"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

“泥を肥やしに咲く花”

2011-08-22 07:38:25 | 日記

 致知出版社「人間力メルマガ」よりです。 
 
http://www.chichi.co.jp/monthly/201109_words.html


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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/21】 致知出版社編集部 発行
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本日は『致知』の人気連載コーナー「致知随想」の中から、
特に反響の多かった記事をセレクトしてご紹介します。

本日は、2009年3月号に掲載されて反響を呼び、
以前、人間力メルマガでもご紹介した
浄名寺副住職・松原紗蓮(しょうれん)さんの
随想をお届けします。

なお、現在発行中の『致知』9月号随想に、
紗蓮さんの師にあたる松原宝蓮(ほうれん)さんの
記事が掲載されています。ぜひ合わせてお読みください。


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■「致知随想」ベストセレクション 
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      「泥を肥やしに咲く花」
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


             松原紗蓮(浄名寺副住職)
                         『致知』2009年3月号「致知随想」

                ※肩書きは『致知』掲載当時のものです


…………………………………………………………………………………………………


 私が愛知県西尾市にある浄名寺に預けられたのは、
 2歳7か月の時です。

 幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、
 親代わりの庵主様や、世間様の
 「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。

 同級生からはその逆に、お寺の子であることや、
 実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを受けてきましたが
 「どんな時も前向きでいよ」という庵主様の教えを守り、
 泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら幼少期を過ごしました。


          * *


 張り詰めていた神経の糸が切れたのは、中学2年の時です。

 役所に、ある書類を提出する際、庵主様から
 「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。

 聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が再婚する際、
 娘の私をお寺へ預けたというのです。

 自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。

 一体何を信じて生きてきたのだろう?

 事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。


 そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、
 髪の毛を金色に染めて、耳にピアスの穴を開け、
 あらゆるものに歯向かい、強がって見せることでした。

 暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。
 14歳で手を出した薬物はその後7年間、
 1日としてやむことがなく、私など消えてしまえ、
 という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。

 心配をした庵主様は、私が20歳になった時に
 「最後の賭け」に出たといいます。
 私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、
 そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。

 金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は訳が分からず、
 初めのうちは反発ばかりして叱られ通しでした。

 ところが10日目を過ぎた頃、
 教科書に書かれてある仏様の教えが、
 読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと
 重なることに気づいたのです。


 例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。
 私がグレていた7年間、普通の親であれば
 間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、
 庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。
 それは親心を越えた、仏様の心というものでした。


 また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、

 「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物
  すべてを取り払っても、内から輝けるようになりなさい」

 と言われました。人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、
 初めて自分にとっての大事なものが見え、
 本当の生き方ができるようになるのだというのです。

 私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。

 庵主様はお洒落もしなければ、
 食べる物にお金を掛けたりもしない簡素な暮らしで、
 他の楽しみに時間を使うこともなかった。

 ではその分、一体何に時間を使っていたか。
 そう考えた時に、庵主様はすべての時間を
 「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。


 私の思いの至らなかった陰の部分では、
 どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、
 御仏の光に照らされ、初めて親のお陰、
 世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。

 そして教科書を読み進めれば進めるほど、
 止めどもなく涙が溢れてきました。

 修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、
 なぜ私を叱ったり、本当の気持ちを
 聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、
 庵主様は


 「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。
  ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、
  かえって反発を生むだけだった。

  いまおまえが分かるということは、
  おまえに分かる時がきたということだ。
  仏道は待ちて熟さん」


 とお話しになりました。

 庵主様には1つの願心があり、
 私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙って
 この子を見守ろうと決めたのだといいます。
 そして自らには、何があっても
 「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。

 私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた
 孫悟空のようなもので、
 自ら命を絶とうと人生に背を向けていましたが、
 どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。
 
 庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、
 私はその大きな大きな慈悲の中に
 生かされていたのだと知ったのです。

     * *

 23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に
 「紗蓮」という法名をいただきました。
 後にある方から


 「美しい蓮(はす)の花は、
  泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。
  人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、
  その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」


 と教わりました。
 振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、
 私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。

 今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、
 市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの
 自立支援相談や講演活動を行ったりしています。

 非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。
 けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。
 人一倍光るようになるよ、この子たちは――。
 私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。

(転載以上)



“10年間は黙って
 この子を見守ろうと決めたのだといいます。
 そして自らには、何があっても
 「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。”

1日でも、1週間でも、1ヶ月でもなく、1年でもない、10年間黙って見守ること、自分にできるだろうか、と思います。


紗蓮さん、素晴らしい名前ですね。

「泥を肥やしに咲く花」になるために、一体どれだけ過酷な人生を歩んで来られたのでしょうか。

そして、もしこのような人生を自ら選んで来られたのだとしたら・・・。

きっと乗り越えられるという自分への信頼・・・。



その思いを考えると思わず目頭が熱くなります。


“運とは天から授かるもの、縁は自分からつくるもの”

2011-08-22 07:29:15 | 日記

致知出版社「人間力メルマガ」よりです。


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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/20】 致知出版社編集部 発行
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   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』より
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。

       * *

   メリヤス卸問屋の3代目として戦後、身を起こし、
   昭和30年に「サン モトヤマ」を設立。
   グッチ、エルメス、ロエベなど、一流ブランドの
   輸入販売を手掛け、日本に世界の文化をいち早く紹介してこられた
   茂登山長市郎(もとやま・ちょういちろう)氏のお話をご紹介します。


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        「人生は運と縁の二つで決まる」
       
       
            茂登山長市郎(サン モトヤマ会長)
        
            『致知』2011年9月号
             連載「20代をどう生きるか」より



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 私は今年の秋で満九十歳になるが、
 人生というものは「運」と「縁」の二つに尽きると
 最近になってつくづく思うようになった。

 運とは天から授かるもので、縁は自分からつくるものだ。
 煎じ詰めれば所詮、人生は誰に会ったか、誰と会えたかで
 決まってしまうと言っても過言ではない。

 私が茂登山家の商人の子として生まれたというのも運。
 戦争へ行った先で天津の街を見、
 ヨーロッパの文化に初めて触れられたのも運。

 戦地では五年間を過ごし、一時は野戦の病院で
 三十四キロにまで体重が落ちるなど、
 いつ死んでもおかしくない状態に陥ったこともあったが、
 奇跡的に立ち直り、再び野戦に戻っていった。
 これもまた運の一つ。

 復員した時に父が焼け野原の東京の有楽町駅前で
 店を続けてくれていたことは最大の運だが、
 しかもそれが有楽町の当時アメリカ村といわれた場所で
 外国人と直に会うチャンスがあったということも。

 一方で、有楽町の毎日新聞社の中で
 仕事をしていた報道写真家の名取洋之助さんに
 お会いすることができた。

 私はお会いするなり、これは大変な人だと思い、
 名取さんを尊敬し、この人から何でも得ようと思って、
 いろんなことを一所懸命に勉強した。
 これは自分からつくった縁。
 
 しかしよく考えてみると名取さんに会えたこと自体、
 有楽町にいたからという運なのかもしれない。

 つまり運と縁とは、表裏一体のものであると思う。
 天から授かった運をいかに掴むか、
 それをどれだけ感謝していただくか。
 
 そしてその運を生かすために、
 縁をどのように自らがつくっていくかが
 人生の決め手であると思う。

         
        * *


 僧侶であり作家でもあった今東光(こん・とうこう)先生も
 また私のことをよく可愛がってくださったが、
 ある時こんな話をしてくださったことがある。


 「長公、人間ってものは一番おもしろい動物なんだぞ。
  人間は美しいものが分かる。美しいものがつくり出せる。
  絵でも彫刻でも小説でも、あらゆる美というものをつくり出せる。
  美に遊べる唯一の動物なんだ。

  その人間に興味を持たなきゃダメだ。
  人間を好きにならなきゃ人生はつまらないものだぞ」
  
  
 今先生はいつも「人との出会いを大切にしなさい」と
 言われていた。そこからまた運も縁も生まれてくるのだと。

 いまの人は「自分は月給をもらっているから働いているんだ」
 という傾向が強く、言われたことだけは完璧にやる、
 という人が多いように見受けられる。
 
 しかし月給をもらっているのであれば、
 言われたことを百%やるのは当たり前のことだし、
 それは義務というものだろう。

 本当に自分が運と縁とを勝ち取ろうと思えば、
 人に言われないことをする。
 そしてあらゆることに感謝の気持ちを持つこと。
 
 これが天から運を授かり、それに続く縁と
 そのまた次の運をつくり出していくことに
 繋がるのではないかと私は感じている。

(転載以上)


