなく、いかにして私たち罪人が神との良い関係の中で生きることができるかということについて、神は強い関心を持っておられるのです。そこで、強調されているのが、悪人が悔い改めるということなのです。
  さて、義ということについて、使徒パウロは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20)と語っています。
  罪人が悔い改めることを、神は求めておられると先ほど申し上げました。どうすることが悔い改めになるのか、それを指し示すものが、神から与えられた律法でした。しかし、パウロはその律法では、罪の自覚が生じるばかりで、罪人を義にいたらせないと言うのです。
  パウロは、さらに言葉を続けて「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・・ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:21~24)と告げています。
  私たちに不可能であった神の義は、キリストによって無償で提供されているというのです。このキリストによって、私たちは神から正しいとみなされているというのです。
  その事について、パウロは次のように説明しています。
  「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(ローマ3:25~26)。
  「罪を償う供え物」とは、キリストが十字架にかかられたことを指しています。十字架のキリストこそ、私たちを義とすることのできる唯一のお方なのです。
  パウロは、ここで、キリストがこの世に遣わされる時まで、神は「人が犯した罪を見逃して」おられ、「忍耐してこられた」と言っています。ここにいたって、義に飢え渇いていたのは、私たちだけではなく、神もまた飢え渇いておられたことを、私たちは知りました。否、私たち以上に神は神の義を求めておられ、神の義によって信じる全ての人々を救う時を待ち望んでおられたのです。
  神の義は、もはや正しさという概念にとどまらず、すべての人を救おうとする神の御意志であることが明らかにされました。神の義は私たちに対する恵みであり、私たちを救うための御計画であり、またそのために、神の独り子が十字架におかかりになった出来事です。
  主イエスが告げておられることは、神の義に満たされるため、頑張ろうということではありません。神がすでに満たしてくださっている。その神の義が満ち足りている幸いの中に、今生かされていると宣言しておられるのです。