"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

“泥を肥やしに咲く花”

2011-08-22 07:38:25 | 日記

 致知出版社「人間力メルマガ」よりです。 
 
http://www.chichi.co.jp/monthly/201109_words.html


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/21】 致知出版社編集部 発行
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


本日は『致知』の人気連載コーナー「致知随想」の中から、
特に反響の多かった記事をセレクトしてご紹介します。

本日は、2009年3月号に掲載されて反響を呼び、
以前、人間力メルマガでもご紹介した
浄名寺副住職・松原紗蓮(しょうれん)さんの
随想をお届けします。

なお、現在発行中の『致知』9月号随想に、
紗蓮さんの師にあたる松原宝蓮(ほうれん)さんの
記事が掲載されています。ぜひ合わせてお読みください。


────────────────────────────────────
■「致知随想」ベストセレクション 
────────────────────────────────────


      「泥を肥やしに咲く花」
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


             松原紗蓮(浄名寺副住職)
                         『致知』2009年3月号「致知随想」

                ※肩書きは『致知』掲載当時のものです


…………………………………………………………………………………………………


 私が愛知県西尾市にある浄名寺に預けられたのは、
 2歳7か月の時です。

 幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、
 親代わりの庵主様や、世間様の
 「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。

 同級生からはその逆に、お寺の子であることや、
 実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを受けてきましたが
 「どんな時も前向きでいよ」という庵主様の教えを守り、
 泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら幼少期を過ごしました。


          * *


 張り詰めていた神経の糸が切れたのは、中学2年の時です。

 役所に、ある書類を提出する際、庵主様から
 「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。

 聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が再婚する際、
 娘の私をお寺へ預けたというのです。

 自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。

 一体何を信じて生きてきたのだろう?

 事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。


 そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、
 髪の毛を金色に染めて、耳にピアスの穴を開け、
 あらゆるものに歯向かい、強がって見せることでした。

 暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。
 14歳で手を出した薬物はその後7年間、
 1日としてやむことがなく、私など消えてしまえ、
 という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。

 心配をした庵主様は、私が20歳になった時に
 「最後の賭け」に出たといいます。
 私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、
 そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。

 金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は訳が分からず、
 初めのうちは反発ばかりして叱られ通しでした。

 ところが10日目を過ぎた頃、
 教科書に書かれてある仏様の教えが、
 読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと
 重なることに気づいたのです。


 例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。
 私がグレていた7年間、普通の親であれば
 間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、
 庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。
 それは親心を越えた、仏様の心というものでした。


 また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、

 「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物
  すべてを取り払っても、内から輝けるようになりなさい」

 と言われました。人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、
 初めて自分にとっての大事なものが見え、
 本当の生き方ができるようになるのだというのです。

 私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。

 庵主様はお洒落もしなければ、
 食べる物にお金を掛けたりもしない簡素な暮らしで、
 他の楽しみに時間を使うこともなかった。

 ではその分、一体何に時間を使っていたか。
 そう考えた時に、庵主様はすべての時間を
 「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。


 私の思いの至らなかった陰の部分では、
 どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、
 御仏の光に照らされ、初めて親のお陰、
 世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。

 そして教科書を読み進めれば進めるほど、
 止めどもなく涙が溢れてきました。

 修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、
 なぜ私を叱ったり、本当の気持ちを
 聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、
 庵主様は


 「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。
  ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、
  かえって反発を生むだけだった。

  いまおまえが分かるということは、
  おまえに分かる時がきたということだ。
  仏道は待ちて熟さん」


 とお話しになりました。

 庵主様には1つの願心があり、
 私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙って
 この子を見守ろうと決めたのだといいます。
 そして自らには、何があっても
 「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。

 私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた
 孫悟空のようなもので、
 自ら命を絶とうと人生に背を向けていましたが、
 どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。
 
 庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、
 私はその大きな大きな慈悲の中に
 生かされていたのだと知ったのです。