 

“運とは天から授かるもので、縁は自分からつくるものだ。”

 

確かに“縁”とは自分でつくるものかも知れませんね。

そして、“縁”を自分でつくることによって、天から授かる“運”も変化していくような気がします。

とすると、“縁”と“運”は、分かちがたい、車の両輪のようなものなのかも知れません。

 


“夢とは実現すること、ロマンとは継続すること”

2011-08-22 07:25:22 | 日記

「致知一日一言」よりです。

 

「致知一日一言」読者の皆さま

本日は夏の甲子園大会決勝が行われました。

高校球児たちの全力プレーは多くの子供たちに夢を与えてくれたことでしょう。

本日、ご紹介するお二方もまた、宇宙開発を通して多くの人々に夢と希望を与えています。

東大阪の町工場でありながら人工衛星の開発を成功させたアオキ社長・青木豊彦氏と

本業の傍ら子供たちに諦めない大切さを伝えるためロケット開発に挑み続ける植松電機専務・植松努氏の対談記事を一部ご紹介します。

(2011年9月号「生気湧出」より)

 * * *

【青木】よく夢とロマンという言い方をするんだけと、僕は「夢とは実現すること、ロマンとは継続」と思っています。

【植松】夢というのは自分で大好きなことをやってみたいという思いでしょうね。だったらやったらいい。それだけの話です。

大好きなことをしっかり持つには感動が一番です。「やってみたい」「すごい」という心があれば、夢はいくらでも見つかると思いますよ。

でも、その時にできない理由をいくつも思いついてしまうんですね。そして、そのできない理由すら考えなくなる最悪の言葉が「どうせ無理」なんです。

この言葉が人間の脳波を止めてしまう。思考が止まると楽ですが、それだと何も始まらない。

【青木】当たり前やけど、何事も前向きで明るくなかったら物事はうまく運ばないと思いますね。諦めてしまったらおしまいなんですよ。

第一、「どうせ無理」と塞ぎ込んでばかりいたら元気なんか出えしまへんがな。

皆が明るい言葉を使えば、必ず元気になるし、国内に生気が漲ってくる。

その意味でも大阪人の明るさ、情熱といったものを全国に伝えたいと思っているんです。

【植松】僕は「どうせ無理」という言葉が大嫌いです。

この言葉が人の可能性を奪い、その連鎖が正しくて優しくて弱い子供たちに向かうと知っていますからね。

「どうせ無理」という言葉をこの世からなくしたい一念で宇宙開発をしています。

(転載以上)



“夢とは実現すること、ロマンとは継続すること”

夢を現実に変える魔法のような言葉ですね。

 

とは言え、その過程には様々なことがあるでしょう。

だからこそ、この言葉が、情熱を燃やし続け、前に進んでいくエネルギーとなり続けるのだと思います。


“否定もまた、ポジティブシンキング”

2011-08-19 05:09:59 | 日記

致知一日一言シリーズよりです。

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

        「偉人たちの一日一言」
 
       〜致知出版社が贈る人生を養う言葉〜
                       発行 (株)致知出版社
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 今日の言葉  2011年8月18日(木)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――

【否定の価値】 

そもそも精神というものは、
それが真に伸びるためには、
必ずや何らかの意味において、
一種の否定を通らねばなりません。

すなわち、
この否定という浄化作用、
すなわち自己反省というものを通らずに伸びたのは、
精神としては真に伸びたのではなくて、
かえって度のすぎたものとして、
結局欠点になるわけです。

                   『「修身教授録」一日一言』より

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

またまた、厳しい言葉ですね。

真実だということがわかるので、厳しく感じるのかも知れません。

曽野綾子さんの日本の“ものづくり”にも共通する発想だと思います。


ポジティブシンキングという言葉の中で、何かを“否定”することはよくない、という風潮があるように思います。

しかし、それが未来に繋がるものであれば、“否定”もまた、ポジティブシンキングであり素晴らしいことなのだ、ということが再認識されます。


“曽野綾子さん、職人国家の日本”

2011-08-19 04:26:14 | 日記

致知出版社の「人間力メルマガ」よりです。

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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/18】 致知出版社編集部 発行
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   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』より
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。

       * *

   本日は、現在発行中の『致知』9月号より、
   高齢者に自立の大切さを説いた『老いの才覚』が
   ベストセラーになっている作家・
   曽野綾子氏のお話をご紹介いたします。

 
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       「日本は技術国家、職人国家たれ」
       
       
            曽野綾子(作家)
        
            『致知』2011年9月号
             特集「生気湧出」より
            
http://www.chichi.co.jp/monthly/201109_pickup.html#pick2

                  ※クライン孝子氏との対談記事より


────────────────────────────────────

【曽野氏】

  私自身は日本人の持つ素質に
  まったく絶望していないんですよ。
  
  しかしただ一つだけ危惧することがあるんです。
  私は以前にも世界の国家は
   「政治国家・経済国家・技術国家」の三つに分かれる
  と述べたことがあるんですが、
  日本はやはり技術国家、職人国家だと思うんです。
   
  この技術国家は強くて、最後まで生き抜く力がある。

 けれどもそのために必要な職人精神が
 日本から徐々に失われつつある。
 これが一番の心配です。
 
 例えばソニーが技術以外の分野で商売をしようとして
 事業を失敗したでしょう。
 技術メーカーは技術一筋で取り組むべきなんです。
 
 小説家なら小説だけやればいいんです。
 他のことを考えるとダラクするの。


 いま日本の陶器は本当に売れなくなった。
 その理由は、まず家で料理をしなくなったこと。
 そして買ってきたお惣菜をそのまんま出して食べる。
 
 家で料理をしないことは、非常に大きな技術の崩壊であり、
 家庭の崩壊の始まりだと私は思うんです。

 この間、お箸を作っている職人さんの話をテレビで見ました。
 お箸って真っ直ぐなものだと思っていたら
 わずかに反らすんですって。
 
 そうすると汚れた箸先がテーブル面に付かずに済む。
 そういう卓越した技術力がほんの僅かな誤差も
 許さないコンピュータチップの開発などへ
 繋がってくるんですね。

 いずれにせよ、技術国家は
 何があっても守らなきゃいけません。
 私たちにとって最後の砦ですから。
 
 日本は政治大国にも経済大国にもなりようがない。
 またそんなものにならなくてもいいんです。



【クライン氏】

 日本はいつの間にか、
 サラリーマン大国になってしまいましたからね。



【曽野氏】

 サラリーマンというのは、時間単位で
 賃金を得る労働者なんです。
 しかし職人の世界は、一つの仕事に掛かる時間を
 まったく問題にしない成果主義。
 
 アマとプロとのはっきりした違いはここですよ。

 例えば原稿用紙十枚の短編が二時間で書き上がることがある。
 一方、同じ枚数を書くのにいろんな取材をして資料を集め、
 一か月掛かることもある。
 
 だからといって私は出版社に
 「その分、原稿料を高くしてください」と言うことはない。
 時間単位で働くのではなく、
 自分自身の仕事に一心に懸けていくのが職人の世界。
 
 かつての日本人はそういう姿勢で自分の仕事に取り組み、
 その精神が技術大国日本を支えてきたんですね。
  ⇒ 
http://www.chichi.co.jp/monthly/201109_pickup.html#pick2

────────────────────────────────────(以上)


“日本はやはり技術国家、職人国家だと思うんです。
   
  この技術国家は強くて、最後まで生き抜く力がある。”


海外に住んでいると、日本人のものづくりにおける決して妥協しない精神は、世界的に際立っていることがよくわかります。

今回の震災で、東北の生産が止まってしまうことによって、世界中の生産活動に影響が出てしまいました。

それは顕著な表れだと思います。

簡単にマネすることの出来ない、日本の貴重な財産です。


“サラリーマンというのは、時間単位で
 賃金を得る労働者なんです。
 しかし職人の世界は、一つの仕事に掛かる時間を
 まったく問題にしない成果主義。”

たとえ完成したものであっても自分で満足出来ないものは、どんどん壊してしまう。

自分自身に厳しい基準を設けて、その基準に達したものだけが、作品として残っていく。

サラーリーマン的な時間の概念とも相容れない世界ですね。

“プロとアマのはっきりした違い”という説明、わかりやすいですね。 

プロ精神、自分が主体であるからこそ出来ることだと思います。


“人は生きてきたように死んでいく”

