アモス書8章4~7節(日本聖書協会「新共同訳」)
このことを聞け。
貧しい者を踏みつけ
苦しむ農民を押さえつける者たちよ。
お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」
主はヤコブの誇りにかけて誓われる。
「わたしは、彼らが行ったすべてのことを
いつまでも忘れない。」
テモテへの手紙 一 6章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)
軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。
これらのことを教え、勧めなさい。異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。
ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙一、二などのように、新約聖書にはパウロが書いた手紙が多くありますが、中には、実際にはパウロが書いたのではなく、少し後の時代の人がパウロの名前を使って書かれたというものもあります。今日のテモテへの手紙一もそのうちの一つです。パウロの本当の手紙ではないことがわかってからも、教会は、その内容の優れていることなどから、他の文書と同じく聖書として扱ってきました。
実際には誰がこの手紙を書いたのかは分かりませんが、今日の礼拝では、便宜上パウロの名前を使っていくことにしますので、ご了承いただきたいと思います。
この手紙はテモテへの手紙 二 やテトスへの手紙と共に「牧会書簡(ぼっかい しょかん)」と呼ばれています。テモテとテトスが教会の監督のように手紙に書かれていること、そして手紙の中で教会を牧する心得などが教えられているために、そのように呼ばれています。
さて、まず6章1~2節を見ますと、奴隷のことが出てきます。当時は奴隷制の社会で、教会にも多くの奴隷の信仰者がいました。そのため、新約聖書には主人と奴隷についての教えも出てきます。たとえば、エフェソの信徒への手紙6章に、その教えがあります。その教えには、奴隷と主人の両方に対しての教えとが記されています。しかし、テモテへの手紙 一 6章1~2節には主人に対する教えはなく、奴隷に向けての教えだけです。なぜ主人に向けての教えがないのかは分かりません。
1~2節は奴隷に向けての教えですが、その教えの中心は、すべての人に当てはまります。相手を尊敬すること、同じ信仰者だからという理由で相手を軽んじないこと、むしろ、いっそう熱心に仕えるということです。すべての人間関係において、これらの言葉は重要なことです。
3節からは、教会が宣べ伝えてきた「十字架と復活のキリストとその救いについての教え」に反する教えが入り込もうとしていることへの警告が記されています。
そのような偽りの教えによって、議論や口論に病みつきになること、そしてそこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じると指摘し、さらに偽りを教える人々は金持ちになろうとして偽りの教えをしているのだというのです。その結果、その教えにより誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥り、その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れると警告するのです。
ソクラテスの時代から新約聖書の時代まで、ギリシアやローマでは哲学など学問が発達していたことはよく知られていますが、哲学以外の学問も人々から好まれ、特に互いに論争し、相手を言い負かすための弁論術なども発達していました。
彼らは、自分の知識や教養の高さを示し、多くの人々から報酬を受けました。彼らの教えは、人々から称賛され、報酬を受けるためだったのです。パウロが「金銭を追い求める」と言っているのはそういう理由からです。
パウロや教会が宣べ伝えていた福音は、人々から称賛されるためでもなければ、報酬を受けるためでもありません。ただ、神から宣べ伝えよと命じられているからなのです。福音を宣べ伝えることについては、人々からの称賛や報酬ではなく、神から「忠実な良い僕だ。よくやった」と喜ばれたいのです。そして、神からの報酬は永遠の命です。この世で得る利得ではなく、パウロはこれを神から恵みとして与えられる利得と言うのです。
ここで、注意しておきたいのは、経済的な豊かさを否定しているのではないということです。すべては神が恵みとして与えてくださるので、それで満足しなさいと言っているのです。その結果、経済的に豊かになることはあるでしょうし、その豊かさは神からの恵みとして感謝して生活すればよいのです。経済的豊かになることを目的として、神の言葉を利用してはならないと警戒せよと警告しているのです。パウロはそれを「金銭の欲」であり、「すべての悪の根」だと言うのです。
パウロは金銭の欲を捨て、金銭を追い求めることを止めよと言い、むしろ、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めよと勧めます。その一つ一つは抽象的な言い方ですが、一言で言うならば、神が喜ばれるような生き方をしなさいということです。6章1~2節で言われていた「相手を尊敬すること、同じ信仰者だからという理由で相手を軽んじないこと、むしろ、いっそう熱心に仕えること」です。神を通して相手を見ることが大切なのです。神を通して見る時、神をさしおいてわがままになったり、相手を見下すことはあり得ないことです。
このような生き方はむつかしいかもしれません。パウロもそのことをよくわかっています。だからこそ、それを「信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい」と言うのです。「戦い」という言葉を使わざる得ないほどに、このような生き方はむつかしいのです。イエス・キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教え、パウロも「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはならない」(ローマ12:14)と教え、さらに「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされている」(Ⅰコリント4:11~13)と、自らの体験を語っています。
これらの言葉を聞くと、なかなか困難なことだと思わずにはいられません。パウロが信仰の戦いと言っているのは、誰かと戦うというのではなく、自分との戦いだということがわかります。復讐したい、見返してやりたいという自分の心にある欲求と戦うのです。この戦いは、神に祈ることによって、はじめて戦い抜くことができるのです。神はそのような祈りに応えてくださいます。私たちに永遠の命を与えることは、あらかじめ神が定めてくださっているからです。ですから、そのためにふさわしく生きることができるように、神が私たちを守り、導いてくださいますし、そうする力を与えてくださるのです。神を信頼し、祈り、生活しましょう。