     * *

 23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に
 「紗蓮」という法名をいただきました。
 後にある方から


 「美しい蓮(はす)の花は、
  泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。
  人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、
  その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」


 と教わりました。
 振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、
 私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。

 今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、
 市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの
 自立支援相談や講演活動を行ったりしています。

 非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。
 けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。
 人一倍光るようになるよ、この子たちは――。
 私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。

(転載以上)



“10年間は黙って
 この子を見守ろうと決めたのだといいます。
 そして自らには、何があっても
 「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。”

1日でも、1週間でも、1ヶ月でもなく、1年でもない、10年間黙って見守ること、自分にできるだろうか、と思います。


紗蓮さん、素晴らしい名前ですね。

「泥を肥やしに咲く花」になるために、一体どれだけ過酷な人生を歩んで来られたのでしょうか。

そして、もしこのような人生を自ら選んで来られたのだとしたら・・・。

きっと乗り越えられるという自分への信頼・・・。



その思いを考えると思わず目頭が熱くなります。


“運とは天から授かるもの、縁は自分からつくるもの”

2011-08-22 07:29:15 | 日記

致知出版社「人間力メルマガ」よりです。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
     致知出版社の「人間力メルマガ」

                【2011/8/20】 致知出版社編集部 発行
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』より
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。

       * *

   メリヤス卸問屋の3代目として戦後、身を起こし、
   昭和30年に「サン モトヤマ」を設立。
   グッチ、エルメス、ロエベなど、一流ブランドの
   輸入販売を手掛け、日本に世界の文化をいち早く紹介してこられた
   茂登山長市郎(もとやま・ちょういちろう)氏のお話をご紹介します。


────────────────────────────────────


        「人生は運と縁の二つで決まる」
       
       
            茂登山長市郎(サン モトヤマ会長)
        
            『致知』2011年9月号
             連載「20代をどう生きるか」より



────────────────────────────────────

 私は今年の秋で満九十歳になるが、
 人生というものは「運」と「縁」の二つに尽きると
 最近になってつくづく思うようになった。

 運とは天から授かるもので、縁は自分からつくるものだ。
 煎じ詰めれば所詮、人生は誰に会ったか、誰と会えたかで
 決まってしまうと言っても過言ではない。

 私が茂登山家の商人の子として生まれたというのも運。
 戦争へ行った先で天津の街を見、
 ヨーロッパの文化に初めて触れられたのも運。

 戦地では五年間を過ごし、一時は野戦の病院で
 三十四キロにまで体重が落ちるなど、
 いつ死んでもおかしくない状態に陥ったこともあったが、
 奇跡的に立ち直り、再び野戦に戻っていった。
 これもまた運の一つ。

 復員した時に父が焼け野原の東京の有楽町駅前で
 店を続けてくれていたことは最大の運だが、
 しかもそれが有楽町の当時アメリカ村といわれた場所で
 外国人と直に会うチャンスがあったということも。

 一方で、有楽町の毎日新聞社の中で
 仕事をしていた報道写真家の名取洋之助さんに
 お会いすることができた。

 私はお会いするなり、これは大変な人だと思い、
 名取さんを尊敬し、この人から何でも得ようと思って、
 いろんなことを一所懸命に勉強した。
 これは自分からつくった縁。
 
 しかしよく考えてみると名取さんに会えたこと自体、
 有楽町にいたからという運なのかもしれない。

 つまり運と縁とは、表裏一体のものであると思う。
 天から授かった運をいかに掴むか、
 それをどれだけ感謝していただくか。
 
 そしてその運を生かすために、
 縁をどのように自らがつくっていくかが
 人生の決め手であると思う。

         
        * *


 僧侶であり作家でもあった今東光(こん・とうこう)先生も
 また私のことをよく可愛がってくださったが、
 ある時こんな話をしてくださったことがある。


 「長公、人間ってものは一番おもしろい動物なんだぞ。
  人間は美しいものが分かる。美しいものがつくり出せる。
  絵でも彫刻でも小説でも、あらゆる美というものをつくり出せる。
  美に遊べる唯一の動物なんだ。