2011-08-18 05:51:15 | 日記

致知出版社の「人間力メルマガ」よりです。 


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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/17】 致知出版社編集部 発行
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   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』より
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。

       * *

   本日は、ホスピスケアの第一人者として、
   これまで二千五百名もの患者を看取り、
   生きる意味を追求し続けてこられた
   金城学院大学学長・柏木哲夫氏のお話を
   ご紹介いたします。

 
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       「人は生きてきたように死んでいく」
       
       
            柏木哲夫(金城学院大学学長)
        
            『致知』2008年1月号
             特集「健体康心」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。


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(これまでに二千五百名もの方を看取られてきて、
 何か発見されたことはありますか? の質問に)
 
 人は生きてきたように死んでいくということです。
 これは私の実感ですね。

 ですから、しっかり生きてきた人は
 しっかり亡くなっていかれますし、
 表現はおかしいけれども
 ベタベタ生きてきた人はベタベタ亡くなっていく。
 
 それから、周りに感謝をして生きてこられた人は、
 我々にも感謝をして亡くなられるし、
 不平ばかり言って生きてきた人は
 不平ばかり言って亡くなっていくんですね。

 
 このことは、よき死を迎えるためには、
 よき生を生きなければいけない、ということを
 教えてくれていると思うのです。

 では、よき生というのはいったい何か。
 
 そこには個人の主観がだいぶ入ると思うんです。
 
 Aさんにとってよき生とはこうだし、
 Bさんにとってよき生とはこうだというふうに、
 人によって皆違う。
 
 ただ、二千五百名の看取りの中で私が感じることは、
 やはり前向きな人生ということ、
 それから周りに感謝できるということ。
 
 その二つに集約されるような気がして仕方がないんです。

 
 物事には必ずプラスとマイナスがありますが、
 物事のプラス面をしっかり見た生き方をしてこられた方々。
 そういう方々の生は、やっぱり前向きで
 よき生なんだろうと思うんです。

 それから、感謝というのはとても重要な
 キーワードだと思うんです。
 
 家族に対して、周りの人たちに対して、
 最後に「ありがとう」と言いながら、
 そして自分も相手からありがとうと
 言ってもらいながら生を全うできるのも、
 よき生だと思うんです。

 そういう生を全うする人を、
 私は人生の実力者と呼んでいるのです。
 



“人は生きてきたように死んでいくということ”

“よき死を迎えるためには、
 よき生を生きなければいけない”

ああ、そうなのか!と新たな視点を頂きます。 


家族に対して、周りの人たちに対して、
 最後に「ありがとう」と言いながら、
 そして自分も相手からありがとうと
 言ってもらいながら生を全うできるのも、
 よき生だと思うんです。

 そういう生を全うする人を、
 私は人生の実力者と呼んでいるのです。”

“実力者”の定義、意表を突かれて、はっとします。


“甲子園最多通算勝利数を生み出した監督の言葉”

2011-08-18 05:39:38 | 日記

致知出版社よりお送り頂いている「致知一日一言」よりです。


「致知一日一言」読者の皆さま

いつもお読みいただきありがとうございます。

連日、高校球児たちの熱戦が展開されている夏の甲子園大会。

甲子園常連校で、今大会もベスト16まで進出した智辯和歌山高校も、創部当時は弱小チームだったといいます。

創部以来、30年以上にわたって同校を率い、強豪校に育て上げ、甲子園での通算勝利数最多を誇る高嶋仁監督に、強さの秘訣を伺いました。

(『致知』2010年7月号より)

 * * *

目標を達成するには、必死になって毎日練習をするしかないです。練習は嘘をつきませんからね。

きっちりやればそれなりの答えを出してくれます。サボればそれだけの答えしか出ないですよ。

それと“慣れ”ですね。

うちは毎日腹筋を2千回、3千回とやります。皆さん驚かれますが、そんなものはえらいこと何もないんですよ。

慣れたら一緒なんです。「100本走れ」とか「200本走れ」というのも慣れです。

慣れれば、大変なことも超えられるんです。

それから甲子園という目標を遠くに見ない。手を伸ばしたら掴めるものと考えてやっていかないといけません。

目標を遥か彼方に置いたら、やる気が出ないですよ。

だから僕は普段から「甲子園」という言葉をしょっちゅう使うんです。

「そんなんじゃ、甲子園で恥をかくやろ」「そんなんじゃ、甲子園のお客さんが怒るぞ」とね。

僕は「甲子園というものを身近なものにして、手を伸ばして掴め」と言っているのですが、

目標は身近なものにしていくからこそ実現できるのでしょう。


“慣れれば、大変なことも超えられるんです。”



“慣れ方”を知るということは、すべてに通じることであり、それは、選手それぞれの一生の財産になって行くのでしょう。


“僕は「甲子園というものを身近なものにして、手を伸ばして掴め」と言っているのですが、

目標は身近なものにしていくからこそ実現できるのでしょう。”

スポーツであれ、なんであれチームを強くしていかれる指導者の方々は、必ず自分の流儀、コツのようなものを持っていらっしゃいますね。

それは実践で証明されたものであり、鍛え抜かれた普遍性を持っています。


“特攻おばさんとの誓い”

2011-08-15 20:50:50 | 日記

致知出版社の「人間力メルマガ」よりです。


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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/15】 致知出版社編集部 発行
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 7月15日、日経新聞朝刊の人気コラム「交遊抄」に
 こんな記事が載りました。寄稿されたのは、
 静岡銀行頭取の中西勝利様です。


        * *


戦後65年が経ち、戦争の実体験を聞く機会は
年々少なくなっている。
私の父は志願して少年飛行兵となった一人。

小学校のころ、夏の暑い日差しのなか、父に手を引かれ、
陸軍少年飛行兵学校第15期同期会のため、
靖国神社へ出向いたことを覚えている。

そんな父も40年ほど前に亡くなり、
兵隊であったことも忘れていたころ、
雑誌『致知』の2006年8月号の対談記事
「若きに逝きし君たちへ」を読んでいると、
対談者の一人が、父と同じ少年飛行兵学校15期生の
地頭薗盛雄さんであった。

お会いして父の話を聞くことができないかと思った私は、
すぐさま、懇意にしていた鹿児島銀行の
永田文治会長(当時頭取)に電話をかけ、
探していただいた。

     (中略)

その年の11月26日、鹿児島市内のホテルでお会いした。
ご夫婦でお見えになった地頭園さんの第一声は

「よう似とる」

であった。

私の知らない戦争のこと、父のことをお聞きし、
本当にいい時間を過ごさせていただいた。

     (後略)


          『日本経済新聞朝刊(2011年7月15日より)』



        * *



 本日8月15日は、ちょうど終戦66年目にあたる日。

 本日は静岡銀行頭取の中西様がご紹介くださった
 『致知』2006年8月号、
 地頭薗盛雄様の対談記事の一部をご紹介いたします。


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        「特攻おばさんとの誓い」
       
       
           地頭薗盛雄 (鹿児島県少飛会会長)

        
        
                 『致知』2006年7月号
                  特集「悲しみの底に光るもの」より


────────────────────────────────────
 
【地頭薗】私も仲間のことは、きょうまでひと時たりとも
     忘れることができませんでした。
 
     当初は、仲間たちと編隊を組んで飛んでいる夢を
     毎晩のように見ましてね。
 
     終戦の混乱の中で、なんとか彼らの供養をしたいと
     考えていました。
     幸い、南日本新聞社に少飛四期の大先輩である
     児玉敏光さんがおられましてね。
 
     その方のお力も借りて、鹿児島県少飛会を結成し、
     慰霊顕彰事業を始めることができたのです。

     その時最初に行ったのが、出撃前の飛行兵たちが通った、
     富屋食堂の鳥浜とめさんのところでした。


【神坂】“特攻おばさん”と呼ばれて、
     皆から母のように慕われていましたね。


【地頭薗】児玉さんと二人でとめさんを訪ねた時、
     出撃した宮川軍曹が蛍になって帰ってきた話や、
     朝鮮人の光山少尉が出撃前にアリランの歌を歌った話など、
     当時の模様をいろいろ語ってくれました。
     
