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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「金銭の欲を捨て、永遠の命を」 2023年9月24日の礼拝

2023年11月06日 | 2023年度
アモス書8章4~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

 このことを聞け。
 貧しい者を踏みつけ
 苦しむ農民を押さえつける者たちよ。
  お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」
 主はヤコブの誇りにかけて誓われる。
 「わたしは、彼らが行ったすべてのことを
 いつまでも忘れない。」


テモテへの手紙 一 6章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。
  これらのことを教え、勧めなさい。異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

  しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。



  ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙一、二などのように、新約聖書にはパウロが書いた手紙が多くありますが、中には、実際にはパウロが書いたのではなく、少し後の時代の人がパウロの名前を使って書かれたというものもあります。今日のテモテへの手紙一もそのうちの一つです。パウロの本当の手紙ではないことがわかってからも、教会は、その内容の優れていることなどから、他の文書と同じく聖書として扱ってきました。
  実際には誰がこの手紙を書いたのかは分かりませんが、今日の礼拝では、便宜上パウロの名前を使っていくことにしますので、ご了承いただきたいと思います。
  この手紙はテモテへの手紙 二 やテトスへの手紙と共に「牧会書簡(ぼっかい しょかん)」と呼ばれています。テモテとテトスが教会の監督のように手紙に書かれていること、そして手紙の中で教会を牧する心得などが教えられているために、そのように呼ばれています。

  さて、まず6章1~2節を見ますと、奴隷のことが出てきます。当時は奴隷制の社会で、教会にも多くの奴隷の信仰者がいました。そのため、新約聖書には主人と奴隷についての教えも出てきます。たとえば、エフェソの信徒への手紙6章に、その教えがあります。その教えには、奴隷と主人の両方に対しての教えとが記されています。しかし、テモテへの手紙 一 6章1~2節には主人に対する教えはなく、奴隷に向けての教えだけです。なぜ主人に向けての教えがないのかは分かりません。
  1~2節は奴隷に向けての教えですが、その教えの中心は、すべての人に当てはまります。相手を尊敬すること、同じ信仰者だからという理由で相手を軽んじないこと、むしろ、いっそう熱心に仕えるということです。すべての人間関係において、これらの言葉は重要なことです。

  3節からは、教会が宣べ伝えてきた「十字架と復活のキリストとその救いについての教え」に反する教えが入り込もうとしていることへの警告が記されています。
  そのような偽りの教えによって、議論や口論に病みつきになること、そしてそこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じると指摘し、さらに偽りを教える人々は金持ちになろうとして偽りの教えをしているのだというのです。その結果、その教えにより誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥り、その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れると警告するのです。

  ソクラテスの時代から新約聖書の時代まで、ギリシアやローマでは哲学など学問が発達していたことはよく知られていますが、哲学以外の学問も人々から好まれ、特に互いに論争し、相手を言い負かすための弁論術なども発達していました。
  彼らは、自分の知識や教養の高さを示し、多くの人々から報酬を受けました。彼らの教えは、人々から称賛され、報酬を受けるためだったのです。パウロが「金銭を追い求める」と言っているのはそういう理由からです。
  パウロや教会が宣べ伝えていた福音は、人々から称賛されるためでもなければ、報酬を受けるためでもありません。ただ、神から宣べ伝えよと命じられているからなのです。福音を宣べ伝えることについては、人々からの称賛や報酬ではなく、神から「忠実な良い僕だ。よくやった」と喜ばれたいのです。そして、神からの報酬は永遠の命です。この世で得る利得ではなく、パウロはこれを神から恵みとして与えられる利得と言うのです。
  ここで、注意しておきたいのは、経済的な豊かさを否定しているのではないということです。すべては神が恵みとして与えてくださるので、それで満足しなさいと言っているのです。その結果、経済的に豊かになることはあるでしょうし、その豊かさは神からの恵みとして感謝して生活すればよいのです。経済的豊かになることを目的として、神の言葉を利用してはならないと警戒せよと警告しているのです。パウロはそれを「金銭の欲」であり、「すべての悪の根」だと言うのです。
  パウロは金銭の欲を捨て、金銭を追い求めることを止めよと言い、むしろ、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めよと勧めます。その一つ一つは抽象的な言い方ですが、一言で言うならば、神が喜ばれるような生き方をしなさいということです。6章1~2節で言われていた「相手を尊敬すること、同じ信仰者だからという理由で相手を軽んじないこと、むしろ、いっそう熱心に仕えること」です。神を通して相手を見ることが大切なのです。神を通して見る時、神をさしおいてわがままになったり、相手を見下すことはあり得ないことです。
  このような生き方はむつかしいかもしれません。パウロもそのことをよくわかっています。だからこそ、それを「信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい」と言うのです。「戦い」という言葉を使わざる得ないほどに、このような生き方はむつかしいのです。イエス・キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教え、パウロも「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはならない」(ローマ12:14)と教え、さらに「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされている」(Ⅰコリント4:11~13)と、自らの体験を語っています。
  これらの言葉を聞くと、なかなか困難なことだと思わずにはいられません。パウロが信仰の戦いと言っているのは、誰かと戦うというのではなく、自分との戦いだということがわかります。復讐したい、見返してやりたいという自分の心にある欲求と戦うのです。この戦いは、神に祈ることによって、はじめて戦い抜くことができるのです。神はそのような祈りに応えてくださいます。私たちに永遠の命を与えることは、あらかじめ神が定めてくださっているからです。ですから、そのためにふさわしく生きることができるように、神が私たちを守り、導いてくださいますし、そうする力を与えてくださるのです。神を信頼し、祈り、生活しましょう。

