詩編85編9~14節 (日本聖書協会「新共同訳」)
わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
主は平和を宣言されます
御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
慈しみとまことは出会い
正義と平和は口づけし
まことは地から萌えいで
正義は天から注がれます。
主は必ず良いものをお与えになり
わたしたちの地は実りをもたらします。
正義は御前を行き
主の進まれる道を備えます。
マタイによる福音書5章3~10節 (日本聖書協会「新共同訳」)
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
「平和を実現する人々」は、聖書のもともとの言葉ギリシア語では一つの単語で、新約聖書にはここにしか出てきません。この言葉の動詞の形では、一回だけコロサイの信徒への手紙1章20節に出てきます。
「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。
「平和を打ち立て」という言葉は、「平和を実現する人々」という言葉の動詞です。このコロサイ書では、神が平和を打ち立てたこと、主イエスが十字架の上で血を流されたこと、それにより神が万物と和解されたと告げています。「平和を実現する」とか「平和を打ち立てる」と言っても、それは私たち人間には不可能なことであり、神のみが為しうる業なのです。
マタイ5章9節の「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」とあるのは、平和を実現しなければ、神の子と呼ばれないという意味ではありません。
そもそも誰が「神の子」と呼ぶというのでしょうか? それは神以外にありません。
使徒パウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3:26)と断言しています。他にもエフェソ1:5を参照。
他の誰が何を言おうとも、神が私たちを「神の子」と呼んでくださらないならば、何の意味もありません。そして、神は御子イエス・キリストによって私たちに神の子としての身分を与えてくださり、「神の子」と呼んでくださるのです。
平和を実現するとは、神の子となることの条件ではありません。むしろ、既に神の子とされているので、平和を実現する使命があると言うことです。
先ほど、「平和を実現する」とか「平和を打ち立てる」ということは、私たち人間には不可能なことであり、神のみが為しうる業だと申し上げました。私たちに与えられている「平和を実現する」使命とは、私たちが神に成り代わって何かをするということではなく、神が打ちたててくださった平和を人々に伝えることなのです。
使徒パウロは、コリントの教会に宛てた手紙で次のように語っています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(Ⅱコリント5:18-19)
主イエスがおっしゃっておられる「平和を実現する人々」とは、人間がつくり出す平和という意味ではなく、神が私たちとの間に打ち立てて下さった平和ということです。平和を打ち立ててくださった神は、その平和、すなわち「神からの和解」という福音を世の人々に伝えるという任務を、私たちに授けてくださったのです。
繰り返して言いますが、私たちが神の子と呼ばれるために、神からの和解を宣べ伝えるのではありません。既に、私たちは神の子とされているのです。神からの和解を受けたことを感謝し、喜びつつ、この福音を私たちの周りのひとりひとりに伝えて行くのです。
わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
主は平和を宣言されます
御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
慈しみとまことは出会い
正義と平和は口づけし
まことは地から萌えいで
正義は天から注がれます。
主は必ず良いものをお与えになり
わたしたちの地は実りをもたらします。
正義は御前を行き
主の進まれる道を備えます。
マタイによる福音書5章3~10節 (日本聖書協会「新共同訳」)
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
「平和を実現する人々」は、聖書のもともとの言葉ギリシア語では一つの単語で、新約聖書にはここにしか出てきません。この言葉の動詞の形では、一回だけコロサイの信徒への手紙1章20節に出てきます。
「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。
「平和を打ち立て」という言葉は、「平和を実現する人々」という言葉の動詞です。このコロサイ書では、神が平和を打ち立てたこと、主イエスが十字架の上で血を流されたこと、それにより神が万物と和解されたと告げています。「平和を実現する」とか「平和を打ち立てる」と言っても、それは私たち人間には不可能なことであり、神のみが為しうる業なのです。
マタイ5章9節の「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」とあるのは、平和を実現しなければ、神の子と呼ばれないという意味ではありません。
そもそも誰が「神の子」と呼ぶというのでしょうか? それは神以外にありません。
使徒パウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3:26)と断言しています。他にもエフェソ1:5を参照。
他の誰が何を言おうとも、神が私たちを「神の子」と呼んでくださらないならば、何の意味もありません。そして、神は御子イエス・キリストによって私たちに神の子としての身分を与えてくださり、「神の子」と呼んでくださるのです。
平和を実現するとは、神の子となることの条件ではありません。むしろ、既に神の子とされているので、平和を実現する使命があると言うことです。
先ほど、「平和を実現する」とか「平和を打ち立てる」ということは、私たち人間には不可能なことであり、神のみが為しうる業だと申し上げました。私たちに与えられている「平和を実現する」使命とは、私たちが神に成り代わって何かをするということではなく、神が打ちたててくださった平和を人々に伝えることなのです。
使徒パウロは、コリントの教会に宛てた手紙で次のように語っています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(Ⅱコリント5:18-19)
主イエスがおっしゃっておられる「平和を実現する人々」とは、人間がつくり出す平和という意味ではなく、神が私たちとの間に打ち立てて下さった平和ということです。平和を打ち立ててくださった神は、その平和、すなわち「神からの和解」という福音を世の人々に伝えるという任務を、私たちに授けてくださったのです。
繰り返して言いますが、私たちが神の子と呼ばれるために、神からの和解を宣べ伝えるのではありません。既に、私たちは神の子とされているのです。神からの和解を受けたことを感謝し、喜びつつ、この福音を私たちの周りのひとりひとりに伝えて行くのです。