     その話を南日本新聞に載せたことで、
     とめさんのことが全国に知られるようになったわけです。

【神坂】 そうでしたね。
 
【地頭薗】とめさんは特攻隊員を見送る時、隊員から

    「元気に行ってくるよ。アメリカの軍艦をやっつけてくるから」
    
     といった言葉をかけられるんですが、
     そのたびに、なんとも寂しい、
     やりきれない気持ちになったんだと。
    
     あの気持ちはとても忘れられないといって、
     私が訪ねていくといつも涙を流されていました。
 
【神坂】 私が訪ねた時には、

    「僕の生命の残りをあげるから、
     おばさんはその分、長生きしてください」
     
     と言って、うまそうに親子丼を食べて
     出撃していった一人の少年飛行兵のことを語って、
     
     
     「あの子のおかげで私ゃこんなにも長生きしてしもうた」
     
     と涙をにじませていました。


【地頭薗】私はそのとめさんから、
  
    「自分が死んだ後も、どうか慰霊顕彰は続けてください」
    
    と頼まれた。しかし、最初はいろいろ反対されて
    なかなかうまくいきませんでした。
    
    粗末だった観音堂を新しくしようと
    地元の議員に働きかけた時も、
    軍国主義の復活につながるからと反対されたりしましてね。
    
    しかし私は、祖国を救いたいという純粋な気持ちで
    あの世へ行った特攻隊員たちの気持ちを忘れないために、
    説得を繰り返しました。
 
    努力が実って、昭和三十年には特攻平和観音堂を建立し、
    第一回知覧特攻基地戦没者慰霊祭を開催することができました。
    
    四十九年には特攻勇姿の銅像「とこしえに」を
    建立することができ、慰霊祭も年々盛大に
    行われるようになりました。
    
    銅像の建立のことを報告しに行った時、
    とめさんが私の手を取って涙を流された姿は、
    いまも忘れられませんね。

──────────────────────────────────── (以上)

静岡銀行の中西頭取、存じ上げております。

伝統的な地域金融のビジネスの中に、新しい風を送っていらっしゃる方です。

 

“特攻おばさん”と呼ばれて、 皆から母のように慕われていた”、食堂屋さんのとめさん。

“「元気に行ってくるよ。アメリカの軍艦をやっつけてくるから」”

“「僕の生命の残りをあげるから、
     おばさんはその分、長生きしてください」”

若い特攻隊員たちのとめさんへの言葉、それは、お母さんへの言葉のようにも聞こえます。

 

地頭薗さんが、観音堂を新しくしようしたとき、軍国主義の復活につながるからと反対を受けました。

それは、国を守るために若くして亡くなられて行った方々への思いであって、軍国主義の復活とは違いますよね。

そうしたすり替えは、今でもたびたび見られることではないでしょうか。

気をつけなければならないと思います。

 

“祖国を救いたいという純粋な気持ちで あの世へ行った特攻隊員たちの気持ちを忘れない”

今日は終戦からちょうど66年目、大切にしていきたい言葉だと思います。

 


“子供たちを守り抜いてなくなったお母さん”

2011-08-14 23:31:41 | 日記

致知出版社の「人間力メルマガ」よりです。

原子爆弾が落ちた時、当時10歳だった荻野美智子さんの作文です。

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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/14】 致知出版社編集部 発行
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   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』から
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。
   
         * *
   
   あす8月15日で、終戦66年を迎えます。
   『致知』では、これまで戦争を体験された方々に
   数多くご登場いただき、ご自身の戦争体験について
   語っていただきました。
   
   昨日より3日間、平和への祈りをこめ、
   戦争体験者の記事をシリーズでご紹介いたします。
   
   第2回目は、東井義雄先生の講演録
   『10代の君たちへ 自分を育てるのは自分』
   
http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=831&category_cd
   
   に収録されているお話から――。
   

────────────────────────────────────

 
東井:長崎に、原子爆弾が落ちました時、
   当時、10歳であった荻野美智子ちゃんという
   女の子の作文をちょっと聞いてください。

---------------------------------------------------------

雲もなく、からりと晴れたその日であった。

私たち兄弟は、家の2階で、ままごとをして遊んでいた。

その時、ピカリと稲妻が走った。あっというた時には
もう家の下敷きになって、身動き一つできなかった。


 (大きいお姉さんが水兵さんを4、5人呼んできて、
  美智子さんは救出されました。しかし……。)


その時、また向こうのほうで、小さな子の泣き声が漏れてきた。
それは二つになる妹が、家の下敷きになっているのであった。

急いで行ってみると、
妹は大きな梁(はり)に足を挟まれて、泣き狂っている。
4、5人の水兵さんが、
みんな力を合わせてそれを取り除けようとしたが、
梁は4本つづきの大きなものでビクともしない。

水兵さんたちは、もうこれはダメだと言い出した。
よその人たちが水兵さんたちの加勢を頼みに来たので、
水兵さんたちは向こうへ走っていってしまった。


お母さんは、何をまごまごしているのだろう、
早く帰ってきてください。妹の足がちぎれてしまうのに……。


私はすっかり困ってしまい、ただ背伸びをして、
あたりを見回しているばかりだった。

その時、向こうから矢のように走ってくる人が目についた。
頭の髪の毛が乱れている。
女の人だ。裸らしい。むらさき色の体。
大きな声を掛けて、私たちに呼びかけた。

ああ、それがお母さんでした――。



「お母ちゃん!」


私たちも大声で呼んだ。

あちこちで火の手があがり始めた。

火がすぐ近くで燃え上がった。お母さんの顔が真っ青に変わった。
お母さんは小さい妹を見下ろしている。
妹の小さい目が下から見上げている。
お母さんは、ずっと目を動かして、梁の重なり方を見回した。

やがてわずかな隙間に身をいれ、一ヶ所を右肩にあて、
下くちびるをうんとかみしめると、うううーと全身に力を込めた。
パリパリと音がして、梁が浮かび上がった。

妹の足がはずれた。

大きい姉さんが妹をすぐ引き出した。
お母さんも飛び上がってきた。
そして、妹を胸にかたく抱きしめた。
しばらくしてから思い出したように私たちは、
大声をあげて泣き始めた……。


お母さんはなすをもいでいる時、爆弾にやられたのだ。
もんぺも焼き切れ、ちぎれ飛び、ほとんど裸になっていた。
髪の毛はパーマネントウエーブをかけすぎたように赤く縮れていた。

体中の皮は大火傷で、じゅるじゅるになっていた。

さっき梁を担いで押し上げた右肩のところだけ
皮がべろりと剥げて、肉が現れ、赤い血がしきりににじみ出ていた。

お母さんはぐったりとなって倒れた。
お母さんは苦しみはじめ、悶え悶えてその晩死にました。


---------------------------------------------------------(以上)

“向こうから矢のように走ってくる人が目についた。
頭の髪の毛が乱れている。
女の人だ。裸らしい。むらさき色の体。
大きな声を掛けて、私たちに呼びかけた。

ああ、それがお母さんでした――。”

“さっき梁を担いで押し上げた右肩のところだけ
皮がべろりと剥げて、肉が現れ、赤い血がしきりににじみ出ていた。”

 

水夫の方々4,5人がかりでもびくともしなかった梁。

なのに、被爆し全身のやけどを負い、肩の肉を出しながら、一人でその梁を持ち上げ、妹の命を救ったお母さん。

その覚悟の大きさ、その愛の大きさ、言葉が出ません。 


“映画『男たちの大和』のモデル、 八杉康夫さんの体験”

2011-08-14 23:13:13 | 日記

致知出版社「人間力メルマガ」よりです。

8月15日の終戦記念日にちなんだお話をお送り頂いています。

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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/13】 致知出版社編集部 発行
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   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』から
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。
   
         * *
   
   来週8月15日で、終戦66年を迎えます。
   『致知』では、これまで戦争を体験された方々に
   数多くご登場いただき、ご自身の戦争体験について
   語っていただきました。
   
   本日より3日間は平和への祈りをこめ、
   戦争体験者の記事をシリーズでご紹介いたします。
   
   第1回目は、戦艦大和の乗組員として沈没を体験し、
   映画『男たちの大和』のモデルにもなった
   八杉康夫氏のお話です。

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       「若者よ、君たちが生きるきょうという日は
        死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」
       
       
           八杉康夫(戦艦大和語り部)
        
        
                 『致知』2006年8月号
                  特集「人学ばざれば道を知らず」より


────────────────────────────────────

 大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。
 なおも攻撃が続けられ、魚雷が的中した時は
 震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
 
 次第に船は傾いていきます。
 
 砲術学校では、戦艦は十五度傾いたら限界と習ってきましたが、
 二十五度、三十度とどんどん傾いていきます。
 それでも、戦闘中は命令がない限り
 持ち場を離れることはできません。