「新しい人を身に着けなさい」 2023年9月17日の礼拝

2023年10月23日 | 2023年度
イザヤ書43章19節(日本聖書協会「新共同訳」)

 見よ、新しいことをわたしは行う。
 今や、それは芽生えている。
 あなたたちはそれを悟らないのか。
 わたしは荒れ野に道を敷き
 砂漠に大河を流れさせる。


コロサイの信徒への手紙3章12~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。


  コロサイの信徒への手紙2~3章では、キリスト者の生活について教えられています。その教えの鍵となる言葉は2章12節の「(キリストの名による)洗礼によって、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた」という言葉です。そしてそれは「キリストに結ばれている」(2:6)ということです。それを踏まえて3章10節で「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」と教えられています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」は、他の聖書の個所で「キリストを身にまとう」(ローマ13:14)と表現されています。
  洗礼を受ける時、それは私たちに罪がなくなったから洗礼を受けたというのではありません。罪人であるその時に義とされ、洗礼を受けたのです。パウロは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)と言い、「(神は)イエスを信じる者を義とする」(ローマ3:26)とも言うのです。すなわち、「罪赦された罪人」ということで、宗教改革者マルチン・ルターはこれを「罪人にして、同時に義人」という言い方をしました。罪人という面と義人という面との両方を持っているということです。それはパウロの言葉で言うならば「キリストを身にまとっている」ということです。
  キリストを身にまとうというのは、外から見るとキリストによって義とされており、しかしその内面は罪人ということです。誤解を恐れずに言うならば、罪人がキリストをまとうことにより、キリストの姿を装っているということです。
  しかし、これで終わりではありません。コロサイ書は「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」(3:10)と教えています。すなわち、キリストをまとった罪人である私たちは、その内側で日々新たにされていくのです。キリストの姿にふさわしい者へと変えられていくのです。これを「聖化」と言います。
  キリストをまとった私たちは、日々新しくされ、聖化の道を歩みます。地上にある間、聖化が完成することはありません。しかし、聖化の歩みはすでに始まっているのです。コロサイ書3章12~17節で語られているのは、その聖化の道を歩んでいる私たちがどのように生活をすべきかを示しているのです。12節では私たちが心掛けるべきことが、13節では私たちが互いにどのように交わりを持つべきか、14~15節では愛と平和が私たちの心を支配するようにと、16節でキリストの言葉が私たちの内で豊かに宿るようにし、感謝して神を礼拝することを、そして、17節で以上をまとめるように「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」と勧められています。
  先ほど、私たちが地上にある間、聖化が完成することはないと言いましたが、それが完成するのは終末の時で、キリストの再臨の時です。そのことについてパウロは「わたしたちは皆、・・・主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく」(Ⅱコリント3:18)、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられる」(Ⅰコリント15:52)と告げています。この時、私たちの聖化が完成し、神の国に凱旋することになるのです。


