シュタイナーの神智学と因縁説 2015・2・18
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2012年10月18日のブログに次のようにある:
”袖すりあうも他生の縁”は場所にも言えると思う。
世界で南米、北欧、日本、ヒマラヤの4か所に地球の地下王国である、
魔王の国の入り口があると”鞍馬山歳時記”に書かれている。
実際、地球の内部にあるかもしれない世界を考えると、とても神秘的だ。
フランスの19世紀後半空想科学小説家の開祖といわれる、 ジュール・ヴェルヌ も ”地底旅行”という題名で、地下世界について書いている。
UFOは宇宙から飛んでくると思っている方が多いが、基地は地球の内部にあると
いう説もある。
魔界かどうかは別として、確かに、地球の内部にそうして世界が広がっている
可能性は全くゼロではないと思う。
先週のブログ”鶴川の秋”にも書いたように、ヒマラヤはシバ神の故郷である。
そのヒマラヤにも地底世界へと続く入り口があると、鞍馬山・初代管主が
書かれているのは興味深い。
密教修験者が鞍馬山を目指したように、シバ神を信仰する修行者はヒマラヤ
を目指す。
ヒマラヤと鞍馬山、護法魔王尊とシバ神、そして御不動様と護法のお役目、など
など考えながら、鞍馬山に漂う霊気を想いだしていた。 ”
鞍馬山には,ここのところしばらくご無沙汰している。
シバ神の聖地 ガンジス河にはデリーに毎年行くたびに訪れる機会はあった。
そしていよいよ、今年、3月にはヒマラヤに行けたらと思うのである。
袖刷りあうも他生の縁 ~ 人が住むところ、訪れるところ、心ひかれる場所
などはきっと、前生に何か所縁のある、今世の魂が、まだ過去生の記憶を
潜在意識の奥底に残している場所に違いない。
インドに15年住み、そこで自分のアイデンティティーを発見できた私にとっては、やはり、切っても切れないなにかが 印度大地に介在している。
何が起こるか、誰と会うのか?
また皆様にレポートを投稿できれば、幸いだ。
他生の縁を知りたくて、人は、前生のチャンネリングや退行催眠術などで
生まれる前の意識、本能的に惹かれる。
もしかしたら 過去の自分はドラマティックに生きたのかもしれない。
勇敢な武士で戦に名をはせたのかもしれないし、歴史を動かした人達の仲間
だったのかもしれない。
実際、小説”王子と乞食”(*1)のような体験を人は繰り返しているようだ。
今生では 五感の意のままに、放蕩に近い意識をもって快楽を楽しむ人が
実は、前生では ストイックな戒律に一生をささげた人であることも珍しく
ない。
逆もまた真なりで、こうして、人は幅広い体験を積み重ねながら、何代も生まれ
かわる中で、欠けている要素(奔放だったり、ストイックな生活だったり)を
欲して、欲したままにその舞台を演じきる。
今世で有能なビジネスマンは、来世では、子供たちを相手にして、教師に・・・今、大家族で家事にてんてこ舞いの主婦は、その前の生では、カリスマ的な存在で、人も寄せ付けないほどの、目に見えないバリアとともに、孤独で生涯を通したのかもしれない。
これを一般的には、カルマの法則とか因縁の法則とかいうらしい。
カルマの法則は、仏教的観念では受け入れられても、西洋のキリスト教世界では
認められていないと長い間、思っていた。
なぜなら、人は死んだら、神の審判を受けるまで、眠り続けると教えられている
からだ。
ところが、シュタイナーという教育者としても有名な哲学者は”因縁説”を徹底的
に受け入れていることを知り興味をもった。
著書(*1)から一節を引用する:
”うちにあるものは、外にあらわれなくてはならない。
カルマの結果が現れるのなら人間は常に高次元に進化し合ていく。”
”多くの人々が、若くして、あるいは子供のうちに死ぬことは、どのような
カルマ的問題があるのだろうか?