 その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
 軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
 これが事実上「逃げろ」という意味です。
 
 すでに大和は五十度ほど傾いていましたが、
 この時初めて、「大和は沈没するのか」と思いました。
 それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。


 もう海に飛び込むしかない。
 
 そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。
 
 
 私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、
 自分の腹を掻っ捌いたのです。
 
 噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。

 船はますます傾斜がきつくなっていきました。
 九十度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。
 

         * *


 飛び込んだのも束の間、沈む大和が生み出す渦の中へ
 巻き込まれてしまいました。
 その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった
 「生きるための数々の方策」です。
 
 海軍に入ってからというもの、私たちが教わったのは、
 ひたすら「生きる」ことでした。海で溺れた時、
 どうしても苦しかったら水を飲め。
 
 漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない……。
 陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では
 「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」などと
 言われたことは一度もありません。
 
 ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。

 だからこの時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、
 実践しました。しかしどんどん巻き込まれ、
 あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
 
 その時、ドーンという轟音とともに
 オレンジ色の閃光が走りました。
 戦艦大和が大爆破したのです。
 そこで私の記憶はなくなりました。


                  * *


 気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
 幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。
 
 しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、
 重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。
 
 「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
 なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
 この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。

 すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。
 「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。

 そう思って身構える私に、彼は優しい声で
 
 
 「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」
 
 
 と言って、自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
 そして、なおもこう言ったのです。


「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」


 四時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
 川崎高射長はそれに背を向けて、
 大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
 
 高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
 大和を守れなかったという思いから、
 死を以て責任を取られたのでしょう。
 
 高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、
 彼の命そのものだったのです。


       (中略)


 昭和六十年のことです。
 
 いつもピアノの発表会などでお会いしていた女性から
 喫茶店に呼び出されました。
 
 彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を取り出し、
 こう言ったのです。
 
 
 「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」
 
 
 驚いたなんていうものじゃありません。
 戦後、何とかしてお墓参りをしたいと思い、
 厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、
 前から知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて……。

 念願叶って佐賀にある高射長の墓前に
 手を合わせることができましたが、
 墓石には「享年三十一歳」とあり、驚きました。
 もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。
 
 その時私は五十歳を超えていましたが、
 自分が三十一歳だった時を思い返すと
 ただただ恥ずかしい思いがしました。
 
 そして不思議なことに、それまでの晴天が
 急に曇天となったかと思うと、突然の雷雨となり、
 まるで「十七歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。

 天皇も国家も関係ない、自分の愛する福山を、
 そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。
 
 不沈戦艦といわれた大和の沈没、
 原爆投下によって被爆者になる、そして敗戦。
 そのすべてが十七歳の時に一気に起こったのです。

 十七歳といえば、いまの高校二年生にあたります。
 
 最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、
 現在の学生の姿を見ると、明らかに戦後の教育が
 間違ったと思わざるを得ません。
 
 いや、生徒たちだけではない。
 間違った教育を受けた人が先生となり、親となって、
 地域社会を動かしているのです。 

 その元凶は昭和史を学ばないことに
 あるような気がしてなりません。

 自分の両親、祖父母、曾祖父母が
 どれほどの激動の時代を生きてきたかを知らず、
 いくら石器時代を学んだところで、
 真の日本人にはなれるはずがない。
 
 現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、
 学校の先生ですら「持ってどうするんですか?」と
 真顔で聞き返すのですから。
 
 よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、
 毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか?
 
 確かに昔も殺しはありました。
 しかし、「殺してみたかった」などと、
 意味もなく殺すことは考えられませんでした。 

 真の平和とは、歴史から学び、つくり上げていくほかありません。
 鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば
 天から降ってくるものではないのです。
 
 しかし、一流の国立大学の大学院生ですら、
 
 「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」
 
 と平気で言います。
 
 ならば自分で学べと私は言いたい。
 自分で学び、考えることなしに、
 自分の生きる意味が分かるはずがないのです。

 人として生きたなら、その証を残さなければなりません。
 大きくなくてもいいのです。

 小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。
 戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、
 いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を与え続けています。

 復員後、長く私の中に渦巻いていた
 「生き残ってしまった」という罪悪感。

 それはいま使命感へと変わりました。

 私の一生は私だけの人生ではなく、
 生きたくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。
 
 うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。
 未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、
 真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語り続け、
 いつか再び戦友たちに会った時、
 「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」と
 胸を張りたいと思います。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (以上)

八杉さんが、戦艦大和に乗ったのは17歳の時、そこで凄まじい体験をされました。

 

 “「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」
 
  と言って、自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
 そして、なおもこう言ったのです。

 「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」”

川崎勝己さん、死を前にしての言葉、そしてその行為に心を打たれます。

 

“現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、
 学校の先生ですら「持ってどうするんですか?」と
 真顔で聞き返すのですから。”
 
“よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、
 毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか?”
 
“真の平和とは、歴史から学び、つくり上げていくほかありません。
 鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば
 天から降ってくるものではないのです。”

生きることの素晴らしさ、そして平和の尊さを魂で知っている方だからこその厳しい言葉だと思います。 

“自分で学び、考えることなしに、
 自分の生きる意味が分かるはずがないのです。”

今だからこそ、この言葉の深さを感じます。


“文字はその人の深層心理を表す②”

2011-08-13 05:16:18 | 日記

昨日に続いて(http://blog.goo.ne.jp/tera-3/e/f0bbedd17d58891eabac6cea2583a24c)致知出版社の「人間力メルマガ」より、 森岡恒舟さんのお話です。

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     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/12】 致知出版社編集部 発行
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   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』より
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。

       * *

   本日は昨日に引き続き、
   現在発行中の『致知』9月号に掲載され、
   話題を呼んでいる記事「筆相で導く心と運命」より、
   30年にわたり筆相の研究を続けてこられた
   森岡恒舟氏のお話をご紹介いたします。

 
────────────────────────────────────


       「先人たちの筆相が物語るもの」
       
       
            森岡恒舟(筆相研究の第一人者)
        
            『致知』2011年9月号
             特集「生気湧出」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。


────────────────────────────────────

その人の深層心理は、その人の書く字に表れ、
その人の字を見れば、その人の深層心理が分かります。
そして、その人の字を書く時の習慣、
つまり深層心理の習慣は、他の行動にも顔をのぞかせるのです。


       (中略)


源義経
の字を見てみると、非常に個性的で、
まず左払いが大変長く突出しています。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html


普通であれば深層心理が働いて一定の長さで
ストップさせるところを、
さらに突き抜けて伸ばすというのは、
人並みを超えて目立つわけですが、それで平気だということ、
目立つことが好きだということです。

実際に義経は、五条大橋で弁慶と大立ち回りをやったり、
鵯越の逆落としをやったり、
ことごとく世間の耳目を集める派手な行動をとっています。

深層心理としてそういうことを躊躇せず
やっていける人だったのです。


ただその一方で、義経の字はいずれも
右側へ転びそうなものが多いことも注目に値します。

こういう字を平気で書くところに、
あまり安定した状態を好まない深層心理が表れています。
むしろ転びそうな不安定な状態を自ら求めていたり、
転びそうになってもスイスイ乗り切って
そのことに気持ちよさを感じたりする傾向が見て取れます。

それが人間関係
にも影響し、
頼朝との関係に破綻をきたしたとも考えられるのです。


        * *


突出するという点では、明智光秀
の縦線下部の
引き延ばし具合も尋常ではなく、
これほど長い書き方は歴史上でも希です。

彼がもし枠の中に収まる程度の文字しか書かない人物であれば、
本能寺の変などという大それた事件は起こさなかったでしょう。
信長の逆鱗に触れてもひたすら謝り、
左遷先で堪え忍んで一生を終えたと思うのです。


        * *


吉田松陰
の筆跡には非常に行動力が感じられます。
そして右上がりの度合いが強いところから、
保守的で柔軟性に欠けるところがあり、妥協を嫌います。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html
(※2つ目の画像をご覧ください)


そうした深層心理が、黒船に乗り込もうというような思い切った行動や、
己の信念を貫き、最後は斬首されるという結末を暗示
しています。
かつて学生運動が盛んな頃、大学の構内に掲示されていた看板に、
松陰に似た筆跡がよく見受けられたものです。


        * *


東郷平八郎
の筆跡は、偏と旁がグッと密着しています。
これは包容力があって多くの人を束ねるトップリーダーというより、
人の意見に左右されず、自分の信念を貫くタイプです。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html
(※3つ目の画像をご覧ください)