「キリストの十字架のみを誇る」 2023年9月10日の礼拝

2023年10月16日 | 2023年度
エゼキエル書9章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。

ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
  これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
  兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。



  ガラテヤは、今のトルコの中央部にある地域で、パウロが伝道し、いくつかの教会が立ちました。パウロが離れた後、割礼を強調する人々がやって来て、ガラテヤの諸教会もその主張に惑わされていました。
  パウロは5章6節で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記しています。「割礼の有無は問題ではない」という言葉は今日の6章15節にも出てきました。割礼を行っても行わなくてもどちらでもよいということです。パウロには割礼を断固否定するというイメージがありますが、そうではありません。実際、テモテという若者に割礼を施したこと(使徒言行録16:3)があります。
  パウロがガラテヤ書で問題にしているのは、割礼を強要する人々のことです。彼らの主張は、「イエス・キリストを信じているだけでは救われない。割礼を受けなければならない」ということでした。パウロは「キリストを信じるだけで救われるのであって、割礼は救われるための絶対条件ではない」と主張しているのです。
  割礼は、神がアブラハムに神の民のしるしとして行うようにと命じた大切なことです。ユダヤ人にとって、これはないがしろにできないことでした。しかし、割礼はしるしであって、救いそのものではありません。
  割礼は、神の民であることのしるしです。ユダヤ人は割礼を身に受けていることにより、神の民の一員としての自覚を持つことができました。そして、自分たちは神に選ばれているという選民思想を持つようになりましたが、それはやがてユダヤ人以外の人々を選ばれていない、救いから外されているというように見下していくことにもなっていったのです。
  神が選んだ神の民ユダヤ人の中にキリストが現れ、神がユダヤ人を選んだ目的が達成されました。そのキリストが現れたのは、ユダヤ人だけでなく、すべての人々を救うという神の計画を成就するためでした。この計画はユダヤ人の最初の先祖アブラハムが選ばれた時(創世記12:2~3)から明らかにされていました。割礼はユダヤ人が神の民のしるしであり、神の民はキリストが神の真の救いであることを示すはずでした。そのキリストが現れた以上、ユダヤ人の神の民としての役割と神の民のしるしである割礼の役目は終了したのです。ですから、パウロは割礼を否定はしませんでしたが、「割礼の有無は問題ではない」と言ったのです。むしろ大切なのは「キリスト・イエスに結ばれている」(5:6)ことなのです。
  さて、「しるし」ということでは、キリスト教会が行う「洗礼」もまたキリストに結ばれている「しるし」(ローマ6:3~11)です。この「しるし」を受けている私たちは、自分がキリストに結ばれ、救われているという自覚を与えられています。目には見えませんが、神から与えられているこの「しるし」はカインに与えられた「しるし」(創世記4:15)、エゼキエル9:1~6の「しるし」で、救いを保証しています。この「しるし」は誰にも消すことができません。パウロが「私はイエスの焼き印を身に受けている」と誇らしげに語るのも、それが理由です。
  ヨハネ黙示録には、神の刻印を受け救われる人々(7:2~8、9:4)と獣の刻印を受け滅ぼされる人々(13~19章)のことがでてきます。ここでの神の刻印とは、キリストに結ばれていること示す「しるし」、キリストの名による洗礼です。自分がこの「しるし」を身に受けていることを自覚し、歩みを続けましょう。


「神からの誉れを求める」 2023年9月3日の礼拝

2023年10月02日 | 2023年度
箴言25章2節(日本聖書協会「新共同訳」)

 ことを隠すのは神の誉れ
 ことを極めるのは王の誉れ。


コリントの信徒への手紙 二 11章7~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。
  わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。