このことを聞け。
貧しい者を踏みつけ
苦しむ農民を押さえつける者たちよ。
お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」
主はヤコブの誇りにかけて誓われる。
「わたしは、彼らが行ったすべてのことを
いつまでも忘れない。」
テモテへの手紙 一 6章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)
軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。
これらのことを教え、勧めなさい。異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。
ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙一、二などのように、新約聖書にはパウロが書いた手紙が多くありますが、中には、実際にはパウロが書いたのではなく、少し後の時代の人がパウロの名前を使って書かれたというものもあります。今日のテモテへの手紙一もそのうちの一つです。パウロの本当の手紙ではないことがわかってからも、教会は、その内容の優れていることなどから、他の文書と同じく聖書として扱ってきました。
実際には誰がこの手紙を書いたのかは分かりませんが、今日の礼拝では、便宜上パウロの名前を使っていくことにしますので、ご了承いただきたいと思います。
この手紙はテモテへの手紙 二 やテトスへの手紙と共に「牧会書簡(ぼっかい しょかん)」と呼ばれています。テモテとテトスが教会の監督のように手紙に書かれていること、そして手紙の中で教会を牧する心得などが教えられているために、そのように呼ばれています。
さて、まず6章1~2節を見ますと、奴隷のことが出てきます。当時は奴隷制の社会で、教会にも多くの奴隷の信仰者がいました。そのため、新約聖書には主人と奴隷についての教えも出てきます。たとえば、エフェソの信徒への手紙6章に、その教えがあります。その教えには、奴隷と主人の両方に対しての教えとが記されています。しかし、テモテへの手紙 一 6章1~2節には主人に対する教えはなく、奴隷に向けての教えだけです。なぜ主人に向けての教えがないのかは分かりません。
1~2節は奴隷に向けての教えですが、その教えの中心は、すべての人に当てはまります。相手を尊敬すること、同じ信仰者だからという理由で相手を軽んじないこと、むしろ、いっそう熱心に仕えるということです。すべての人間関係において、これらの言葉は重要なことです。
3節からは、教会が宣べ伝えてきた「十字架と復活のキリストとその救いについての教え」に反する教えが入り込もうとしていることへの警告が記されています。
そのような偽りの教えによって、議論や口論に病みつきになること、そしてそこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じると指摘し、さらに偽りを教える人々は金持ちになろうとして偽りの教えをしているのだというのです。その結果、その教えにより誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥り、その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れると警告するのです。
ソクラテスの時代から新約聖書の時代まで、ギリシアやローマでは哲学など学問が発達していたことはよく知られていますが、哲学以外の学問も人々から好まれ、特に互いに論争し、相手を言い負かすための弁論術なども発達していました。
彼らは、自分の知識や教養の高さを示し、多くの人々から報酬を受けました。彼らの教えは、人々から称賛され、報酬を受けるためだったのです。パウロが「金銭を追い求める」と言っているのはそういう理由からです。
パウロや教会が宣べ伝えていた福音は、人々から称賛されるためでもなければ、報酬を受けるためでもありません。ただ、神から宣べ伝えよと命じられているからなのです。福音を宣べ伝えることについては、人々からの称賛や報酬ではなく、神から「忠実な良い僕だ。よくやった」と喜ばれたいのです。そして、神からの報酬は永遠の命です。この世で得る利得ではなく、パウロはこれを神から恵みとして与えられる利得と言うのです。
ここで、注意しておきたいのは、経済的な豊かさを否定しているのではないということです。すべては神が恵みとして与えてくださるので、それで満足しなさいと言っているのです。その結果、経済的に豊かになることはあるでしょうし、その豊かさは神からの恵みとして感謝して生活すればよいのです。経済的豊かになることを目的として、神の言葉を利用してはならないと警戒せよと警告しているのです。パウロはそれを「金銭の欲」であり、「すべての悪の根」だと言うのです。
パウロは金銭の欲を捨て、金銭を追い求めることを止めよと言い、むしろ、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めよと勧めます。その一つ一つは抽象的な言い方ですが、一言で言うならば、神が喜ばれるような生き方をしなさいということです。6章1~2節で言われていた「相手を尊敬すること、同じ信仰者だからという理由で相手を軽んじないこと、むしろ、いっそう熱心に仕えること」です。神を通して相手を見ることが大切なのです。神を通して見る時、神をさしおいてわがままになったり、相手を見下すことはあり得ないことです。
このような生き方はむつかしいかもしれません。パウロもそのことをよくわかっています。だからこそ、それを「信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい」と言うのです。「戦い」という言葉を使わざる得ないほどに、このような生き方はむつかしいのです。イエス・キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教え、パウロも「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはならない」(ローマ12:14)と教え、さらに「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされている」(Ⅰコリント4:11~13)と、自らの体験を語っています。
これらの言葉を聞くと、なかなか困難なことだと思わずにはいられません。パウロが信仰の戦いと言っているのは、誰かと戦うというのではなく、自分との戦いだということがわかります。復讐したい、見返してやりたいという自分の心にある欲求と戦うのです。この戦いは、神に祈ることによって、はじめて戦い抜くことができるのです。神はそのような祈りに応えてくださいます。私たちに永遠の命を与えることは、あらかじめ神が定めてくださっているからです。ですから、そのためにふさわしく生きることができるように、神が私たちを守り、導いてくださいますし、そうする力を与えてくださるのです。神を信頼し、祈り、生活しましょう。