中国では偏と旁の間を気宇、心の広さを表す空間と捉え、
なるべく間隔を広くとって書くのがよいとされています。

一方で技術者は偏と旁の間を狭く書く傾向があります。
寿司職人などは客の言いなりになっていたのでは
うまい寿司は握れません。

「俺の握りが嫌なら、よそへ行ってくれ」とばかりに
自分のやり方にこだわり、それを通すタイプは
偏と旁の間は広く書けないのです。

東郷の筆跡にもそういうところが見て取れ、
実際、寡黙でいろんな意見を取り入れてという
タイプではなかったようです。

彼がもし偏と旁の間を広く書くような人であったら、
バルチック
艦隊が近づいているという情報が入ったら、
心の中にはこうすべきだ、ああすべきだと、
いろんな人の意見が入り込んで千々に乱れていたでしょう。

東郷はやはり周りの雑音を受け付けず、
こうだと決めたことを徹底する前線指揮官のタイプであり、
だからこそ最強のバルチック艦隊を撃破し、
日本を勝利へ導くことができたのだと思います。


        * *


最後に、経営者を一人だけ見てみましょう。

「経営の神様」と謳われ、経営者に限らず
様々な人にいまもなお多大な影響を与え続ける松下幸之助。
その筆跡は、小ぢんまりとまとめずにグッと大きく広げて書くのが特徴で、
心の内からほとばしり出るものが伝わってきます。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html
(※4つ目の画像をご覧ください)


これは豊臣秀吉
の書き方によく似ており
私は太閤相と呼んでいます。

また「助」という字の最終画が点になっていることから、
普通の人が考えつかないことを考え出す
アイデアマンであったことが窺えます。

さらに、縦線の上部への突き出しはそれほど際立っておらず、
包容力豊かなリーダーというより信念を持った技術者タイプです。

実際、細かいことに非常に厳しい人だったという話も聞いていますが、
それでも多くの人がついていったのは、
やはり太閤相にも表れているような人間的魅力があったからでしょう。

────────────────────────────────────(以上)


是非画像もご覧下さい。

筆跡からここまで分かるのかと、ビックリします。


そして、歴史に名を残した方々が、とても特徴のある字を書いていたということも、面白いなと思います。

私の書く字、かなり特徴があります。

他の人には読めませんし、実は自分にも・・・。


“大前研一さん、原発再稼働と日本の将来、歪んだ対立構造を作らず本質を見よ”

2011-08-13 05:11:11 | 日記

大前研一さんのメルマガ(http://archive.mag2.com/0000140789/index.html)よりです。


〜大前研一ニュースの視点〜
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 『原発再稼働と日本の将来〜歪んだ対立構造を作らず本質を見よ』

 ────────────────────────────────── 
  原発再稼働問題
 再稼働新基準は「事故調報告の1、2年後」
 ストレステストを厳しく批判新潟県・泉田知事 
 ──────────────────────────────────

 --------------------------------------------------------------------
 ▼日本の産業界の将来と子供の未来は、本来対立するものではない
 --------------------------------------------------------------------
 菅直人首相は先月21日の参院予算委員会での答弁で、原発再稼働のための
 本格的な安全基準について「(東京電力福島第一原発の)事故調査・検証委員会
 の報告が出た1年か2年後、新しい基準をつくることになる」との見解を示しました。

 また同日、海江田経産相は菅直人首相の「脱原発」発言について、
 「首相が個人的な意見だと言っているので、それを共有しているかどうかは、
 鴻毛(こうもう)より軽いと思う」と述べ、脱原発を内閣として共有する
 必要はないとの認識を強調しました。

 まず本質的な点を指摘しておくと、「再稼働の基準=ストレステストの結果」
 であるべきで、ここを外していては問題外です。

 そして菅総理の言うところでは、事故調の報告から1年〜2年ということですから、
 端的に言えば「今から3年間は原発無し」ということです。

 これは、もはやテロリストの所業だと私は思います。
 これから3年間、原発を一切使わないとなると、
 日本の産業はどうすればいいのでしょうか?

 この点を顧みず「脱原発」を旗印に強い姿勢を崩さない菅総理に、
 自民党の有力議員や民主党内部からも批判の声が上がっています。
 中には菅総理を諌めるために、
 「今年の夏の間に1回〜2回、ブラックアウトが起きればいい」
 という過激な意見もあるようです。

 菅総理を追い込み過ぎると「脱原発」を公約に解散総選挙に出るから危険だ、
 ということを私は何度か指摘しています。これに対し、国民も「脱原発」が
 日本の産業に影響を与えるのはわかるだろうから菅総理が勝つとは限らないのでは?
 という意見も聞こえてきます。

 菅総理を始め、一部の人が思い描いているストーリーは次のようなものでしょう。
 ・世界唯一の被爆国である日本だからこそ、核なき世界を主導すべき
 ・再生可能エネルギーを国家戦略として取り組むべき

 こうしたビジョンを訴求するために、子供を抱えた母親が登場して
 「この子の将来のために脱原発を・・・」と泣いて訴えるわけです。
 切り札としてこのような演出も使うのではないかと私は見ています。

 本来、子供の明るい未来と日本の産業界の発展は対立するものではありません。
 日本の産業界がボロボロになってしまえば、企業にも家庭にも影響するのは当たり前です。
 それは子供たちが生きる日本の将来に影を落とします。
 論理的に考えれば、誰にでもすぐに理解できることです。

 しかし政治の世界は、「本来対立していないものでも対立させてしまう」のです。
 「お母さん、“産業の発展”と“あなたの子供の未来”、どちらが大切なのですか?」
 と問いかけるわけです。そして「今年の夏、電力危機と言われながらも
 何とか乗り越えることができました、あとたった12%の節電で原子力がなくても
 やっていけるのですよ」「核なき世界を一緒に創りましょう」と背中を押せば、
 多くの人は「脱原発」に傾いてしまうのではないでしょうか。

 実際、読売新聞と日経新聞は反対していますが、朝日新聞は「脱原発」に賛同しているほどです。
 選挙に臨む候補者の中にも母親は多いでしょうし、一気に菅総理のシナリオに飲み込まれる
 可能性は十分あると思います。もう少し冷静に、日本の産業界の将来、
 日本の産業界の養成についても考えるべきだと私は強く感じています。


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 ▼ストレステストは、福島の反省が活かされていなければ無意味
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 また、ストレステストについても実施内容に大きな問題があると私は思います。
 経済産業省原子力安全・保安院は先月21日、原子力発電所の安全性を確認する
 ストレステストの実施計画の修正を原子力安全委員会に提出し了承されたとのことですが、
 あの程度の内容を了承してしまうとは「原子力安全委員会」として恥ずかしくないのか?
 と言いたくなります。

 新潟県の泉田裕彦知事も同様に感じたようです。
 泉田知事は先月26日、政府が定期検査中の原子力発電所を再稼働する条件として実施する
 ストレステストについて「気休め以外の何ものでもない」と厳しく批判しています。

 泉田知事の指摘はもっともで納得できるものです。
 保安院の提出したストレステストは欧州型をベースにしたもので、
 そこには「福島第一原発事故」の反省が活かされていないというのです。
 「福島の反省が活かされていなければ意味が無い」と指摘しています。

 泉田知事は原発を抱える全国の知事の中で、オピニオンリーダーの立場にある人です。
 彼の発言は大きな影響力と意味を持つと考えて良いと思います。
 これにより、今回のストレステストの地元での受け入れはほぼ不可能だと言えるでしょう。

 国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長は「ストレステストの実施を歓迎する。
 IAEAにもレビュー(評価)の機会を与えてもらいたい」と述べ、
 テスト結果をIAEAが評価することに意欲を示しているとのことですが、
 もはやその流れはないと私は見ています。

 原発問題を考えるに当たって、感情論だけで脱原発に傾くのも問題だと思いますし、
 またストレステストにしても、それを実行する意図・意味はどこにあるのかを
 冷静に判断する必要があると思います。

 政治家や官僚の発表内容を鵜呑みにせず、国民一人ひとりが物事の本質を見極める考え方を
 身につけることが大切だと改めて感じます。

 ──────────────────────────────────(以上)