  コリントの教会に宛てたパウロの手紙を見ると、次々と問題が起こっていたことがわかります。第二コリント11章で扱われている問題は、パウロが宣べ伝えた福音とは異なることを教える人々がやって来たことでした。
  その人々は、自らを「大使徒」(11:5)と称していたらしく、あたかもパウロよりも優れた使徒であるかのように偽り、報酬を受けていたのです。
  伝道する人が、報酬を受けてはならないということではありません。ただ、パウロはコリントで伝道していた時、他の教会の人々から援助を受けて(11:7~9)、コリントの教会からはなにも受けていませんでした。コリントの教会への配慮からでした。問題なのは、無報酬で働いていたパウロを、それを根拠にパウロの教えには価値がないと、偽りを教えていた人々がコリントの教会の人々を惑わしていたことです。「素晴らしい知恵や教えには、それに見合う高い報酬を支払うべきで、それを受けないということは、自ら自分の教えには価値がないと言っているようなものだ。だから、パウロの教えには価値はない」と言っていたのでしょう。
  それに対しパウロは、自分が宣べ伝えた福音は、人間から受ける報酬によって価値が決まるのではない、と主張します。それが真実に神から託されたメッセージであるというところに、真の価値があるというのです。偽りを教える人々の考えと、全く違うのです。聴衆によって高く評価され、それに見合う報酬を得るならば、それが語った教えの価値を示していると、偽使徒たちは考えているのです。
  パウロは以前コリントの教会に送った手紙で「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えている」(Ⅰコリント1:23)と言い、これこそ「神の力、神の知恵であるキリスト」(Ⅰコリント1:24)だと強く主張するのです。さらには、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めている」(Ⅰコリント2:2)とまで言うのです。なぜなら、十字架のキリスト、それは復活のキリストでもあるわけですが、このキリストを信じる者を救うことと神は定めたからです。
  パウロは、神からこの十字架と復活のキリストを宣べ伝えるために使徒に立てられました。それ故、人から高く評価されることを求めてこなかったし、報酬を受けようとも思わなかったのです。パウロにとって、十字架と復活のキリストによる救いという福音を神から託されている故に、その神に喜んでいただくことが、なにものにも代えがたい貴い報酬なのです。


「互いに相手を受け入れなさい」 2023年8月27日の礼拝

2023年09月25日 | 2023年度
出エジプト記23章10~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
  あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
  わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。

ローマの信徒への手紙14章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。


  ローマ書14章は、教会の中の人間関係が扱われています。1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい」と言われており、その「信仰が弱い人」というのは2節の「弱い人は野菜だけを食べている」人を指していることがわかります。ではなぜ野菜だけを食べている人が弱い人と言われているのでしょうか。実は、これは肉を食べてよいかどうかが問題になっているのです。その事情は、第一コリント書8章と14章に記されています。当時、市場で売られている肉の中には、偶像に供えられてから市場に卸されている肉があったため、今食べている肉が偶像に供えられていた肉かもしれないという心配があったのです。すなわち、知らないうちに偶像に供えられた肉を食べ、偶像崇拝したかもしれないと不安になる人もいました。そして、偶像に供えられた肉を食べないために、一切の肉を食べず野菜だけを食べるという人が出てきたのです。
  パウロは、「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」(Ⅰコリント8:4)と語り、それ故、仮に偶像に供えられた肉を食べたとしても、それで私たちが汚されるわけではない。その肉を食べることで汚されると思い込むのは良心が弱いからだというのです。
  しかし、そのように語ったパウロは、肉を食べる人を貶そうとしているのではありません。肉を食べることで汚されることはないが、肉を食べる人の姿を見て弱い良心を持っている兄弟が躓くことがないようにしなさい、と警告するのです。そして、「すべてのことが許されている。しかしすべてのことが益になるわけではない。・・・自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(Ⅰコリント10:23~24)と話し、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしない」(Ⅰコリント8:13)とまで言うのです。
  大切なことは、自分の信仰の強さを誇ることではありません。「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、神の栄光を現すためにする」(Ⅰコリント)ということです。そのことは、ローマ書でも「食べる人は主のために食べる。・・・食べない人も、主のために食べない」(14:6)と言われています。
  「信仰の弱い人を受け入れなさい」というのは、単に人間関係を良くするためということではなく、神がその人を受け入れているから、ということです。その人を受け入れることは、神が喜ばれることです。神の喜ぶことを第一に考えて生きることです。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(ローマ14:8)と言われているのも、そういう意味です。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ローマ15:7)。それが神の喜ばれることです、とパウロは勧めています。
  「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(Ⅱコリント5:9)と言うパウロの言葉は、私たちみんなが心に願っていることです。教会において、共にキリストに救われた者として互いに受け入れる信仰生活を送りたいものです。