goo blog サービス終了のお知らせ 

八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「隣人を愛しなさい」 2022年1月16日の礼拝

2022年02月22日 | 2021年度
レビ記19章18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

ローマの信徒への手紙13章8~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。


  「隣人を自分のように愛しなさい」(ローマ13:9)は、聖書を知らない人でも、これが聖書の言葉であることを知っている人は多いと思います。それはまた、この言葉がキリスト教の信仰をよく表す言葉とも言えます。
  この言葉は旧約聖書のレビ記19章18節にあるのですが、この言葉の前に、「兄弟を憎んではならない。・・・復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」という言葉があることは知られていないかもしれません。このことで明らかなのは、隣人を愛するということは、憎んだり、復讐したいと思ったり、恨みを抱いている相手に対しても愛しなさいと言われているということです。
  このことで思い起こされるのは、主イエスの「善いサマリア人のたとえ」です。主イエスがこのたとえを語られたのは、「全ての戒めの中で最も大切な戒めは何か」と問われた時です。その時、この「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という言葉とともに、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を示されました。すると、相手は「私の隣人とはだれか」と問い返し、主イエスが語られたのが「善いサマリア人のたとえ」でした。
  あるユダヤ人が旅の途中、強盗に襲われ、瀕死の重傷を負います。そこへ祭司やレビ人が通りかかりますが、見て見ぬふりをして去っていきます。そのあとやってきたサマリア人がけがをした人に手当をし、宿屋まで運び、宿代まで支払うという話です。このたとえを話した後、主イエスは尋ねます。誰がこのけがをした人の隣人となったか。相手は「けがをした人を助けた人です」と答えました。このたとえのポイントはユダヤ人とサマリア人は普段は互いに行き来することはほとんどありません。決して仲は良くないのです。このたとえでは、同胞の祭司やレビ人は助けませんでしたが、普段仲の悪いサマリア人がけがをしたユダヤ人を助けたということです。実際にこのようなことがあったわけではありません。主イエスがこのような話をされたのは、隣人を愛するとは相手を選んで行うものではないと教えるためなのです。
  さて、パウロは、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約される」と言っています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」は十戒の後半にある言葉で、社会の中で生きる上で大切なまた基本的な戒めです。パウロは形の上でこれを守ればよいというのではなく、人を愛する心をもって行うことが大切だと言っているのです。これが神の戒めの本質だと言うのです。
  先日あるドラマの中で、次のような話が紹介されていました。実際あった話ではありませんし、キリスト教の話でもありませんが、良いたとえだと思います。
  「ある人が奥さんの出産とか、子どもの入学式、卒業式で仕事を休んだとします。本人は家族の大切な瞬間に立ち会いたいと思っている。しかし、他の人が、『きっと奥さんが怖くて無理矢理行かされている』と考えたとします。家族の大切な瞬間に立ち会うことを父親の権利と考えるか、それとも家族だから仕方なく行う義務だと考えるか。同じように家族の大切な瞬間に立ち会っていても、そこには天と地ほどの差があります」。
  このように、仕方がないから姦淫しない、殺さない、盗まない、むさぼらないというのであれば、それは義務として行っているのであって、愛はありません。もちろん、義務だからそれらの戒めを守るというのでも良いでしょう。しかし、神の御心は、相手に対する愛の心でそれを行うことなのです。「愛は律法を全うする」とはそういう意味なのです。
  振り返ると、相手を赦したり、愛したりすることがむつかしい自分の心があります。神に罪を赦されていながら、罪を赦すことができず、神に愛されていながら人を愛することのできない自分。「愛せない私をお赦しください。愛の乏しい私の心に愛を満たしてください」と祈らずにはいられません。