私自身は、いわゆる“脱原発派”だと思います。

今回の原発事故で、人が核をコントロール出来ると考えるのは間違いであること、そして、原発もやはり核兵器なのだ、ということを痛感しました。

今までこの問題を考えなかった自分を恥じることにもなりました。


九州電力の「やらせメール事件」、その後の経緯を見てもわかるように、未だにごまかし、証拠隠滅、知事を含めた政治との関係が出て来たりしています。

また、大前さんがおっしゃっているように、ストレステストも、福島の結果を踏まえた内容でなければ全く意味がないと思います。

根深い問題はまだまだ残っており、それらは明らかにされ、必要な措置を講じて行かなければなりません。


一方で、急ぎ過ぎることにも気をつけなくてはならないと思います。

脱原発を叫ぶ人の中には、これからの日本や子どもたちのことを真剣に考えて行動を起こしている方もいる一方で、早く日本が潰れればいいと思って動いている人もいます。

また、もう日本に原発はたくさんある訳ですから、今後どのような方向性になるにしろ、それに対応する為の人材育成も引き続き必要です。


常にバランスは重要であって、子どもたち、将来の日本にとって、ベストの選択肢を見つけていかなければいけません。

あとで、ああしておけばよかった、では遅いのです。


“歪んだ対立構造を作らず本質を見よ”、という大前さんの言葉、肝に銘じたいと思います。


“てんつくラブレター、それは映画の1シーンの巻”

2011-08-13 05:08:07 | 日記

てんつくマンさんからお送り頂いくメルマガよりです。

タイトルは、“てんつくラブレター〜それは映画の1シーンの巻〜” 


 
アンソニーロビンスワークショップ最終日のゴールドコーストの会場からワンダフルモーニング!

昨日のワークショップは自己変革やってん。

一番良かったのが部屋を真っ暗にして目をつぶって静かな音楽を聴きながらアンソニーが導いてくれんねん。

誘導催眠というか、誘導想像というか。

とにかく自分の想像のサポートをしてくれるって感じかな?

まずは椅子に座ってる自分の体がどんどん小さくなって5歳になる。

5歳の自分に「大きくなったらなにになりたい?」って聞いたらなんて答える?

そして、なぜ、それになりたいと思う?と問いかける。

そんな質問を9歳の自分、16歳の自分、21歳の自分に繰り返す。

そして、なぜ、それになりたいかが変わったかをチェックしてゆく。

さらにそこから、まず5歳の自分に逢いにいってハグしながら、感謝を伝えながら、自分の中に統合してゆく。

それを9歳の自分、16歳の自分にもやってゆく。

ちなみに父ちゃんの場合、16歳の自分はあきらめの言葉しか言ってなかった。

俺なんてなにも出来ない。

どうせ、高校を卒業したら平凡な人生しかない。

まったく、自分を信じてなかったし、チャレンジしようとしてなかった。

だから、めいいっぱい、

「大丈夫やで」

「俺は未来のお前の姿や」

「今、めっちゃしあわせやぞ」

「残念ながらお前の予想を上回って全然、平凡じゃないけど(笑)」

「でもな、このしあわせは今のお前の苦しみや絶望感のおかげなんや。」

「だから、お前に心からありがとうって言いたいねん」

「今、お前、苦しいやろ」

「ごめんな、今、助けてやれなくて」

「でもな、必ず乗り越えれるからな」

って、そして、吉本に入って夢を叶え始めようとしている自分。

給料がついに10万円突破、大台になったと喜んでる自分ともハイタッチしてハグをした。

「今のお前の努力が全部、今に生きてるで!」って。

その後、鳥になって自由に空を飛んで楽しむねん。

そして、山におりてきて、人間に戻る。

その時にめっちゃ光に包まれてる自分がいた。

そうか。こうやって、過去もそして今も、みんなに包まれて支えられて生きてるんやって。

ほんまにしあわせを感じた。

震災後、一ヶ月に一日も会えてない奥さんの笑にほんまに感謝。

震災後、一気にビジョンを変えて、俺と一生生きていくつもりで北海道に来てくれってついてきてくれたスタッフや今日までサポートしてくれたスタッフ。

そして、いつもいつも俺がなんかする時に、全力で応援してくれる仲間や師匠。

そして、講演会や上映会を主催してくれたり、来てくれたりする仲間。

この文章を読んでくれたり、MAKE THE HEAVENの活動を支えて下さってるすべての方に感謝したい。

最後に今、やってきたメッセージを書くわね。

「プログラム」

悲しみの出来事も

苦しみの出来事も

平凡な出来事も

歓喜の出来事も

絶体絶命の出来事も

恐怖の出来事も

すべて、映画の1シーンのようなもの。

良くも悪くもそれはずっと続かない。

必ずシーンは変わる。

映画館で映画を観ていたら

居心地が悪くなるシーンも

心がワクワクするシーンも

目をそむけたくなるシーンもある。

でも、辛いシーンや悲しいシーンが出てきた時、無意識でこう思ってなかった?

「絶対にラストシーンはHAPPY ENDになる」って。

それが、人生でも大事なんや。

なにか辛い出来事や絶対絶命の出来事が起こったらこう思うねん。

これはたんなる一つのシーンや。

さぁここからどうHAPPY ENDのラストシーンに向かっていくんやろう?

「あきらめんな主人公!」

「笑顔を忘れるな主人公!」

「逃げずに向き合え主人公!」

「大丈夫や、最後はHAPPY ENDって決まってるから」

って主人公を励ますんや。

だから、今、励ますねん。

自分を応援すんねん。

未来のしあわせに包まれて生きてる自分として今の自分に声をかけるねん。

さぁ声に出して言ってあげて。

大きな声を出しても誰にも聞こえないような場所に行って伝えてあげて。

「大丈夫、それは一つのシーンや!ラストシーンはHAPPY ENDやから」って。

気をつけなあかんのは映画の上映中に途中で映画館を出ること。

もしも、その映画を観てる途中で映画館から出たら、それはつまらない映画として終わってしまう。

これから、めっちゃ素敵な物語が始まるのにさ。

一つだけ大きく人生と映画と違うのは、その映画はな、自分で脚本を書き直すことが出来るねん。

映画の上映中に「STOP」ってその映画を止めることが出来る。

これからこんな物語に変える!って脚本を書き変えたらええねん。

そしてな、自分では書けないって思ってる人はまわりの人にサポートしてもらうねん。

脚本の書き方やったら、俺もサポート出来るし、それはさせてもらうわな。

これから、そんなワークショップを泊まりがけでやっていくから。

一緒に夜中までかけてやろう。

過去や今、体験してるのは生まれる前に自分と神様と一緒に書いた脚本。

そのまま、脚本どおり生きていくのもいいし、新しい脚本を書いてもいい。

忘れたらあかんのは、過去の出来事はあくまでただの一つのシーンやったということ。

トラウマになってるんはね、自分がそれは最悪の出来事と決めつけただけやということ。

それは、ワークショップしていけば、気づく。

今からでも遅くない。

傷と認識してたものを、気付きに変えて、新しい脚本を一緒に書こう。

みんな出会ってくれてありがとう。

繋がってくれてありがとう。


(転載以上)



“「でもな、このしあわせは今のお前の苦しみや絶望感のおかげなんや。」

「だから、お前に心からありがとうって言いたいねん」

「今、お前、苦しいやろ」

「ごめんな、今、助けてやれなくて」

「でもな、必ず乗り越えれるからな」”


“「大丈夫、それは一つのシーンや!ラストシーンはHAPPY ENDやから」って”


“一つだけ大きく人生と映画と違うのは、その映画はな、自分で脚本を書き直すことが出来るねん。

映画の上映中に「STOP」ってその映画を止めることが出来る。

これからこんな物語に変える!って脚本を書き変えたらええねん。”



ワーク自体は、オーソドックスなものかも知れません。

でも、てんつくマンさんがその体験を言葉にすると、感動がそのまま伝わって来ます。
本当だ!、本当だ!と思います。



“過去や今、体験してるのは生まれる前に自分と神様と一緒に書いた脚本。

そのまま、脚本どおり生きていくのもいいし、新しい脚本を書いてもいい。

忘れたらあかんのは、過去の出来事はあくまでただの一つのシーンやったということ。”


“今からでも遅くない。

傷と認識してたものを、気付きに変えて、新しい脚本を一緒に書こう。”



“首都圏が最も警戒すべき「巨大地震」発生の可能性”

2011-08-13 05:03:03 | 日記

ダイヤモンド社のオンライン記事よりです。

 
“地震多発時代”はまだ始まったばかり!
首都圏が最も警戒すべき「巨大地震」発生の可能性
――東京大学地震研究所 佐藤比呂志教授に聞く
 
 
 