  その人間に興味を持たなきゃダメだ。
  人間を好きにならなきゃ人生はつまらないものだぞ」
  
  
 今先生はいつも「人との出会いを大切にしなさい」と
 言われていた。そこからまた運も縁も生まれてくるのだと。

 いまの人は「自分は月給をもらっているから働いているんだ」
 という傾向が強く、言われたことだけは完璧にやる、
 という人が多いように見受けられる。
 
 しかし月給をもらっているのであれば、
 言われたことを百%やるのは当たり前のことだし、
 それは義務というものだろう。

 本当に自分が運と縁とを勝ち取ろうと思えば、
 人に言われないことをする。
 そしてあらゆることに感謝の気持ちを持つこと。
 
 これが天から運を授かり、それに続く縁と
 そのまた次の運をつくり出していくことに
 繋がるのではないかと私は感じている。

(転載以上)


 

“運とは天から授かるもので、縁は自分からつくるものだ。”

 

確かに“縁”とは自分でつくるものかも知れませんね。

そして、“縁”を自分でつくることによって、天から授かる“運”も変化していくような気がします。

とすると、“縁”と“運”は、分かちがたい、車の両輪のようなものなのかも知れません。

 


“夢とは実現すること、ロマンとは継続すること”

2011-08-22 07:25:22 | 日記

「致知一日一言」よりです。

 

「致知一日一言」読者の皆さま

本日は夏の甲子園大会決勝が行われました。

高校球児たちの全力プレーは多くの子供たちに夢を与えてくれたことでしょう。

本日、ご紹介するお二方もまた、宇宙開発を通して多くの人々に夢と希望を与えています。

東大阪の町工場でありながら人工衛星の開発を成功させたアオキ社長・青木豊彦氏と

本業の傍ら子供たちに諦めない大切さを伝えるためロケット開発に挑み続ける植松電機専務・植松努氏の対談記事を一部ご紹介します。

(2011年9月号「生気湧出」より)

 * * *

【青木】よく夢とロマンという言い方をするんだけと、僕は「夢とは実現すること、ロマンとは継続」と思っています。

【植松】夢というのは自分で大好きなことをやってみたいという思いでしょうね。だったらやったらいい。それだけの話です。

大好きなことをしっかり持つには感動が一番です。「やってみたい」「すごい」という心があれば、夢はいくらでも見つかると思いますよ。

でも、その時にできない理由をいくつも思いついてしまうんですね。そして、そのできない理由すら考えなくなる最悪の言葉が「どうせ無理」なんです。

この言葉が人間の脳波を止めてしまう。思考が止まると楽ですが、それだと何も始まらない。

【青木】当たり前やけど、何事も前向きで明るくなかったら物事はうまく運ばないと思いますね。諦めてしまったらおしまいなんですよ。

第一、「どうせ無理」と塞ぎ込んでばかりいたら元気なんか出えしまへんがな。

皆が明るい言葉を使えば、必ず元気になるし、国内に生気が漲ってくる。

その意味でも大阪人の明るさ、情熱といったものを全国に伝えたいと思っているんです。

【植松】僕は「どうせ無理」という言葉が大嫌いです。

この言葉が人の可能性を奪い、その連鎖が正しくて優しくて弱い子供たちに向かうと知っていますからね。

「どうせ無理」という言葉をこの世からなくしたい一念で宇宙開発をしています。

(転載以上)



“夢とは実現すること、ロマンとは継続すること”

夢を現実に変える魔法のような言葉ですね。

 

とは言え、その過程には様々なことがあるでしょう。

だからこそ、この言葉が、情熱を燃やし続け、前に進んでいくエネルギーとなり続けるのだと思います。