どこかの人が「ふれる」と「さわる」の違いについて述べていた。前者は相互作用であり、後者は一方的である、と。なかなか慧眼であると思う。おしりにふれただけならご愛嬌、でもさわってしまったらお縄頂戴よというわけだ。ちなみに、このブログのタイトルは2つの意味を含んでいる。一つは、私が量子力学に慣れてきて、そのフォーマリズムの中にある柔らかい部分を感じられますように、という意味で、もう一つは量子力学の観測の理論で現れる、観測による波束の収縮に関連する。後者はだんだんと話の中に混ぜていく。
さて、では量子力学の「さわり心地」はどんなもんか。やはり、波動関数は柔らかく、ハイゼンベルグ方程式は角張っている、と思う。見たまんま、である。誰だって(∂/∂x)ψとか見たら柔らかそうだなと思うだろうし、[H,A]という記号を見てソリッドな感じを抱くだろう。まぁこれは見た目の問題ではあるが、それでも数学の標準的な記法によれば、波動関数は区分的に滑らかな関数として記述されるし、演算子は正方行列として記述される。どう考えたって計算する段になっては、この二者の違いを意識せざるを得ない。
で、ここで言いたいのは「定式化とその中身」の関係だ。人間は、たとえ数学や物理のような抽象的議論をしていても、必ずどこかで五感・身体性に訴えながら考察を進めている。これは特に初学者であれば顕著な現象であろう。(プロはもはや自動化しているはずだ。自動車の運転手がハンドルを右に切るとき、意識するのは右方向であり、右回転ではないのと同じだと思う。)だから、柔らかそうな外見を持っていると、それだけで中身まで柔らかそうに見え、逆もまた然り、という風になってしまう。
ところが、ここでつまんない下げが待っている。実は「どっちも中身はおんなじ」なのだ。von Neumannという天才が示した一意性定理によれば、量子力学をある範囲で定式化すれば、どうやっても同じ結論しかえられない、ということになっているのだ。どんな風に違うと感じても、中身が一緒だったらそれは「触れて感じた」とは言えない感情なのかもしれない。しかしそれでも、ヒルベルト空間をシュレディンガー表示すればグニョッとしたもんが入ってる箱を思い浮かべるし、フォック空間にすればそこにさらに毛が生えている(気がする)。そんな感情を抱きながら物理をやることは、個人的意見としてはとても自然に思える。
では、五感に訴えるような定式化が量子力学でなされているか、と問う。私は、「部分的にYES」と答える。なぜならば、もし仮にすべてを「見たままに」、しかも身体性を基盤として理解できるのだとすれば、それはベルの不等式に反するからだ。(実在論では議論できない「本質的な量子現象」が存在と読み替えてもらうといいかもしれない。)実際、もし電子をある位置に見つけてしまったとすれば、その瞬間にそいつの運動量はいくつだかわからないという不確定性がある。こんなものを身体性に基づいて理解できるわけがなかろう。それでも、「位置」や「運動量」というような聞いた風な名前が踊っているのが量子力学であり、それが部分的に、という制限つきの答えの元になっている。
そんな量子の世界に、もっと完全な形でふれたいと思っているのはこの世の中にたくさんいて、物理や数学や化学やニューサイエンスやタオや占星術や…によってアプローチを繰り返している。例えば、加速して物体と物体をぶつけたり、仮想して意見と意見をぶつけたり。
でも僕は思う。これらの方法は、間違いなく量子の棲んでいる世界に「さわって」いて、「ふれて」いない。それは比ゆ的な意味ではなく、真に物理的に。それは、量子力学の大前提「射影仮説」というものから来る。こいつの言っていることはこんなだ。
「もし、あなたが量子的な(とても小さな)世界について知りたいと思ったら、それを壊さなければなりません。しかも、壊れた直後は、あなたがある方法で見たのであれば、その傷跡が明確に(というかその跡しか残らないように)残ります。」
至極最もな仮定で、光を見ることができるかという思考実験から確かに受け入れることができる(私たちがものを見るとき、それに反射した光を見る。ならば光の粒が光の粒に当たって跳ね返ってきたのを”見た”とき、見たと思っていた光の粒はもはやそこにないはずだ。(同じ重さなのだから、反射した光が観測したい光に対してとても大きな影響を与えるから)これは見たといえるのか?)。
で、物理学者が量子系で実験を行うとき、必ず状態を破壊して中身を見る。射影仮説があるからしょうがない、というわけだ。これはまさに、人間が一方的に量子くんにさわっていることに他ならないではないか。
私は量子力学を本質的に理解するためには、何らかの形で射影仮説を破らなければならないのだと思う。これは、あくまで「仮説」であり、観測事実、もっともらしい事実でしかないのだから、射影仮説を除いて今と同じ量子力学を建設し(これがまず難しいと思うが)その中でうまい構成をして量子にふれる方法を探すことができるのではないかと思う。「射影仮説を受け入れるのは実験事実だからだ!」という反論は受け入れられない。なぜなら、射影仮説が成り立つような実験しかしていないからだ。要するに、量子系を破壊するような相互作用しか、我々は知らないという事実でしかない。だからこそ、相対性理論のように「こうすればいいんだよ、簡単じゃないか」と誰かが言ってくれれば、僕らは量子くんにふれ、お友達になれるのかもしれない。射影仮説というのは、まだまだこれから先何十年かで書き換えられるべき仮説なのではないだろうか。
でもさ、こんなことばかり考えていると、気がふれますよ。