東北地方太平洋沖地震の震源域の北(北海道千島沖)と南(千葉東方沖
 
“当初から心配しているのは、東北地方太平洋沖地震の震源域の北(北海道千島沖)と南(千葉東方沖)における日本海溝沿いの「巨大海溝型地震」発生の可能性だ。3月11日の地震により三陸沖から茨城沖の断層がずれ動き、震源域となったが、現在も南北の端は陸側のプレートに沈み込む太平洋プレートのひずみエネルギーが蓄積されたままである。実際、2004年スマトラ島沖地震の際は、本震の3ヵ月後に震源域の南方でM8.7の地震が発生した。”
 
震源域南方の千葉東方
 
“その一方でほとんど調査が進んでおらず、千島沖と比較しても経済的・人的被害規模が大きくなると考えられるのが震源域南方の千葉東方沖だ。関東では太平洋プレートの上にフィリピン海プレートが重なるが、今回の巨大地震を発生させた断層運動は、フィリピン海プレートが太平洋プレートと接している箇所で止まっている。つまり、フィリピン海プレートが障害物となって、断層面上のすべりを止め、首都圏への地震の拡大を阻止した。断層運動はそれ以上南下しなかったために、今回の地震では事なきを得たが、この領域がすべると房総半島・外房や湘南に非常に大きな津波が押し寄せる恐れがある。”
 
首都直下
 
“東京周辺は特殊なプレート配置で、太平洋プレートの上にフィリピン海プレートが乗るようにして沈んでいる。先ほども述べたように、3月11日の地震ではフィリピン海プレートが障害となったことで、南方に断層面上の破壊が伝搬するのを防いだが、フィリピン海プレート自体に力がかかっている状態である今、沈み込んだフィリピン海プレート内での破壊の可能性も考えなければならない。また、先に述べたように陸側のプレート内にも特異な力がかかっている状態にあるため、活断層による地震の発生についても注意が必要である。
 
今回の地震と対比される、869年に三陸を襲った貞観地震の後には、M7.5の関東諸国地震が発生、前後には富士山の火山活動が活発化したという記録もある。今、3.11の地震発生後、関東でも地震が増え、プレートへの力のかかり方が変化しているのは事実で、沈み込んだフィリピン海プレートやその上の陸側プレートでの、地震発生の可能性が高まっているのは間違いない。”
南海トラフ沿い
“関東から西日本は正反対な状況に置かれている。まず今回の地震発生以前から、2050年前後には東海・東南海・南海地震の発生が予測されていた。これら南海トラフ沿いの巨大地震は、歴史文書や考古遺跡などからも、規則的に発生した過去の履歴が遡られており、近い将来、必ず地震・津波がその領域で発生するはずだ。”
“想定される東海・東南海・南海の地震の前も内陸の被害地震が増加していく可能性が高い。”
 
 プレートた。
 
 
私は、佐藤さんのインタビューの中で、一番重要なのはこの言葉だと思っています。
 
 
東北沖の地震のように「1000年に1度」と言われるような地震が、すでに発生した現時点では、過去100年程度の地震活動や津波で判断せず、長いスケールのなかで評価をし、情報収集することが非常に重要な課題となっている
 
私自身はこの言葉を、既存の発想から離れて考えよう、という意味だと受け止めています。
 
少し飛躍しますが、今は、どこででも、いつでも起こりうる、と考えた方がいいのではないと言うことです。
 
 
この記事の最後に、こんな質問があります。
 

質問1 あなたは家で防災非常袋を用意していますか?
3.11前から用意している
3.11後に用意した
まだ用意していない
わからない

私がその結果を見て驚いたのは、「まだ用意していない」という答えが半分近くあったことです。
 
 
東関東大震災の直後、スーパー、コンビニ含めて、水や食べ物が消えてしまうという現象が起きました。
 
それは、直接そこまでの被害がなかった場所でも起きました。
 
 
いざと言う時には、本当に必要な人に必要なものが行き渡るようになるのが理想だと思います。
 
いつ起きるかわからない災害ではあります。
 
でも、その時になってものがなくなるということを防ぐという意味でも、備蓄含めて、普段から準備をしておく、ということは大切なことではないかと思います。


“文字はその人の深層心理を表す”

2011-08-12 02:23:23 | 日記

致知出版社(http://www.chichi.co.jp/monthly/201109_pickup.html)よりお送り頂いている「人間力メルマガ」より転載させて頂きます。


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       「文字はその人の深層心理を表す」
       
       
            森岡恒舟(筆相研究の第一人者)
        
            『致知』2011年9月号
             特集「生気湧出」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。


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 人間の行動には、長年の間に染みついた
  その人の癖が表れているものです。

  そして同じことがその人の筆跡にもいえるのです。


 たとえば「口」という漢字の書き方を
 例に見てみましょう。


 第一画の縦線と第二画の横線、
  つまり文字の左上は、学校ではくっつけて書くように教わります。
 しかし多くの人は、成長するにつれて書き方にも柔軟性が出てきて、
 そこが少しずつ離れてくるものです。

 ここはその人の社会に対する窓を象徴しており、
 外に対して窓が開いている人は
 人間関係やお金の流れも比較的活発な場合が多いのです。

 逆にここをくっつけて書く人は、あまり世間ずれしておらず、
 少々融通の利かないところがあります。

 社会に対する窓が閉じているわけですから、
 人との交流やお金の入り具合もあまり活発でない傾向があります。

 また、下の角が開いている人は、少々自分に甘いところがあります。
 文字を最後まできっちりと書くことは、
 それなりに神経を使うもので、そこが離れているということは、
 最後まで集中力が続かない傾向があり、
 いい加減さ、無責任な性質の表れともいえるのです。

 以前、テレビ番組でご一緒したタレントのタモリさんに
 「田」という字を書いていただいたところ、
 左上をかなり開けて書いていました。

 芸能界の第一線で活躍されているだけあって、
 金銭面も含め社会との交流がとても活発な様子が表れていました。

 同時に左下も開いており、
 入ってきたお金も気前よく出て行ってしまうこと。
 しかし上の横線と真ん中の縦線に隙間があり、
 しかも真ん中の下と右下は閉じていました。


 そこで、


 「あなたは気前よく使うけれども、
  ケチと思っている人もいるんじゃないですか。
  半分はガッポリ貯めているようですよ」


 と指摘するとスタジオは大爆笑、大拍手となりました。
 現総理の菅直人氏は、
 「人」という字の最後をかなり力を入れて書いています。

 これは粘り強さの表れですが、
 最近は以前にも増してこの傾向が強くなっています。

 あれだけバッシングを受ければ普通はとっくに辞めているはずなのに、
 いまだに総理の座に居座り続けているのもうなずけます。

 このように、その人の深層心理は、その人の書く字に表れ、
 その人の字を見れば、その人の深層心理が分かります。
 そして、その人の字を書く時の習慣、
 つまり深層心理の習慣は、他の行動にも顔をのぞかせるのです。

────────────────────────────────────(転載以上)


“人間の行動には、長年の間に染みついた
  その人の癖が表れているものです。

  そして同じことがその人の筆跡にもいえるのです。”


面白いですね。

そして、筆跡以外にも様々な癖があるのでしょうね。

周りの人の方は皆気がついているけど、実は本人だけ気付いていない癖とか。

行動ではないですが、「思考癖」もその一つなのでしょう。


“たとえば「口」という漢字の書き方を
 例に見てみましょう。”


私も書いてみました。

左上は開かないですね。ということは・・・ん?


“あまり世間ずれしておらず、少々融通の利かないところがあります。

 社会に対する窓が閉じているわけですから、人との交流やお金の入り具合もあまり活発でない傾向があります。”


当たっているのかどうかは、やっぱり本人なのでよくわかりません。(笑)

ちなみに“下の角”も、開きませんね。

かなり真四角に近い「口」になります。


タモリさんの話、面白いですね。

そして、菅さんの「人」、最後まで力を入れて書く、その様子が目に浮かぶようです。

さすがに最近は、そこまで強くは書かないのでしょうか。(笑)


考えてみると、自分の手で字を書くことは、家でも仕事でも、本当に少なくなりました。

なので、たまに手書きの手紙を頂くとうれしいし、やはりその筆跡から、相手の方の姿が思い出されます。

無意識のうちに、「お〜、元気そうだな」とか、「手紙にはこう書いているけど、なにか悩んでいるのかな。」と思ったりすること、ありますよね。


これから、人の「深層心理」は、益々分かりやすくなって行くと思っています。

その人の表情や雰囲気、そして行動となって。