神智学には良く知られた次のような例がある。
早く死んだ子供につして、前世との関連で探究することができる。
前世において、その子はほんとうによい素質を持ち、人間社会の有能な一員で
あった。
しかし、やや病弱だった。
弱視のために正確に見ることができなかったので、その子の経験は特殊な色合い
をおびた。
弱視でなかったら、すべてをもっとよく成し遂げることができたはずだった。
弱視のために、才能を十分に発揮することができなかった。
もし、よい視力を持っていたら、非常に大きなことを、成し遂げていた
はずなのである。
その子は死に、その後、まもなく、善い母を持って生まれるか、数週間しか
生きることができない。
しかしこの短い生をとおして、いかに人は健康な日を得るかを、その子の構成
要素は経験する。
自分に欠けていたものを得るために短い人生を生き、前世を改めるのである。
両親の悲しみは、埋め合わされる。
両親は、この子が前世を改めるための道具にならなければならなかったのである。”
この短い一節では、シュタイナーの意図したことが十分に表現されていないか
もしれない。
アンダーラインの部分、自分に欠けていたものを得るために、人は今世を生きて
いるというのは事実のようだ。
それがなんであるかは、一人ひとり異なるだろう。
そして、その目的を果たすために、協力してくれる人達が身の回りの家族で
あり友人でもある。
だからシュタイナーは次のように言葉をすすめる:
”それでは どのようにして、カルマは埋め合わされるのだろうか?
誰かが他の誰かに何かをしたら、その二人の間でカルマの清算がなされなくては
ならない。
そのためには、当事者が再び同じ時代に生きなければならない。”
そして かなり極端でもあり、わかりやすい例をシュタイナーは挙げている:
”例を挙げてみよう。
神智学では良く知られた例である。
ある人が5人の裁判官から死刑を宣告された。
何があったのだろうか?
この人物は前世で この5人の裁判官を殺したのである。
そして、カルマの力がこの6人の人々を カルマを清算させるために出会わせた
のである。”
そろそろ、このカルマの世界を卒業したい。
”為せば為され、為されれば、為すと”いう、”欲界”、もしくは、”現象界”は
いはば ”目には目を”の世界でもある。
国と国との戦争もこのカルマに支配され、一個人の軋轢(あつれき)も、前世の
カルマに影響を受けている。
”病気”もまた、このカルマの延長線上にある。
カルマの世界を そろそろ卒業したい。
それは死を意味するのではなく、生きながらにして超越も可能らしい。
そのためには、真の自分を見出すほか、ほかに道はない~と大師たちは言う。
仏教思想に影響を受けて育ったことのないシュタイナーは、”カルマとなる因”が
あるから縁を機に、その結果が生じて心身に苦楽悲悩が生まれるという。
だとしたら、やはり、今からでも、過去生の因縁にとらわれない心持で
新しい自分自分の持つ隠れた可能性と見えない本性(仏性)に舵を合わせて
毎日生きていたい。
執着を持つなと言われる。
過去の自分の行為やその行為の代償、心象、などが自分の潜在的記憶にしっかり
と残る。
それに対する執着を意識して切って行かない限り、前を見て新しい自分を発見
することは難しいだろう。
*1)『王子と乞食』
(おうじとこじき、The Prince and The Pauper)
アメリカの作家マーク・トウェインが
1881年に発表した児童文学作品である。
実在の若き国王エドワード6世を主人公とした
冒険譚で、トウェインはこの作品を通して、
子どもの視点で16世紀のイングランドの世情を痛烈に皮肉った。
なお、題名の「乞食」が差別用語に当たるとして、
近年の日本語訳では「こじき」と平仮名表記したり、
『王子と少年』としたりする例も存在する。
(昭和2年)村岡花子により
『王子と乞食』の邦題で平凡社から公刊された。
(ウイキペディアより掲載)
*2”神智学の門前にて”2003年、ルドルフシュタイナー
西川隆徳範訳 イザラ書房