さて、では量子力学の「さわり心地」はどんなもんか。やはり、波動関数は柔らかく、ハイゼンベルグ方程式は角張っている、と思う。見たまんま、である。誰だって(∂/∂x)ψとか見たら柔らかそうだなと思うだろうし、[H,A]という記号を見てソリッドな感じを抱くだろう。まぁこれは見た目の問題ではあるが、それでも数学の標準的な記法によれば、波動関数は区分的に滑らかな関数として記述されるし、演算子は正方行列として記述される。どう考えたって計算する段になっては、この二者の違いを意識せざるを得ない。
で、ここで言いたいのは「定式化とその中身」の関係だ。人間は、たとえ数学や物理のような抽象的議論をしていても、必ずどこかで五感・身体性に訴えながら考察を進めている。これは特に初学者であれば顕著な現象であろう。(プロはもはや自動化しているはずだ。自動車の運転手がハンドルを右に切るとき、意識するのは右方向であり、右回転ではないのと同じだと思う。)だから、柔らかそうな外見を持っていると、それだけで中身まで柔らかそうに見え、逆もまた然り、という風になってしまう。
ところが、ここでつまんない下げが待っている。実は「どっちも中身はおんなじ」なのだ。von Neumannという天才が示した一意性定理によれば、量子力学をある範囲で定式化すれば、どうやっても同じ結論しかえられない、ということになっているのだ。どんな風に違うと感じても、中身が一緒だったらそれは「触れて感じた」とは言えない感情なのかもしれない。しかしそれでも、ヒルベルト空間をシュレディンガー表示すればグニョッとしたもんが入ってる箱を思い浮かべるし、フォック空間にすればそこにさらに毛が生えている(気がする)。そんな感情を抱きながら物理をやることは、個人的意見としてはとても自然に思える。
では、五感に訴えるような定式化が量子力学でなされているか、と問う。私は、「部分的にYES」と答える。なぜならば、もし仮にすべてを「見たままに」、しかも身体性を基盤として理解できるのだとすれば、それはベルの不等式に反するからだ。(実在論では議論できない「本質的な量子現象」が存在と読み替えてもらうといいかもしれない。)実際、もし電子をある位置に見つけてしまったとすれば、その瞬間にそいつの運動量はいくつだかわからないという不確定性がある。こんなものを身体性に基づいて理解できるわけがなかろう。それでも、「位置」や「運動量」というような聞いた風な名前が踊っているのが量子力学であり、それが部分的に、という制限つきの答えの元になっている。
そんな量子の世界に、もっと完全な形でふれたいと思っているのはこの世の中にたくさんいて、物理や数学や化学やニューサイエンスやタオや占星術や…によってアプローチを繰り返している。例えば、加速して物体と物体をぶつけたり、仮想して意見と意見をぶつけたり。
でも僕は思う。これらの方法は、間違いなく量子の棲んでいる世界に「さわって」いて、「ふれて」いない。それは比ゆ的な意味ではなく、真に物理的に。それは、量子力学の大前提「射影仮説」というものから来る。こいつの言っていることはこんなだ。
「もし、あなたが量子的な(とても小さな)世界について知りたいと思ったら、それを壊さなければなりません。しかも、壊れた直後は、あなたがある方法で見たのであれば、その傷跡が明確に(というかその跡しか残らないように)残ります。」
至極最もな仮定で、光を見ることができるかという思考実験から確かに受け入れることができる(私たちがものを見るとき、それに反射した光を見る。ならば光の粒が光の粒に当たって跳ね返ってきたのを”見た”とき、見たと思っていた光の粒はもはやそこにないはずだ。(同じ重さなのだから、反射した光が観測したい光に対してとても大きな影響を与えるから)これは見たといえるのか?)。
で、物理学者が量子系で実験を行うとき、必ず状態を破壊して中身を見る。射影仮説があるからしょうがない、というわけだ。これはまさに、人間が一方的に量子くんにさわっていることに他ならないではないか。
私は量子力学を本質的に理解するためには、何らかの形で射影仮説を破らなければならないのだと思う。これは、あくまで「仮説」であり、観測事実、もっともらしい事実でしかないのだから、射影仮説を除いて今と同じ量子力学を建設し(これがまず難しいと思うが)その中でうまい構成をして量子にふれる方法を探すことができるのではないかと思う。「射影仮説を受け入れるのは実験事実だからだ!」という反論は受け入れられない。なぜなら、射影仮説が成り立つような実験しかしていないからだ。要するに、量子系を破壊するような相互作用しか、我々は知らないという事実でしかない。だからこそ、相対性理論のように「こうすればいいんだよ、簡単じゃないか」と誰かが言ってくれれば、僕らは量子くんにふれ、お友達になれるのかもしれない。射影仮説というのは、まだまだこれから先何十年かで書き換えられるべき仮説なのではないだろうか。
でもさ、こんなことばかり考えていると、気がふれますよ。
これで若干知名度が上がる・・・か?
量子力学の基礎について真面目に勉強するのならとりあえず清水 明「量子論の基礎」をお勧めします。量子論の本なのに特殊関数が出てこない!という徹底した基礎思考の本です。私はこの本およびこの本の著者と、大学二年のとき出会えてよかったなぁと思っています。
今になってみると、二年の時の授業からいろんなことを学んだなぁ、と思う。その後の授業って、私にとって脚注でしかなかったような気がしてきます、という思い出話。